ネタバレ! 小説と映画の感想‐青葉台旭

小説と映画のネタバレ感想が書いてあります。メインのブログはこちら http://aobadai-akira.hatenablog.com/

映画「迫り来る嵐」を観た。

新宿武蔵野館で観た。

公式サイト

監督 ドン・ユエ
出演 ドアン・イーホン 他

ネタバレ注意。

この記事にはネタバレが含まれます。

ネタバレ防止の雑談。

私には、映画を見終わったあと他の人がどんな感想を持ったのかブログなどをネット検索して、いくつか読んでみるという習慣がある。

この映画を、同じ中国の「薄氷の殺人」と並べて中国ノワールなどと称する記事があった。

「薄氷の殺人」は結構好きだ。

「薄氷の殺人」amazonのページ

とくにラストに奇妙な余韻が残るところが好きだ。

それから、ちょっと古い中国地方都市の街並み……レトロで、ノスタルジックで……日本ともヨーロッパとも、西側資本主義世界にあるどの国・どの時代とも違う風景は、エキゾチックで見ていて飽きなかった。

この「迫り来る嵐」も「薄氷の殺人」も、1990年代末の中国地方都市を舞台にしている。

しかし、「薄氷の殺人」のようなノワール的な作品だと思い込んで映画館に行くと、この映画の本質を見誤ると思う。

以上、ネタバレ防止の雑談でした。

この映画はノワール映画ではない。

ここから本題。「迫り来る嵐」の感想。

一部のブログ記事などでは「中国ノワール」とか言われている。

ノワール映画」の定義にもよるだろうが、私の解釈では「ノワール映画」ではない。

社会のドロドロした暗黒面を描いた作品でも、人間の内面のドロドロした暗黒面を描いた作品でもない。

この映画はサスペンスでもスリラーでもミステリーでもない。

「女性連続殺人事件」の犯人を追うというサスペンス/スリラー/ミステリー的な体裁でありながら、この映画はサスペンス映画でもなければスリラー映画でもミステリー映画でもない。

「実は犯人は○○でした」という意外なオチをつけ観客をスカッとさせて終わるというサスペンス/スリラー/ミステリー的な仕立てを、この映画は完全に放棄している。

この映画は「不条理」映画だ。

では何を描いているかといえば……
「世の中の不条理」とりわけ「独裁国家の不条理」を描いた映画だった。

独裁者あるいは独裁的政治集団が支配する社会で、彼らの胸ひとつで、ある日とつぜん世界を動かす原理原則がガラッと変わってしまうという不条理を描いた作品だ。

 かつて正しいと信じ込まされ、それに従い、人生を捧げ、一喜一憂していた『社会の原理原則』が、たった十年やそこらで無価値になり、それと入れ替わるように、資本主義・市場経済という『堕落した敵国の思想』だったはずの物が、あっという間に国全体を覆ってしまう「不条理」を目の前にして、一人の男が『十年前のあの暮らしは何だったんだ? 俺は夢でも見ていたのか?』と戸惑う……それがこの映画のメインテーマだ。

それは、日本で言えば終戦の日に多くの日本人が感じた『不条理感』に近いのかもしれない。
ある日突然、『日本は戦争に負けました、今日からは勝者であるアメリカさんの言うことに従ってください』と、昨日まで『鬼畜米英』と叫んでいた国家当局から通達されるという不条理。
じゃあ、昨日までこの国を支配し、自らも嬉々として従い、命さえ捧げようとしていた、あの価値基準は一体何だったのか……そんな、終戦直後の日本人が感じた不条理感と同じものを、この「迫り来る嵐」の主人公も感じていたのではないか。

世界を動かす仕組みが短期間でガラッと変わってしまう不条理の中で、『変わってしまった』現在から、『変わる前の』過去を振り返る……これはそういう映画だ。

『あの頃を振り返ってみると……あんなものに一喜一憂し自分の人生を賭けていたなんて信じられない。まるで夢のようだ……あれは本当に現実にあった出来事だったのだろうか』……そういう幻想的・不条理的感覚こそがこの映画のテーマだ。

早い話これは、現代に復帰した浦島太郎が、竜宮城にいた頃の暮らしを振り返って「あれは夢だったのだろうか? それとも現実だったのか?」と自らに問う、という映画だ。
ただし、過去の自分が暮らしていたのは竜宮城(=ユートピア)ではなく、独裁体制国家というディストピアだが。

シュルレアリズムではないから、ある朝起きたら虫になっていたとか、そういう非現実的な事は何ひとつ起きないが、ある意味カフカっぽいというか、未来世紀ブラジルっぽいというか、そういうディストピア幻想譚の一種に位置付けるべき作品だと思う。

『過去の人生を振り返って、まるで夢のようだったと思う』という切り口は、ディストピア譚としては、なかなか新鮮だ。
西洋の不条理ディストピア譚/シュルレアリズム譚には無い、この映画独自の視点だと思う。

『邯鄲の夢』的、『杜子春』的、あるいは『胡蝶の夢』的とでも言うべきか。

繰り返すが、本作は犯罪をメインに据(す)えたノワール映画ではないし、ミステリーでもスリラーでもない。
連続殺人鬼を追うだの何だのというのは、話を前に進めるための単なるマクガフィンに過ぎない。

1997年の中国の地方都市。

中国に行った事はないが、2019年現在の中国都市生活がどんな物かは、私にも容易に想像がつく。

近代的な超高層マンションと、マクドナルドと、スターバックスと、ルイ・ヴィトンと、アップルと、ベンツと、フェラーリと、インターネットと、SNS……要するに東京や他の西側資本主義国と何ら変わらない高度消費生活である事を知っている。

対して、この映画の舞台……たかだか20年前の中国地方都市の、何とまあレトロな事か。

日本で1997年といえば、二年前にウィンドウズ95が発売され、インターネットが徐々に普及し、ジェイムズ・キャメロンの「タイタニック」が公開され、庵野秀明の劇場版「エヴァンゲリオン」が公開された年だ。
要するに、日本や西側諸国の1997年〜現在(2019年)は地続きで、なだらかな進化・変化は各分野であるにせよ、20年前と現在とで何かが決定的に変わっている訳ではない。

しかし中国の1997年は違う。
何もかもが「古臭い」を通り越して「過去の遺物」だ。
現在の中国との間には明らかな断絶がある。

国営の鉄工所にしても、警察署にしても、病院にしても……あるいはヒロインの住む風俗店、のちに彼女が経営する美容院、周囲の街並み、歓楽街に流れる歌謡曲、毎夜公園で踊る男女のバックで流れる音楽……街を走るトラック、警察車両、サイドカー……二十一世紀を迎えようという人々の暮らしとはとても思えない。

日本で言えば戦前か、せいぜい昭和30年代くらいの風俗に見える。

そんな、下手したら100年前から変わらない暮らしだった街に、わずか20年で「スタバでiphone」の時代が到来するわけだ。

そりゃ、不条理感も覚えるというものだ。

この物語の最初と最後は、2008年に刑期を終えた主人公が出所する場面だ。
メイン・ストーリーとの時差は11年なので、流石(さすが)にそこまで劇的な変化ではないが、それでも出所した主人公が見る11年後の世界は確実に変化している。

異界感・幻想感を強調して語られる過去の中国

最初と最後に2008年現在の状況を語り、その間に過去の回想を入れる……いわゆる『ブックエンド形式』で1997年に起きた連続殺人事件が語られ、これがメイン・ストーリーになる。

中国が計画経済に支配されていた1997年当時の街並みが、『異界感』『幻想感』を強調した形で表現される。

屋内セット特有の、ちょっと人工的な夜の街。
曇りガラス越しに光る風俗街のネオン。
終始降り続く、ブレードランナーを遥かに凌(しの)ぐ大量の雨。

この『異界感』『幻想感』を強調した上で描かれる過去の中国、というのが、この映画のキモだ。

魔法が出てくるわけでも、怪物が出てくるわけでも、レプリカントが出てくるわけでもない。単なる1997年の中国地方都市の暮らしだ。
にもかかわらず、観客に『なるほど、まるで夢のようだ』と思わせる幻想的な描写になっている。

そのレトロで、幻想的で、ディストピア感あふれる街から、主人公の周りの人間が一人また一人と『退場』していく。

部下が死ぬ。
恋人が身投げする。
犯人だと思っていた男は主人公によって重い障害を背負わされ、その後無実だと分かる。
出所してみれば懇意にしていた刑事は認知症
あれほど拘(こだわ)っていた真犯人は、けっきょく何者か分からないまま交通事故であっけなく死んで火葬されてしまった……と、後になって知る。

かつて、国の指導者たちが『模範的労働者』だと自分を褒め称えてくれた国営工場の大ホールは、政治スローガンの剥げ落ちた廃墟と化している。
そもそも俺はあの時ほんとうに表彰されたのだろうか? それさえも幻だったのではないか? と老いた守衛の言葉に考えさせられる。
その工場も最後には爆破され、跡地には堕落した資本主義の象徴であるはずのショッピング・モールが建設される予定で、市民たちもそれを受け入れている。

全てが夢だったかのように、かつて主人公の世界にあった凡(あら)ゆるものが消えていく。

栄光も、情熱も、恋愛も、友情も、苦悩も、挫折も、狂気も……過ぎ去ってしまえば全ては幻。
そんな映画だった。

一言だけ苦言。

効果音は、ちょっと雑だった。
総じて、わざとらしい。
しばしばタイミングもズレていた。

映画「へレディタリー/継承」を観た。

公式ページ

劇場 TOHOシネマズ新宿

監督 アリ・アスター
出演 トニ・コレット 他

ネタバレ注意

この記事にはネタバレが含まれます。ご注意ください。

ネタバレ防止の雑談

この映画、ひとことで言うなら「文芸系ホラー映画」だろうか。

「文芸的な心理描写」とホラーの融合という意味で言えば「ウィッチ」に近い感触か。

(参考までに、映画「ウィッチ」のamazon紹介ページ

ちなみに「ウィッチ」は割と好きな映画だ。同じ「思春期の少女」を描いたホラー「RAW〜少女のめざめ〜」よりも好みだ。

「ウィッチ」の主演女優は、目が大きくギョロっとしていて、それが神経質な感じを強調していて、その神経質な感じが可憐さを呼んでいて、私の好みだ。

しかも、天然のアヒル口

ある種アニメ風の可愛らしさを持った顔と言えるかもしれない。

この主演女優は、のちにシャマランの「スプリット」でヒロイン役に抜擢されたらしい。

また、Xメン・シリーズの次回作「ニュー・ミュータンツ」でイリアナ・ラスプーチンという役名で、Xメンの一員として出演するらしい。ひょっとしたら主役格かもしれない。

以上、ネタバレ防止の雑談でした。

ここから本題。ネタバレ感想。

さて、本作「へレディタリー」について。

まずは、良い映画だった。

「怖いか、怖くないか」という意味でいうなら、実際には、それほど怖くはない。
即物的な「ぎゃーっ」という怖さは無い。
ただ、終始「嫌な感じ」が続く。

これは「観客を怖がらせること」を目指したホラーではなく、延々と観客に『嫌な感じ』を与え続けることを目指したホラーだ。

主役のお母さんの演技が素晴らしい。

これに異を唱える人は居ないだろう。満場一致。

とにかく、このお母さんすごい。

来年のアカデミー賞取っちゃうかも知れない。(アカデミー賞は、純粋に作品や演技の良し悪しで決まるのではなく、その年の社会情勢を踏まえた会員の『忖度』で決まるらしいから、素人の私には何とも言えないが)

この映画の見所の99パーセントは、このお母さんの演技だと思う。
お母さんの演技を観るために劇場に行く映画と言っても過言ではない。

物語の序盤、母親が「映画を観に行く」と夫に嘘をついて、〈肉親と死別した人々が互いに悲しみを語り合う〉互助サークルに参加するシーンがある。
その時の彼女の所作を見て、私は「これは凄いぞ」と身を乗り出してしまった。

学校の体育館らしき所に車座にパイプ椅子を並べ、心に傷を負った人々が互いに心情を吐露し慰め合うのだが、彼女だけが『足を組んで』座っている。

「自分をさらけ出す」のが目的の互助サークルに来ているくせに「私は、そう簡単には落ちないよ」と言わんばかりに、必死で自分をガードしているわけだ。

ところが自分の番が回ってきて、しぶしぶ心情を吐露しだす段になって、彼女は溢れ出る感情をコントロール出来なくなってしまう。 いくら外に対して自分をガードしていても、彼女は内面から崩壊しそうになっている。そういう危うさを内に秘めている。

彼女は「自分の一族には精神病患者が多い」と言う。
これがタイトルでもある「へレディタリー/継承」の意味(の一つ)だろう。
このお母さんは、自分の血統から精神病患者が何人も出ていることを気にしていて、自分にもその性質が遺伝しているのではないかと不安になっているわけだ。
『精神病患者の血統』などというものが有るのか、無いのか……それは重要ではない。
問題は、彼女がそれを半ば信じてしまっているという点だ。
彼女は『ひょっとして私も母や兄弟のように、いずれは精神を病んで自分自身や身の回りの人々を破滅させてしまうのでは……』と不安になっている。
そんな思いに取り憑かれている時点で、既に(血統とは関係なく)彼女の精神バランスは危うい所に来ているという事だ。

この『自分の内側から溢(あふ)れ出る感情を制御しきれず自壊しそうになっている』演技というのが、とにかく素晴らしい。
彼女は自分の内なる感情の暴走によってどんどん自滅の道を歩んでいくのだが、その凄まじさを観るのが、この映画の醍醐味と言ってもいい。

そして一家は、ちょっとした負の連鎖の果てに、息子(兄)の不注意で娘(妹)の首が切断されるという悲劇に見舞われる。

車の中に放置された娘の首無し死体を発見した瞬間、家じゅうに響く母親の叫び声。
魂の底から絞り出すような、あの母親の叫び声には、度肝を抜かれた。
あんな叫び声を上げた映画女優は、長い映画史の中でも彼女が初めてではないだろうか。
ベッドルームの床(ゆか)に這いつくばって「死にたい、死にたい」と繰り返す、その姿の何と凄まじいことか。

それから夕食のシーン。
「一家団欒の場であるべき夕食のテーブルが、逆に冷え切った家族の現実をあぶり出す」というシーンそれ自体は、ハリウッドの『家庭崩壊もの』映画の伝統とも言えるのだが、この時のお母さんの演技が本当に凄い。
『怒りの爆発』の仕方が、今まで見たこともない演技だった。
ただ暴力的に怒鳴るだけじゃなく、自らの怒りの感情によって自らの精神が破壊されてしまうという描写・演技に、私は釘づけになってしまった。

この「自らの怒りによって自らの精神を壊してしまう」シーンは、後半、息子が机に顔をぶつけて鼻を潰し、学校から呼び出しを食らった父親(夫)に、電話で詰(なじ)られるシーンでもう一度繰り返される。

一方的に電話口で夫に詰(なじ)られ、当然のように妻は怒りを爆発させるわけだが、その怒りの塊があまりに大き過ぎて、うまく言葉が出てこない。
自分の内なる負の感情があまりに大き過ぎて、もはやそれを発散することさえ彼女自身の手に余るという描写・演技は芸術的とさえ言えた。

男目線で言うと……

母親や妻や恋人など、自分にとって近しい女が激昂したとして、男にとって最も恐ろしい事態というのは何だろうか?

  • 彼女が怒りにまかせて怒鳴ったり、暴力を振るったり、物を投げつけてくる。
  • 彼女の内なる怒りの感情があまりに大き過ぎて、彼女自身の精神がそれに耐えきれず内側から崩壊してしまう。

当然、後者の方が何倍も恐ろしい事態に決まっている。
なぜなら、取り返しがつかないから。

多くの『家族崩壊もの』映画と同じく、この映画のお父さんも「良い人」なんだけど、でも救いがたいほど「鈍感」で、「家族を愛している」けれど、ギリギリの所では「妻に寄り添っていない」し、本当の意味で「彼女の味方ではない」キャラとして描かれる。
そんな中で、母親だけがどんどん孤立していってストレスを溜め込んでいくと言う構図だ。

前述の夕食での怒り爆発シーンも、子を亡くした妻を気づかった(つもりの)夫が、自ら夕食を作って、妻が「今日は食べたくない」みたいな素振りを見せると「せっかく作ってやったのに、何だよ」みたいに半ギレする、という前振りを経て、
息子「オヤジ、この料理うまいよ」
父「だろ?」
みたいな茶番を見せつけられて、思わず男どもを「ケッ」と嘲笑してしまう妻(母親)……というのが発端だ。

「重荷だけど愛してる。愛してるけど重荷」の息子。
「頼りないけど頼りにしてる。頼りにしてるけど頼りない」夫。
つまり愛していながら同時にイライラさせられる家族の男どもが、妻(母親)のストレスを加速させ、どんどん妻(母親)の精神を蝕んでいくという構図だ。

あげくに、男どもは真夜中に妻(母親)に叩き起こされ、母ちゃん満面の笑みで何を言うかと思えば、
「これから皆んなでコックリさんをやろう。死んだあの子の魂を呼び戻そう」
……って……

「やべぇよ、母ちゃん(嫁さん)、とうとうスピリチュアルに目覚めちゃったよ。宗教にハマっちゃったよ。もう完全に向こう側にイッちゃったよ」
……自分の家庭には絶対に起きて欲しくない最悪の事態だ。

そして母は鬼婆になってしまった……

悪魔の策略に引っ掛かったとは言え、自分のせいで夫が焼死するに及んで、ついに精神が崩壊し、生きながらにして鬼婆になった母親が息子を追い詰めるという、安達ヶ原みたいなラストだった。

息子の隠れている屋根裏部屋の引上げ戸に鬼と化した母親が逆さまに取り付いて頭でガンガン叩く描写の凄まじさ浅ましさは、なかなか心にグッと来るものがあった。

息子の演技について。

とにかくお母ちゃんの演技が飛び抜けて凄まじいこの映画だが、息子もなかなか良い演技をしている。

特に、アレルギーの発作を起こした妹を病院へ連れていくために猛スピードで車を飛ばしたあげく、事故で妹を死なせてしまった時の表情が素晴らしい。

パニックのあまり頭が真っ白になって全ての感情が遮断され、能面のような無表情に涙だけが流れるという描写が良い。

真相の衝撃度は、(日本人にとっては)それほどでもない。

当然、ラストには真相が明かされる。

全てはカルト悪魔崇拝者たちが仕組んだ策略だった。

彼らの願いは魔王の顕現であり、そのための依り代として息子の肉体を魔王に献上するのが目的だった。

正直、日本人の私には「ああ、そっち系ね」という程度の感想でしかなかった。

キリスト教徒でも何でもない私にとっては、やれ悪魔崇拝だ魔王の復活だという話が怖いか怖くないかと聞かれれば「いや、別に」というのが正直なところだ。
まあ、いわゆる『中二病』的な面白さはあるけどね。

前述の、母親が屋根裏部屋の引上げ戸に頭をガンガン打ち付けるシーンにしても、なぜ日本人の私が感情をかき立てられたかと言えば、「俺の母親はストレスに苛(さいな)まれ続けたあげく、とうとう鬼婆になってしまった」という、日本の鬼女伝説にも通じる「人の哀しい性(さが)」を見たからだ。

正直、悪魔崇拝どうのこうのの話は、まあ不要とまでは言わないが「そういう設定での幕引きか。うん。分かった」程度のものでしかない。

敵の目的が「息子の体に悪魔の魂を憑依させる事」だと分かった時点で、ホラー映画の定石からして、悪魔に魂を支配された息子が最後に「ニヤッ」と笑って終わり、というバッドエンドまで察しが付く。

ただ、ビジュアルの美しさという点で言えば、最後の最後、カルト教団の『教会』に仕立てられたツリーハウスの中で、全裸で平伏(ひれふ)す男女の前に立つ息子(=魔王)の描写は、禍々しくも美しいラストだと思った。

A24

先日見た「イット・カムズ・アット・ナイト」もオープニングでA24のロゴが出ていた。 ……と、思ったら「ウィッチ」もA24か……wikipediaで制作した映画のリストを見ると、地味だけど存在感のある映画会社なんだな。

結論。

とにかく、お母さんの演技がド迫力です。

追い詰められていくお母さんの演技を堪能する映画です。

何か、人の業(ごう)みたいなものが感じられます。

ただし気力・体力のないときは見ないほうが良いかもしれません。

ハリウッド映画の「鼻血ツゥー」は、もう見飽きた。

ギャグ漫画やギャグ映画で、わざと「お約束演出」を大げさにやって笑いを誘うという手法については、必ずしも否定しない。うまくハマれば効果的だろう。

しかし、シリアスな物語の中で「お約束演出」をされると、白けてしまう。
それまで没入していた物語世界から我に返って、冷めてしまう。

「なんだ、またこの手か……他に気の利いた演出方法は思い浮かばなかったのか?」と。

日本の漫画で「鼻血ブゥー」と言えば、男の主人公がヒロインの裸を見たときなどに興奮して頭に血が上ったことを表す、ラブコメの「お約束演出」だ。
これはこれで安易な乱発は芸が無いと思うが、それでも「お約束」であることを逆手に取ったギャグとしてなら、使いどころによっては効果的な場合もあるだろう。

一方、ハリウッドにおける「鼻血ツゥー」だ。

アメリカのSF超能力アクション系の映画は、超能力者が自分の内なる力に目覚めたことを表す時や、まだ超能力を制御しきれていない時の表現として、安易に「鼻血ツゥー」を使い過ぎる。

(コメディ・パロディ映画の中での)お約束表現を逆手に取ったギャグ演出ならまだしも、終始シリアスに話が進む超能力アクションやSFホラー映画で、観客に「またか」と思われるような使い古された演出を安易に採用すべきではない。

超能力ものにおける「力の目覚め」は、本来なら前半部のキーポイントになる重要なシーンのはずで、各々の演出家・脚本家の「腕の見せ所」であるべきだろう。
安易に「鼻血ツゥー」に頼るべきではない。

映画「ウィンド・リバー」を観た。

角川シネマ日比谷で「ウィンド・リバー」を観た。

公式サイト

監督 テイラー・シェリダン
出演 ジェレミー・レナー 他

ネタバレあり。

この記事にはネタバレが含まれます。ご注意ください。

銃について(ネタバレ防止の余談)

主人公の持っていたバレルとレシーバー部分がピカピカのレバー・アクション・ライフルが気になって調べてみた。
どうやら、マーリン社という銃器メーカーのM1895SBLというモデルらしい。
この銃、すごく印象に残るよね。

調べていくうちに「imdb.com」ならぬ「imfdb.org」なんてサイトがあるのを知って、ちょっと笑ってしまった。
いろいろ調べてみると、主要人物たちの銃は以下のようなものらしい。

コリー・ランバートジェレミー・レナー
マーリンM1895SBL、レミントンM700、ルガー・スーパーブラックホーク
ベン署長(グラハム・グリーン)
スミス&ウェッソンSW1911Eシリーズ
ジェーン・バナー(エリザベス・オルセン
グロック17
その他いろいろ
ヘッケラー&コッホHK416、ヘッケラー&コッホUSPなど。

こうしてみると、登場人物の所有する銃器に、はっきりと製作者側の意図が読み取れて面白い。

主役のコリーや部族警察の署長、つまり地元の人間はウィンチェスター・ライフル、コルト・シングルアクションアーミー、コルト・ガバメントなどの伝統的なアメリカの銃(のコピー商品)を使い、FBI捜査官などの他所者はヨーロッパの近代的な銃を使うという色分けだ。

地元組が持っているのは古いアメリカの銃そのものではない。
本家メーカーの特許切れの後に作られた他社製コピー商品であり、昔からある青黒い酸化皮膜処理鉄ではなく現代的な銀ピカのステンレス製であり、また最新式のピカティニー・レールなどを組み込んで再デザインされた『現代の』銃だ。

これは、ウィンド・リバーという地域が現代にありながら過去に属する土地という暗示であり、そこに住む男たちは銃に対して特別なこだわりを持ち、銃=暴力によって正義を執行する、物事を解決するという古い開拓時代のアメリカの価値観と、近代的な法治国家アメリカの価値観の両方を持っている(そして、その二つの価値観によって引き裂かれている)という暗示だ。

主人公が弾薬のハンド・ロード(火薬の詰めなおし)をしているシーンがあったが、あれは45-70の強装弾を自分で作っているという描写なのだろうか?
主人公はアメリカ合衆国魚類野生生物局の職員だ。どうやら大型肉食獣を射殺して生息数を調整するのが仕事のようだから、強力なライフル弾とそれを連射できる銃を常に持ち歩いているという設定なのかもしれない。

それにしてもコルトのライバルS&W社謹製ガバメントの何と美しいことよ。

ちなみにスノーモービルボンバルディア社のスキードゥという車種らしい。

以上、ネタバレ防止の雑談でした。

以下、ネタバレします。

物静かな映像表現が良かった。

CGを使えば何でも表現できてしまう昨今、いたずらにケレン味を追い求め、鬼面人を威(おど)すようなハッタリ映像ばかりの映画も少なくない中、この映画の映像的な語り口は静かで端正で、必要最小限の情報で構成されていて落ち着いて観ていられた。

そして、アクション・シーンを最小限に抑え、その数少ないアクションシーンを「突然の暴力」として描く手法に好感を持った。

社会派ミステリーか、否か。

この映画を分類するとすれば「社会派ミステリー」ということになると思う。

正直言って、映画を観た直後、私は「『社会派』の部分と『ミステリー』の部分が上手く融合できていない」と思ってしまった。

「これ、別にインディアン居留地じゃなくても成立する話だよね? 別に被害者がアメリカ先住民の少女じゃなくても良くね?」と。

(注意:この文脈で『インディアン』という言葉を使うのはインドの皆さんに対して申し訳ないので嫌なのだが、正式名称が『Indian Reservation』なので本記事でもそれに準ずる。勘弁してほしい。
直訳すると『インディアンのために予約された土地』という事か。
アメリカ先住民のために予め約束された土地だから、白人が入植したり開墾したりできない』という意味だろう)

映画の本題である少女強姦事件について、被害者がアメリカ先住民でなければいけない物語上の必然性は全くない。
犯人たちは、先住民だから彼女を強姦したのではない。人種民族に関わらず、ただ性欲の捌け口が欲しかっただけだ。

被害者の兄が人生に希望を持てず鬱々とした日々を送り、悪い仲間と麻薬に溺れるという描写がある。
居留地に押し込められた先住民の絶望感を演出したかったという意図は分かるが、これも別にインディアン居留地だけに特有の問題ではなく、世界中どこにでも存在する「取り残された地域」「過疎化が進む田舎の町や村」に共通する問題だろう。
例えば「インディアン居留地」を「古い炭鉱の町」とか「グローバル化に乗り遅れて工場が閉鎖された町」にしても、この物語は成立してしまう。
これはマイノリティ差別の問題というより、人種的多数派・少数派に関わらず、若者なら誰でも経験しうる問題だ。

そして最初と最後に取って付けたように挿入される、
「この物語は事実を元に作られた」
アメリカの失踪者の統計データには、アメリカ先住民女性に関するデータは無い」
という字幕。

アメリカには先住民をめぐる社会問題があるんだ! 俺たちはそれを告発したいんだ!」という映画製作者の意図は分かるが、それが物語と有機的に繋(つな)がっていないように感じた。

映画を観た直後は「ははあ、社会問題告発のためだけに舞台をインディアン居留地という設定にしたんだな」と思ってしまった。
「告発のための告発」「設定のための設定」に陥(おちい)ってしまっていると思った。

そこで、家に帰ってから映画の感想ブログやらFilmarksの投稿やらを読んだ。

大部分の記事は「アメリカの闇」だの「先住民の置かれている悲惨な状況」だのというフワッとした言葉だけでこの映画を評していた。
アメリカ先住民というマイノリティ差別に切り込んだ映画だから素晴らしい。感動しました」といった、通りいっぺんの賛辞ばかりだった。

「この映画の舞台がインディアン居留地である物語上の必然性」をちゃんと説明してくれる記事には中々お目にかかれなかった。

「被害者の兄が将来に希望を持てず鬱々としている現実のやるせなさ」の原因を、インディアン居留地であるがゆえとして、本作品のテーマを「差別と貧困」の物語と規定する記事もチラホラあったが、前述の通り「貧しい地域に取り残され鬱々とした日々を送る若者たち」というのは世界中どこにでもある普遍的なテーマだ。どうしても先住民差別と結びつけなければいけない必然性は無い。

う〜ん……なんかスッキリしない。

私がそう思ったのと同じように「泥酔した男たちの強姦事件って、インディアン居留地は別に関係なくね?」といった趣旨が書かれている記事や感想の投稿も、一部にはあった。

俺、この映画について重大な何かを見落としてるのかなぁ……

そして色々と調べていくうちに(といっても、ネットの聞きかじりならぬ『wikiかじり』程度だが)この映画の本当の主題が見えてきた。

結論から申し上げると、この映画のテーマは「アメリカ先住民に対する差別」ではない。

いや、もちろん根っこには「先住民差別」の問題があるのだが、この映画の主題は、そんなザックリとした『差別反対』的な抽象論ではない。

この物語の主題は、アメリカ先住民という『アメリカ大陸本来の主権者』と、ヨーロッパから移住してきた白人たちが作り上げた『合衆国』という国家との間で取り交わされた約束(条約)の欺瞞性であり、そこからくる現在のアメリカ先住民とアメリカ合衆国との『ねじれた関係』の告発だ。

殺人事件でないとFBIは捜査できない。

検死のシーンで「殺人事件でなければFBIは捜査できない」というシーンがある。

また「こんな広大な土地に警察官がたった6人しか居ない」というセリフもある。

この二つのセリフに言及しているブログ記事は、いくつかあった。

私個人は、この二つのセリフに関して「ははぁ、例のアメリカ特有の『保安官制度』の事だな」と思って観ていた。
あるいは「よくあるFBIと所轄警察の官僚主義的ナワバリ争いの事か」と。

しかし私の予想に反して、FBIの捜査権限だの警察官が6人だのという設定は、物語上の困難・障害として全く機能しないまま、主人公の機転で捜査はスルスルと進んでいき、何の迷いもなく彼らは一直線に犯人まで辿(たど)り着いてしまった。

じゃあ、何だったのさ?
あの「殺人事件じゃないとFBIは介入しない」だの「地元警察は6人だけ」って設定。

……しかし後になって、この二つのセリフは物語上の機能として発せられたものではなく、この映画のテーマと密接に関係して発せられたものだと気づいた。

最大のヒントは、いきなりのメキシカン・スタンドオフにあった。

クライマックス直前、採掘場の警備員たちが、いきなり警察官たちに銃を突きつけるシーンがある。

正直に申し上げると、この突発的なシーンを観て「うわっ、カッコ良い!」と痺れてしまった。

その一方で「あれ? このシーン、確かにカッコ良いけど、なんかチョット無理くりじゃね?」という疑問も感じていた。

「採掘場の警備員つっても、しょせん、たかが民間人でしょ? 胸にバッヂをつけた警察官に堂々と銃を向けるかな? さすがに変じゃね?」と。

公権力である警察官に銃を突きつけたら、問答無用で射殺されるでしょ、普通。

マフィアとかの反社会的勢力ならともかく、いくら追い詰められていたからってカタギが警察官に銃を向けるなんて、どう考えても自殺行為じゃないですか。

あのシーンで、ヒロインが「私はFBI捜査官だ、私はあなたたち全員に命令できる唯一の人間だ、だから銃を下ろしなさい」としきりに叫んでいた。
このセリフにも、私は首を傾げた。

「いや、FBIだろうと所轄警察だろうと、警察官なら銃を下ろせって命令できるっしょ? 民間人なら命令に従うでしょ?」と。

どうなってんの?

それが引っかかって、私は『インディアン居留地』についてネット検索してみた。

そして、この「民間人が平然と警察官に銃を向ける」というのが、この物語の最重要ポイントである事を知った。

この物語の最重要ポイントはこれだ。

「インディアン居留地とは単なる特別区などではなく、独立した一つの国家であり、先住民はアメリカ市民ではなく、部族国家という独立国の国民である」

これが……この『タテマエ』こそが、そして、その『タテマエ』によって形成された合衆国とアメリカ先住民との歪んだ関係こそが、この映画の本当のテーマだ。

私はこれまで不勉強で、てっきりインディアン居留地というのは単なる特別区だろうくらいにしか思っていなかった。
アフリカ系アメリカ人がそうであるように、アジア系移民がそうであるように、南米系移民がそうであるように、アメリカ先住民もまた合衆国市民なんだろう、と思っていた。
「差別は有るにせよ、合衆国市民である事には間違いないんでしょ」と。

しかし他のマイノリティ系アメリカ人とアメリカ先住民との間には決定的な違いがあった。
前者が立派な合衆国市民であるのに対し、後者は厳密な意味での合衆国市民ではないという点だ。
前者はアメリカ合衆国という国家に帰属し、国家に税金を納め、その見返りに治安維持を始めとする各種行政サービスを受ける権利を有するのに対し、後者は(タテマエ上は)あくまで『インディアン居留地』という独立国の国民であり、合衆国に対する納税の義務を負わない代わりに、本来なら当然受けられるはずの治安維持を始めとする各種行政サービスを受ける権利もない、という事だ。

合衆国から行政サービスを受けられない代わりに、一応の独立国として、彼らは自らの手で居留地の治安を維持する権利を持つ。
しかし、権利と義務は常に表裏一体だ。インディアン居留地において彼らが独自の警察を持つ権利があるということは、逆に言えば彼らは自らコストをかけて警察署を作り、装備を揃え、警察官を教育して居留地内に配置する義務を負うということだ。

そして農業資源の乏しい寒冷地や砂漠地帯に追いやられた彼らに、独立国として自らフルスペックの行政組織を維持する体力は既に無い。

そういう前提でこの映画を見ると、最初から最後まで、登場人物のセリフ一つ一つ、行動一つ一つが全く違った意味を持ってくる。

「殺人事件でないとFBIは手が出せない」
「この広大な土地には警察官が6人しかいない」
というのは、要するに「インディアン居留地独自の警察機構(部族警察)には、十分な法執行能力が無い。しかし、だからと言って合衆国の警察権力は殺人事件でもない限り『独立国である(というタテマエの)』居留地内で起きた事件に介入できない」という意味だ。
単に田舎の警察だから人手が足りないという意味ではない。
インディアン居留地自治政府は、その能力に見合わない過剰な統治義務を背負わされている。
合衆国政府と合衆国民は、それを知っていながら見て見ぬ振りをしている。

要するに、この映画の問題提起とは「 もはや誰が見ても独立国として十分な能力が無いと分かっているのに、(タテマエ上)独立国家なみの権利=義務を背負わされているという悲劇 」だ。

ラストの字幕

ラストの「アメリカの失踪者の統計データには、アメリカ先住民女性に関するデータは無い」という字幕も同じ文脈だ。

合衆国は『外国』であるインディアン居留地に対して……『外国人』である失踪した先住民の少女たちに対して、コストを払って統計データとる義理がない。

一方、居留地の部族政府にはコストをかけて統計をとるだけの体力がない。

なぜ警官に銃を向けたのか

アメリカ合衆国内に『人工的に作られた』『擬似的な』独立国家……それがインディアン居留地の真の姿であると知ると、あのクライマックス直前の不自然なメキシカン・スタンドオフにも納得が行く。

この場面こそが、この映画における『アメリカ先住民に関する問題を告発する』という社会派の側面と、サスペンス・エンターテイメントとしての側面が見事に融合した場面であるとわかる。

採掘場はアメリカ合衆国の企業の持ち物であり、(タテマエ上の)独立国家であるインディアン居留地の中にありながら、そこだけはアメリカ合衆国に帰属する場所だ。
部族警察に対し治外法権が適用される。

つまり、採掘場の土地は合衆国の領土であり、警備員たちは合衆国市民であり、そして彼らにとって部族警察は「従うべき我らがUSAの警察官」ではない。「合衆国の領土に侵入してきた外国人」だ。
だから、平気で部族警察官たちに銃を向ける。
その裏にあるのは「俺たちは合衆国市民だ。ここは合衆国の企業の土地だ。奴らインディアンは正規の合衆国警察官じゃない。奴らが勝手に作った部族警察だ。俺たちは奴らに従わなくても良いんだ」という驕(おご)りだ。

それは例えば、日本で罪を犯した米兵が在日米軍基地に逃げ込んで日本の警察が手出しできなくなるという構造に近い。

だから、ヒロインは盛んに「私はFBI、私に従え」と叫んでいたのだ。

彼女は心情的には少女強姦事件を捜査する部族警察の味方だが、形式的には採掘場の職員たちに命令できる唯一人の「合衆国連邦警察所属の白人警官」だからだ。

なぜ、こんな体制になっているのか。

なぜ、アメリカ合衆国当局と先住民たちの関係は、こんなにも特異なのか。

それは、合衆国という国家を作り上げた初期のヨーロッパ移民たちが、実は『他ならぬアメリカ先住民こそ新大陸の真の主権者である』と 知っていた からだ。

先住民とは、アメリカに入植した白人たちにとって、たまたまそこに住んでいた人たちというだけの存在ではない。
この広大で肥沃な新大陸という土地の本来の所有者であり、交渉し取引をする相手だ。

(先住民の)部族とは、『白人国家アメリカ合衆国』にとって、条約を結ぶべき主権国家であり、のちには戦争を仕掛け領土を奪い取るべき敵対国家だった。

ただ、悲しいかな、かつてのアメリカ先住民はバッファローを追いかけて各地を転々とする狩猟民族であり、ヨーロッパからやってきた農耕民族と違い『土地』という概念、ひいては『国家の領土』という概念に乏しかった。

狡猾な白人に良いように手玉にとられ圧倒的に不利な条約を結ばされ領土を騙し取られていったのだろう。
そして条約を結ばない部族があれば、白人たちは戦争を仕掛けて圧倒的な武力で制圧し、戦いに勝利した後にはペナルティと称して領土を奪っていったのだろう。

現在のインディアン居留地とは、何度も不平等条約を結ばされ、何度も戦争を繰り返し、そして負け、その度に大幅に領土を奪い取られ、ついに完全な独立国でもなく合衆国の一部でもない宙ぶらりんな状態になってしまった、かつての主権国家の成れの果という事だ。

この映画は、主に合衆国の市民たちに対して「いつまで彼らを宙ぶらりんにしておくつもりですか?」と問題提起しているわけだ。

中ぶらりんが駄目なら、どうすれば良いのか。

真ん中が中途半端で駄目なら、思い切って右へ寄せるか、思い切って左に寄せるかしかないのだが……

つまり、完全な独立国家になるか、あるいは完全に合衆国に併合され、合衆国への忠誠および納税の義務と引き換えに合衆国市民としての権利や行政サービスの恩恵を受けるか、という事だが……

アメリカ市民でもアメリカ先住民でもない私に何かを言う権利は無いだろう。

おそらく、アメリカ先住民たちの志向も時代とともに変わっていくのだろうし、また世代ごとにも変わっていくだろう。

いずれ近いうちに先住民たちが自(おのず)と何らかの結論を出す気がする。

それにしても国家とは強欲で狡猾で残酷だ。

かつての白人国家アメリカ合衆国アメリカ原住民にした仕打ちを知るにつけ、人とは何と残酷で、人の集団とは何と残酷で、国家とは何と残酷で、つまりは世界とは何と残酷な場所なのだろうと思ってしまう。

それは200年前の合衆国建国当時でも現在でもあまり変わらない気がしている。

そして、現状、国家の強欲さ狡猾さ残酷さに対抗できる唯一の手段もまた国家である、国家しかない、あるいは連携し同盟を結んだ複数の国家群でしかない、というのも皮肉だが否定できない事実だ。

発端となった事件

人間の残酷さといえば、私がこの映画で一番心に刺さったのは、先住民うんぬんかんぬんという話ではなく、実は少女を強姦した採掘場の職員たちの残酷さだ。

一応この話は実話ベースという事になっているが、こんな事件が本当にあったのだろうか?
いくら酔っ払って帰って来たからといって、会社の社員寮で、同僚の目の前で、彼の恋人を強姦するだろうか?

これは本当にあった話なのかどうか……はともかくとして、今でも世界中のあらゆる場所で強姦事件が絶えないのは間違いない。

他人の尊厳を蹂躙してまで自らの欲望を優先してしまう人間が居る……人間は根源的にそういう業を持って生まれてくる、人間とはそういう欲の深い、業の深い生き物である、という事実と我々はどう向き合えば良いのか……

この映画の主張は案外シンプルだ。
「警察官の数を増やせ」だ。

つまり、しっかりとした警察機構を作り、連邦警察だの部族警察だのという官僚的縄張り主義をやめ、インディアン居留地であろうとなかろうと法と文明の光であまねく照らせ、という主張だ。

なるほど、男たちが少女を強姦したのは単に「酔っ払っていたから」という理由だけではないのかもしれない。
犯人たちは、いま自分のいる場所が現代アメリカでありながら法の及ばない未開の地である……何をやっても見つからない、何をやっても許される場所であるという無意識の計算をしたかもしれない。

これが都会の高級住宅街のど真ん中であれば、彼らもパトロールを恐れて罪を犯さなかったかもしれない。

だとしたら、都会の高級住宅街だろうと人里離れたインディアン居留地の採掘場だろうと同じように警察官がパトロールをすれば、一定の抑止効果は得られるかもしれない。

ここにも「国家の必要性」という問題が立ち上がってくる。

現状、少女の人権と尊厳を守る存在があるとすれば、それは国家という名の強力な法執行機関である、それしかない、という事だ。

インディアン居住地自身が力をつけて名実ともに完全な独立国家になるのが良いのか、それともいっそ完全に合衆国の庇護下に入ってしまうのが良いのかは、部外者である私には分からない。

ただ言えるのは、国家の無いところには法治もなく、国家という名の法執行権力が及ばぬ土地には、人の尊厳に対する残酷で悲惨で容赦のない攻撃が必ず蔓延(はびこ)るだろうという事だ。

最後に補足

私は、これまで「アメリカ先住民」と大雑把なくくりで呼んでいたが、実際には「アメリカ先住民」などという統一された民族は存在しないということを付け加えておく。

200以上もある居留地には、それぞれ別々の部族が住んでいて、それぞれ独立した部族政府を持っている。

当然、それぞれの居留地、それぞれの部族の事情は様々であり、ある程度の規模と財源を持った居留地・部族もあれば、独立政府を運営するだけの体力がほとんど残されていない居留地・部族もあることは容易に推測できる。

400年前に「戦国時代」という名の大部族間抗争を経て、300もの部族政府(藩)を連合させ「徳川幕府」という名の巨大部族連邦政府を樹立し、260年ものあいだ安定的に政体を維持したのちに、アメリカ合衆国海軍ペリー艦隊の襲来を受けた我々とは事情が違う。

映画「ラ・ラ・ランド」を観た。

映画「ラ・ラ・ランド」を観た。

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amazonの紹介ページ

監督 デイミアン・チャゼル
出演 ライアン・ゴズリング 他

ネタバレあり。

この記事にはネタバレが含まれます。

先に結論から申し上げると……

正直言って、感心しなかった。

なるほど確かに、『頭が良くて、手際が良くて、豪華で、洒落ていて、(過去の映画の)教養があって、上品で、気が利いている映画』だった。

そのこと自体は別に悪い事でもないだろう。少なくとも『頭が悪くて、手際が悪くて、貧乏臭くて、野暮で、教養がなくて、下品で、気が利かない』だけの映画、ただそれだけの映画よりは遥かにマシだ。

しかし私個人は、なぜか「感心できねぇな」という感覚が一番強く残った。
感動できるものがこの映画にほとんど無かったからだろうか。
技巧だけが目立って、あざとい感じだけが残ってしまった。

技巧というのは、芸術に『凄み』を出すために使うものであって、『オシャレ感』の演出に使うものじゃないと思います。

余談。それにしても、一気に涼しくなったな。

今、私は田舎に居る。

今年は全国的に記録的な猛暑だったらしい。

東京ほどではないにせよ、私の住んでいる田舎も今年は例年に無く気温・湿度ともに高かった。
お盆の墓参りは(昼過ぎの一番気温の高い時に行ったこともあって)なかなかに辛いものがあった。

しかし昨日から一気に気温が下がった。
明け方には、寒さで目が覚めて毛布を引っ張り出して被(かぶ)るほどだった。

そして、高い空。澄んだ空気。 何もかもがキラキラと輝いている。

こんな日は、オープンカーに乗ってどこまでも走って行きたい。

実際には、自転車に乗って高台の喫茶店まで行って、テラス席で景色を眺めながらコーヒー飲むくらいが関の山なんだけど。
オープンカー持ってないし。

それでも今日は「美しい田舎の一日」を満喫するぞー! ヤッホー!

以上、ネタバレ防止のための、映画とは全く関係ない話でした。

以下、ネタバレします。

良かった点。

ライアン・ゴズリングが笑顔で頷(うなづ)くラスト・ショットが良かった。

あの微かな笑みを浮かべて頷く感じは、さすが当代一流のスターだと思った。なかなか他の役者には真似できない芸だと思う。
『これで、ええんやで』と無言で語りかけるあのニッコリ顔で、この映画全体が辛(かろ)うじて救われたと思う。

余談だが、ゴズリング氏は『ドライブ」といい『ブレード・ランナー』といい、
「悪い奴じゃないし技術もあるんだけど、頑固者でコミュニケーション下手ゆえに社会の底辺で燻(くすぶ)っている男(イケメン)」
みたいな役ばっかりだな。

画面が良く計算されていて、引き締まっていて良かった。

画面内の配置、カメラの動き、角度、それらが良く計算されていて、バランス良く、引き締まって見える。

画面が美しいと、それだけで飽きずに最後まで観られるという事に、映画「立ち去った女」を観たときに気づいた。

「立ち去った女」ほどではないにしても、この「ラ・ラ・ランド」も1ショット、1ショット良く計算されていて、最後まで飽きることがなかった。

悪かった点。

ラスト直前で挿入される『ありえたかもしれない、もう一つの人生』の幻想シーン。

あれは悪手だったと思う。

本当の名監督なら、あんな明からさまなシーンは入れないと思う。
「誰でも身に覚えがあるよね? あの時あいつと結婚していたら俺は別の人生を歩んでいたかもしれない。それはそれで幸せな人生だったのかもしれない……って、誰でも一度は思ったことあるよね? 一度は経験しているよね?」
と、明からさまに感動ポイントを突くようなことされてもなぁ……別に。

本当の名監督なら、同じ「人生の選択についての物語」を描くにしても、あんな明からさまな手法は取らないと思う。

あまりにも明からさまな『もしも別の人生を歩んでいたら……』の幻想シーンであるがゆえに、その次に来るのは『俺たちはそれぞれの人生を選択した。そして今がある』という何らかの着地シーンなんだろうな、と安易に予想できてしまう。
それじゃあ、ラストの笑顔も効果半減だ。

ライアン・ゴズリングの微笑みと頷(うなづ)きのラスト・シーンへ収斂(しゅうれん)させて行くのがこの物語の最終目標である、というのは良い。
しかし、その過程においては『もしも別の人生を歩んでいたら……』という幻想を安易に見せるのではなく、別の手法を使うべきだったと思う。

その『ありえたかもしれない、もう一つの人生』の中に、二人が結婚して子供を産み幸せな家庭を築く様子が記録ムービー風に描かれる。
その家族の記録ムービーは、なぜか8ミリ・フィルムで撮影されている。
……あ、あざとい……
これって、現代の話だよね? エマ・ストーンが乗ってたの、二代目プリウスだよね? だったら家族の記録はデジカメ使って4K動画で撮るよね? 普通。
わざとノスタルジック感出すために8ミリで撮ってるよね? 変だよね?

あざとい技巧ついでに書かせてもらえば、二人が痴話喧嘩する時だけブレブレの手持ちカメラで撮って臨場感出そうとしてるのも、いかがなものかと思ってしまう。
他のシーンはエレガントかつクラシカルに、ゆっくりとカメラを動かしているのに、そこだけドキュメンタリー・タッチだよね? あざといよね?

物語がシンプルすぎる。そして誰にでも身に覚えのある話すぎる。

あまりに捻(ひね)りが無い。

そりゃ、昔の彼女を思い出したり、町でバッタリ出会ったりなんて、誰にでもある話ですよ。
そりゃ、そん時は、何らかの感情が湧き上がってきますよ。

でもフィクションである映画の中で、その感情を原液のまま飲まされたからって、感動できるわけでもないでしょう。

第一、この二人の主人公、どっちもそれぞれ成功してるよね? 最初に設定された夢を二人とも実現してるよね?

女「私、ハリウッド女優になる」→OK!
男「本当のジャズを聞かせる、こだわりのジャズ・バーのオーナーになる」→OK!

どっちも、実現してるじゃん。
そりゃ「俺たち、これで良かったんだよな」っていう結論になるよ。

人生のホロ苦さを表現したかったのかもしれないけど、ホロ苦さってそういう事じゃないと思うんだけどなぁ。

要するに『予定調和』すぎるのかな。
作り手としては、
「これハリウッド映画ですよ? ミュージカルですよ? 客を気持ち良くさせてナンボでしょ? 予定調和で良いじゃん」
って事なのかもしれないけど。

でもそんな事ばかりしてると、サリエリ(=優秀な勉強家)に成ることは出来たとしても、いつまでたってもモーツァルト(=天才的な芸術家)には成れないと思うんだけどなぁ……クリエイターの人たち。

最後に、あえて火中の栗を拾います。

このラ・ラ・ランドについての感想ブログをいくつか読んでみましたが……

「演技はともかくとして……歌と踊りに関しては、ライアン・ゴズリングエマ・ストーンも、どちらもそんなに上手くない」

と指摘している記事が無かったので、私が書いておきます。