ネタバレ! 小説と映画の感想‐青葉台旭

小説と映画のネタバレ感想が書いてあります。メインのブログはこちら http://aobadai-akira.hatenablog.com/

映画「ウィンド・リバー」を観た。

角川シネマ日比谷で「ウィンド・リバー」を観た。

公式サイト

監督 テイラー・シェリダン
出演 ジェレミー・レナー 他

ネタバレあり。

この記事にはネタバレが含まれます。ご注意ください。

銃について(ネタバレ防止の余談)

主人公の持っていたバレルとレシーバー部分がピカピカのレバー・アクション・ライフルが気になって調べてみた。
どうやら、マーリン社という銃器メーカーのM1895SBLというモデルらしい。
この銃、すごく印象に残るよね。

調べていくうちに「imdb.com」ならぬ「imfdb.org」なんてサイトがあるのを知って、ちょっと笑ってしまった。
いろいろ調べてみると、主要人物たちの銃は以下のようなものらしい。

コリー・ランバート(ジェレミー・レナー)
マーリンM1895SBL、レミントンM700、ルガー・スーパーブラックホーク
ベン署長(グラハム・グリーン)
スミス&ウェッソンSW1911Eシリーズ
ジェーン・バナー(エリザベス・オルセン
グロック17
その他いろいろ
ヘッケラー&コッホHK416、ヘッケラー&コッホUSPなど。

こうしてみると、登場人物の所有する銃器に、はっきりと製作者側の意図が読み取れて面白い。

主役のコリーや部族警察の署長、つまり地元の人間はウィンチェスター・ライフル、コルト・シングルアクションアーミー、コルト・ガバメントなどの伝統的なアメリカの銃(のコピー商品)を使い、FBI捜査官などの他所者はヨーロッパの近代的な銃を使うという色分けだ。

地元組が持っているのは古いアメリカの銃そのものではない。
本家メーカーの特許切れの後に作られた他社製コピー商品であり、昔からある青黒い酸化皮膜処理鉄ではなく現代的な銀ピカのステンレス製であり、また最新式のピカティニー・レールやダブルアクション機構を組み込んで再デザインされた『現代の』銃だ。

これは、ウィンド・リバーという地域が現代にありながら過去に属する土地という暗示であり、そこに住む男たちは銃に対して特別なこだわりを持ち、銃=暴力によって正義を執行する、物事を解決するという古い開拓時代のアメリカの価値観と、近代的な法治国家アメリカの価値観の両方を持っている(そして、その二つの価値観によって引き裂かれている)という暗示だ。

主人公が弾薬のハンド・ロード(火薬の詰めなおし)をしているシーンがあったが、あれは45-70の強装弾を自分で作っているという描写なのだろうか?
主人公はアメリカ合衆国魚類野生生物局の職員だ。どうやら大型肉食獣を射殺して生息数を調整するのが仕事のようだから、強力なライフル弾とそれを連射できる銃を常に持ち歩いているという設定なのかもしれない。

それにしてもコルトのライバルS&W社謹製ガバメントの何と美しいことよ。

ちなみにスノーモービルボンバルディア社のスキードゥという車種らしい。

以上、ネタバレ防止の雑談でした。

以下、ネタバレします。

物静かな映像表現が良かった。

CGを使えば何でも表現できてしまう昨今、いたずらにケレン味を追い求め、鬼面人を威(おど)すようなハッタリ映像ばかりの映画も少なくない中、この映画の映像的な語り口は静かで端正で、必要最小限の情報で構成されていて落ち着いて観ていられた。

そして、アクション・シーンを最小限に抑え、その数少ないアクションシーンを「突然の暴力」として描く手法に好感を持った。

社会派ミステリーか、否か。

この映画を分類するとすれば「社会派ミステリー」ということになると思う。

正直言って、映画を観た直後、私は「『社会派』の部分と『ミステリー』の部分が上手く融合できていない」と思ってしまった。

「これ、別にインディアン居留地じゃなくても成立する話だよね? 別に被害者がアメリカ先住民の少女じゃなくても良くね?」と。

(注意:この文脈で『インディアン』という言葉を使うのはインドの皆さんに対して申し訳ないので嫌なのだが、正式名称が『Indian Reservation』なので本記事でもそれに準ずる。勘弁してほしい。
直訳すると『インディアンのために予約された土地』という事か。
アメリカ先住民のために予め約束された土地だから、白人が入植したり開墾したりできない』という意味だろう)

映画の本題である少女強姦事件について、被害者がアメリカ先住民でなければいけない物語上の必然性は全くない。
犯人たちは、先住民だから彼女を強姦したのではない。人種民族に関わらず、ただ性欲の捌け口が欲しかっただけだ。

被害者の兄が人生に希望を持てず鬱々とした日々を送り、悪い仲間と麻薬に溺れるという描写がある。
居留地に押し込められた先住民の絶望感を演出したかったという意図は分かるが、これも別にインディアン居留地だけに特有の問題ではなく、世界中どこにでも存在する「取り残された地域」「過疎化が進む田舎の町や村」に共通する問題だろう。
例えば「インディアン居留地」を「古い炭鉱の町」とか「グローバル化に乗り遅れて工場が閉鎖された町」にしても、この物語は成立してしまう。
これはマイノリティ差別の問題というより、人種的多数派・少数派に関わらず、若者なら誰でも経験しうる問題だ。

そして最初と最後に取って付けたように挿入される、
「この物語は事実を元に作られた」
アメリカの失踪者の統計データには、アメリカ先住民女性に関するデータは無い」
という字幕。

アメリカには先住民をめぐる社会問題があるんだ! 俺たちはそれを告発したいんだ!」という映画製作者の意図は分かるが、それが物語と有機的に繋(つな)がっていないように感じた。

映画を観た直後は「ははあ、社会問題告発のためだけに舞台をインディアン居留地という設定にしたんだな」と思ってしまった。
「告発のための告発」「設定のための設定」に陥(おちい)ってしまっていると思った。

そこで、家に帰ってから映画の感想ブログやらFilmarksの投稿やらを読んだ。

大部分の記事は「アメリカの闇」だの「先住民の置かれている悲惨な状況」だのというフワッとした言葉だけでこの映画を評していた。
アメリカ先住民というマイノリティ差別に切り込んだ映画だから素晴らしい。感動しました」といった、通りいっぺんの賛辞ばかりだった。

「この映画の舞台がインディアン居留地である物語上の必然性」をちゃんと説明してくれる記事には中々お目にかかれなかった。

「被害者の兄が将来に希望を持てず鬱々としている現実のやるせなさ」の原因を、インディアン居留地であるがゆえとして、本作品のテーマを「差別と貧困」の物語と規定する記事もチラホラあったが、前述の通り「貧しい地域に取り残され鬱々とした日々を送る若者たち」というのは世界中どこにでもある普遍的なテーマだ。どうしても先住民差別と結びつけなければいけない必然性は無い。

う〜ん……なんかスッキリしない。

私がそう思ったのと同じように「泥酔した男たちの強姦事件って、インディアン居留地は別に関係なくね?」といった趣旨が書かれている記事や感想の投稿も、一部にはあった。

俺、この映画について重大な何かを見落としてるのかなぁ……

そして色々と調べていくうちに(といっても、ネットの聞きかじりならぬ『wikiかじり』程度だが)この映画の本当の主題が見えてきた。

結論から申し上げると、この映画のテーマは「アメリカ先住民に対する差別」ではない。

いや、もちろん根っこには「先住民差別」の問題があるのだが、この映画の主題は、そんなザックリとした『差別反対』的な抽象論ではない。

この物語の主題は、アメリカ先住民という『アメリカ大陸本来の主権者』と、ヨーロッパから移住してきた白人たちが作り上げた『合衆国』という国家との間で取り交わされた約束(条約)の欺瞞性であり、そこからくる現在のアメリカ先住民とアメリカ合衆国との『ねじれた関係』の告発だ。

殺人事件でないとFBIは捜査できない。

検死のシーンで「殺人事件でなければFBIは捜査できない」というシーンがある。

また「こんな広大な土地に警察官がたった6人しか居ない」というセリフもある。

この二つのセリフに言及しているブログ記事は、いくつかあった。

私個人は、この二つのセリフに関して「ははぁ、例のアメリカ特有の『保安官制度』の事だな」と思って観ていた。
あるいは「よくあるFBIと所轄警察の官僚主義的ナワバリ争いの事か」と。

しかし私の予想に反して、FBIの捜査権限だの警察官が6人だのという設定は、物語上の困難・障害として全く機能しないまま、主人公の機転で捜査はスルスルと進んでいき、何の迷いもなく彼らは一直線に犯人まで辿(たど)り着いてしまった。

じゃあ、何だったのさ?
あの「殺人事件じゃないとFBIは介入しない」だの「地元警察は6人だけ」って設定。

……しかし後になって、この二つのセリフは物語上の機能として発せられたものではなく、この映画のテーマと密接に関係して発せられたものだと気づいた。

最大のヒントは、いきなりのメキシカン・スタンドオフにあった。

クライマックス直前、採掘場の警備員たちが、いきなり警察官たちに銃を突きつけるシーンがある。

正直に申し上げると、この突発的なシーンを観て「うわっ、カッコ良い!」と痺れてしまった。

その一方で「あれ? このシーン、確かにカッコ良いけど、なんかチョット無理くりじゃね?」という疑問も感じていた。

「採掘場の警備員つっても、しょせん、たかが民間人でしょ? 胸にバッヂをつけた警察官に堂々と銃を向けるかな? さすがに変じゃね?」と。

公権力である警察官に銃を突きつけたら、問答無用で射殺されるでしょ、普通。

マフィアとかの反社会的勢力ならともかく、いくら追い詰められていたからってカタギが警察官に銃を向けるなんて、どう考えても自殺行為じゃないですか。

あのシーンで、ヒロインが「私はFBI捜査官だ、私はあなたたち全員に命令できる唯一の人間だ、だから銃を下ろしなさい」としきりに叫んでいた。
このセリフにも、私は首を傾げた。

「いや、FBIだろうと所轄警察だろうと、警察官なら銃を下ろせって命令できるっしょ? 民間人なら命令に従うでしょ?」と。

どうなってんの?

それが引っかかって、私は『インディアン居留地』についてネット検索してみた。

そして、この「民間人が平然と警察官に銃を向ける」というのが、この物語の最重要ポイントである事を知った。

この物語の最重要ポイントはこれだ。

「インディアン居留地とは単なる特別区などではなく、独立した一つの国家であり、先住民はアメリカ市民ではなく、部族国家という独立国の国民である」

これが……この『タテマエ』こそが、そして、その『タテマエ』によって形成された合衆国とアメリカ先住民との歪んだ関係こそが、この映画の本当のテーマだ。

私はこれまで不勉強で、てっきりインディアン居留地というのは単なる特別区だろうくらいにしか思っていなかった。
アフリカ系アメリカ人がそうであるように、アジア系移民がそうであるように、南米系移民がそうであるように、アメリカ先住民もまた合衆国市民なんだろう、と思っていた。
「差別は有るにせよ、合衆国市民である事には間違いないんでしょ」と。

しかし他のマイノリティ系アメリカ人とアメリカ先住民との間には決定的な違いがあった。
前者が立派な合衆国市民であるのに対し、後者は厳密な意味での合衆国市民ではないという点だ。
前者はアメリカ合衆国という国家に帰属し、国家に税金を納め、その見返りに治安維持を始めとする各種行政サービスを受ける権利を有するのに対し、後者は(タテマエ上は)あくまで『インディアン居留地』という独立国の国民であり、合衆国に対する納税の義務を負わない代わりに、本来なら当然受けられるはずの治安維持を始めとする各種行政サービスを受ける権利もない、という事だ。

合衆国から行政サービスを受けられない代わりに、一応の独立国として、彼らは自らの手で居留地の治安を維持する権利を持つ。
しかし、権利と義務は常に表裏一体だ。インディアン居留地において彼らが独自の警察を持つ権利があるということは、逆に言えば彼らは自らコストをかけて警察署を作り、装備を揃え、警察官を教育して居留地内に配置する義務を負うということだ。

そして農業資源の乏しい寒冷地や砂漠地帯に追いやられた彼らに、独立国として自らフルスペックの行政組織を維持する体力は既に無い。

そういう前提でこの映画を見ると、最初から最後まで、登場人物のセリフ一つ一つ、行動一つ一つが全く違った意味を持ってくる。

「殺人事件でないとFBIは手が出せない」
「この広大な土地には警察官が6人しかいない」
というのは、要するに「インディアン居留地独自の警察機構(部族警察)には、十分な法執行能力が無い。しかし、だからと言って合衆国の警察権力は殺人事件でもない限り『独立国である(というタテマエの)』居留地内で起きた事件に介入できない」という意味だ。
単に田舎の警察だから人手が足りないという意味ではない。
インディアン居留地自治政府は、その能力に見合わない過剰な統治義務を背負わされている。
合衆国政府と合衆国民は、それを知っていながら見て見ぬ振りをしている。

要するに、この映画の問題提起とは「 もはや誰が見ても独立国として十分な能力が無いと分かっているのに、(タテマエ上)独立国家なみの権利=義務を背負わされているという悲劇 」だ。

ラストの字幕

ラストの「アメリカの失踪者の統計データには、アメリカ先住民女性に関するデータは無い」という字幕も同じ文脈だ。

合衆国は『外国』であるインディアン居留地に対して……『外国人』である失踪した先住民の少女たちに対して、コストを払って統計データとる義理がない。

一方、居留地の部族政府にはコストをかけて統計をとるだけの体力がない。

なぜ警官に銃を向けたのか

アメリカ合衆国内に『人工的に作られた』『擬似的な』独立国家……それがインディアン居留地の真の姿であると知ると、あのクライマックス直前の不自然なメキシカン・スタンドオフにも納得が行く。

この場面こそが、この映画における『アメリカ先住民に関する問題を告発する』という社会派の側面と、サスペンス・エンターテイメントとしての側面が見事に融合した場面であるとわかる。

採掘場はアメリカ合衆国の企業の持ち物であり、(タテマエ上の)独立国家であるインディアン居留地の中にありながら、そこだけはアメリカ合衆国に帰属する場所だ。
部族警察に対し治外法権が適用される。

つまり、採掘場の土地は合衆国の領土であり、警備員たちは合衆国市民であり、そして彼らにとって部族警察は「従うべき我らがUSAの警察官」ではない。「合衆国の領土に侵入してきた外国人」だ。
だから、平気で部族警察官たちに銃を向ける。
その裏にあるのは「俺たちは合衆国市民だ。ここは合衆国の企業の土地だ。奴らインディアンは正規の合衆国警察官じゃない。奴らが勝手に作った部族警察だ。俺たちは奴らに従わなくても良いんだ」という驕(おご)りだ。

それは例えば、日本で罪を犯した米兵が在日米軍基地に逃げ込んで日本の警察が手出しできなくなるという構造に近い。

だから、ヒロインは盛んに「私はFBI、私に従え」と叫んでいたのだ。

彼女は心情的には少女強姦事件を捜査する部族警察の味方だが、形式的には採掘場の職員たちに命令できる唯一人の「合衆国連邦警察所属の白人警官」だからだ。

なぜ、こんな体制になっているのか。

なぜ、アメリカ合衆国当局と先住民たちの関係は、こんなにも特異なのか。

それは、合衆国という国家を作り上げた初期のヨーロッパ移民たちが、実は『他ならぬアメリカ先住民こそ新大陸の真の主権者である』と 知っていた からだ。

先住民とは、アメリカに入植した白人たちにとって、たまたまそこに住んでいた人たちというだけの存在ではない。
この広大で肥沃な新大陸という土地の本来の所有者であり、交渉し取引をする相手だ。

(先住民の)部族とは、『白人国家アメリカ合衆国』にとって、条約を結ぶべき主権国家であり、のちには戦争を仕掛け領土を奪い取るべき敵対国家だった。

ただ、悲しいかな、かつてのアメリカ先住民はバッファローを追いかけて各地を転々とする狩猟民族であり、ヨーロッパからやってきた農耕民族と違い『土地』という概念、ひいては『国家の領土』という概念に乏しかった。

狡猾な白人に良いように手玉にとられ圧倒的に不利な条約を結ばされ領土を騙し取られていったのだろう。
そして条約を結ばない部族があれば、白人たちは戦争を仕掛けて圧倒的な武力で制圧し、戦いに勝利した後にはペナルティと称して領土を奪っていったのだろう。

現在のインディアン居留地とは、何度も不平等条約を結ばされ、何度も戦争を繰り返し、そして負け、その度に大幅に領土を奪い取られ、ついに完全な独立国でもなく合衆国の一部でもない宙ぶらりんな状態になってしまった、かつての主権国家の成れの果という事だ。

この映画は、主に合衆国の市民たちに対して「いつまで彼らを宙ぶらりんにしておくつもりですか?」と問題提起しているわけだ。

中ぶらりんが駄目なら、どうすれば良いのか。

真ん中が中途半端で駄目なら、思い切って右へ寄せるか、思い切って左に寄せるかしかないのだが……

つまり、完全な独立国家になるか、あるいは完全に合衆国に併合され、合衆国への忠誠および納税の義務と引き換えに合衆国市民としての権利や行政サービスの恩恵を受けるか、という事だが……

アメリカ市民でもアメリカ先住民でもない私に何かを言う権利は無いだろう。

おそらく、アメリカ先住民たちの志向も時代とともに変わっていくのだろうし、また世代ごとにも変わっていくだろう。

いずれ近いうちに先住民たちが自(おのず)と何らかの結論を出す気がする。

それにしても国家とは強欲で狡猾で残酷だ。

かつての白人国家アメリカ合衆国アメリカ原住民にした仕打ちを知るにつけ、人とは何と残酷で、人の集団とは何と残酷で、国家とは何と残酷で、つまりは世界とは何と残酷な場所なのだろうと思ってしまう。

それは200年前の合衆国建国当時でも現在でもあまり変わらない気がしている。

そして、現状、国家の強欲さ狡猾さ残酷さに対抗できる唯一の手段もまた国家である、国家しかない、あるいは連携し同盟を結んだ複数の国家群でしかない、というのも皮肉だが否定できない事実だ。

発端となった事件

人間の残酷さといえば、私がこの映画で一番心に刺さったのは、先住民うんぬんかんぬんという話ではなく、実は少女を強姦した採掘場の職員たちの残酷さだ。

一応この話は実話ベースという事になっているが、こんな事件が本当にあったのだろうか?
いくら酔っ払って帰って来たからといって、会社の社員寮で、同僚の目の前で、彼の恋人を強姦するだろうか?

これは本当にあった話なのかどうか……はともかくとして、今でも世界中のあらゆる場所で強姦事件が絶えないのは間違いない。

他人の尊厳を蹂躙してまで自らの欲望を優先してしまう人間が居る……人間は根源的にそういう業を持って生まれてくる、人間とはそういう欲の深い、業の深い生き物である、という事実と我々はどう向き合えば良いのか……

この映画の主張は案外シンプルだ。
「警察官の数を増やせ」だ。

つまり、しっかりとした警察機構を作り、連邦警察だの部族警察だのという官僚的縄張り主義をやめ、インディアン居留地であろうとなかろうと法と文明の光であまねく照らせ、という主張だ。

なるほど、男たちが少女を強姦したのは単に「酔っ払っていたから」という理由だけではないのかもしれない。
犯人たちは、いま自分のいる場所が現代アメリカでありながら法の及ばない未開の地である……何をやっても見つからない、何をやっても許される場所であるという無意識の計算をしたかもしれない。

これが都会の高級住宅街のど真ん中であれば、彼らもパトロールを恐れて罪を犯さなかったかもしれない。

だとしたら、都会の高級住宅街だろうと人里離れたインディアン居留地の採掘場だろうと同じように警察官がパトロールをすれば、一定の抑止効果は得られるかもしれない。

ここにも「国家の必要性」という問題が立ち上がってくる。

現状、少女の人権と尊厳を守る存在があるとすれば、それは国家という名の強力な法執行機関である、それしかない、という事だ。

インディアン居住地自身が力をつけて名実ともに完全な独立国家になるのが良いのか、それともいっそ完全に合衆国の庇護下に入ってしまうのが良いのかは、部外者である私には分からない。

ただ言えるのは、国家の無いところには法治もなく、国家という名の法執行権力が及ばぬ土地には、人の尊厳に対する残酷で悲惨で容赦のない攻撃が必ず蔓延(はびこ)るだろうという事だ。

最後に補足

私は、これまで「アメリカ先住民」と大雑把なくくりで呼んでいたが、実際には「アメリカ先住民」などという統一された民族は存在しないということを付け加えておく。

200以上もある居留地には、それぞれ別々の部族が住んでいて、それぞれ独立した部族政府を持っている。

当然、それぞれの居留地、それぞれの部族の事情は様々であり、ある程度の規模と財源を持った居留地・部族もあれば、独立政府を運営するだけの体力がほとんど残されていない居留地・部族もあることは容易に推測できる。

400年前に「戦国時代」という名の大部族間抗争を経て、300もの部族政府(藩)を連合させ「徳川幕府」という名の巨大部族連邦政府を樹立し、260年ものあいだ安定的に政体を維持したのちに、アメリカ合衆国海軍ペリー艦隊の襲来を受けた我々とは事情が違う。

映画「ラ・ラ・ランド」を観た。

映画「ラ・ラ・ランド」を観た。

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監督 デイミアン・チャゼル
出演 ライアン・ゴズリング 他

ネタバレあり。

この記事にはネタバレが含まれます。

先に結論から申し上げると……

正直言って、感心しなかった。

なるほど確かに、『頭が良くて、手際が良くて、豪華で、洒落ていて、(過去の映画の)教養があって、上品で、気が利いている映画』だった。

そのこと自体は別に悪い事でもないだろう。少なくとも『頭が悪くて、手際が悪くて、貧乏臭くて、野暮で、教養がなくて、下品で、気が利かない』だけの映画、ただそれだけの映画よりは遥かにマシだ。

しかし私個人は、なぜか「感心できねぇな」という感覚が一番強く残った。
感動できるものがこの映画にほとんど無かったからだろうか。
技巧だけが目立って、あざとい感じだけが残ってしまった。

技巧というのは、芸術に『凄み』を出すために使うものであって、『オシャレ感』の演出に使うものじゃないと思います。

余談。それにしても、一気に涼しくなったな。

今、私は田舎に居る。

今年は全国的に記録的な猛暑だったらしい。

東京ほどではないにせよ、私の住んでいる田舎も今年は例年に無く気温・湿度ともに高かった。
お盆の墓参りは(昼過ぎの一番気温の高い時に行ったこともあって)なかなかに辛いものがあった。

しかし昨日から一気に気温が下がった。
明け方には、寒さで目が覚めて毛布を引っ張り出して被(かぶ)るほどだった。

そして、高い空。澄んだ空気。 何もかもがキラキラと輝いている。

こんな日は、オープンカーに乗ってどこまでも走って行きたい。

実際には、自転車に乗って高台の喫茶店まで行って、テラス席で景色を眺めながらコーヒー飲むくらいが関の山なんだけど。
オープンカー持ってないし。

それでも今日は「美しい田舎の一日」を満喫するぞー! ヤッホー!

以上、ネタバレ防止のための、映画とは全く関係ない話でした。

以下、ネタバレします。

良かった点。

ライアン・ゴズリングが笑顔で頷(うなづ)くラスト・ショットが良かった。

あの微かな笑みを浮かべて頷く感じは、さすが当代一流のスターだと思った。なかなか他の役者には真似できない芸だと思う。
『これで、ええんやで』と無言で語りかけるあのニッコリ顔で、この映画全体が辛(かろ)うじて救われたと思う。

余談だが、ゴズリング氏は『ドライブ」といい『ブレード・ランナー』といい、
「悪い奴じゃないし技術もあるんだけど、頑固者でコミュニケーション下手ゆえに社会の底辺で燻(くすぶ)っている男(イケメン)」
みたいな役ばっかりだな。

画面が良く計算されていて、引き締まっていて良かった。

画面内の配置、カメラの動き、角度、それらが良く計算されていて、バランス良く、引き締まって見える。

画面が美しいと、それだけで飽きずに最後まで観られるという事に、映画「立ち去った女」を観たときに気づいた。

「立ち去った女」ほどではないにしても、この「ラ・ラ・ランド」も1ショット、1ショット良く計算されていて、最後まで飽きることがなかった。

悪かった点。

ラスト直前で挿入される『ありえたかもしれない、もう一つの人生』の幻想シーン。

あれは悪手だったと思う。

本当の名監督なら、あんな明からさまなシーンは入れないと思う。
「誰でも身に覚えがあるよね? あの時あいつと結婚していたら俺は別の人生を歩んでいたかもしれない。それはそれで幸せな人生だったのかもしれない……って、誰でも一度は思ったことあるよね? 一度は経験しているよね?」
と、明からさまに感動ポイントを突くようなことされてもなぁ……別に。

本当の名監督なら、同じ「人生の選択についての物語」を描くにしても、あんな明からさまな手法は取らないと思う。

あまりにも明からさまな『もしも別の人生を歩んでいたら……』の幻想シーンであるがゆえに、その次に来るのは『俺たちはそれぞれの人生を選択した。そして今がある』という何らかの着地シーンなんだろうな、と安易に予想できてしまう。
それじゃあ、ラストの笑顔も効果半減だ。

ライアン・ゴズリングの微笑みと頷(うなづ)きのラスト・シーンへ収斂(しゅうれん)させて行くのがこの物語の最終目標である、というのは良い。
しかし、その過程においては『もしも別の人生を歩んでいたら……』という幻想を安易に見せるのではなく、別の手法を使うべきだったと思う。

その『ありえたかもしれない、もう一つの人生』の中に、二人が結婚して子供を産み幸せな家庭を築く様子が記録ムービー風に描かれる。
その家族の記録ムービーは、なぜか8ミリ・フィルムで撮影されている。
……あ、あざとい……
これって、現代の話だよね? エマ・ストーンが乗ってたの、二代目プリウスだよね? だったら家族の記録はデジカメ使って4K動画で撮るよね? 普通。
わざとノスタルジック感出すために8ミリで撮ってるよね? 変だよね?

あざとい技巧ついでに書かせてもらえば、二人が痴話喧嘩する時だけブレブレの手持ちカメラで撮って臨場感出そうとしてるのも、いかがなものかと思ってしまう。
他のシーンはエレガントかつクラシカルに、ゆっくりとカメラを動かしているのに、そこだけドキュメンタリー・タッチだよね? あざといよね?

物語がシンプルすぎる。そして誰にでも身に覚えのある話すぎる。

あまりに捻(ひね)りが無い。

そりゃ、昔の彼女を思い出したり、町でバッタリ出会ったりなんて、誰にでもある話ですよ。
そりゃ、そん時は、何らかの感情が湧き上がってきますよ。

でもフィクションである映画の中で、その感情を原液のまま飲まされたからって、感動できるわけでもないでしょう。

第一、この二人の主人公、どっちもそれぞれ成功してるよね? 最初に設定された夢を二人とも実現してるよね?

女「私、ハリウッド女優になる」→OK!
男「本当のジャズを聞かせる、こだわりのジャズ・バーのオーナーになる」→OK!

どっちも、実現してるじゃん。
そりゃ「俺たち、これで良かったんだよな」っていう結論になるよ。

人生のホロ苦さを表現したかったのかもしれないけど、ホロ苦さってそういう事じゃないと思うんだけどなぁ。

要するに『予定調和』すぎるのかな。
作り手としては、
「これハリウッド映画ですよ? ミュージカルですよ? 客を気持ち良くさせてナンボでしょ? 予定調和で良いじゃん」
って事なのかもしれないけど。

でもそんな事ばかりしてると、サリエリ(=優秀な勉強家)に成ることは出来たとしても、いつまでたってもモーツァルト(=天才的な芸術家)には成れないと思うんだけどなぁ……クリエイターの人たち。

最後に、あえて火中の栗を拾います。

このラ・ラ・ランドについての感想ブログをいくつか読んでみましたが……

「演技はともかくとして……歌と踊りに関しては、ライアン・ゴズリングエマ・ストーンも、どちらもそんなに上手くない」

と指摘している記事が無かったので、私が書いておきます。

「シェイプ・オブ・ウォーター」を観た。正直、モヤモヤした。

公式ページ

監督 ギレルモ・デル・トロ
出演 サリー・ホーキンス 他

TOHOシネマズ シャンテで観て来た。
正直、モヤモヤした。

ネタバレあり。

この記事にはネタバレが含まれています。

映画を観たあとで、他人の感想ブログを読む。

私には、映画を観たあとでその映画の感想記事をgoogle検索して、上から順に何本か読むという習慣がある。

シェイプ・オブ・ウォーター」を観た夜も、本作に関する他人の感想ブログを幾つか読んでみた。

一部のブログにちょっと気になる記述があったので、まずはそれに対して私の考えを述べたい。

その1、ヒロインは聾唖者ではない。

一部の記事で「ヒロインは聾唖者」と言う記述があるが、これは間違いだ。
聾唖者というのは、「聾」と「唖」すなわち「聴覚障害」と「発話障害」の両方を持つ人の事だ。
発話障害だけでは「聾唖」とは言わない。

ヒロインは声が出せないという設定だが、決して耳が聞こえない訳ではない。
それは、彼女が目覚まし時計の音で目覚めるという冒頭シーンで既に明示されている。

仮に彼女の耳が聞こえないとすると、テレビでミュージカル映画を観るのが好きという設定や、レコード・プレイヤーのシーンが意味不明になってしまう。

彼女は聾唖者ではない。口は利けないが、耳は聞こえている。

その2、この映画を「怪獣映画」と称する記事に納得が行かない。

主人公のデザインは「怪獣」の系譜じゃなくて「異形の変身ヒーロー」の系譜だろ。

デザインのベースになっているのが「大アマゾンの半魚人」である事はデル・トロ監督のインタビューを読めば分かるが、全体のプロポーションは韮沢靖が造っていた異形のヒーロー・フィギュアに近い。

それと、初代ウルトラマン
怪獣じゃなくて、ウルトラマン

本作の主人公のデザインが「異形でありながらもカッコ良い」理由は、ディテールではない。
プロポーションだ。人間離れしているのに、スラッと均整が取れている全体のシルエットだ。それが主人公に「異形のカッコ良さ」を与えている。

聞くところによると、半魚人はCGではなく、伝統的な着ぐるみを使っているらしい。
だとすれば、この「異形でありながら同時にカッコ良い」プロポーションを実現するためには、まずヒョロリと手足の細長いスーツ・アクター(着ぐるみ俳優)を選び、そのヒョロリとした体の肩、胸、背中などに重点的に樹脂製の筋肉を「盛っていく」という技法を使っているはずだ。
これは初代ウルトラマンで使われた技法だ。

繰り返すが、この映画の主人公は「エイリアンであり同時にヒーローでもある」ウルトラマンや「怪人であり同時にヒーローでもある」仮面ライダーなどと同じ「異形のヒーロー」の系譜として捉えるべきだ。
彼は「怪獣」ではない。

「怪獣」という言葉の本来の意味は「怪物」というか「妖怪」というか、要するに「人外のモノ」という程度のものだから、「シェイプ・オブ・ウォーターは怪獣映画」と言っても、そりゃあ日本語としては間違いじゃないけど……でも、的外れだ。

デル・トロ監督は、本作で「日本オタク」を「卒業」した。

シェイプ・オブ・ウォーター」を称して「怪獣映画」などとする映画レビューに対し、なぜ私が苛立ちを覚えるかというと……

パシフィック・リム」を監督して以降、ギレルモ・デル・トロに対して「気のいい怪獣好きオジサン」というレッテルを貼りたがる風潮が我が国にあるからだ。

「ハリウッドのアカデミー監督が、僕ら日本のオタク・カルチャーを愛してくれている。嬉しいぃぃぃ」という訳だ。

まったくデル・トロ監督に対して失礼極まりない。

同じ日本人として小っ恥ずかしい。

私の見るところ、デル・トロという人は広範囲なジャンルに対して造詣のある、言わば「総合的教養人」だ。

「日本オタク」という名称は、彼の幅広い教養の極(ごく)一部を表しているに過ぎない。
そして彼は今、その「日本オタク」から卒業しようとしている。

以下の記事を読んで欲しい。

ギレルモ・デル・トロ監督、オタクの聖地『中野ブロードウェイ』を卒業

インタビュー記事の中で、デル・トロ監督は、
「『シェイプ・オブ・ウォーター』を作り上げた事で、もう中野ブロードウェイで買い物をする必要が無くなった」
というようなことを語っている。

もう彼には日本のオタク・カルチャーは必要ない、という事だ。

日本の3大男子向けオタク・ジャンルといえば以下の3つだ。

  1. 怪獣
  2. 巨大ロボット
  3. 異形のヒーロー

デル・トロは、「パシフィック・リム」で「1. 怪獣」と「2. 巨大ロボット」を、そして本作で「3. 異形のヒーロー」を描いた。
彼は、自分の中の「日本オタク」的なものを全て出し切った、自分の中の「日本オタク」的なものに「ひと区切り」付けた、と見るべきだ。

だとすれば、以後、彼の興味は急速に「日本オタク・カルチャー」から離れ、別のものにシフトして行くだろう。

2018年の今われわれ日本人が為すべきは、デル・トロに「日本大好きオジサン」のレッテルを貼って、来日するたびにバルタン星人と握手をさせる事ではない。

デル・トロをして「やっぱり一年に一度は日本に行かないきゃ」と思わせるほど魅力的なオタク・コンテンツを新たに作る事だ。

ここからが本題。本作に対する私の感想。

冒頭にも書いたとおり、私は本作を観た後どうにも「モヤモヤ」とした感じを拭(ぬぐ)えないまま映画館を後にした。

以下、ネタバレ感想。

私がモヤモヤしてしまった理由。

「よく出来ているんだけど……でも……飛び抜けていない……まあまあ普通」という以上の感想が出て来なかったからなのかも知れない。

「良く出来ている感」は有るのだが、感動の量として「普通」なんだ……だから、なんかモヤモヤする。

評価しづらい。

一点。本当に素晴らしいと思った事。

海の中で半魚人とヒロインが抱き合うラスト・シーンは、本当に素晴らしかった。本当に美しかった。

ポスターやイメージ・イラストになっている、あの場面だ。

シーン単体で観た場合、これほど美しいラストは映画史の中でも数える程なのではないだろうか……そう思えるくらいに美しかった。

それまで「う〜ん……ストーリーも演出も普通かな……」などと思っていたのだが、最後の最後で「うわぁ」ってなって、一気に帳尻が合った感じだった。

ラスト・シーン以外の部分は、ホント、普通でした。

よくある「虐げられた人々が協力して知恵を絞って、極悪非道な権力者どもを出し抜く」物語でした。

演出、美術は良く出来ています。

……でも普通でした。

駐車場の監視カメラをずらして従業員たちがコッソリとタバコを吸っているシーンも伏線オーラがバリバリ過ぎて、あとでヒロインが同じことをしても「まあ、そうするよね」ってなりました。

ひょっとしたら私のモヤモヤの原因は、主人公があまり活躍しなかったからかも知れない。

せっかく異形ヒーローっぽい見た目なのに、ヒロインとエッチした以外に大した活躍もしないまま物語が終わってしまったのが、モヤモヤの原因かも知れない、とも思う。

彼の活躍シーンといえば、せいぜい最後の最後で、強殖装甲ガイバーの高周波ブレードとかバオー来訪者のリスキニハーデン・セイバーみたいに鰭(ひれ)をシャーッてやって敵の喉を掻っ切ったくらいか。

正直に白状すると、じつは同監督の「パシフィック・リム」を観たときにも同じようなモヤモヤを感じていた。

今回観た「シェイプ・オブ・ウォーター」と「パシフィック・リム」を合わせて振り返ってみるに、私のモヤモヤの原因を言語化すると以下のようになるかも知れない。

「せっかく怪獣、巨大ロボ、異形ヒーローを出しているのに……フェティッシュなこだわりがイマイチ足りねぇ」

怪獣の出現、ロボの出撃、半魚人が水から上がる時などのカメラの角度、カットの割り方などに、フェティッシュな気持ち良さが足りないと、私は思ってしまったのかも知れない。

例えば、庵野秀明監督と比べてみる。
ストーリー展開や人間のドラマも含めたトータルとしての作品の完成度は、いったん横に置く。
単純に「怪獣あるいは使徒の描写」「巨大ロボ・メカの描写」だけを比べ、どちらがフェティッシュなこだわりを持って描いているか、と問うた場合……
残念ながら、というべきか、庵野監督のほうが一枚上手だと言わざるを得ない。

ギレルモ少年が47年間抱き続けた思い

本作を恋愛映画として見た場合、どうだろうか。

以前、アニメ映画「君の名は。」に対する批判で、
「瀧と三葉が互いに恋愛感情を持ったのは、どの時点だったのか? それが分かりづらい」
という主旨のものを読んだ事がある。
私は「ああ、たしかに一理あるな」と思った。

この「シェイプ・オブ・ウォーター」を観た直後、私は、それと同じようなことを思った。
「半魚人とヒロインは、いつ相思相愛になったのだろうか」と。

恋愛映画として見た場合、両者が恋愛感情を持つまでの積み重ねの描写が淡白過ぎやしないだろうか……最初はそう思った。

しかしその後、映画のレビューやインタビュー記事を読んで、納得した。

デル・トロがこの物語を作ろうと思ったきっかけは、彼が6才のときに観た「大アマゾンの半魚人」にあるという。
人間の女に恋をした半魚人が最後に殺されてしまうラストをあまりにも可哀想だと思ったギレルモ少年は、以来ずっと、いつか半魚人とヒロインが幸せになる映画を撮ろうと思い続けていたらしい。

また「美女と野獣」で、最後に野獣が美しい王子様に変身するのが納得できなかったともいう。
「見た目の美醜ではなく心の美しさが大事」というテーマのはずが、結局は美男美女が恋を成就するというラストに対し、偽善性を感じたのだろう。

つまり「異形のものは異形のまま、ありのままの姿で愛されるべきだ」という思いを47年間も抱き続けてきたという事だ。

そうすると、ヒロインと半魚人が理由もなく相思相愛関係になるのも理解できる。

ありのままの相手を受け入れるべき、愛するべきなら、「愛する理由」があってはいけない。

  • 美醜が価値基準になってはいけない。
  • 今は醜くても将来は美しい王子様になるという物語上の保証があってはいけない。
  • 怪物ゆえの優れた身体能力や超能力があってもいけない(潜在的に持っていたとしても、女が惚れる理由であってはいけない)

という事だ。

愛は「完全に無条件」でなければいけない。

「上司にセクハラされそうな私を、半魚人さんは怪力パンチ一発で助けてくれました、惚れました」では、純粋な愛と言えない。
「な〜んだ、結局、腕力の強い奴がモテるのかよ。それって一種のマッチョイズムじゃねぇか」となってしまう。

だからこの物語において、男は醜い「異形」でなければいけないし「完全に無力」でなければいけない。
女は、そんな「醜くて」「無力」な男を、「一瞬で」「無条件に」愛さなければいけない。

そうでなければ、
「美しかろうと醜かろうと、強かろうと弱かろうと、体に障害があろうと無かろうと、金持ちだろうと貧乏だろうと、社会階級が上だろうと下だろうと、とにかく、この世に生きとし生けるものは全て等しく、愛し、愛される権利がある」
というこの物語の主題が貫徹されない。

……なるほど……だから、主人公はスーパーヒーロー的な活躍をしないわけか……
活躍しちゃったら「その素晴らしい活躍を見ていたから、ヒロインは半魚人に惚れました」って事になるから。
それは「条件付きの、理由のある愛」であって「無条件の純粋な愛」じゃないから。

6才のギレルモ少年が「大アマゾンの半魚人」を観て以来ずっと持ち続けた切ない思いに、ついにデル・トロ監督はケリをつけた、という事なのだなぁ……50年越しだ。

ひょっとしたら、この映画はデル・トロ監督にとって人生節目の一作になるかも知れない。

俺は恋というものをこう思う。(デル・トロとは違うかも知れない)

男は、理由もなく無条件に女を愛せば良い。

女が男を愛する理由は様々だ。男の社会的地位だったり容姿や身長や経済力だったとしても、それはそれで当然の事だ。
女はそれで良い。

何だか取っ散らかった感想になってしまったが……

今日はこの辺で。

dtvで「パターソン」を観た。

dtvで「パターソン」を観た。

amazonのDVD紹介ページ

監督 ジム・ジャームッシュ
出演 アダム・ドライバー 他

ネタバレ有り。

この記事にはネタバレが含まれます。

まずは結論。素晴らしい。

いやぁ、良かった。
ここ数ヶ月間で観た映画の中では一番良かったかもしれない。
読者の皆さんにも、ぜひ、お勧めしたい。

以下、本題に入る前にネタバレ隠しの前フリを書きます。

毎週楽しみにしていた日常系アニメが終わってしまった。

この数ヶ月間、アニメ「ゆるキャン△」と「からかい上手の高木さん」という二つの日常系アニメを毎週dtvとnetflixで観ていた。

先日、どちらも最終回を迎えてしまい、ああ、もう来週は癒し系アニメを観られないんだなぁと思ったら、なんとも言えない空虚感に襲われた。
いわゆる「ゆるキャン△」ロス、「からかい上手の高木さん」ロスだ。

それで慌てて、この空虚感を埋めてくれる日常系アニメは他に無いかと、dtv・netflixitunesなど各種動画配信サービスのメニューを漁った。

念のため簡単な説明。「日常系アニメ」とは

日常系アニメとは、ドラマチックな事件が一切発生せず、ただひたすら可愛い女の子たちが日常生活の中で可愛い事をするだけのアニメのことだ。

この際だから、amazon primeにも加入するか……

いくらメニューを漁ってみても、なかなか食指の動く日常アニメがない。

この際だから、amazon primeにも加入してそちらを漁ってみるか、とも思った。
いずれはprime会員にアップグレードしなければなるまい、と前々から考えていたのだが……果たしてそれは「今」なのか? う〜ん。悩む。

amazonの場合(primeでない)一般会員でも、その都度、視聴料金を支払えば大抵のコンテンツを観られる。
だから、prime会員になるかどうかはprimeでしか見られないアマゾンが独自に制作したアニメの充実度次第、なのだが……

小説にせよ、音楽にせよ、映画(ビデオ)にせよ、世の中は急速にサブスクリプション(定額会員登録)制に移行しているなぁ。

それにしても、小説のkindle unlimitedにしろ、音楽のspotifyにしろ、各映画配信サービスにしろ、コンテンツの販売手段が急速に(本、CD、DVDなどの)物理メディアから個別ダウンロード販売へ、さらにはサブスクリプション(=定額会員登録)制へと移り変わっている。

オジさん、もう、ついていけないよ……
勉強がてらkindle unlimitedで小説を自費出版でもしてみようか……

日常系癒しアニメをいろいろ探しているうちに、なぜか本作に巡り合った。

なんとなくピンッと来たっていうか、今おれが観るべき映画はコレだ! と直感が働いた。

それでdtvのアイコンをクリックした。

……その結果は……

いやぁ、良かった。素晴らしかった。
ぜひ、皆さんにも視聴していただきたい。

……以上、ここまでがネタバレ防止のための前フリでした。

以下、本題。映画「パターソン」のレビュー。

何しろ全てが優しい。

主人公パターソンの一日を見ているだけで何だか癒される。

彼の日常は些細(ささい)な出来事の積み重ねで、大きな事件が起きるわけでもないのに、なぜか目が離せない。

背景が良い。

題名の「パターソン」というのは、アメリカ北東部にある地方都市の名前であり、同時に、主人公パターソンさんの名前でもある。

つまり、これは「パターソン市営バス運転手パターソンさんの日常」を綴(つづ)った映画だ。

その舞台であるパターソン市の風景が、すでに何とも言えず「優しい」

まず、空の色が優しい。

ハリウッド映画に良くあるカリフォルニアの乾いた空気と目に滲みるような真っ青な空……ではなく、薄く淡い色あいの空だ。

こってりと青色の乗ったアメリカの空というよりは、我々日本人が普段目にしている、あっさり系の青空に近い。

そして、太陽の光が優しい。

ハリウッド映画に良くあるカリフォルニアのカッと照りつける強い日差し……ではなく、どこまでも淡く優しく街を照らしている。

全編にわたって、屋外のシーンでは木々や建物の影が長い。
太陽が低い位置にあり、日差しが傾いているという事だ。
屋外のシーンの殆(ほとん)どは、朝の出勤時か夕方の帰宅時のシーンなので当然と言えば当然だが……どういうわけか、真昼に公園で昼飯を食っているシーンでさえも、良く見ると木々の影が長い。

葉が色づいている所から、これが秋の物語であることは分かる。
しかし、それにしても昼食時でさえ長い影ができるのは何故なのだろうか。 よほど緯度の高い場所にある街という事か?

余談だが……以前、ハチ公物語のアメリカ・リメイク「HACHI」という映画を見たことがある。その映画も終始淡い色の空の下、穏やかな中規模都市の日常が描かれていた。「HACHI」のロケ地はニューイングランド地方だったらしい。
本作の舞台パターソン市といい、この淡い日差しと長い影は、緯度の高いアメリカ北東部特有の物なのかもしれない。

パターソン市に対して興味が湧いたので軽く調べてみた。

それで地理的な興味が湧いて、映画鑑賞後にネットで「パターソン市」について調べてみた。
ふむふむ……マンハッタンのセントラルパークを起点にすると、北西へ24Kmくらいの場所か……
え? 24Kmって、近くねぇか?

ちなみに、東京駅を起点に24Kmの距離にあるのは……中央線の駅で言えば武蔵小金井駅だ。

この「パターソン」という映画を日本に置き換えたら「小金井市で都営バスの運転手をしている小金井さんの日常」になるって事か?

うーん……なんか、イメージ違う……ちょっと都心に近すぎる感じだ。

まあ、それはそれとして、本作品の舞台としてのパターソン市だ。
wikipediaに書かれている事を私なりに要約すると……
人口は14万6千人。
19世紀には工業で栄えたが、現在は産業の空洞化が進み不況にあえぐ斜陽の街である、と。
人口の人種別構成はバラエティーに富んでいて、白人はわずか30パーセント、トルコ系移民社会は全米で最大、アラブ系移民社会は全米2位の規模である……

そうするとあの嫁さんはイスラム教徒か。
古代ペルシャがどうのこうの言ってたから、ひょっとしたらイラン人という設定かもしれない。

それでパターソンさんは晩飯を食い終わったあと毎晩かならず酒を飲みに出かけるんだな。酒の飲めない嫁さんに気をつかって、家では晩酌をしない訳だ。
なんて良い人なんだ。

人種がらみで気づいた事と言えば、この映画、主要登場人物の中で白人は主人公一人だけなのな。
主人公以外の白人は、帰り道で出会った少女と……それから、バスの中でエロ話していた男たちとアナキストの学生カップルくらいか。
あとは、みんな白人以外の人種だ。

気づいた事といえば、アメリカのバスって、オートマなのか。しかも、セレクターがレバーじゃなくてスイッチなのか。
それと主人公夫婦のマイカーはホンダのCR-Vだな。しかも初代。時代設定が公開年と同じ2016年だとすると、最低でも16、7年は経過していると思われる。
さらに気づいたことと言えば、なんでノートの右側しか使わないんだろうか。なんか意味があるのかな?

話をパターソンという街に戻すと、この「人口15万人弱の小さな地方都市」感というのが、なんとも言えない優しい雰囲気を醸し出していた。

例えば、主人公の運転するバスは毎日パターソン市の旧市街地らしき場所を通るのだが、ちゃんと歩道には通行人がいる。

この映画は「通りに人っ子一人居ない、さびれた田舎町」の物語ではない。
そうかと言って、ニューヨークやロサンゼルスのような華やかな大都会の話でもない。

通行人たちは、ニューヨークのビジネスマンのようにせかせか歩いているわけでもなく、ハリウッドをジョギングする金持ちのようにギラギラしているわけでもない。

パターソン市の人々は、町の通りを静かに、穏やかに、ゆっくり歩いている。

ひょっとしたら現実のパターソン市は、不況やら治安やら、それなりに問題を抱えているのかもしれない。

しかし少なくとも劇中においては「小さな地方都市」特有の、ぬるま湯のような静けさと穏やかさが街を包んでいる。

人口15万人の小さく静かな地方都市の、かつてはそれなりに賑わいを見せていたであろう旧市街の通りを、主人公の運転するバスが走る。

薄青色の空。柔らかな秋の日差し。小さな地方都市の通りを歩く人々。大都会のような忙しさもなく、ド田舎のような閉塞感もない。

そういうボンヤリとした優しい背景の中で、主人公の日常が描かれる。

究極の萌えキャラ。パターソンさん。

主人公のパターソンさん、どっかで見た事あると思ったら「スター・ウォーズ」の人だった。
「ミッドナイト・スペシャル」にも出演していると書いてある……ああ、なるほど、あの技術系官僚か。あれも良い味出していたな。

とにかく、このアダム・ドライバーの演技が素晴らしい。

オープニング・シーンで嫁さんとイチャイチャするのは、まあアメリカ映画には有りがちだが……その後ベッドから起き上がって着替えのシャツとパンツを持って寝室を出て行くときの、ヒョコヒョコした間抜けな歩き方が、もう既になんとも言えず良い。
翌日の着替えを椅子の上にキッチリ畳んで置いてあるという几帳面さも「いかにも」な感じだ。

それから、一人寂しくシリアルを食べる後ろ姿が良い。
背中がデカくて、かなりの高身長であると分かるのだが、何というか、ジャイアント馬場風の体型だ。
「気は優しくて力持ち」系の体型。

しかし、いきなり学ランみたいな詰襟金ボタンに白帽子の写真が出てきたので油断できない。
おい、これ海兵隊儀礼服じゃねぇか。まさかパターソンさん、海兵隊特殊部隊出身とかいう裏設定があるんじゃないだろうな。

それから弁当箱片手に徒歩で出勤し、市営バスを運転して旧市街の通りを走るのだが、彼は、ハンドルを握りながら乗客の会話に耳をそば立てる。
例えば子供が「地元出身のボクサーはデンゼル・ワシントンに似ている」と言った瞬間、運転席でフッと微かに笑う。それが何とも言えず良い。

とにかく何気ない所作の一つ一つ、表情の微妙な変化一つ一つが繊細で、パターソンさんの人柄の良さが滲み出ていて素晴らしい。

極めつけは、嫁さんに「あなたの詩は最高よ」とか言われて、「きゃっ! 恥ずかしい!」みたいに両手で顔を覆うシーンだ。
あれはさすがに反則だろ。しかも微かに顔が赤くなっているとか……男の俺でも胸キュンするわ。

パターソンさんは必ず、近くの公園で昼飯を食べる。
これは私の持論だが、公園のベンチに座って一人で手作り弁当を食べる奴に悪人は居ない。

地下室のペンキ缶が並んだ作業机が彼にとっての書斎というのも、ささやかというか、慎ましいというか、なんか切なくて良い。

朝起きて、会社へ行って、仕事して、公園で奥さんの手作り弁当食べながら詩作をして、また仕事して、帰って、地下室の片隅でちょっと詩作をして、晩飯を食って、犬を散歩に連れて行って、バーでビールを一杯飲んで、家に戻って寝る。
このパターソンさんの日常が愛おしくて思わず見入ってしまう。
この感覚は、ちょっと「この世界の片隅に」のすずさんに近いかもしれない。

自宅の玄関から階段を降りて郵便ポストの隣を通って右へ左へ

映画の節目節目で、主人公が玄関の扉を開け、階段を下りて、手前中央の郵便ポストの横を過ぎて通りを左または右へ行くカットが挿入されるのだが、この画面の配置が絶妙だ。

何というか……例えるならロールプレイングゲームで言うところの「始まりの村」感がある。

「この村の標識(郵便ポスト)を過ぎて、村の外へ一歩足を踏み出したところから、僕の冒険の旅が始まるんだ」感。

「壮大な冒険の果てに魔王を倒して帰ってくる」だけが旅じゃない。繰り返される毎日の中で、会社への行き帰りも、近所の公園に行って帰ってくるだけでも、それも立派な冒険なんだ、いたるところに宝物は落ちているんだ、っていう感じ。

日本の日常アニメとの違い。

同じ日常系とはいえ、日本の日常系アニメと本作「パターソン」は、ある意味、真逆と言える。

アニメと実写、表現形態が違うのだから当然だ。
そして言うまでもないことだが、どちらが良い悪いの話でもない。

日常系アニメ……それは一種の「極楽浄土絵巻」だ。
煩悩に苦しみながら世俗を生き続けるしかない我々に、ほんの一瞬、美しい極楽浄土の風景(の幻)を見せてくれて、ひとときの癒しを与えてくれる……日常系アニメとは、そういうものだ。

だから日常系アニメの主人公である少女たちというのは、現実の女子高校生ではない。
彼女たちは、実は極楽浄土の空に舞う天女さまだ。
絵巻の中にだけ存在する、極度に抽象化・象徴化された女神さまだ。

アニメというのは、世界のありとあらゆる物事を、いったん均一でペタッとした「絵」に落とし込み、その抽象化・象徴化・均質化されたフラットな世界から、ひとつの物語を立ち上げていく芸術だ。
「あらゆるものを一旦は抽象化、象徴化、均質化しなければ物語を紡ぐことができない」というのがアニメの長所でもあり、また短所でもある。最大の武器であり、同時に、限界でもある。

この、「現実(日常の風景)をいったん均質な『アニメの絵』の中に落とし込み、そこからキラキラと輝く物語を立ち上げる」というアニメの特徴を最大限活用した好例が、大ヒット映画「君の名は。」だろう。

「日常系アニメ」も基本的には同じだ。そこで描かれる「何気ない日常」とは、実は高度に抽象化された言わば「極楽浄土で遊ぶ菩薩さま達の日常」であり、「エデンの園で遊ぶ無垢なアダムとイブたちの日常」だ。だからこそ我々は一瞬、煩悩を忘れ、原罪を忘れ、癒される。

一方で、映画「パターソン」が訴えるものは「我々の日常に全く同じ日は二度と無く、耳をすまして目を凝らせば、現実のあらゆる物に詩は隠れている」ということであり「世界のあらゆる場所には市井の詩人が居て、バスを運転しながら、母親を待ちながら、洗濯をしながら、医師として働きながら、気象観測師として働きながら、いつもどこかで詩を詠んでいる」ということだ。

これは、この世に存在しない「天上の日常」を愛でる「日常系アニメ」とは、真逆だ。
日常の中に現実にある美しさを見つめ、愛でよ、と「パターソン」は言っている。

登場人物にも同じ事が言える。

「パターソン」の女は、天女でも菩薩でもない。
だから、少し「苦(にが)い」

波乱を呼ぶ女……汝の名は「奥さん」

平和で淡々としたパターソンさんの日常に起きる波風は、大体この女が起こしてる。

芸術家肌と言えば聞こえが良いが、要するに「メンヘラ」嫁だ。

月曜日の昼休みに、パターソンさんがマッチの詩を詠んだあとで「さて、デザートのフルーツでも食うか」って弁当箱を開けたら、そのデザートのミカンの表面にサインペンで目玉がビッシリ書いてあるっていう、いきなりのホラー展開。

2回目の視聴で気づいたんだけど、サラダだか漬物だかが入っている容器のフタにも、例の白黒グルグル模様が、これまたビッシリと書いてあったな。

このイラン人の奥さん、相当のメンヘラとお見受けした。

……で、メンヘラ女には有りがちだが、嫁さんは自分のことに一杯一杯で、他人に対して(……というか、夫のパターソンさんに対して)わりと無神経だ。

しかもメシマズ嫁。
まあ、フリーマーケットに出した手作りケーキは完売したみたいだから、メシがマズいのは料理の腕が悪いんじゃなくて、単にチャレンジャーなだけなのかもしれない。
チャレンジの実験台にされる旦那は溜まったもんじゃねぇな、と普通の男なら思うだろうが。

創作料理チーズ芽キャベツ・パイだかの実験台に旦那を使っておきながら、彼の好きな詩人の名前を間違えて「わざと間違えたんです〜プププゥ〜」とか……マジでウゼェ!
ここは、さすがのパターソンさんも一瞬イラッと来てた。

ギター教室の通信教育みたいなのをやりたい(三万円)って言い出したのは、まあ良いとして……
会社でトラブルがあってクタクタに疲れて帰宅したら、いきなり嫁が満面の笑みで陽気に「線路は続くよどこまでも」を歌い出すとか、これもう拷問だろ。
しかも歌詞が「一日中レールの上で働いて、ただ時間だけが過ぎていく」っていう……この時点で並の夫なら発狂してる。

(注釈。この曲は元々アイルランド系アメリカ移民の労働哀歌らしい。つまり、奥さんが歌ってるのは替え歌じゃ無くて、元々の正しい歌詞)

そんな、メンヘラ・ウザい・メシマズの役満ロイヤルストレートフラッシュな奥さんだが、パターソンさんにとっては、かけがえのない大切な人だ。
奥さんが土曜日にフリーマーケットへ出かけた後、いつもの公園でパターソンさんが「パンプキン」という詩を詠んだところで、ちょっとウルッと来てしまった。

多少メンヘラでもウザくてもメシマズでも、惚れた女が側(そば)に居るだけで素晴らしい……そう思えてこそ真の漢(おとこ)だ。

最後に。

今日は天気も良いし、ちょっと弁当とノート持って近くの公園に行ってくる。

「変身ヒーローもの」と「旅もの」は相性が悪い。

私は、小説投稿サイト「小説家になろう」と「カクヨム」に自作の小説を投稿している。

年末から年明けにかけてnetflixでアメリカのドラマ「ゴッサム」を観てしまった影響で変身ヒーローものを書きたくなってしまった。

それで、変身ヒーローものに関して勉強していたのだが、ふと魔が差してバンダイ・チャンネルで「銀河漂流バイファム」を観始めてしまい、さらに児童書の「ニルスの不思議な旅」を読み始めてしまった。
それで急に「旅もの」の小説を書きたくなって、旅ものについての勉強を始めてしまった。

最初、私は「変身ヒーローが旅をする」話を書けば一石二鳥だろ、と安易に考えて、その線で物語を考えていたのだが、これがどうにも上手くいかない。

「あれ……おかしいな……何でかな……」と思っていたのだが、現時点で出した答えは、こうだ。

「変身ヒーロー」ものと「旅もの」は相性が悪い。

「旅テンプレ」の定義

「テンプレ」というのは、テンプレート(雛形)の略だが、ここでは「物語の類型」くらいに思って頂きたい。

旅をする物語の類型も1つではなく色々あるのだろうが、この記事では以下のように定義しておく。

「田舎の村で生まれ育った少年が、旅に出て、仲間と出会い、成長し、魔法の武器を手に入れ、最後に悪い魔法使いを倒して、王さま(あるいは長者さま)になる」

さらに簡略化すると「少年が旅に出て、成長して、立派な大人になる」という話だ。

アメリカのエンターテイメント業界には、何でもかんでも「旅テンプレ」に還元しようとする悪癖がある。

アメリカ人は、この世界のあらゆる物事を一言で説明できるような「唯一にして全能なる原理」を求め過ぎる。
彼らは、なぜ「世界は多様である」という世界観に耐えられないのか?

これは、ひょっとしたら、
「世界は唯一神によって創造された。ゆえに、世界の全てを説明する『神の御言葉』としての『原理原則』が、きっとどこかに存在するはずだ」
という、一神教的世界観から来ているのかもしれない。

そして、現在のアメリカのエンターテイメント業界は、その「神の御言葉」を「旅テンプレ」の中に見い出したかのごとく、ありとあらゆるジャンルの物語を「旅テンプレ」に還元しようとする。

物語に類型があることは否定しないが、それが「旅テンプレ=少年の冒険と成長の物語」ひとつだけという説に、私は首を傾げてしまう。
何でもかんでも「旅テンプレ」にコジつけるのは、いかがなものか。

これは私の勘だが、「変身ヒーローもの」を無理やり「旅テンプレ」あるいは「少年の成長物語」として描いてしまうと、いずれそこに無理が生じると思う。

「変身する」という行為は「成長」ではなくむしろ「成長の完了」あるいは「成長の終了」を意味する。

成長が「子供→大人」という不可逆な一方通行であるのに対し、ヒーローの変身は「人間←→ヒーロー」の間をいつでも自由に行ったり来たりできる。

子供が成長して大人になるとは、「大人の世界」という子供にとって未踏未知の場所、かつ、一度その世界に足を踏み入れたら二度と戻って来られない場所に向かって、命がけで橋を渡るという行為であるのに対し……

変身、すなわち「人間←→ヒーロー」の間を自由に行ったり来たりするということは、変身前の自分と変身後の自分、その両方と折り合いをつけて上手く付き合って行くということだ。

変身能力は、成長する能力ではない。

大人になった証として付与された力だ。
あるいは「嫌でも今すぐ大人になれ」と、誰かから強制的に付与された能力だ。

例外的に、シリーズの「第1話」「パート1」だけは「少年の成長物語」にする事が可能だ。

ヒーローもの第1話は、必然的に「ヒーロー誕生秘話」の物語にならざるを得ない。
そこでは、「初めての変身」が描かれる。
まさに、平凡な少年がヒーローになる成長物語だ。

ただし、その「成長物語」は、第1話で主人公が変身に成功した時点で完了だ。

第2話以降では、別の物語が始まるべきだ。

変身ヒーローの物語が「少年の旅=成長」の物語でないのなら、では、一体何なのか。

「旅テンプレ」が「少年が旅をしながら成長し、最後に王になる物語」ならば……
では「変身ヒーロー・テンプレ」とは、いかなるものか?

私の出した結論は、こうだ……

「変身ヒーローもの」とは、(物語の早い段階で)すでに王になっている主人公が、自分の王国を保守し続ける物語だ。

変身ヒーローは、望むと望まざるとに関わらず、最初からすでに王(あるいは『闇の王』)としての力と資格と責任を持つ。
変身とは、すなわち王冠をかぶるという行為だ。

彼が物語の始まりから既に王であるなら……怪人や秘密結社、あるいは悪の科学者などの敵と戦い、自分の王国を守り、国民の期待に答えるのは「義務」であり「責任」だ。
さらに卑近な言葉を使えば、日々繰り返される「王としての日常業務」だ。

それは「旅テンプレ」とは別の何かだ。
少年が見知らぬ土地を訪ね、人と出会い、知識を得て、精神的にも肉体的にも成長するという「旅テンプレ」のワクワク感とは無縁の、別の、物語だ。

例えば、水戸黄門。彼は一種の変身ヒーローだ。

普段は、商家のご隠居さまとして全国を行脚し、いざ悪い奴らを見つけると「先の副将軍、水戸光圀公」に、華麗に「変身して」悪を懲らしめる。

これは正(まさ)しく「変身ヒーロー」テンプレだ。

なるほど確かに、黄門さまも全国を旅して回る。

では「水戸黄門」は「旅テンプレ」だろうか?

少年が旅をして、仲間と出会い、魔法の武器を手に入れて魔王を倒し、王さまになる話?

……いや、違う。

水戸黄門こそは「変身ヒーロー」(=物語の最初から既に王である男)が、自分の王国を保守(メンテナンス)して回る話だ。

  1. 彼は少年ではなく老人だ。賢者だ。いまさら成長の余地は無い。
  2. そして最初から、助さん、角さん、風車の弥七うっかり八兵衛かげろうお銀という、強力で愉快で色っぽい旅の仲間がいる。
  3. そして最初から「葵の御紋の印籠」という、見た者すべてをひれ伏させる強力な魔法のアイテムを持っている。
  4. 何より、黄門さまは最初から「先の副将軍」という高い地位と絶大な権力をもっている。

つまり、旅テンプレが「王さまになるまでの話」だとすると、変身ヒーロー・テンプレは「王さまになってからの話」というわけだ。

もし、どうしても水戸光圀公というキャラクターを使って「少年が旅を通じて成長し、仲間を集め、最後に魔王を倒して自らが王になる」という物語を描きたいのであれば、それは「ヤング黄門さま」とでも言うべきプリークエル(前日譚)の形を取らざるを得ないだろう。
それでは、もはや水戸黄門とは呼べないだろうが……

秘密基地……少年の成長物語と変身ヒーローを両立させる方法。

「秘密基地=少年時代の特権としての変身能力」という形でなら、成長物語と変身ヒーロー物語は両立可能かもしれない。

変身ヒーローに秘密基地は付き物だが、大人社会に隠れて何かをするという意味では、変身ヒーローそれ自体が「秘密基地」だ、とも言える。

秘密基地は、子供から大人になる過程で一時的に入ることを許された場所であり、大人社会に隠れて「何かをする」場所だ。
それは、成長期の少年だけに許された特権だ。

一時的な仮の宿として、一時避難所として「変身ヒーロー」というものを設定し、変身ヒーローという隠れ蓑を通じて徐々に少年から大人になる準備を進めて行く……というドラマ展開なら、変身ヒーローものと少年の成長譚の融合は可能かもしれない。

だとすると、少年主人公にとって変身ヒーローの能力とは「立派な大人になった暁(あかつき)には、捨てるべき何か」という事になる。

それは「変身ヒーローの物語が、いつかは必ず終わる」という事だ。

成長する物語はいつか終わる。永遠に続けたいのなら成長を拒否するしかない。

「こちら亀有公園前派出所」
ドラえもん
サザエさん
名探偵コナン

これら長寿漫画に共通するのは、第一に「一話完結型」のお話である事、第二に「主人公はじめ主要キャラ全員が成長しない事」だ。

考えて見れば当然だ。
物語を永遠に続けたければ時間を止めるしかない。

  1. 一話完結型である事。
  2. 時間が進まない世界=キャラは永遠に成長しない。したがって老いる事も無い。

これが、長寿漫画に求められる要素であり、おそらくこれは海の向こうのアメリカン・コミックでも同じだ。
以下は、アメリカのヒーローたちのデビューした年だ。

スーパーマン  1938年
バットマン   1939年
スパイダーマン 1962年

「成長の物語」ではこんなに長くは続けられない。
成長するということは、時間が進むという事であり、いずれ老いて死ぬ……終わりがある、ということだ。

なぜスパイダーマンは何度もリブートさせられるのか?

ハリウッドの製作者たちが作るスパイダーマンの物語が、本質的に「短命」だからだ。
だから、何度も何度も一から作り直すしかない。

おそらく、ハリウッドの制作者たちは、スパイダーマンという物語を「少年の成長物語」としてしか見ていない。
本来なら、少年の成長物語はある程度で区切りをつけて、それ以降は「王としての責務をまっとうするスーパーヒーロー」の物語に移行しなければいけないはずだ。
そうでなければ、長くは続かない。

こち亀」の両津勘吉サザエさんのように、「成長しないキャラ=永遠の高校生ピーター・パーカー」として描き続ける方法もあるにはあるが、これは漫画やアニメでのみ可能な手法であり、生身の役者には不可能だろう。

現在のハリウッドは、何でもかんでも、ありとあらゆる物語を「旅テンプレ=少年の冒険と成長の物語」にしなければいけないという強迫観念に取り憑かれているように思えてならない。

成長する少年の物語を長く引き延ばす方法

スポ根ものや、番長もの、格闘バトルものの漫画にしばしば見られる「トーナメントと敵のインフレ」を前提としたドラマ作り……いわゆる「少年ジャンプ方式」なら、ある程度は少年の成長物語を長く続けられる。

  • パート1……転校してきた主人公が、その学校の番長とタイマンを張って勝ち、自らが番長になる。
  • パート2……隣の学校の番長とタイマン張って勝ち、町の番長になる。
  • パート3……県で一番ガラの悪い学校の番長とタイマン張って勝ち、その県の番長になる。
  • パート4……全国番長会議で一番強い番長とタイマン張って勝ち、日本一の番長になる。
  • パート5……世界番長会議で一番強い番長とタイマン張って勝ち、地球一の番長になる。
  • パート6……太陽系で一番強いの番長とタイマンを張る。
  • パート7……銀河系で一番強いの番長とタイマンを張る。
  • パート8……宇宙で一番強いの番長とタイマンを張る。
  • 完結編……神とタイマンを張って勝ち、自ら神になる。

まあ、これでもいつかは終わりが来るわけだが。

チーム変身ヒーローものなら擬似的に「成長」と「永遠の若さ」の両立が可能だ。

仮に、チームのあるメンバーの成長物語を描き、その当然の結果としてそのキャラの「老い」が始まったとしても、残りのメンバーの若々しさが保たれていれば、チーム全体の「成長の余地」は担保される。

頃合いを見計らって、その老いたスーパーヒーローには花道を作って退場して頂いて、新たに新人のスーパーヒーローをスカウトして来て、次のシーズンは、そのルーキー・ヒーローの成長物語を描けば良い。

こうしてメンバーひとりずつ順ぐりに、
「新人としてチームに参加→成長→老成→引退」
というパターンを繰り返せばいい。
これなら、チームそのものは常に新陳代謝して若々しさを保つことができ、かつ成長物語を延々と繰り返し描くことができる。

ハリウッドお得意の「少年の成長物語」と、「変身ヒーローもの」を両立できる。

王は基本的には旅に出ない。

変身ヒーローものが「望むと望まざるとに関わらず王になってしまった男の物語」なら、彼は旅人ではない。

彼には「自国の領土に留まって、自国民を守る」という職務があり、彼だけの王宮=秘密基地があり、そこに定住し、そこから出撃する。領土の外に出ることは滅多にない。

多くの場合、彼の領土はせいぜい大都市ひとつだ。

全国を行脚して回る水戸黄門は、例外の部類だ。
彼の守るべき「領地」は、江戸幕府とその支配下にあった藩全部だ。
広い領土をメンテナンスして回る必要があったから、彼は「旅するヒーロー」だったのだ。

これから水戸黄門タイプの「旅する変身ヒーロー」の物語が増えるかもしれない。

近年、映画館に足を運ぶ観客が「変身ヒーローもの映画」に要求するスペクタクルの規模が大きくなってきている。

原因は、CG技術の発達とハリウッドにおける映画制作費の高騰だろう。

「密造酒を作っていたイタリアン・マフィアの大ボスを取っ捕まえました」程度の活躍でも、かつては変身ヒーローとして充分に褒(ほ)めてもらえた。
しかし21世紀のこのご時世、そんな程度の仕事っぷりじゃ、今時の観客は認めてくれない。

地球滅亡の危機を救うくらいのスペクタクルが無きゃ、変身ヒーローとして物足りない。

となれば、ヒーローたちも、最新鋭の軍艦や戦闘機に乗って世界中を飛び回らざるを得ない。

ヒーローたちが「ニューヨークこそ僕のふるさと」とか「俺が守るべきはゴッサム・シティ」とか言いたくても、もはや映画館でチケットを買う観客が、それでは許してくれない。
たかがビルひとつをテロリストから守った程度では、もう観客は満足しない。

先日、実写版のガッチャマンを観た。

配給会社のシンボルマークを観て驚いた。

「え? ガッチャマンの配給って東宝なの? 東映じゃなかったんだ……」

私の勝手な先入観だが、どこかで、「等身大の変身ヒーローは東映」「大スペクタクルなら東宝」と思い込んでいた。

ガッチャマンは等身大の変身ヒーローなので、当然、東映配給だろうな、と思っていた。

しかし、蓋を開けてみたら東宝配給……

内容も「人類の存亡をかけた戦い」風の話で、大スペクタクル物語にしたかったんだろうな、という印象を受けた。
(実際には、人類存亡そっちのけで、大学サークル内での三角関係だの、俺サークル辞める辞めないみたいな小っちゃい話に終始してしまっていたが……)

ともあれ、伝統的に変身ヒーローより大スペクタクル映画を得意として来た東宝が「ガッチャマン」の配給を買って出たということは、変身ヒーローものの主戦場が、
「人知れず悪と戦う孤独な王の物語」から
「地球存亡の危機に立ち向かう大スペクタクル」へと移りつつある証拠ではないだろうか。

まとめ。

その1。旅テンプレと変身ヒーロー・テンプレは基本的には同一の話に収まらない。

旅テンプレとは「少年が旅の中で成長していき、最後に王になるまでの話」である。

変身ヒーロー・テンプレは「望むと望まざるとに関わらず王になってしまった男が、王としての職務を遂行する話」である。

前者は少年の成長物語であり、後者は既に成長した大人が日々自分の責任を全うする話である。この二つは別の物語であり、基本的には相容れない。

また、変身ヒーローは基本的には、旅に出ない。

変身ヒーローの属性は「王」あるいは「闇の王」であり、彼の業務は、自分の王国(メトロポリスゴッサム・シティ、大江戸八百八町……)を健全な状態に保つことであり、その町に住んでいる「王国の国民」を守り、彼らに信頼されることである。

水戸黄門は例外的に「旅する変身ヒーロー」である。
それは、彼が保守すべき王国の領土が広いからである。

これからの変身ヒーロー映画の傾向として、ヒーローが守るべき王国の領土は「ひとつの都市」から「地球全土」にまで広がり、その広大な領土を旅する「水戸黄門型ヒーロー」が増えるかも知れない。
なぜならCG技術を駆使した壮大なスペクタクルに慣らされてしまった観客たちは、変身ヒーローものにも地球規模の壮大な戦いを求めるからである。

その2。例外的に「少年の成長テンプレ」と「変身ヒーロー」を融合させる方法が3つある。

(1)平凡な少年がヒーローになるまでを描く「ヒーロー誕生秘話」型の物語。

もちろん、これは一度きりの物語であり、シリーズの第1話でしか使えない。
このスタイルにこだわりすぎると、「ヒーロー誕生秘話→リブート→ヒーロー誕生秘話→リブート→ヒーロー誕生秘話→リブート」を延々と繰り返すハメになる。

(2)大人社会からの隠れ蓑としての変身ヒーロー。

変身ヒーローというものを、成長過程の少年が大人社会から一次的に隠れるための「隠れ蓑=秘密基地」として描く。まだ大人社会への適応力が充分に備わっていない成長過程の少年が、ヒーローという隠れ蓑を使って大人社会で生きていく術(すべ)を徐々に学んでいくという物語である。
従って、物語の目的は「少年がヒーローという名の隠れ蓑なしでも立派に生きていけること」である。
「ヒーローのコスチュームを脱ぎ捨てること」が最終目標である。

(3)チームものとして、複数のヒーローの群像劇として描く。

群像劇の中で、個々のメンバーの「新加入→成長→卒業」を繰り返し描き続ければ、チーム全体としての若々しさを保ちつつ「成長の物語」を延々と続けられる。

締めの言葉。

さて……あとは小説を書くだけだな! 俺!