読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ネタバレ! 小説と映画の感想‐青葉台旭

小説と映画のネタバレ感想が書いてあります。メインのブログはこちら http://aobadai-akira.hatenablog.com/

映画「この世界の片隅に」の夫・周作の重要性は、もう少し注目されても良いと思う。

*ネタバレ有り

konosekai.jp

もちろん、この物語は、すずという一人の女性の生き様を描いた物語である。

そして、そのすずを演じた女優「のん」の演技は突出している。

しかし、脇を固めるキャラクターたちとそれを演じた俳優・女優陣にも、もう少し注目が集まっても良いような気がする。

特に、夫・周作の立ち位置と、それを演じた細谷佳正のナチュラルな演技は、やはり重要だろう。

主人公すずにとって、結婚は18歳で突然に降って湧いた人生の転機な訳だが、夫・周作目線で言うと、彼にとってすずは少年時代に出会って一目ぼれをして以来成人するまでずっと思い続けていた少女だ。

彼は「すずは本当は幼なじみの水原が好きなのではないか」とか「すずは自分と結婚して本当に幸せだったのだろうか」という悩みを持っているが、彼自身のすずに対する愛情は子供のとき人さらいのカゴの中で出会って以降少しも変わらない。

そういう周作というキャラクターを細谷佳正は独特の枯れた声で淡々と演じる。彼の「枯れた声と淡々とした演技」が、ちょうど嵐の海に停泊した戦艦の碇のように、物語にしっとりとした落ち着きを与えている。

だからこそ、物語のラストですずが周作に言った言葉、この映画のタイトルでもある「ありがとう、この世界の片隅にうちをみつけてくれて」というセリフにも説得力が出るというものだ。

映画「この世界の片隅に」の「のん」について。

*ネタバレ有り。

konosekai.jp

主演の「のん」について。

色々と「この世界の片隅に」の感想を書いたブログなどを少しずつ読んでいるが、皆さん口をそろえて言っているのは主演の「のん」の演技が素晴らしいという事だ。

私も同感だ。

もはや主人公すずの声は、のん以外には有り得ないというくらいの当たり役だった。

ただ、ここでひとこと言いたいのは、主人公すずが天然少女キャラだから(実際に天然少女である)のんちゃんは素のまんまで良かったんだろう……というほど単純な話でもないという事だ。

たしかに前半部の、あのホンワカしたすずさんの感じは演技(技術)が上手ければ出せるという物ではない。

のんという女優が生まれつき持っている声の質感とか、元々の発音の優しい感じが有ればこそであろう。

しかし、この映画における彼女の素晴らしさは「天性の素質として、すずという役にピッタリだった」というだけではない。

聞くところによると、のんをはじめとする出演者たちの広島弁は、ネイティブの広島出身者が聞いても自然で違和感が無いという。

そして物語後半、空襲が激しくなるにつれて、幼なじみから「普通でいてくれ」と言われたにも関わらず徐々に自分を見失っていくすずの演技の緻密さ、そしてクライマックスに終戦の玉音放送を聞いた直後の慟哭の凄さ。

これらは単に「天然少女が天然少女の役をした」で片付けて良いものではない。

確かな技術としての演技力と、周到に用意された演技プラン、自然な発音と感情表現を両立させた方言訓練の結果だ。

わたしはドラマ「あまちゃん」を観たことが無いし、のんという女優の演技を観た(聴いた)のはこれが初めてだが、この映画「この世界の片隅に」における彼女の演技は、もはやこれ無くしては映画が成立しないほど重要な要素であると断言できる。

それは、のんという女優が生まれつき持っている声や話し方や性格に加えて、彼女が意識的に行った努力の結果である。

日本中に何百人何千人と居るであろう女優たちの中から、のんを抜擢し演出した監督の手腕にも、賛辞を贈りたい。

なぜ映画「座頭市」で北野武は髪を脱色したのか?

*ネタバレ有り

座頭市 <北野武監督作品> [DVD]

座頭市 <北野武監督作品> [DVD]

 

 

時代劇なのに、なぜ髪を脱色しているのか

 北野武の「座頭市」が公開されたころ、なぜ主演の北野武は時代劇なのに髪を脱色しているのかという疑問を投げかける人が少なからず居た。
 知り合いからの「また聞き」だが、これを観た欧米の観客たちも「なぜ時代劇なのに金髪なのか」というミスマッチ感を指摘する声が少なからずあったという。
 しかし、私は、すぐにその理由が分かった。
 子供時代、私が住んでいた家の近所に、座頭市そっくりのオジサンが居たからだ。

子供の頃、家の近所に座頭市そっくりのオジサンが住んでいた。

 そのオジサンは、「お爺さん」と呼ぶ程の高齢ではなく、せいぜい中年と呼ぶべき年齢にもかかわらず髪の毛が真っ白だった。
 また肌の色も、とても白かった。いや、白というよりはピンク色だった。
 そして、いつも「仕込み杖」ならぬ視覚障碍者用の白地に赤のストライプが入った杖をついて歩いていた。
 母親に「あのオジサンは何をしている人なのか」と聞くと、「マッサージ師のオジサンよ」と答えた。
 そのオジサン……それほどの年齢でもないのに頭髪が真っ白で、肌も白く、視覚障碍者用の杖をついているマッサージ師のオジサン……を現実に知っている私は、北野武座頭市を演じるにあたって髪を真っ白に脱色した意味をすぐに理解した。
 むしろ「何で『髪に色素が無い』という意味が分からないんだ?」と、「時代劇なのに金髪」という事の意味が分からない人たちに対して思っていたくらいだ。
 これは、座頭市アルビノ……先天性の色素欠乏症だという意味だ。

色素欠乏症の人は、しばしば視力も弱い。

 訓練しだいで触覚のみを頼りに出来るマッサージ師(按摩)の仕事は、かつては視覚障碍者の人がよく従事している仕事だった。
 だから、座頭市(視覚障碍者である市)はマッサージ師なのだ。
 そして、先天性色素欠乏症の人たちは、しばしば視力が弱く(完全に見えない訳ではなく、多少は見えているらしい)、彼らもまたマッサージ師の訓練を受け、その職業に就く傾向があった。
 二十一世紀の現在、そういう特定の障害を持つ人が特定の職業に就くという伝統というか傾向が残っているのか、いないのか、私には分からない。
 少なくとも江戸時代においてはそうだったし、私が子供時代まで、そういう事はあった。
 それが良い事なのか悪い事なのかは分からないが、とにかく私の近所の色素欠乏症で視覚障害を持ったオジサンは、マッサージ師だった……まさに座頭市のように。

結局、座頭市は目が見えていたのか? いなかったのか?

 物語のラスト、敵の親分に「てめえ、目が見えていたのか」と聞かれた座頭市が、初めてカッと目を見開く場面がある。
 その時の座頭市の目は、虹彩が真っ白だ。
 私は医学的な知識はゼロなので軽率な事は言えないが、座頭市アルビノで、虹彩に全く色素が無かったと仮定すると、カメラでいう所の「露出補正」が適切に行われず常に明るい光にさらされているという可能性がある。
 彼は「完全な盲目ではないが、極端に視力が弱く、またサングラスの無かった当時、日差しの強い昼間は目蓋(まぶた)を閉じて(あるいは薄開きにして)暮らしていた」という設定は充分に有りうる。
 市の目が見えていたか、いなかったか、という点についての私の解釈は、こうだ。
「完全な盲目ではないが、極端に視力は弱く、薄目でものを見る習慣が身についていた」
 完全な盲目でもなく、さりとて健常者のようには見えていない、という事だ。
 だから一番最後のシーンで、夜道でつまづいて転んでしまったのだろう。

物語を理解するには、ある程度の教養、つまり知識の共有が必要だ。

 上にも書いた通り、私は、世の中の少なからぬ人たちが「時代劇なのに髪を脱色する意味が分からない」と思った事に驚いた。
 かつて座頭市そっくりのオジサンの近所で子供時代を過ごした私には、その意味が一瞬で理解できたからだ。
 小説でも映画でも何でもそうだろうが、ある物語を表現するには、作者と読者、作り手と受け手の間に、一定ラインの知識の共有……つまり教養……が必要だ。
 とくに映画では時間的な制約により、くどくど説明を入れる訳にはいかないので「時代劇なのに金髪→これは『市は先天性色素欠乏症』という意味」と、観客が一瞬で理解してくれないと困る。
 最近思うのは、そういう日本全体での知識の共有=教養のレベルが下がっているのではないかという事だ。
 かつては作り手と受け手の間で一瞬で分かり合えた事が、今では、いちいち全てを懇切丁寧に説明しないと分からなくなっている。
 これは単に娯楽の作り手と受け手という話だけでなく、現代の日本社会の中で、いろいろな社会グループ間の断絶が深刻になりつつある、その表れではないか、と心配をしてしまう。

映画「ドライヴ」のネタバレ感想。

*ネタバレ有り

ドライヴ [Blu-ray]

ドライヴ [Blu-ray]

 

 監督:ニコラス・ウィンディング・レフン

主演:ライアン・ゴズリング

あらすじ

 舞台はロサンゼルス。
 主人公は、昼は小さな町工場で自動車修理工として働き、ときどき映画の撮影で自動車のスタントマンをしながらロサンゼルスのアパートで暮らしている。
 彼には、もう一つ「裏の顔」があり、優秀なドライビング技術を使って強盗犯の逃走を助けて金を稼いでいた。
 ある日、アパートのエレベーターで、幼い息子と二人で隣の部屋に住んでいる若い女と出会う。

感想

 トータルとしては充分に楽しめた。
 ただ、少々、不満が無い訳でも無かった。
 最初は、シーンとシーンのつなぎ目に置きがちな余計な説明カットが無いことから、割と突き放した感じのドライな演出で行くのかなと思っていた。
 しかし、話が進むにつれて装飾的なカットやカメラの動きが出てきて、音楽の挿入の仕方も、「不穏な場面で、いかにも不穏な音を鳴らす」というハリウッド映画に有りがちな説明的なものになっていって、ちょっと困った。
 日本の映画にも時々ある「つくす男の物語」、つまりフーテンの寅さんや任侠映画などにも通じる「男が、惚れた女のために、何の見返りも求めず命を懸ける」という話だった事、また、序盤の演出が「余計な説明を削ぎ落した」ものだった事から、日本人の私も楽しめる内容なのかなと思って観ていた。
 しかし観ているうちに、だんだんとハリウッド流の有りがちな「説明演出」も混入してきて、ちょっとテンションが下がった。
 それでも、典型的なハリウッド流娯楽大作ほどには「ありがち説明演出」が、くどくどと繰り返される事は無かったので、トータルとしては楽しめた。

良かった点

冒頭シーンは緊張感があって良かった。

 力押しのカーチェイスではなく「静かに逃げる」緊張感があって、そうかと思うと発見された瞬間にアクセルを思い切り踏み込んだりして、その緩急が素晴らしかった。
 また、最後にバスケットの試合が終わって出てきた客たちに紛れて逃走するというオチも良かった。

説明カットが(比較的)少ないのが良かった。

シーンとシーンのつなぎ目で、余計な説明カットを(比較的)入れていないのが、贅肉をそぎ落とした感じで良かった。

突然見せられる残酷シーンが鮮烈で、それでいて、くど過ぎなくて良かった。

 ヒロインの夫が質屋に強盗に入り、成功して無事に店から出てきたな、と思ったら突然首を撃たれて倒れるシーンには驚いた。
 また、強盗一味の女が、洗面所で頭をショットガンで撃たれて頭蓋骨が爆発する様子をスローモーションで映したシーンは鮮烈で、それでいて、嫌悪感が出てくる直前に次のカットに移るという手際の良さだった。
 また、エレベーターで殺し屋に襲われるシーンでも、最後に殺し屋の頭を何度も踏みつけて最後にグシャッと潰れてしまうというのも良かった。

主演のライアン・ゴズリングの演技が良かった。

 とくに、クライマックスの中華料理屋での敵ボスとの会話シーンは、終始無表情の中に、ごくわずかな目の周辺の筋肉の動きで「最初は怒り」「最後は、あきらめと悲しみ」を表現していて良かった。
 無表情なのに「怒り→あきらめと悲しみ」という心の動きがひしひしと伝わって来て良かった。
 とにかく、この中華料理屋のシーンのライアン・ゴズリングの演技は、観る者をドキリッとさせて、良かった。

ロサンゼルスの乾いた感じが良かった。

 まあ、ハリウッド映画は大抵そうなんだが……やはり、風景や気候風土は大事だなと思った。

残念だった点

最初、余計な説明カットが無かったせいで「ぜい肉をそぎ落とした演出」で行くのかな、と思ったら、それ程でも無かった。

 案外、カメラの余計な動きとか、アクションの前に挿入される、ハリウッドでよく使われる「不穏な音」が、この映画でも使われていて、ちょっとゲンナリした。

「突然の暴力」も、かなり良く出来ている方だが、若干、詰めが甘い部分も見受けられた。

 例えば、食堂で悪い奴らが集まって話し合っているシーンで、ボスが失敗した子分の目にフォークを突き刺し、包丁で喉を切って殺す場面がある。
 北野武の映画の「箸を目に突き刺す」有名なシーンの研ぎ澄まされた感じと比べると、「ドライヴ」の演出は詰めが甘い。
 わざわざカウンターまでフォークを取りに行って戻って来て男の目に突き刺し、さらに包丁をカウンターに取りに行って戻って来て喉をかき切る……という動作なので、とても冗長になってしまってる。  

ライアン・ゴズリングの演技は上手かったが「うまい演技だな」と分かってしまった。

 良かった点と矛盾するが、ライアン・ゴズリングの演技は、とても上手いと思ったのだが、観客に「上手い演技だな」と思わせてしまう感じで、そこが若干気になった。
 もちろん下手な演技を見せられるよりは、ずっと良い。……自分で書いていて贅沢な要求だという自覚はある。  

ライアン・ゴズリングがイケメン過ぎる。

 こういう「つくす男」ものの主役を演じるには、ライアン・ゴズリングはイケメン過ぎる。
 いい男に生まれたのは別にライアン・ゴズリングのせいではないが、この手の話の主役はイケメン過ぎない方が良い。
 そうかと言って「フーテンの寅さん」の渥美清みたいなファニーフェイスだと、さすがに、隣の奥さん(ダンナは刑務所の中)が主人公にヨロッとなるという話に無理が出てくるので、こういう話のイケメン度としては「普通よりちょっとだけいい男」ぐらいが、ちょうどいい。
 ライアン・ゴズリングも恐らくその点は分かっていて、自分のイケメンっぷりを中和しようと「コミュニケーションは不得意だがドライビング・テクニックは超一流のクルマ・オタク」というキャラクター設定に沿った「終始、無表情で何を考えているか分からない演技」を一生懸命しているのだが、いかんせんイケメンは何をやってもイケメンなので「寡黙な所がカッコ良いイケメン」という印象から脱し切れているとは言えなかった。
 それでも普段はできるだけ「ゆるんだ顔=ややバカっぽい顔」でいるように努力して演技をしていて、その点に関しては好感が持てた。

エレベーターでのキス・シーンをどう解釈するか。

 主人公とヒロインと殺し屋が同じエレベーターに乗り合わせ、主人公が殺し屋に気づいた直後、ヒロインにキスをするという不思議なシーンがある。
このシーンの解釈をどうするか。

解釈その1。キス・シーンは主人公の妄想で、実は二人はキスをしていない。

 この解釈だと、第三者も乗り合わせたエレベーターの中で堂々とキスをするという事の説明も付くし、キスと同時にエレベーターの照明が暗くなるという不思議な演出にも説明が付く。
 しかし、そう仮定すると、キスが終わってエレベーターの照明が元に戻った時の主人公とヒロインの立ち位置が変だ。キス・シーンが妄想だとすると、次のアクションの直前に二人が向かい合った形になっているのは不自然だ。
 まあ多少強引だが、主人公が殺し屋との闘いの前にヒロインを安全なコーナーへ押しやる時に、たまたま、そういう立ち位置になったという解釈も可能だが。

解釈その2。主人公とヒロインは本当にキスをした。

 本当にキスをしたのだとすると、「凄腕のドライバーでケンカも強いが、コミュニケーション下手で、女に告白も出来ない」という「つくす男の物語」としての純粋さが失われてしまうし、「ちょっとした痴話げんかの後の和解のキス」という、これまたハリウッド映画に有りがちな演出に(ストーリー上は、もっと切実なシーンだが)見えてしまう。

もう二度と会えない。

 妄想であれ、実際にキスをしたのであれ、
「殺し屋からヒロインを守るために戦えば、自分が裏社会で修羅場をくぐり抜けてきた男だという事がバレてしまい、堅気であるヒロインとの関係は決定的に失われてしまう。その前にせめてキスだけでもしておきたい」
 という主人公の切実さを強調したかったのだろうとは思うのだが……

さいごに

 一般的な傾向として、
「日本の映画の演出は感情過多で湿っぽい。ウェットすぎる。ハリウッドの演出は機能主義的で無駄が無い」
 こんな印象を持っている観客は多いだろう。
 しかし、この「ドライヴ」を見て思ったのは、全体としては贅肉を削ぎ落した演出を目指しているだけに、わずかに混入している「ハリウッド流演出」が不純に感じられてしまうな、という事だ。
 典型的なハリウッド流演出も、それはそれで典型的な日本式演出とはまた別の意味で感情の盛り上げ方が過剰で、しかも最近はお約束演出に頼ってしまっている感じがある。
 北野武の映画を観てしまった後だと、こういう「ハリウッド流の盛り上げ方」……たとえばホラー映画なら化け物だ現れる前に必ず鳴り響くバイオリンの不協和音とか、この「ドライヴ」で言えば、アクションが始まる時にエレクトリック・ギター(シンセサイザーかもしれない)の「ブンッ、ブンッ、ブンッ」という低音のリズムで不穏さを盛り上げる演出とかは、どうしても余計なものに思えてしまった。
 最近のハリウッド映画を観ると、こういう「お約束演出」にあまりに頼り過ぎている感じがして、それが「ハリウッドの終わりの始まり」を暗示しているような気がしてならない。
 ちょっと厳しい感想になってしまったが、トータルとしては、この「ドライヴ」は充分に満足できる良い映画だったと思う。

ネタバレ感想。映画「ザ・ボーイ~人形少年の館~」を観た。

*ネタバレ有り

とても惜しく、残念な映画だった。

それは作り手たちの責任ではない。

日本の配給会社の宣伝部の責任だ。

google playの予告編から引用……「先入観に騙される、ジャンルスイッチムービー」

おいおい、予告編でそういう事を言っちゃったらお終いだろう!

時々、日本の配給会社は、ポスターのレイアウトやキャッチコピーなどで盛大にネタバレをすることある。

この映画も、その失策をやらかしていた。

予告編に「ジャンルスイッチムービー」などど表示してしまったら、その言葉と序盤の展開だけで「ああ、そういう事ね……」と感づいてしまうではないか。

配給会社は、とにかく客に入ってほしいと焦(あせ)るあまりに、映画そのものの内容の評価を落としている。

本末転倒だ。

いや、配給会社の気持ちも(多少は)分かる。

「映画の内容を評価するも何も、まずはお客さんに入ってもらわなければ何も始まらない」

「ネタバレだろうと、酷(ひど)いタイトルだろうと、とにかく宣伝第一、インパクト重視、まずは強烈なアピールで少しでも多くの人の目に止まらなければ」

こんな気持ちで、日々、原題とは似ても似つかない酷いタイトルを付け、最大の「売り」を堂々とキャッチコピーにしたネタバレ全開のポスターや予告編を作っているのだろう。

しかし、作品内容を貶めるような宣伝の仕方は、めぐり巡って自分の首を絞めているのではないだろうか。

今日の日銭ほしさに、将来の評価を質草に入れて借金をしているようなものだ。

最終的には誰も得をしない。

そんな宣伝の仕方は今すぐ止めるべきだ。

序盤が典型的な心霊ホラー展開で、しかも予告編で「ジャンルスイッチムービー」と言われれば。

ああ、これは心霊ホラーと思わせておいて途中から違うジャンル……たとえばミステリーとかサスペンスになるんだな……心霊現象に見せかけた「トリック」を使う犯人が居るんだな……と、分かってしまう。

しかも、ご丁寧に予告編には、壁に造り付けられた鏡が「裏側から爆発する」シーンや、ヒロインが「壁の裏側から」部屋を覗くシーンが出てくる。

その予告編が頭の片隅に残った状態で映画を観始めると「少年の魂が人形に乗り移った」げな演出、さらに「その人形が別の部屋にいるヒロインたちの会話を盗み聞きしている」げな演出が、これ見よがしな感じで出てくる。

もう、この辺でピンと来てしまう。

ああ、これは「いかにも人形が盗み聞きしている」ようなカメラアングルだが、実はカメラの外に「現実の犯人」 が居て、すべての怪現象は、そいつが人形の仕業に見せかけているんだな、と。

そして、さらに予告編の「壁の裏側」シーンを思い出し、また、ピンッと来る。

ああ、この屋敷は壁が二重構造になっていて、壁と壁の間の秘密の通路を使って、屋敷のどんな部屋へも、誰にも知られずに行けるんだな、と。

あんな予告編じゃなければ、意表を突かれて、もうすこし高い評価になっただろう。

「ジャンルスイッチムービー」の意味は、最初は心霊ホラー → 最後はスラッシャーだった。

つまり、最初は、十何年前に死んだ少年の魂が人形に乗り移って怪現象を起こしていると思わせておいて、実は、その少年は生きていて、何十年ものあいだ屋敷の中に張り巡らされた秘密の通路の中で暮らし、凶悪な猟奇殺人犯に成長していた……という展開だ。

猟奇殺人犯に成長した少年は、ご丁寧に人形を模した仮面を被っていて、まあ、これは当然ながら13日の金曜日のジェイソンや、ハロウィンのマイケルを露骨に連想させる。

ネタがバレてからは典型的スラッシャー映画的展開、つまり「精神は少年のまま、肉体だけが怪力男に成長してしまった殺人鬼にヒロインが延々追いかけられる」というだけの話で、有りがちにも程がある展開だ。

しかし、有りがちな展開のわりには緊張感が持続するという意味で、なかなかの演出の手際だった。

これで、予告編でネタバレせずに、本編でネタが明かされた時に本気で驚けていれば、なかなか良く出来た作品だなあと思っていただろう。

しかし、最大の売りである「心霊現象と思わせて、実は秘密の通路を使ったトリックだった」というネタが機能しなければ、単なる「前半ありがち心霊物、後半ありがちスラッシャーもの」な映画でしかなく、見終わった後に非常に残念な気持ちになってしまった。