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ネタバレ! 小説と映画の感想‐青葉台旭

小説と映画のネタバレ感想が書いてあります。メインのブログはこちら http://aobadai-akira.hatenablog.com/

漫画「この世界の片隅に」を読んだ。

漫画 感想

*ネタバレあり。

この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 中 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 中 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 下 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 下 (アクションコミックス)

この世界の片隅に」を読了した。

言うまでもなく、多くの場合、原作と映画は別物だ。

……で、この「この世界の片隅に」における原作と漫画の相違点の話だが。

最終回の「しあはせの手紙」が素晴らしかった。

本当に素晴らしかった。

映画版もラストはとても感動的なのだが、原作には、その感動的なシーンに「しあはせの手紙」という詩がナレーションのように書かれていて、感動がさらに何倍にも増した。

これは、アニメーションでも不可能な、漫画ならではの表現だろう。

すずのキャラクターの印象が大分(だいぶ)ちがう。

まず、原作は男女関係の描写が多い……いや、書き方が逆だな……原作にあった、主人公すずと夫である周作の男女の描写を、映画版ではバッサリとカットしている。

映画では、本土空襲が始まる前のすずは、屈託のない笑顔や、失敗した時の「あちゃー」といった感じの可愛らしいさで周囲を和ませる癒し系キャラの要素が大きいが、原作漫画では、いきなり最初の見開き画面が、丘の上から瀬戸内海を憂いを含んだ眼差しで見るすずのカットで始まる。

主人公が天真爛漫なだけでは終わらない物語である事を暗示している。

映画版でも、結婚したてのすずが円形脱毛症になるという描写があって、それで「いっけん脳天気そうなすずにも、嫁ぎ先でのストレスはあるんだ」という事が暗示されるが、映画の初期での「すずのストレス描写」は、せいぜいこの程度だ。

原作版のすずは現代女性にも通じる「リアルな女」成分が多めと言えるし、映画版は、そういう女の生々しさをバッサリとカットすることで「物語の登場人物として純粋」な、つまりリアルと言うよりは神話的なキャラクター設定になっている。

漫画の上中下の三冊は、わりと明確に話の色調が分かれている。

つまり、三部作に近い形になっていて、単行本の一冊一冊がそれぞれ第一部・第二部・第三部と呼べるような構成になっている。

あえて命名すれば、

  • 第一巻「少女・結婚編」
  • 第二巻「恋愛編」
  • 第三巻「戦争激化編」

とでも言おうか。

現代劇は、恋愛→結婚と話が進むが、戦前・戦中の物語では結婚→恋愛と話が進む。

現代劇と違うのは、夫婦の恋愛模様が結婚後に描かれることだ。つまり現代なら恋愛→結婚と話が進む所を、まず(すずにとっては)見ず知らずの男・周作との結婚があり、それから周作との恋愛感情が綴られていく訳だ。

そして、第三巻の空襲が激化する中で、それと平行して描かれるのは、嫁ぎ先に自分(すず)が居る意味の不確かさであり、夫・周作との関係の不確かさである。

いや、嫁ぎ先の姑・姑は常にすずに優しいし、義理の姉も最初こそ意地悪な小姑として登場し、娘を亡くした時は動転してすずを責めるが、決して悪い人物ではない。夫・周作も、米軍機の機銃掃射からすずを守りながら「お前との結婚生活は楽しかった」という。

しかし、それでもすずは広島の実家に帰りたいと願う。周作と結婚し北條家に嫁いだ事の不確かさに喘ぐ。

つまり、嫁ぎ先である北条家の人々の問題ではないという事だ。これは、すず自身の気持ちの有り様の問題だ。

その象徴として白鷺が空を飛ぶ。呉の町から広島へ飛び立とうとする白鷺は、嫁ぎ先に居ることの意味を見失い、生まれ故郷に帰りたがっている自分の分身であり、初恋のひと水原の象徴であり、水原と結婚していたかもしれない自分、つまり「ひょっとしたら今と違う人生を生きていたかもしれないもう一人の自分」の象徴だ。

その「北条家の嫁」という居場所の不確かさに喘ぎ、ふらふらと道に飛び出し米軍機の機銃に殺されかかったすずを、夫・周作は抱きしめ、命がけで助ける。

それでも、すずは周作の気持ちに答えられず「聞こえん!」と言って逃げる。

この時、持っていたハンドバッグが、すず自身の身代わりになるかのように米軍機の機銃掃射を受け、大切に取っておいた中の品物もろとも粉々になってしまうというのも象徴的だ。

外出するときに肌身離さず持っているハンドバッグというのは、女にとってある種、自分の一部みたいなものなのだろうか。あるいは、お守りのような存在か。

それが自分の身代わりになって破壊され、中に入っていた思い出の品々(幼なじみからもらった鳥の羽、夫からスケッチブック代わりにもらった……そして夫の元カノ発覚の証拠でもあるノート、遊女からもらった口紅)もろとも粉々になってしまうというのは、おそらく「過去の自分との(強制的な)決別」を意味している。

すずにとっての右手の意味。

なぜ、すずは広島へ帰りたくなったのか。

日毎に増す軍港の町への空襲に怯える生活に疲れてしまったのかもしれない。また、仲の良かった姪っ子を爆弾により目の前で殺されてしまったからかもしれない。その事で義理の姉になじられたからかもしれない。

そして、何より右手を失ったことが大きいのだろう。

右手は、少女時代から趣味だった絵を書くことに使っていた利き手であり、絵が上手という以外にさして取り柄もない少女にとって、その唯一の才能の象徴だ。

それを突然奪われるという事は、自分がこの世界にいる意味を奪われるという事だ。

いかに戦前・戦中とはいえ、結婚において女性に拒否権が全く無かったわけではない。

物語の初めのほうで、すずは叔母さんに「気に入らにゃ断りゃええよ」と言われる。

いかに戦前・戦中とはいえ、お見合いで女性の側に全く拒否権が無かったわけでは無い。

厳しい言い方をすれば、拒否権があるにもかかわらずそれを行使せず、あれよあれよという間に結婚してしまったのは、すずが結婚するということに対して、つまり自分の人生に対して「何も考えていなかった」からだ。

そして、面識のない(と、すずは思っている)夫とその家庭に嫁いで以降、どうにか幸せにやって来られたのも、(嫁ぎ先の人たちが良い人だったという事もあるが……)すずが天真爛漫な少女だったから、言い方を変えれば「何も考えていなかった」からだ。

つまり結婚する前の、あるいは結婚直後のすずは、例えば旧約聖書エデンの園に住む(知恵の実を食べる以前の)アダムとイブのような、あるいはロシア民話の「イワンの馬鹿」のような「神に祝福された愚か者」な訳だ。今風に言えば天然少女だ。

そして、彼女にとって絵を描くということは、幼い頃から持っていた才能であり、物心ついた頃には既に好きだった趣味だ。つまりこれも「神からの贈り物」だ。

血の滲むような努力の末に獲得した能力でもないし、この才能で社会階級を昇っていこうという意志も無い。そういう自覚的な物ではない。

そういう、天真爛漫・純粋無垢な「聖なる愚か者」だった少女が、結婚し、夫との初夜を経て男女の愛情を知り、その結果、夫の(元)愛人に対する嫉妬や劣等感に苛まれ、嫁ぎ先でのストレスのために円形脱毛症になる。

純粋無垢な聖なる存在は、男女の愛を知り、生まれ育った家族のもとを離れて見ず知らずの人々(社会)と生活を共にすることで、徐々に人間としての苦悩を持ち始める。

そして、神から与えられた才能(右手)さえも奪われ、ついに完全に人間になった少女は、初めて自らに問うわけだ。

「私は、いったい何者なのか」と。

ついに「聖なる少女」から「人間の女」になったすずに決心をさせたのは、既に「自立した女」として生きていた義理の姉だった。

自分を抱きしめ、命がけで機銃掃射から守ってくれた夫の愛の告白にさえ答えられず、駄々っ子のように「聞こえない」「広島へ帰る」と繰り返し、気まずい思いで出勤する夫を見送った後、すずは義理の姉と二人きりで話す。

姉は言う。

「自分は好きで結婚した夫に先に死なれ、店も壊され、息子とも離れ離れになった。しかし、自分で選んだ人生だから不幸せではない。その一方で、お前は、他人の言いなりに結婚して、言いなりに働いている。それは、つまらない人生だ」

そして、こう続ける。

「ここ(北條家)がイヤになったのなら出て行けば良い。イヤでないのなら、我々はお前を受け入れる。自分で決めろ」と。

その瞬間、すずの故郷の広島が「ピカッ」と光る。

そして、すずは決断し、義理の姉に抱きつく。「ここに居させてください」と。

つまり、生まれ故郷の広島で歴史的な恐ろしい悲劇が起きたその瞬間、すずは、一人の人間として自分の生き様を自分の意志で決めた(神の子・聖なる少女から、ひとりの人間になった)訳だ。

ある意味、漫画版は壮大な「プロポーズ大作戦」物語だった。

タイトルにもなっているラスト近くの「ありがとう、この世界の片隅に、うちを見つけてくれて」というセリフも、私は漫画と映画でずいぶん違う印象を受けた。

映画版を見た時は、このセリフは文字通り「私を奥さんにしてくれて(愛してくれて)ありがとう」という、夫の愛情に対する受け身のセリフだと思ったが、漫画版を読んでみたら、この、いっけん受け身のように聞こえるセリフは日本人特有の婉曲表現で、実際の意味は、もっと主体的な、

「やっぱりアンタと一緒に暮らして行くことに決めたから、これからもヨロシク!」

という意味だった。

つまり、これは戦前・戦中・戦後にまたがった壮大なプロポーズ大作戦物語だった。

自由恋愛が当たり前になった現代では、物語は「男女が出会う→恋愛期間→男の元カノとか、女の元カレとかと色々ある→男が女にプロポーズ→女がプロポーズを受諾する→結婚」という風に流れる。

この物語は戦時中の話ゆえに「男女が出会う→いきなり男がプロポーズ→いきなり結婚→恋愛期間→男の元カノとか、女の元カレとかと色々ある→その間に戦争→最後に女がプロポーズを受諾する」という風に動いていく。

正直言って、私は途中から完全に夫・周作に感情移入してしまっていた

漫画版では、すずと夫・周作のシーンが多い。ゆえに、男である私は途中から完全に周作目線で読んでしまっていた。

前章で述べた「ありがとう、この世界の片隅に、うちを見つけてくれて」というセリフも、

例えて言うなら、映画の時は、

すず「ありがとう、この世界の片隅に、うちを見つけてくれて」
周作(=俺)「可愛い事言ってくれるじゃねーか! チキショー、抱きしめちゃうぞ!」

って感じだったが、漫画版を読んだ時は、

すず「ありがとう、この世界の片隅に、うちを見つけてくれて」
周作(=俺)「お、おう……こ、こちらこそ、よ、よろしくな」

って感じになってしまった。

ノートを届けるとかいうのを口実にして、すず(妄想の中では俺の嫁)をいきなりデートに誘い、「しみじみニヤニヤしとるんじゃ」とか言われて肩をバンバン叩かれた時には、心のなかで「やったぜ。嫁さんポイント、ゲットだぜ」とか、ほくそ笑んでいたが、デート中に「幼なじみの水兵さんに会ったらどうしよう」とか言って周作(=俺)の背中に隠れた時には思わず「その幼なじみってお前の何なんだよ。今は俺の嫁さんなんだから堂々としてろよ」とイラだってしまった。

……しかし、まさか、りんが周作の元カノとかいう展開になるとは、映画版を見たときには思っても居なかった。

aobadai-akira-2.hatenablog.com

に、「彼自身のすずに対する愛情は子供のとき人さらいのカゴの中で出会って以降少しも変わらない」とか書いちゃったよ。

まさかフーゾクの元カノが居たなんて……しかも、嫁さんと元カノが知り合いだったなんて……

だいたい、すずが納屋の二階で女物の茶碗を見つけた時から不穏な空気が流れていたんだよな。

直後、周作(=俺)の伯母が「好き嫌いと合う合わんはべつじゃけえね」とか剣呑なこと言い出したときには思わず「おいババア、嫁さんの前で何言い出すんだよ」とうろたえ、「一時の気の迷いで変な子に決めんでほんま良かった」って時点で、もう「黙れクソババア」状態だった。

だいたい、周作も周作っていうか、何で、元カノにあげる予定だったプレゼント(しかも元カノの着物とお揃いの柄)などという危険物質を、結婚する前に処分しないで大事に取ってあるんだよ。それ位は、最低限のエチケットってもんだろ。

戦時中で物を粗末にできないっていうのなら、せめて闇市で物々交換しておくとか、姉さんにあげちゃう(ただし固く口止めしておく)とか、方法があっただろう、と。

しかも、元カノにあげるはずだったプレゼントを嫁さんにあげちゃうとか……周作くん、正気か。

もう、この時点で100%有罪判決くだっちゃう予感バリバリだろうが。

その後、すずさんが竹やぶで竹を切っている時にリンドウの花を見て、ハッとなって、周作の部屋に飛び込んでノートを見るシーンは、恐くて見てられなかった。まさか、すずさんの鋭い洞察力を見て「女って恐ぇー」と思う日が来るとは。

しかも、そのせいで、すずさん、周作の元カノが気になってセックスに集中できなくなっちゃってるし。

話は逸れるが、原作漫画には、すずさんと周作さんの濡れ場シーンがあったんだな。これ、アニメの完全版が出来たら、のんが演じるんだろうか?

……などという下世話な話はともかく……

元カノへのプレゼントを処分しなかったがためにすずさんにセックス拒否されるとか、何やってんだ、周作(=俺)。

「子供が出来んのを気にしとんか?」などというトンチンカンな問いかけが、また痛い。

あえてここで周作の弁護をしておくと、セックスが失敗に終わった後、すずさんが「代用品」とつぶやくが、男は目の前の仕事に全力で集中する生き物だから、奥さんを抱きながら別の女の事を思い浮かべたり、奥さんを別の女の代用品に考えるようなことはしない。

ただし「それはそれ、これはこれ」とか自分勝手なことを言って、元カノと愛人関係を続けつつ別の女と結婚するような不届きな男は、世の中に居るかもしれない。

ちなみに私個人は、そのような不届きな行為は絶対にしない。そもそも自分にそんな器用なことが出来るとは思わない。

水原について。

まず、水を汲んでいるすずをいきなり肩に担ぎ、さりげなく尻を触っている時点で気に入らない。

幼なじみだか初恋だか知らないが、何の権利があって他人の嫁にそんなことをするのか。

すずもすずで、なぜ夫以外の男にそんなにも無防備なんだ。

しかし、まあ、水原が泊まった夜に、すずを水原の部屋に行かせる周作の気持ちも分からんではない。

すずと水原がイイ感じにじゃれているのを見て、本当は自分の嫁さんは今でも幼なじみのことが好きで、その相手は明日には戦地へ戻って死んでしまうかもしれないと思ったら、何となく自分が横取りしたような負い目と「思い残す事のないように」という優しさから、ああいう行動を取ってしまう気持ちは理解できる。

しかし、それは自分勝手な優しさで、列車内での夫婦喧嘩ですずが言ったように、夫として、やってはいけない行為だろう。映画の時は聞き逃したが、漫画に書いてあった「うちに子供が出来んけえ、ええとでも思ったんですか?」というセリフには、ドキリとさせられる。逆に言えば「一晩の行為で水原との間に子供が出来てしまったら、あなたは夫として責任をとってくれるのか」という意味だからだ。

結果として、すずが「夫婦とは、そんなものなのか」と言って怒ってくれたということは、周作にとっては嬉しかったのではないだろうか。

周作に怒ったということは、すずがそういう事にちゃんと一線を引けるシッカリとした価値観と意志の持ち主ということだからだ。

自分が相手を好きだという気持ちが確かなものであっても、相手が自分を本当に好きかどうかというのは、ちょっとした時に不安になるものだ。

また、人間は好き嫌いだけで生きているわけではない。決断とか、けじめとか、そういうものの方が好き嫌いよりも大切な場合もある。それが生きるということだ。

それと膝まくらは駄目だ。他の男に膝まくらは、ありえないよ。すずさん。

「この世界の片隅に」で描かれる世界

感想 映画

*ネタバレ有り

konosekai.jp

原作漫画を読み始めてる。

まだ全てを読み終わったわけではないが、読みながらあらためて思ったのは、「この世界の片隅に」の世界は色々な要素を含んでいるという事だ。

「○○は××だ」みたいに声高に叫ぶのではなく(唯一、玉音放送直後のすずの怒りの叫びは例外)、相反する複数の要素をさり気なく背景に描くことで全体として「世界の割り切れなさ」が浮き上がるようにしている。

例えば、物語の初め、すずが尋常小学校に通っている頃のシーンでは、日本がまだ豊かな先進国になる前の、つまり高度消費社会に毒される前の人々の素朴な暮らしが描かれている。

主人公のすずは小学校に通いながら、登校前と帰宅後は家業の海苔養殖を手伝い、広島市の繁華街の商人の所へ海苔の入った大きな風呂敷を背負って行く。

一見すると、それは現代日本人が忘れた「貧しくも質素で牧歌的な暮らし」のように見える。

しかし、そんな「貧しくとも穏やかな」戦前(あるいは日中戦争開戦前後)の暮らしの描写の所々に、社会の「ダークサイド」が、さりげなく描写される。

例えば、広島の街で出会った「人さらいの化け物」……幼いすずのフィルターを通して、幻想的に描かれてはいるが、これは「実際に人身売買業者に誘拐されそうになった」とも解釈できる。

あるいは、祖母の家で出会った「座敷わらし」……これも、幼いすずのフィルターを通してファンタジーめいて描かれるが、これは明確に「孤児」であり、のちに遊女となってすずと再開することになる。

登場人物のひとりである水原の家は両親ともアル中でろくに仕事もせず、彼は尋常小学校卒業後、学費の要らない海軍学校へ入学し、のちに軍艦に乗り込んで前線へ行く。

これらの描写で、さりげなく表現されているのは戦前の「貧しくとも牧歌的な社会」の中にも、貧しさゆえの悲劇が無数に存在したという事だ。

余談。薄っぺらな偽りの豊かさと、素朴な生活感あふれる貧しさは、どちらが「正義」か

ここで「この世界の片隅に」から外れて私、青葉台旭の経験を述べさせてもらう。

今から四半世紀前、日本にはバブル景気というものがあった。日本中が偽りの豊かさに浮かれていた。

先日、ある低所得階級の人と話した時、彼が「バブルの頃は、東京で浮かれている奴らなんて俺達には関係ないと思っていたけど、バブルが弾けてみて初めて分かったよ。俺たちもバブル経済のお陰で多少は良い暮らしをしていたんだな、って」と言った。

私自身は、偽りの豊かさは所詮偽りであって、泡で出来た豊かさを社会の根拠にすべきではないと思っているが、世界の良し悪しは一面だけを見ては測れない。

正義を振りかざし、人々に貧しい暮らしを強いる社会の偽善

主人公すずが呉の街を歩いているうちに道に迷って遊郭に入ってしまい、そこで、すずが少女時代に座敷わらしだと思っていた孤児で、今は遊女に身をやつした女と出会う場面がある。

つまり、戦時下にも遊郭があり、遊女が居て、女遊びをする特権階級が存在しているということだ。

人々に「清貧」を強要し、食料を配給制にして雑草を食わせておきながら、一部の特権階級が遊郭遊びをしているという偽善。

この戦争が「正義のための戦い」であり「欲しがりません勝つまでは」「贅沢は敵だ」というのなら、なぜ遊郭を取り壊して軍需工場を建て、遊女たちに作業服を着せて魚雷の一発でも造らせないのか。

物語のラスト近く、終戦後、主人公が何を配給されるかも分からない配給の列に並ぶシーンがある。

配給されたのは、進駐してきたアメリカ兵士の食べ残し、つまり残飯だった。しかもその残飯にはラッキーストライク・タバコの包み紙が浮いている。

ところが、このゴミの浮いた残飯が「とても美味い」のである。すず達は道端にしゃがんでアメリカ軍の残飯に舌鼓を打つ。

人々に大義を押し付け、貧しさを強いてきた祖国の配給食より、原爆を落とし多くの同胞の命を奪った敵兵の食べ残したゴミの浮いている残飯の方が遥かに滋養があって美味しいという皮肉を「この世界の片隅に」は、嫌味ったらしくならずにコミカルに描いている。

映画「この世界の片隅に」を、ぜひ多くの人に見て欲しい。特に十代後半から二十代前半の人たち。

映画 感想

*ネタバレ有り

konosekai.jp

映画「この世界の片隅に」が素晴らしかったので、ぜひ興行的にも成功して欲しいと思っている。

一般論として興行収入を見込める映画とは

単純なマーケティングの、あるいは算数の問題という話なら、できるだけ幅広い年齢層を対象にするという事が成功の確率を上げる近道だろう。つまり性的・暴力的表現を出来るだけ無くし、あるいはマイルドにし、ストーリー展開や描写を低年齢層でも理解できるようにして「大人から子供まで」楽しめる作品に仕上げるということだ。

小学生以下の年齢でも楽しめる作品づくりを心がければ、当然、一人の子供に対して最低一人は保護者が同伴するわけだから、仮に子供料金が半額だったとしても、子供一人あたり最低でも大人1.5人分の料金が見込めるわけだ。

一方、多くの一般高校生に支持されるというのも、アニメーション映画が興行的に成功する一つの方法だと思う。

ここで言う「一般高校生」というのは、コアなアニメ・ファンだけでなく、いわゆる「リア充」的な生活を送っている大多数の男子高校生・女子高校生にとっても魅力的な作品作りを心がけるということだ。

「女子高校生に支持されたものはヒットする」……私はマーケティングの専門家でも何でもないが、この格言めいた言葉を十数年前から何度も耳にしている。

……で、映画「この世界の片隅に」の話

この映画の興行的成功を願う私としては、さすがに小学生にはちょっと大人すぎる内容の映画だと思うので、成功の鍵を握るもう一つの年齢層、高校生や高校を卒業して間もない二十代前半の人たちに、ぜひこの映画を見て欲しいと思う。

この世界の片隅に」にも恋愛要素はある。……ただし、それはややビター・スィートな大人の味だ。

やはり恋愛というのは人類共通の関心事で、とくに十代後半の頃というのは男子にせよ女子にせよ頭のなかは(多くの場合)異性の事で一杯になっているものだ。

そして、若い男女、とくに恋愛経験の少ない十代の人たちにとっての理想の恋は、やはり「純愛」という事になると思う。

親戚の女子高校生は、こう言った。

数年前、めったに会わない遠い親戚の女の子が私の地元にやって来て、少し話をしたことがある。

その少女は当時高校三年生で、既に大学から推薦入学の内定を得ていて、大人たちの「良いねぇ。これからの数年間が人生で一番楽しい時だねぇ」というお世辞というか外交辞令めいた言葉に返して、「はい。これから、たくさん恋をしたいと思います」みたいな事を言った。

それを聞いて大人たちが「やれやれ、言うねぇ」みたいな半笑い顔になった瞬間、その女子高校生は、こう続けた。

「たくさん恋をして、よーく相手を選んでから結婚したいと思います」

その、あまりに大人な女子高校生のセリフに、さすがの大人たちも一瞬「えっ?」という顔になった。まあ、次の瞬間、いっけん可憐な少女と彼女の言った大人っぽいセリフのギャップにみんな爆笑してしまったが。

「純愛」ばかりが男女の素晴らしさではない。

私の親戚の少女みたいな恋愛観が女子高校生においてどれだけ一般的かは分からないが、元男子高校生だった経験からすると、恋愛に関して十代の男は目先の事しか頭にない。

そういう意味では「純粋」だ。

映画においても、一途に初恋の相手を互いに追い求める純愛映画には、老若男女みんなの感情に訴えかけるものがあるのは事実だろう。

しかし、そういう初恋から一直線の恋だけが恋ではない事を、若い人たちにもぜひ理解していただきたい。

初恋だけが恋ではないし、私の親戚の女の子が言うように「よーく相手を選んだ結婚」でも、相手に対する思いやりの心を持って、ちゃんと信頼関係を築く事ができれば、それは素晴らしい男と女の営みだ。

「今、目の前にいる相手への思いやりと信頼のために、初恋を心の奥底に封印する」

それは少しビターだが、素晴らしくスイートな人のあり方だ。

男子高校生と女子高校生の皆さん。ぜひ、映画「この世界の片隅に」を観ていただきたい。

映画「この世界の片隅に」の夫・周作の重要性は、もう少し注目されても良いと思う。

映画 感想

*ネタバレ有り

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もちろん、この物語は、すずという一人の女性の生き様を描いた物語である。

そして、そのすずを演じた女優「のん」の演技は突出している。

しかし、脇を固めるキャラクターたちとそれを演じた俳優・女優陣にも、もう少し注目が集まっても良いような気がする。

特に、夫・周作の立ち位置と、それを演じた細谷佳正のナチュラルな演技は、やはり重要だろう。

主人公すずにとって、結婚は18歳で突然に降って湧いた人生の転機な訳だが、夫・周作目線で言うと、彼にとってすずは少年時代に出会って一目ぼれをして以来成人するまでずっと思い続けていた少女だ。

彼は「すずは本当は幼なじみの水原が好きなのではないか」とか「すずは自分と結婚して本当に幸せだったのだろうか」という悩みを持っているが、彼自身のすずに対する愛情は子供のとき人さらいのカゴの中で出会って以降少しも変わらない。

そういう周作というキャラクターを細谷佳正は独特の枯れた声で淡々と演じる。彼の「枯れた声と淡々とした演技」が、ちょうど嵐の海に停泊した戦艦の碇のように、物語にしっとりとした落ち着きを与えている。

だからこそ、物語のラストですずが周作に言った言葉、この映画のタイトルでもある「ありがとう、この世界の片隅にうちをみつけてくれて」というセリフにも説得力が出るというものだ。

映画「この世界の片隅に」の「のん」について。

映画 感想

*ネタバレ有り。

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主演の「のん」について。

色々と「この世界の片隅に」の感想を書いたブログなどを少しずつ読んでいるが、皆さん口をそろえて言っているのは主演の「のん」の演技が素晴らしいという事だ。

私も同感だ。

もはや主人公すずの声は、のん以外には有り得ないというくらいの当たり役だった。

ただ、ここでひとこと言いたいのは、主人公すずが天然少女キャラだから(実際に天然少女である)のんちゃんは素のまんまで良かったんだろう……というほど単純な話でもないという事だ。

たしかに前半部の、あのホンワカしたすずさんの感じは演技(技術)が上手ければ出せるという物ではない。

のんという女優が生まれつき持っている声の質感とか、元々の発音の優しい感じが有ればこそであろう。

しかし、この映画における彼女の素晴らしさは「天性の素質として、すずという役にピッタリだった」というだけではない。

聞くところによると、のんをはじめとする出演者たちの広島弁は、ネイティブの広島出身者が聞いても自然で違和感が無いという。

そして物語後半、空襲が激しくなるにつれて、幼なじみから「普通でいてくれ」と言われたにも関わらず徐々に自分を見失っていくすずの演技の緻密さ、そしてクライマックスに終戦の玉音放送を聞いた直後の慟哭の凄さ。

これらは単に「天然少女が天然少女の役をした」で片付けて良いものではない。

確かな技術としての演技力と、周到に用意された演技プラン、自然な発音と感情表現を両立させた方言訓練の結果だ。

わたしはドラマ「あまちゃん」を観たことが無いし、のんという女優の演技を観た(聴いた)のはこれが初めてだが、この映画「この世界の片隅に」における彼女の演技は、もはやこれ無くしては映画が成立しないほど重要な要素であると断言できる。

それは、のんという女優が生まれつき持っている声や話し方や性格に加えて、彼女が意識的に行った努力の結果である。

日本中に何百人何千人と居るであろう女優たちの中から、のんを抜擢し演出した監督の手腕にも、賛辞を贈りたい。