ネタバレ! 小説と映画の感想‐青葉台旭

小説と映画のネタバレ感想が書いてあります。メインのブログはこちら http://aobadai-akira.hatenablog.com/

ネタバレ! 「怪獣王ゴジラ」の感想。

アマゾン・ビデオ配信にて視聴。

怪獣王ゴジラ(字幕版)

怪獣王ゴジラ(字幕版)

*ネタバレ!

*日本の初代「ゴジラ」に関するネタバレもあります。

1954年の初代ゴジラを編集して、アメリカで独自に撮影したシーンを付け足してアメリカで公開された「アメリカ版ゴジラ」

ハリウッドは、未だに白人(アメリカ人)が主人公ではない映画をアメリカでメジャー公開しない。

日本が舞台の話でも、何が何でも、主人公だけは白人男性じゃないと駄目っていうのは、何とかならんのか。

で、この「アメリカ版初代ゴジラ」こと「怪獣王ゴジラ」である。

日本の初代ゴジラの出来の良さに目を付けたアメリカの配給会社が、そのフィルムを切り刻み、アメリカで撮影したシーンを付け加えて、アメリカで公開したバージョンである。

なぜ、わざわざそんな事をしたのか。そんなに日本の初代ゴジラが良かったのなら、なぜ、それを直接アメリカのスクリーンで上映しなかったのか?

答えは簡単である。

主人公が白人男性じゃないからである。

それは今でも変わっていない。

なぜ、ハリウッドは世界中の優れた映画を自国の配給網に直接乗せずに、わざわざリメイク(作り直)して配給するのか。

主人公が白人男性じゃないからである。

まあ、それはともかく、この「アメリカ人によるアメリカ人のための再編集版初代ゴジラ」とは、いかなるものか。

あらすじ

アメリカの新聞記者スティーブ・マーティンは、エジプトのカイロに飛行機で向かう途中、大学時代の友人である芹沢博士に会うため、日本に立ち寄る。 空港で突然、警察によって身柄を拘束されたマーティン記者は、海上保安庁に連れていかれ、そこで「東京湾で突然船が沈没した」という謎の事件を知らされる。

以後マーティン記者は、ゴジラの出現と消滅までの一部始終を、アメリカの新聞社に報告することになる。

予想していたよりは、大まかなアウトラインに関してはオリジナルのストーリーに近かった。

メインのストーリーはオリジナルに近く、山根博士、娘の恵美子、恵美子の恋人の尾形、芹沢博士などの設定は変わらず、大まかな流れもオリジナルに準じた形で進む。もちろん、あくまで「大雑把な流れは変わらない」というだけの話で、細かく見ると相当改変されている。

アメリカ人が主人公と言っても、新聞記者として事件の顛末を傍観し、新聞社に報告するだけの役目である。ストーリーに積極的に関わって行くのはオリジナル同様、山根博士を始めとする日本人たちである。

主人公がアメリカの新聞社に送った記事という体裁で、所どころに主人公の説明ナレーションが入る。

予想していたよりは、オリジナルの絵が持つ「力」が残っていた。

改変によってオリジナルの画面が持つ凄みのようなものの大半が失われているのではないかと心配したが、特撮部分には充分に「凄い」と言える力が残っていた。

しかし、やっぱり編集し直されたことによるダメージは大きい。

当りまえだが、オリジナルのフィルムを切り刻んで、アメリカで勝手に撮影したシーンを無理やり貼り付けた事により、ストーリーのアウトラインは同じでも、オリジナルの持つ魅力の相当部分が失われている。

とくに私が重要だと思ったのは(つまり罪が重いと思ったのは)以下の2点である。

  1. 「核の象徴としてのゴジラ」という要素が抜け落ちている。
  2. 一番最後の山根博士の「これが最後のゴジラとは思えない、人類が核実験を続ける限り再びゴジラが現れるだろう」という有名なセリフが「脅威は去った。偉大な男と共に。世界は救われた」になっている。

核の象徴としてのゴジラという大事な要素がスッポリと抜け落ちている。

ストーリーのアウトラインそのままに、見事にゴジラのテーマ性が骨抜きにされている。

一説によると「核の申し子としてのゴジラ」というテーマ性がすっぽり抜け落ちてしまったのは、偶然そうなった訳では無く、アメリカ側の意図的な判断でそうなったらしい。

言われてみれば確かに、オリジナルのプロットの変更を最小限に留めながら「核」というテーマ性だけを抜くというのは、意図せずにそうなったというよりは、むしろ用心深くその部分だけを故意に無力化したと考える方が自然かもしれない。確信犯という事か。

なぜ、そうなったかと言えば、1950年代のアメリカはソ連との熾烈な軍拡競争に邁進していて「反核」というテーマは映画においてタブーだったから、という説がある。

オリジナルには「被災者の少女に医者がガイガーカウンターを突きつける」という大事な描写がある。

ゴジラが東京を破壊した翌日、避難所に逃げて来た被災者の少女に医者がガイガーカウンターを突きつけると、ガイガーカウンターの針が反応し、それを見た医者と助手をしていたヒロインの恵美子が顔を見合わせて「駄目だ……」みたいに沈鬱な顔になる、というシーンがある。

つまり、その被災した少女はゴジラによって放射能を浴びせられ、パッと見ると健康そのものだが、その体は既に放射能に冒されている、という痛ましい描写だ。

アメリカ版では、このシーンを冒頭に持ってきて、しかも主人公の新聞記者のナレーションをそれに重ねている。

ゴジラが放射能をまき散らしているという説明も何もない冒頭の段階で、しかも主人公の「けが人は病院に運び込まれた」という ナレーションが被さって、結果として、「少女にガイガーカウンターを突きつける」という象徴的なシーンが、単に「少女が医者から治療を受けている」というシーンにしか見えなくなってしまっている。

一番最後の山根博士のセリフが、アメリカ人記者の楽観的なナレーションに置き換わっている。

一番最後の山根博士の「これが最後のゴジラとは思えない、人類が核実験を続ける限り再びゴジラが現れるだろう」という有名なセリフが「脅威は去った。偉大な男と共に。世界は救われた」になっている。

最後の最後のセリフで、物語そのものの意味が180度変わってしまっている。

これでは、この物語の思想的な中心となる部分が完全に殺されてしまっている。

このゴジラという物語のキモは「核実験によって生み出されたゴジラという怪物を倒すには、核兵器以上に強力な武器を使うしかない、しかし一度でもその兵器を使ったら最期、それは軍拡競争に利用され、さらなる悲劇を生んでしまう」という事のはずだ。

つまり「目の前の悲劇を食い止めることそれ自体が、さらなる悲劇を生んでしまう。しかし、未来の悲劇を食い止めるために秘密を守れば、今、目の前で苦しんでいる人々を救う事は出来ない」という苦悩こそが、この物語のまさに「核」のはずだ。

だからこそ秘密を知っている恵美子は苦悩し、オキシジェン・デストロイヤーの開発者である芹沢博士は設計図を燃やし、ゴジラを倒すために一度だけ新兵器を使い、その新兵器によって自分自身の命を絶ったのだ。

そして最後に山根博士が「これが最後の一匹とは思えない。人類が実験を続ける限り、再びゴジラは現れるだろう」という言葉が、観る者に重くのしかかって来るのだ。

「もうオキシジェン・デストロイヤーは無い。芹沢博士も居ない。さあ、お前ら、2匹目のゴジラが現れたらどうする? 今すぐ核実験を止められるか?」と、突き付けてくるのだ。

ところがアメリカ版「怪獣王ゴジラ」の最後のセリフ「脅威は去った。偉大な男と共に。世界は救われた」では、物語の意味が完全に反対になってしまう。

「やっぱ、超兵器って素晴らしいよね。強力な敵が現れたら、その敵を倒すためにもっと強力な武器を作れば良いのさ。オキシジェン・デストロイヤー最高! 芹沢さん、あんたの勇敢な自己犠牲で世界は救われたよ! カミカゼ最高!」

みたいな話になってしまっている。

結論。

意外にも、大まかなプロットはオリジナルとそれほど変わっていなかった。

正直、観る前は「ハリウッドの事だから、白人の主人公が日本人のヒロインと恋人同士になって最後にキスをする、ってくらいのデッチアゲをしてるのかな?」といった疑心暗鬼があった。

しかし、おおまかな話の流れはオリジナル通りに進み、白人の主人公はあくまで傍観者に徹するという作りだった。

そして、大まかな話の流れが変わっていないにも関わらず、ゴジラという物語の一番大事な「魂」の部分は完全に殺されていた。

ネタバレ! 初代「ゴジラ」を再視聴して。

数か月前、1954年の初代ゴジラを再視聴した。

*ネタバレ。

最初に初代ゴジラを観たのは1990年代前半、もう二十年以上前の事だったと記憶している。

いわゆる平成ガメラ第1作「ガメラ 大怪獣空中決戦」より前だったのは憶えている。

私が当時の特撮映画の状況をどう思っていたかというと、海の向こうのハリウッドが1977年のスターウォーズ以降、80年代を通して日進月歩を続けていたのに対して、どうしてもオールド・スクール然と見える日本の怪獣映画に歯がゆい思いを感じていたように記憶している。

90年代に入り、ハリウッドの特撮は急速にコンピューター・グラフィックスにシフトし出していて、日本の特撮はますます水をあけられる一方に感じて、日本の特撮映画界、ひいては日本映画界はこれからどうなっちゃうんだろうと、私は、いち映画ファンとして外野席から心配していたように思う。

その後、平成ガメラ第1作を観て、ミニチュアと着ぐるみを使った伝統的な日本の特撮技術でも、カメラの角度やタイミングの取り方次第で、こんなにもわくわくできるのかと思い、また、回転ジェットや火焔などに部分的に使われたCGを観て「ひょっとしたら、コンピューターの発達は、むしろ日本の映画界にとっては福音になるかもしれない」と思った。

それは、それとして、初代ゴジラの話だ。

とにかく、当時(80年代~90年代前半)の日本の特撮が、同時代のハリウッドSF映画に対して水をあけられる一方の状況にもやもやしていた時、初代ゴジラをビデオにて視聴した。

凄い映画だと思った。

フィルム全体にみなぎる緊張感。暗いトーン。シリアスなストーリー。

確かに地上を走る自動車などはミニチュア然としてたが、それ以外の部分では、ゴジラの放射能火焔を浴びて燃えさかる東京の町や暗闇の中をゆっくりと歩くゴジラの姿に、着ぐるみであることやミニチュア特撮であることを忘れさせて観る者をぐいぐい引き込んでいく凄みがあり、また、ストーリー的にも、オキシジェン・デストロイヤーと芹沢博士、そしてヒロイン山根恵美子を巡るストーリーに心を奪われた。

私が初代ゴジラを観たのは1990年代前半だ。CGで自由自在に動くターミネーター T-1000 が既にスクリーンで暴れ回っていた時代だ。CGのターミネーターから見れば、昭和29年の特撮技術はオールド・スクールも良い所だ。それなのに、この凄みは何だ?

映画の質は、かならずしも技術の進歩だけで決まるものではないな、と、そのとき初めて思い知らされた。

その数年後、有楽町マリオンで再上映された「七人の侍」を観て、「最新こそが最良である」という、どこかのスポーツカーのキャッチフレーズは、映画に関しては当てはまらないな、と確信した。

ちなみに、ゴジラと七人の侍は同じ昭和29年、東京物語と雨月物語は昭和28年公開だ。

初代ゴジラの凄みの理由は、何だ?

良く言われるのは、初代ゴジラが封切られた昭和29年は、終戦からまだ9年、広島と長崎に原爆が投下されてまだ9年しか経過してなくて、作り手にも観客にも戦争の生々しい記憶が残っている時代に、戦争の象徴、核兵器の象徴たるゴジラが日本を襲うという話が、リアルで切実な記憶を日本人の中に蘇らせたという説だ。

当時、この解釈に対して、私は「たぶん、その解釈は正しいのだろうな」と思っていた。

理性的な理解として。

当然だ。私にとって第二次世界大戦とは、歴史の教科書で習う知識でしかない。

そして、最近、20年ぶりに初代ゴジラを観た。

ゴジラの有名な1シーンに、ゴジラが東京を破壊した翌日、避難所で医者が被災した少女(小学校低学年くらい)にガイガーカウンターを突きつけるという場面がある。

ガイガーカウンターの針が反応し、医者とヒロインの恵美子が顔を見合わせて「駄目だ……」みたいな表情を浮かべる。

つまり、この少女は、見た目は健康そのものだが既にゴジラによって放射能を浴びせられ、今は健康に見えても将来は絶望的だ、という描写だ。

20年前、初めて見た時にも、その意味は良く分かった。また、このシーンが原爆投下からまだ9年しか経っていない時代においては日本人の心には深く刺さる描写だったろうな、というのも予想できた。

理性的な理解として。

そして先日20年ぶりに初代ゴジラを再視聴してこのシーンを観たとき、こんなにも自分の胸に刺さるとは思っていなかった。

つまり20年前の私と、2016年の私では、ゴジラに対する切実さが変わってしまったということだ。

終戦後まだ9年しか経っていなかった昭和29年の日本人と同じように、現代の2016年に生きる私にとっても、日本人が同じ日本人の少女にガイガーカウンターを突き付けるというシーンが、深く心に刺さるものになってしまった。

ネタバレ! 映画「モンスターズ/地球外生命体」感想

dtv で映画「モンスターズ/地球外生命体」を見た。

モンスターズ / 地球外生命体 [Blu-ray]

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*ネタバレ

2014年のハリウッド版「ゴジラ」を監督したギャレス・エドワーズの長編劇映画初監督作品であり、この映画で認められて、ゴジラの監督に大抜擢された。

「モンスターズ」そのものは、正統派の怪獣映画というより、「怪獣映画的な要素を持ったロードムービー」であり、「ひょんな事から若い男女が出会い、成り行きで一緒に故郷を目指して旅をする」という王道ロードムービーがメインの 低予算インディーズ系映画である。

あらすじ

地球外生命体のサンプルを採取したNASAの惑星探査機が故障してメキシコに落下し、その結果、アメリカと国境を接するメキシコ北部で地球外生命体が繁殖してしまい、メキシコ国土の北半分は「汚染地帯」として外界から隔離されてしまう。

アメリカは汚染されたメキシコとの国境に巨大な「壁」を築き自国を地球外生命体から守る一方、メキシコの国民たちは地球外生命体と、それを殲滅しようとするアメリカ軍との戦いに巻き込まれ不安な日々を送っていた。

(ちなみに、日本語字幕では「危険地帯」と書いてあったが、元の英文は「quarantined as an infected zone」である。単なる「危険地帯」ではなく「伝染病に汚された地帯」という意味である)

メキシコで取材をしていた新聞社のカメラマン、コールダーは、新聞社の社長から「メキシコで地球外生命体と米軍との戦いに巻き込まれた娘を無事アメリカまで送り届けろ」という命令を受ける。

本当はメキシコで取材を続けたかったコールダーだったが、社長の命令には逆らえず、しぶしぶ社長令嬢のサマンサと一緒にアメリカに帰国するための旅に出るのだった。

ロードムービーと怪獣映画の融合は可能か?

結論から言えば、可能だった。

この映画で、それが証明された。

メインのプロットは、あくまで

  • 我がままでナイーブで世間知らずのくせに何不自由ないアメリカでの生活に嫌気が差してわざわざ発展途上国で暮らすお金持ちのお嬢さま
  • 自己実現を求め、スクープをものにしようと紛争地帯に来たのに、新聞社社長の命令には逆らえず、わがまま社長令嬢を送り届けるため嫌々アメリカに帰国するカメラマン

この男女二人の道中ものだ。

地球外生命体の描写は、その珍道中の背景として描かれているだけだ。

だから、メインディッシュとしての「怪獣」を求めてこの映画を観ると、肩透かしを食らう。

しかしメイン・ストーリーである「男女2人の道中もの」に、サラリと軽く「怪獣映画」要素をからませてしまうあたりに、むしろ、監督ギャレス・エドワーズが「怪獣」というものを自家薬籠中の物にしているなぁと感じてギャレス・エドワーズは分かっているなぁ、と思ってしまった。

この低予算インディーズ映画を観て、ギャレス・エドワーズを大作「ゴジラ」に抜擢したあたり、ハリウッド・ゴジラのプロデューサーも見る目があると思ってしまった。

まず、ロードムービーとして良く出来ている。

「我がままで世間知らずのくせに、お金持ちの暮らしに飽きてわざわざ発展途上国で暮らすモラトリアムお嬢さま」と 「本当は自己実現したいのに、生活のため上司の命令には逆らえないカメラマン」の二人の珍道中という、まあ、有りがちと言えば有りがちなストーリーなのだが、その有りがちなストーリーを丹念に良く描いていて、気持ちが良い。

例えばメキシコを旅する道中で、怪獣によって破壊された風景を次々と写真に収めるカメラマンに、新聞社の社長令嬢が「他人の不幸で金を稼いでいる」と言い、カメラマンは「そんなこと言ったら、医者だって同じだろ」と言い返す。

自分が親の金でのうのうとモラトリアムを続けていられるのは、親の会社で働く記者やカメラマンたちのお陰だとか、カメラマンにだって自分の生活があるんだという事に思慮が及ばず、無神経に正論だけを吐くところにお嬢さまの世間知らずっぷりが良く出ている。

彼女は、メキシコで不幸な人々と共に暮らしているつもりになっているが、その左手薬指には大粒のダイヤモンドが輝いている。

つまり彼女には大金持ちの婚約者が居て、きれい事を並べてみたところで、しょせんメキシコでの暮らしは金持ちのお遊びでしかなく、時期が来ればアメリカに帰って上流階級の男との結婚が約束されている、その事を他でもない彼女自身が実は一番良く分かっている。

一方、カメラマンのほうも、他人の不幸を飯のタネにしていることに、実は後ろめたさを感じている。

「紛争地帯の悲惨な人々を撮った写真は高値で売れるが、笑顔の写真を撮っても何の価値も無い」と言うとき、暗に(俺だって、それが正しいとは思っていないが、食うためには仕方がない)という感じをにじませている。

こういう描写が声高に主張されるでもなく、控えめに演出されていて「端正な映画だなぁ」という心地よさがあった。

また、その有りがちなストーリーに「地球外生命体」というファンタジー要素を絡ませるという発想が斬新で、何とも言えない不思議な雰囲気を醸し出していた。

非対称戦争の象徴としての怪獣

(戦闘機対戦闘機の戦いとか、戦艦対戦艦の戦いとか、国家と国家が持てる力を正面からぶつけ合う戦争を総力戦と言い、それに対し、貧しい武装集団が、最先端の強力な兵器を持つ大国に対しゲリラ戦を挑むことを非対称戦争という)

怪獣映画における怪獣は、その時代時代で色々なものの象徴としての役割を担ってきた。

たとえば「ゴジラ対ヘドラ」においては、ヘドラは自然環境破壊の象徴だし、ゴジラは環境破壊に対する大自然の怒りを象徴している。

言うまでもなく、1954年の初代ゴジラは戦争の象徴であり、核兵器の象徴である。

もちろん、巨大な自然災害の象徴としての役割もあるだろう。

では、この「モンスターズ」における怪獣は何を象徴しているかというと、非対称戦、つまり紛争地帯におけるゲリラ戦、あるいは突発的なテロを象徴している。

これは、今までの怪獣映画には無かった新しい切り口だ。

つまり監督のギャレス・エドワーズは、怪獣映画における「怪獣」が単なる「モンスター」ではなく、実は戦争の象徴であるという事をじゅうぶんに分かった上で、さらにそれを自分なりに咀嚼して「ゲリラ戦における局地的・突発的な暴力」の象徴という解釈を持ち込んだ。

これは、多くの怪獣映画を作って来た「本家」日本映画にも未だ無かった切り口ではないだろうか。

今までの(日本の)怪獣映画において「怪獣と軍隊との戦い」が描かれるとき、多くの場合それは「国家総力戦」だった。

怪獣による国土侵攻というのは常に国を挙げて対処すべき「国難」だった。

ところが「モンスターズ」における「怪獣の出現」は「いつ、どこで発生するか分からない」それでいて「現地の人々にとっては日常化してしまった」暴力として描かれている。

メキシコに駐留するアメリカ軍は、最新鋭の戦闘機による空爆や地上部隊によるパトロールで怪獣に対応しようとするが、現れた怪獣一匹だけを退治することは出来ても、局面全体を打開する事が全くできない。もぐら叩きのように「突然怪獣が現れる→犠牲を払ってその一匹だけを叩く」「別の場所に突然怪獣が現れる→また犠牲を払ってその一匹だけを叩く」ことを繰り返すばかりである。

その「怪獣対アメリカ軍」の局地戦にメキシコの市民たちは巻き込まれ、犠牲になって行く。そして「アメリカ軍こそが怪獣だ」「アメリカ軍は出て行け」というスローガンが掲げられる。

その一方で、日常化してしまった暴力の中でメキシコ人たちは半ば諦めムードで日々暮らしていく。

この映画において、アメリカ軍の最新鋭戦闘機の編隊が上空を通過するという描写が「不穏の予感」の象徴になっている。

一般的な怪獣映画において「戦闘機が怪獣を迎撃する」というシーンは、(結果として通常兵器は役に立たず、戦闘機が怪獣によって撃ち落されるとしても)脅威に対する国家の、あるいは人類の反撃の象徴として描かれる。多くの場合、高揚感を感じられるように描写される。

しかし「モンスターズ」において戦闘機が出撃するという事、爆音を響かせて自分たちの上空を通り過ぎるという事は、第一に「どこかにまた怪獣(ゲリラ、あるいはテロリストの象徴)が現れた」という予感であり、第二に「アメリカ軍がその怪獣の上に爆弾を落とす」予感であり、第三に「関係の無い市民がそれに巻き込まれて死ぬ」という予感である。

また、怪獣が圧倒的な自然災害の象徴であるという事も、ギャレス・エドワーズは理解している。

ハリウッド版「ゴジラ」で、ゴジラの最初の上陸シーンを観たとき「ああ、これは『自然災害としての怪獣』を描こうとしているな」と思った。

この「モンスターズ」にも「巨大な自然災害としての怪獣」という描写がある。

主人公がボートに乗って川を下る途中で、怪獣によって陸に打ち上げられた大きな船が出てくる。

その船は単に陸にあるというだけでなく、通常では考えられないような高い場所に放置され、朽ち果てている。

圧倒的な自然の力によって「ありえない高さの場所に引っかかってしまった船」の映像を、われわれ日本人は何度も目にした。

われわれ日本人が見た映像は、当時、YOUTUBE などを通じて全世界の人が目にしたはずだ。

壁のこちらがわには紛争地帯。向こう側は先進国。

映画の最後近く、主人公たちはジャングルに眠るマヤ文明のピラミッドに登る。

その頂上からは、メキシコとアメリカの国境に作られた巨大な壁が延々と続いている様が見えた。

主人公たちは言う。

「あの壁の向こうでは、平和で平凡な日々が僕らを待っている」

「同じ祖国も、壁のこちら側とあちら側ではと全く別のものに見える」

壁まで歩いて行くと国境の検問所は無人で、地球外生物は既に国境を超えてアメリカ側に侵入し、人々は避難した後だった。

ちょっと失礼な(傲慢な)言い方だが、最近、「外国人も『怪獣映画の何たるか』を理解し初めている」という感覚がある。

日本人の私は、かつて「いくらハリウッドが大金を使って怪獣映画を作ったとしても、しょせん、それは『アメリカナイズされたモンスター・ムービー』で『怪獣映画』ではないよ」と思っていた。

しょせん、アメリカ人には怪獣映画の何たるかは理解できないよ、と。

「カリフォルニア・ロール」を寿司って言われても、ねぇ、という。

しかし、この「モンスターズ」を監督し、直後にアメリカ版の「ゴジラ」を監督したギャレス・エドワーズといい、「パシフィック・リム」を監督したギレルモ・デル・トロといい、「クローバーフィールド」のマット・リーヴスといい、ハリウッドにも怪獣映画の何たるかを「分かっている」映画人が出現し始めているな、という感覚がある。

どうせお前らカリフォルニア巻きが好きなんだろ、と思っていたら、気がついたらアメリカ人の中にも正統派すし職人が現れていた、といった感じか。

まあ、ギャレス・エドワーズはイギリス人で、ギレルモ・デル・トロはメキシコ人だが。

逆に「発展途上国の紛争地帯における突発的なゲリラ攻撃やテロリズムとしての怪獣」という解釈は、日本人には無かった発想だなと感心した。

最後にもう一度書くが、これは「怪獣映画」ではなく、「怪獣映画的要素を取り入れたロードムービー」である。

メインのストーリーは、あくまで若い男女二人の道中ものである。

良い映画だが、怪獣映画を期待して観ると肩透かしを食らう。あくまで良く出来たロードムービーが観たくなった時に観てほしい。

映画「マネー・ショート」google play で観た。

*ネタバレです。

いわゆる「痛快逆転劇エンターテイメント」ではない。

はじめに注意していただきたいのは、この映画は「固定観念にとらわれて真実が見えていない多くの常識人に対し、はぐれ者たちが逆転の発想で一泡ふかせる」といった痛快逆転劇ではないという事だ。

そういうエンターテイメントをこの映画は指向していない。

じゃあ、いわゆる芸術映画なのかというと、それも違う。

芸術映画を好んでみるような「知識人」「ハイブロウ」のみを対象にはしていない。むしろ、サブプライムの対象であり、この問題の一番の被害者である(と、おそらく製作者側が思っている)低学歴低所得の人々に見てもらいたい、かれらを啓蒙したい、という意図が所どころにある。

しかし「金融問題」という難しいテーマと「低学歴低所得の人々を啓蒙したい」という意図が、必ずしもうまくパッケージされていないと思った。

これは「空売り」ではなく、保険金を使った儲け話ではないだろうか。

原作本の邦題は「世紀の空売り」だ。

原作は読んでいないが、映画を観る限り、これは厳密な意味での「空売り」ではないのでは、という感想を持った。

原作の原題も、映画の原題も「The Big Short: Inside the Doomsday Machine」で、short には「空売り」という意味があるらしいから、間違ってはいないのだろうが、日本語の意味としての空売りは「いまは手元に無い商品を『今は現物を渡せないけど、必ず後で渡すから』と言って売る」という信用取引の事だろう。その「後で渡す」という、現金の取引と商品の受け渡しの間の時間差を利用して利益を稼ぐという事のはずだ。

ところが、主人公たちが金儲けに使った商品は「Credit Default Swap」という一種の保険だ。映画の中のセリフを私なりに変えて言えば「将来、火事が起こると予想した家に、家の持ち主でもない赤の他人が保険を掛ける」という手法だ。その家が本当に火事になれば保険金で大儲けできるが、火事にならない限り掛け金を払い続けなければいけない、というのがこの映画のメインのサスペンスという事だ。

ストーリーを理解するうえで最低限、感覚をつかんで置くべき4つの専門用語。

金融業界の専門的な用語が出てくるのでネットで調べた。

その結果、ストーリー上、ある程度感覚をつかんでおかなくてはいけない用語は4つあると思った。

以下に、その4つのキーワードを私が素人なりにつかんだ感覚を書く。

間違っている可能性もあるので、映画を観る前に、この4つの言葉を調べて置くことをお勧めする。

MBS
「Mortgage Backed Securities」日本語訳は不動産担保証券。mortgage=担保。backed=裏付けされた。securities=有価証券。つまり、不動産ローンの担保を証券にして、他人に売るということ。
CDS
「Credit Default Swap」credit=信用。default=不履行。swap=交換。私なりに訳せば「元本割れ補てん」という事か。誰かの持っている金融商品が元本割れしたとき、その元本と時価との差額を現金で補てんする一種の保険。対象の金融商品が実際に元本割れするまでは、毎月保険料を払い続けなければいけない。一般的な保険と違い、自分の持っていない金融商品に対するCDSを買うことが出来る。例えて言えば「赤の他人の家に火災保険を掛けられる」。映画の主人公たちは、これに賭けた。
CDO
「Collateralized Debt Obligation」日本語訳は債務担保証券。collateralized=担保された。debt=債務。obligation=債券。自分の持っている債権を裏付けにして発行する債券。つまり他人に貸した金を返してもらう権利を証券にして、他人に売るということ。
サブプライム・ローン
「Subprime Lending」subprime=優良客の下の層。lending=融資。prime=優良に接頭語のsubが付いて「優良の下」すなわち「優良では無い」「低所得者層」となり、返済能力の低い(貸し倒れの可能性が高い)低所得者たちを対象に組まれたローン。

投資会社が別の投資会社のCDOを買う→その投資会社のCDOをさらに別の投資会社が買う、の連鎖

  1. ローン会社Aは、回収の確率の高い優良客のローンと、回収の確率が低い低所得者へのローンをごちゃまぜにパッケージして、MBSを作り、投資会社Bに売る。

  2. 投資会社Bは、ローン会社Aの作った怪しげなMBSも含めて、自分の持っている多数の債権をごちゃまぜにしてCDOを作り、それをさらに別の投資会社Cに売る。

  3. 投資会社Cは、投資会社のCDOも含めて、自分の持っている多数の債券をごちゃまぜにして、投資会社Dに売る。

  4. 以下、繰り返し。

この結果、リスクの低い債券とリスクの高い債券の混ぜ合わせが無限に繰り返され、もはや誰がどの程度のリスクを負っているのかが見えにくくなる(客を煙に巻くために、わざとごちゃまぜにして見えにくくする)

話は、メタ構造になっていた。「第四の壁」を超えて、登場人物が観客に話しかけてくる。

これは、金融に対する専門知識が無い人にストーリーを分かってもらうための苦肉の策のように思えた。

メイン・ストーリーとは関係の無い解説シーンが3回ある。

アメリカでは良く知られているらしい有名人に、メインストーリーとは関係なく金融用語の解説を差せているシーンが3回ある。

マーゴット・ロビー
セクシー女優っぽい女性が、泡風呂で「サブプライム・ローン」の解説をしている。このマーゴット・ロビーという人は「ウルフ・オブ・ウォールストリート」にも出演しているらしい。この辺も、メタ的なジョークになっているのだろう。
アンソニー・ボーディン
高級レストランのシェフがCDOを「質の悪い売れ残りの魚をこっそり混ぜ込んで新たに煮込んだシチュー」に例える。アンソニー・ボーディンは料理人兼作家兼テレビ番組の司会者らしい。
リチャード・セイラーとセレーナ・ゴメス
「合成CDO」を「『カジノでどちらのプレイヤーが勝つか』を取り巻き客同士が賭け、その取り巻き客のどちらが勝つかを別の取り巻き客同士が賭け……という連鎖」で例える。リチャード・セイラーは行動経済学者、セレーナ・ゴメスは可愛い系アイドル女優。

これらの解説シーンが唐突に始まる。これも、難しい金融問題を何とかして観客に分かってもらうために苦肉の策だろう。セクシー女優やアイドル女優を起用する所には、おそらく「サブプライム問題の真の被害者」という風に製作者側が感じている「アメリカの低所得階級」に対する啓蒙という意図がある気がする。

どんな権利でも、証券化すれば売り買いできる。売り買いできれば、資本家に売れる。

この映画の一番のキモである「CDS」と言うのは、要するに保険である。

「保険は自分の所有物に掛けるもので、他人の所有物には掛けられない」というのが一般的な感覚だと思う。

しかし、CDSは『金融商品』なので、売り買いできなければいけない。売り買いするためには、所有者の変更が出来なければいけない。つまり「火災保険」そのものを売り買いするために「火災保険の受取人と、保険の対象となる家の所有者」が別々であっても良い事にしなければいけない。

結果、「家の所有者でもない赤の他人が勝手に火災保険をかけられる」という事になる。

証券というのは、要するに「売り買いできる証明書」の事だろう。

普通、誰かから金を借りる時には「私は○○さんから100円を借りました。一年後に○○さんに返します」という証明書を書く。

しかし、「一年後に○○さんに返します」のところを「一年後に、この証明書を持っている人に返します」という風にすれば「証明書の所有者=金を返してもらう権利のある人」という事になって、○○さんは、その証明書を売り買いできる。

大量の金を使って、それらを売り買いして利益を稼ぐ仕事が金融であり資本家という事か。

ブラッド・ピットの「モサいオッサン」演技が良い。

ブラッド・ピットと言えば当代一流のスターな訳だが、それが、本当にモサッとした不愛想な変人に見える。白髪まじりのボーボーの顎鬚も汚らしくてグッドだ。

クリスチャン・ベールの変人投資家演技も良い。

片目が義眼で、どもり癖があり、オシャレなオフィスにTシャツと短パンで出勤してハード・ロックをガンガンにかける「天才だけど変人」投資家の感じが良く出ている。あごの周りの肉が垂れている感じもダサダサで良い感じだ。

冒頭から、いきなり顔が気持ち悪い。バットマンなのに、ヒーローなのに、顔が気持ち悪い。相手の話を全然聞かないで我が道を行く変人っぷりが良く出ている。新入社員の採用面接で足の裏を搔く所とか。

結局、土地バブル崩壊の映画だった。

バブル時代を微かに知っている世代にとっては、日本では三十年近くも色んな所で語られ続けてきた土地バブルの話で、正直、新鮮味が無かった。

ちなみに、映画の中で「転売目的で土地を五つも六つも買ったストリッパー」が出てくるが、ああいう話は、私もバルブ全盛時代の日本で何度か耳にした。

「土地やマンションは永遠に値上がりする。地価が下がることは絶対にない」とか何とか、誰かに吹き込まれてマンションを買い、マンションが値上がりしたら売って、それを資金にさらに高いマンションを買う、なんてことを投資家でも金融関係者でも何でもない一般のサラリーマンが繰り返していた。

要するに、素人がバブルに踊らされていた。

ウォール街のエリートから、地方の不動産やまで、とにかく金融関係者は徹底的に「不誠実で薄っぺらい俗物ども」として描かれてた。

そういう不誠実な俗物どもが一番悪いのは事実だが、では「住みもしない家を五つも六つも買ったストリッパー」のリテラシーというか、「悪党どもの餌食にならないための防衛能力」は、どうやって向上させればいいのか。

残念ながら、世の中から不誠実が無くなることも、薄っぺらい俗物が居なくなることもないだろう。再び状況が巡って来れば、奴らは必ず再び動き出す。

その時に備えて、再び騙されないようにストリッパーは何をすれば良いのか? 「全てのストリッパーは悪徳業者に騙されないように、大学の経済学の社会人講座で単位を取得する事」という法律でも作るか?

「全ての人が高い知性を持つ社会、全ての人がそうなるべく努力する社会」が良い社会なのか。

「全ての人が知性が低くても楽に生きられる社会」が良い社会なのか。

エンターテイメントとしての造りの良さよりも、悪をあばくという社会正義を優先させた映画。

制作会社の「プランB」というのは、ブラッド・ピット自身がオーナーの映画会社で、ちょっと変わった映画を連発している。

今回は、エンターテイメントとしての体裁をある程度犠牲にしてでも、金融世界の巨悪を許さないという姿勢が目立つ映画だった。それだけ、思いが強かったのだろうか。

製作者は、素人でも分かりやすく物語の前提となる設定を説明しようと、手を変え品を変え、大変に苦労したと思う。

しかし、残念ながら、それが完全に成功しているとは言えなかった。

映画こそ、資本主義の権化とも言うべき生産物ではないか。

ハリウッド映画では、時々「アメリカ資本主義批判」映画が作られる。

しかし、私は思う。「何百億円もかけて制作し、当たれば大儲け、外せば大損のハリウッド大作映画」こそが、この世で一番資本主義的なプロダクトではないか、と。

私は、世界で最も映画製作の盛んな国が、同時に世界で最も資本主義的な国=アメリカであるのは偶然ではないとおもう。

資本主義批判な映画が作られる度に「でも監督さん、その映画を作るために莫大な金を資本家に出してもらったんでしょ?」と、ちょっと意地悪な気持ちになることがある。

まあ「悪の力で、正義を成す」的な、ダークヒーローな正義の存在は否定しきれないし、「『資本主義の全否定』ではなくて、『行き過ぎた』資本主義を修正してバランスを取り戻しましょう」という事なのかも知れないが。

「悪の力と正義の心」の葛藤と言えば、「『バブルがはじける=低学歴低所得者層も含めて、多くの人が不幸になる』ことを利用して主人公たちが大儲けする」というこの物語自身が、終わってみればそういう話だった。

字幕の外国語映画で、BGMに母国語の歌が流れると、脳の言語機能が混乱する。

最後に、映画の本筋とは関係ないが、BGMについて気になったことがある。

私はこの映画を字幕版で観た。

映画のワンシーンで、主人公たちが日本料理屋で会話をするところがある。もちろん彼らは英語を話し、視聴者である私はそれを字幕で追っていた。

そこで、いきなりBGMに日本の歌が流れ出した。設定としては、アメリカの日本料理屋で日本のポップスが流れるという事で、それ自体は、何の不自然さも無いのだが。

私の脳の言語能力が、混乱してしまった。

  • アメリカ人の俳優がしゃべる英語の声
  • それを翻訳した字幕
  • BGMとして流れる日本語の歌の歌詞

この三つを私は無意識に同時処理しようとして、相当の負荷を脳の言語中枢にかけてしまった。

日本のアニメでも、時々、日本語のセリフにかぶるようにして英語や他の外国語(例えばドイツ語)が流れることがある。

日本人の視聴者なら、それで良い。外国語の歌は言語的な意味の無い「音」として処理されるから。

しかし、そのアニメを字幕で見ているアメリカ人やドイツ人は、どうだろうか?

きっと混乱してアニメに集中できないに違いない。

日本の少子高齢化が進む中、ほかの多くの内需産業と同様に、アニメ業界も海外に活路を見出さざるを得ない、そうしなければ、業界に居る人の経済的基盤を支えられなくなる日がいずれ来ると思う。

その時に備えて、BGMに英語をつかうのは控えた方が良いと思う。

映画「ホーンズ 容疑者と告白の角」を観た。

  

ホーンズ 容疑者と告白の角(字幕)

ホーンズ 容疑者と告白の角(字幕)

 

 *以下、ネタバレ注意!

(ネタバレ無し感想へ行くには、ここをクリック)

性器を隠すためと思われる「ぼかし」が数か所ある。それからインターネットの情報によると日本版で削除された部分があるらしい。

まあ、配給会社にも大人の事情というものがあるのだろうが、特に親父の頭を吹き飛ばすシーンを削除するのは、いかがなものか。

正直言って最初観た時、そのシーンが「あまりにアッサリしている」事に違和感を覚えた。

あとになって、残酷描写が削除されていると分かって「そうだったのか」と思った。

映画としての完成度を考えた場合、その描写はあったほうが良かったと思う。

まあ、大人の事情があったというのも分かるが。

最後のシーンは切なかった。

最後の対決の直前、主人公は恋人の父親に会いに行く。

死んだ恋人が残した十字架の首飾りを、彼女の父親に返すために。

父親は「君が持っていなさい」という。

主人公が十字架を自分の首に付けると、悪魔になりかけていた彼の姿が、人間だった頃の姿に戻る。

「つの」も消える。

そして恋人が何故、自分に対して「別れよう」と言ったのか、その真相も明らかになる。

実は恋人は不治の病に冒されていて、いずれ死ぬ運命にあったのだ。

そして主人公に迷惑をかけないために、自ら別れを告げたのだった。

物語の始めに「信仰心の厚かった彼女が、なぜ殺されなければいけないのだ」みたいなセリフがある。

つまり「復讐の鬼」と化した主人公に「人間の心」を取り戻させたのは、厚い信仰心と純粋な心を持った恋人の形見だったという表現だ。

主人公は最後に真犯人と対決するのだが、その時、恋人の形見の十字架を自ら外すことで、封印されていた「悪魔の力」を開放する。

首飾りを外すとき、主人公は天国にいる恋人に対して「ごめん」と呟く。

つまり、いっとき「人間の心」を取り戻した主人公が、再び自ら「悪魔の力」に手を出してしまう瞬間なのだ。

その「きっかけ」が、日本での公開で削除された「恋人の父親の頭を、犯人が銃で吹き飛ばす」シーンだ

「やむにやまれず悪魔の力に再び手を出す」という主人公の切実さを表現するためには、このシーンは、あった方が良かったと思う。

とにかく、主人公は「最終形態」へとパワーアップする。

すると、まず最初に背中から「天使の翼」が現れ、空中に浮かび上がるのだが、すぐに地獄の炎で翼は焼け落ちてしまう。

物語の最初のほうの「悪魔だって元々は天使だったんだ」というセリフと呼応している。

つまり、アメコミのダークヒーローや、日本で言えば「デビルマン」などのような「悪の力と正義の心」の象徴である。

見ていた私は、てっきり「ラストで『変身!』したな。こりゃあシリーズ物のヒーローが誕生したかな」などと邪推していたが、あっさり主人公は死んでしまった。

最後に「復讐は終わった、君(死んでしまった恋人)のもとへ行くよ」と言い残して。

ラストはオープニングシーンと同じ「主人公と恋人が、うららかな春の日差しの中で、じゃれあっている」シーンで終わる。

つまり、恋人は殺され、主人公は復讐を果たして力尽きて死んだが、二人は天国で永遠に幸せになった……という切ない終わり方だった。

*以下、宣伝。

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青葉台旭・作
ハーレム禁止の最強剣士!

自作の小説です。よかったら読んでみてください。