ネタバレ! 小説と映画の感想‐青葉台旭

小説と映画のネタバレ感想が書いてあります。メインのブログはこちら http://aobadai-akira.hatenablog.com/

映画「IT それが見えたら、終わり。」を観た。(ネタバレ)

wwws.warnerbros.co.jp

六本木ヒルズ東宝で見た。

この記事はネタバレを含みます。

未見の人は気をつけてください。

私は、スティーブン・キングの原作も、1990年のテレビ映画も見ていない。

以下に述べるのは、純粋に2017年公開の劇場映画「IT それが見えたら、終わり。」単独の感想である。

いつものハリウッド娯楽大作映画。それ以上でもそれ以下でも無い

エンドロールが終わって劇場が明るくなった時の感想は、「よくあるハリウッド娯楽大作映画。それ以上のものは無い」というものだった。

いつもの、ハリウッド娯楽大作映画お決まりの……
週刊少年ジャンプみたいな「友情、努力、勝利」の物語。
「仲間ってマジ最高」
「遺伝子で繋がった親子より仲間の方がマジ大事」

いつもの、ハリウッド娯楽大作映画お決まりの……
「明るい面ばかりではなく、心に悲しみや傷や弱さを抱えた陰影のある登場人物たち」
「自らの心のダークサイドを克服する物語」

いつもの、ハリウッド娯楽大作映画お決まりの……
「お決まりの場面で鳴り響く、お決まりの音楽と効果音」
美しいシーンでは、どこかで聞いたことがあるような美しい音楽。
不気味なシーンでは、どこかで聞いたことがあるようなバイオリンの不協和音。
ネバネバした物体に対しては「くちゅくちゅ、にちゃにちゃ」という、いつもの効果音。
突然敵が現れて「どーん」

いつものハリウッド娯楽大作映画と同じく、上に書いた特徴は全て、観客に「そこそこの満足感を与える」ために計算されつくしたもの。
少なくとも「支払った入場料と、映画館で過ごした2時間なり3時間は、無駄ではなかったな」という程度には満足感を与えてくれる親切設計。

しかし「観客の魂を揺さぶり、心を鷲掴みにする」には程遠い。

今のハリウッド娯楽大作につきまとう「それ以上でも、それ以下でも無い」感。

言い方を変えると、どうしても「良いにつけ、悪しきにつけ」という修飾語を付けざるを得ない「今風のハリウッド娯楽大作映画」感。

つまり、

  1. よく計算されているストーリー。
  2. ダークサイドも含めて、よく計算されたキャラクター設定。
  3. 金が掛かっているからゴージャス感がある。
  4. とりあえず、1800円の入場料と、映画館で過ごした時間が無駄になったとは思わせない、そつの無い作り。

しかし、じゃあそれ以上の魂を揺さぶるような何かがあるかといえば、それも無い。
「ま、良いんじゃないですかね……」という感想以上のものが、なかなか出て来ない。

よかった点。

田舎町の周辺の自然が美しかった。

田舎町の周辺に広がる森や、子供たちが水遊びをする川が美しく、目の保養になる。
「アメリカのどこにでもあるような(しかし、実際にはどこにもない)田舎町」の物語というのはハリウッド製ホラーの定番なのだが、アメリカは広いから、同じ田舎でも荒涼とした砂漠の真ん中にある田舎町とか、トウモロコシ畑が延々続く中にポツンとある田舎町とか、映画によってバラエティーに富んでる。

今回の田舎町は、例えば「ゲット・アウト」と同じ「森の中にある田舎町」系の舞台なのだが、「ゲット・アウト」が恋人の家周辺のごく限られた場所で進行する一種のシチュエーション・ホラーで、森という存在を孤立した主人公を取り囲む不気味さの象徴として描いていたに対し、この「IT〜」は「美しく牧歌的な背景の中で繰り広げられる陰惨な事件」という対比を強調した作りになっていた。

そのため、ちょっとあざといぐらいに自然の美しさが強調されていたが、それでも美しいものは美しいので目の保養になった。

少女がブラジャーとパンティーだけの姿で日光浴をしているシーンで、ガン見していた少年たちが、あわてて目を逸らすシーンは笑ってしまった。

ベタネタですけどね。やっぱり、ああいうプチ下ネタは笑ってしまう。

いつも通り、子役たちの演技は良かった。

もう子役っていうのは子役であるってだけで、良い演技をする事が約束されたようなものですね。

ピエロの口の中から化け物の口が出てくる感じは気持ち悪くて良かった。

エイリアンなんかと同じように、今回のピエロも「口の中から口が出てくる」系の化け物なのだが、その気持ち悪さはエイリアンよりも上だと思った。

ラスト・シーンの、美しい自然の中で子供たちが輪っかになって手を繋ぐシーンは良かった。

美しい自然の中で、子供たちが美しい事をする……もう、それだけで美しいでしょ。

以下、余談。

リンクを張って気づいたが、公式ウェブサイトのURLがサブディレクトリ形式だった。

つまり、個々の映画が独自にドメインを取得するのではなく、ワーナーブラザーズ・ジャパンという配給会社のドメインがあって、そのサブディレクトリとして、個別の作品である「IT」のホームページがあるという形式だ。

これは、なかなか好感の持てる政策だ。

私はURL、あるいはドメイン名にとって最も重要なことは「永続性」だと思っている。
つまり、ひとたびそのURLがこの世界に設定されたのなら、未来永劫、そのURLはこの世界に存続するべきだと思っている。
なかなか現実的には難しいかもしれないが、少なくとも「心意気」の点ではそうであるべきだと思う。

そうしないと、例えば、この感想記事で張ったリンクが劇場公開が終わると同時にリンク切れを起こす、というような事になってしまう。
リンク切れは最悪だ。
劇場公開終了後も、あらすじと「この映画の劇場公開は終了しました」の一言だけのホームページでも良いから、せめてURLだけは永続させて欲しいと思う。

その一方で、毎週、毎月、毎年公開される何十、何百、あるいは何千という映像作品が、それぞれ独自にドメイン名を取得している。

毎年毎年、無数に公開され続ける自社の作品すべてに対し、配給会社はいちいち独自のドメインを取得し、過去に取得したドメインも含めて毎年使用料を払い続け、メンテナンスし続けるつもりなのだろうか?
過去に取得したドメインの累積の上に、新たな映画のドメインを毎年毎年、追加し続けるつもりなのだろうか?

私は、そんなことは現実的ではないと思うし、また、よく言われるインターネット・アドレスの枯渇という観点からも有害だと思う。

そんなことをするより、各配給会社なり制作会社が、会社として一つのドメインを持ち、そのサブディレクトリに個々の映画のホームページがある、という構造の方が健全だと思う。

年月が経過し、配給元なり管理会社なりが変更された映画については、元のホームページには「この映画の管理責任は弊社から〇〇配給会社に移りました」という一言と、移管先の会社のへのリンクを貼って置けば良い。

映画に限らず、日々この世界には何万という商品が生み出されては消え、生み出されては消えている。
その一つ一つの商品に対して個別のURLが紐づけられている状態が理想ではあるが、しかし、個々の商品が「ドメイン名」まで取得するのは、少々やりすぎのような気がする。

私は私自身のために「aobadaiakira.jp」というドメイン名を取得し、そのサブディレクトリにて小説を公開しているわけだが、個別の小説一つ一つにまで個別のドメイン名を当てがおうとは思っていない。
つまり、そういう意味だ。

静的サイト・ジェネレータを作り直している。

私は自分のドメイン「aobadaiakira.jp」の記事生成に自作の静的サイト・ジェネレータを使っている。

今、それをイチから作り直している。
そのSSGが完成するまでの間、一時的に記事の投稿を控えようと思っていた。先日劇場で観た映画「IT それが見えたら、終わり。」についての感想も、自作のSSGが完成した段階で「aobadaiakira.jp」と「はてなブログ」に同時投稿するつもりだった。

しかし、劇場公開映画というのは、ある種の「なま物」であるだろうし、旬を過ぎてしまってから感想を投稿するというのも何となく違う感じがするので、先行して「はてなブログ」に感想を書くことにした。

「取り急ぎ」……というやつだ。自分のドメインへは後で転記すれば良いだろう。

映画「ゲット・アウト」を見た。(ネタバレ)

getout.jp

歌舞伎町の東宝で見た。

この記事はネタバレを含みます。

未見の人は気をつけてください。

静的サイト・ジェネレータを作り直している。

私は自分のドメイン「aobadaiakira.jp」の記事生成に自作の静的サイト・ジェネレータを使っている。

今、それをイチから作り直している。
そのSSGが完成するまでの間、一時的に記事の投稿を控えようと思っていた。先日劇場で観た映画「ゲット・アウト」についての感想も、自作のSSGが完成した段階で「aobadaiakira.jp」と「はてなブログ」に同時投稿するつもりだった。

しかし、劇場公開映画というのは、ある種の「なま物」であるだろうし、旬を過ぎてしまってから感想を投稿するというのも何となく違う感じがするので、先行して「はてなブログ」に感想を書くことにした。

「取り急ぎ」……というやつだ。自分のドメインへは後で転記すれば良いだろう。

さて、本題「ゲット・アウト」の感想。

いや、ちょっと油断しちゃったな。

油断して、予告編やら「ロッテン・トマトで驚異の99点」みたいな煽り文句を真に受けちゃって、期待しすぎた。

やっぱり、あの予告編の、往年の竹中直人も真っ青な「笑いながら泣く家政婦さん」はインパクトがあったからな。
それで「すげーっ」て思って、観る前からちょっと期待しすぎた。

  • どんな映画でも予告編だけは面白い。
  • 「全米興行収入第○位獲得!」 みたいな煽り文句は信用するな!

と言う鉄則を忘れていたよ。

……で、映画館で観た結果は、と言うと……

「まあ悪くないけど、期待した程でもなかった」と言うのが正直なところだ。

これが……
「何の予備知識も無しに『低予算ホラー映画でも観るか』くらいの気持ちでフラリと映画館に入ってチケットを買った」
……っていう感じの出会いだったら、なまじ期待していなかった分、予想以上に面白く感じられて、幸せな気持ちで映画館を後にできたかもしれない。

観る前から期待していたがゆえに、そのぶん要求する面白さの基準が高くなりすぎて、映画が終わった時には「まっ、こんなものか……」と言う若干の残念感を抱いて映画館をあとにする格好になってしまった。

別に悪い映画という訳ではない。割と良く出来ている方だとは思う。

しかし、だからと言って、辛口と言われるロッテン・トマトで99点を取るほどの物でもなかろう。

70点くらいが妥当なところか。

良かった点。やはり俳優の演技は素晴らしかった。

前述した「笑いながら泣く家政婦」役のベティ・ガブリエル、下男役のマーカス・ヘンダーソン、金持ちおばさんの若いツバメちゃんを演じたキース・スタンフィールドの三人は素晴らしかった。

要するに、この三人は、脳手術を受けて本来の人格と移植された人格の両方を持つ一種の二重人格者達なわけだが、その精神的にちょっと歪んだキャラクターを見事に演じていた。

例えば、キース・スタンフィールドは、物語の冒頭で暗い住宅街の通りを歩いている時には、ごく普通のカジュアル兄ちゃんといった感じだった。
それが田舎町で再登場した時には、金持ちおばさんに連れられて歩くナヨナヨした物腰のツバメちゃんを見事に演じていた。
あまりの違いに最初は同一人物だと気づかなかったくらいだ。

このキース・スタンフィールドという人は、あの悪名高い「ネットフリックス版デスノート」にL役で出演しているらしいが、一体どんな演技をしているのかちょっと興味が出てきた。

同じく二重人格者の表現といえば、下男役のマーカス・ヘンダーソンも素晴らしかった。

切り株の上で薪を割っているシーンでの、何ともいえない気持ち悪さも最高だが、物語のラストでフラッシュを浴びて、一瞬、本来の自分に返った時の演技が素晴らしい。
演技というより、ただそこに立っているだけなのだが、その立ち姿だけで「本来の人格を取り戻した」というシッカリした感じを見事に表現していた。
何も言わなくても、ただそこに立っているだけで、昼間の気色悪い男とは別人格である事を観客に分からせるとは、どんな魔法を使ったんだと思ってしまう。

ベティ・ガブリエル、
マーカス・ヘンダーソン、
キース・スタンフィールド。

三人とも「ゲット・アウト」で初めて知った名前だが、これ以降、要チェックすべき名前として、私の記憶に残るだろう。

しかし、どんなに素晴らしい俳優でも、顔芸だけで1時間半の映画を持たせることは出来ない。

前半こそ、映画の醸し出す不気味な雰囲気にワクワクし、俳優たちの気色悪い演技にワクワクしていた。

しかし、いつまでたっても事前に予想した範囲以上のことが起きてくれない。 徐々に、ワクワク感も、ドキドキ感も、しぼんでいってしまった。

終わってみれば、
「やっぱりボディー・スナッチャーものの変種でしたか……まあ、よく出来ているとは思いますが……」
という以上の感想はなかなか出て来ない話だった。

いつまでたっても想定の範囲内じゃあ、困るんです。

観客は、予告編を見て、そこにある情報を読み取り、ある程度「こんな話なのかな」と予想を立てて映画館に行くわけだ。

私なりに予告編を要約すると、

「都会の若いカップルが田舎に行ったら、住民みんな、どこか変」

という感じだったと思う。
この予告編から素直に考えれば、誰もが、

「ボディー・スナッチャーもの」か、
「村人全員カルト教団もの」

の、どちらかかな? という予想を持つと思う。

例の、家政婦さんの「泣きながら笑う顔」も、彼女は何らかの方法で住民たちに支配されていて、本心を言いたいけど言えない葛藤をこの「泣きながら笑う顔」は表しているんだな……というくらいの予想は誰しもが持つと思う。

さすがに、別人の脳を外科的に移植されていたというのは予想できなかったが、それが分かったところで「ふーん、なるほどね」という感想しか出て来ない。

例えば、恋人も実はグルだった、というサプライズにしても、観客がいくつか想定したオプションの中に入っている可能性が高いのではないだろうか。

別に最初から確証があったわけではないが、この手のサスペンスに「意外な犯人」「意外な共犯者」を設定するのは常套手段なので、「ひょっとしたら……」という想定の中には、当然入っていた。

別に、何が何でも「意外な展開」や「意外な結末」が必要、と言っているわけじゃない。最後まで持続する「ホラー的」緊張感が欲しいだけだ。

前半、俳優たちの演技力で不気味な田舎町の雰囲気を醸した、そこまでは良い。

そこからが問題だ。

物語の中盤、「この町は異常だ! この町から逃げよう!」と主人公が思ってからが、この手の映画の「本当の腕の見せ所」だろう。

ところが「ゲット・アウト」は、後半に描かれる追う者と追われる者との葛藤、その積み重ねに、今ひとつ「ホラー映画としての」迫力が無い。

時間が経てば経つほど、敵の親玉である一家が、どんどん「怖くない存在」になっていく。

例えば、
「破れた椅子の中から棉がはみ出しているのを主人公が意味ありげに見つめる」
というカットがある。

もちろんこれは、主人公が機転を利かせて危機を脱出するというサインだ。

しかし、よく考えて欲しい。

これがアクション・アドベンチャーなら、このあと知恵を働かせて危機を脱した主人公に拍手喝采でも送れば良いだろう。

しかし、この「ゲット・アウト」はホラー映画だ。

主人公が機転を利かせて危機を脱出できる予感を事前に観客に与えたら、どうなるか?
主人公の頭の良さより、むしろ敵の頭の悪さ、ひいてはキャラクターとしての弱さを露呈させてしまう。

それではホラーとしての緊張感が緩んでしまい、観客は白けてしまう。

アクション映画の脱出劇と、ホラー映画の脱出劇は違う。

アクション映画の脱出劇は「どんなに危機的な状況でも、ギリギリの所で主人公は脱出に成功する」という爽快感を売り物にする。

しかしホラー映画の脱出劇は「どう足掻いても絶対に抜け出せそうも無い絶望的な状況」を売り物にする。

この「ゲット・アウト」後半の脱出劇においては、残念ながら前者が選ばれていた。「ホラー映画」を標榜しているにも関わらず。

そうは言っても、この映画には「良く出来ている感」はある。

別の言い方をすれば「手先の器用さ」とでも言おうか。
そういう意味では、別に悪い映画じゃない。

最後にもう一度。

最後にもう一度書く。
催眠術をかけられ、脳移植を受けた人々を演じた役者たちの演技力は、やはり素晴らしい。

こういうしっかりした演技を見せられると、アメリカ・エンターテイメント業界の層の厚さと豊かさを改めて思い知らされる。

映画「ブレードランナー2049」を見た。(ネタバレ)

www.bladerunner2049.jp

歌舞伎町の東宝で見た。

この記事はネタバレを含みます。

未見の人は気をつけてください。

静的サイト・ジェネレータを作り直している。

私は自分のドメイン「aobadaiakira.jp」の記事生成に自作の静的サイト・ジェネレータを使っている。

今、それをイチから作り直している。
そのSSGが完成するまでの間、一時的に記事の投稿を控えようと思っていた。先日劇場で観た映画「ブレードランナー2049」についての感想も、自作のSSGが完成した段階で「aobadaiakira.jp」と「はてなブログ」に同時投稿するつもりだった。

しかし、劇場公開映画というのは、ある種の「なま物」であるだろうし、旬を過ぎてしまってから感想を投稿するというのも何となく違う感じがするので、先行して「はてなブログ」に感想を書くことにした。

「取り急ぎ」……というやつだ。自分のドメインへは後で転記すれば良いだろう。

さて、本題「ブレードランナー2049」の感想。

「終わってみれば、男臭い映画だったなぁ……」というのが、スタッフロールが終わり映画館内が明るくなった直後の、私の感想だった。

ある種のヤクザ映画とか、外国で言えばノワールと呼ばれる比較的低予算の犯罪映画にしばしば見られる、「一寸の虫にも五分の魂があるってことを見せてやるぜ!」系の映画だった。

あるいは「何の取り柄もない底辺男の、命をかけた意地の物語」とでも言おうか。

そういう、女たちからは「訳わかんない」とか言われてバッサリ切り捨てられそうな、でも男たちの心にはジーンと来る映画だった。

ちなみに、この世には、全世界の男が感動しまくったのに、全世界の女には何が良いんだかサッパリ分からない……という不思議な映画が存在する。
例えば「スタンド・バイ・ミー」だ。私は、あの映画を嫌う男に今まで出会ったことが無いし、あの映画を絶賛する女に出会ったことも無い。

それは、さておき……

繰り返しになるが、要するに本作品は、低予算犯罪映画などにしばしばある「底辺男の意地」映画だった。
その「底辺男の意地」が、160億円とも190億円とも言われる莫大な制作費をかけた壮大な未来絵図を背景に語られる訳だ。

別の言い方をすれば「ドライブ2049」とでも言おうか

同じライアン・ゴズリング主演で言えば、今回の「レプリカントK」という役は「ドライブ」の主人公に近い。
確か、ドライブの主人公にも役名が無かったはずだから、そういった部分でもちょっと似ている。

ダーティーな仕事に従事する凄腕の男。しかし、実社会ではコミュニケーションが不得意で引きこもりがちなオタク気質。
その凄腕底辺引きこもりオタク男が、さして本人に利益があるとも思えない「何か」のために自分の命と男の意地をかける……
そんな感じのストーリー展開が似ている。

ライアン・ゴズリングの演技は、変顔をする必要が無いぶん、「ドライブ」の時より自然だった。

私は映画「ドライブ」の感想記事で、ライアン・ゴズリングはイケメン過ぎて「女にモテない引きこもりのキモい底辺オタク」みたいな役をするには無理があると書いた。
その事を自覚しているライアン・ゴズリングは、わざとアホ面の演技をして自分のイケメン度を中和しようとしていたが、必ずしも成功しているとは言い難い……とも書いた。

しかし、役柄が似ていても、今回のライアン・ゴズリングの演技は「ドライブ」の時より自然だった。無表情だったが変顔演技ではなかった。

おそらく今回のキャラ設定が「ドライブ」のとき以上に『気持ち悪い男』だった事が、かえって功を奏したのだろう。

映画「ドライブ」の時と同じく、今回のライアン・ゴズリングの役どころも、仕事が終わればそそくさとワンルーム・アパートに引きこもる孤独な男だ。
しかも、その一人暮らしワンルーム・アパートには、ロリ顔のバーチャル彼女が居る。ゴズリングは、その3Dのバーチャル彼女に話しかける事で孤独を癒している。

「ドライブ」の時より数段、キャラのキモい度がレベルアップしている。

もともと人造人間という設定でもあるし、イケメンが変顔するとか、そういう次元を遥かに超越した気持ち悪いキャラ設定だったので、ライアン・ゴズリングの演技も「ドライブ」の時より自然だった。

つまり、設定そのものが「誰が見てもキモい男」なので、わざわざキモい演技をする必要が無く、そのぶん演技が自然だったという事だ。

ちょっと、女性は引いてしまうキモ男設定かもしれない。

しかし、それにしても……あれだ……この「ロリ顔バーチャル彼女育成シミュレーションゲームだけが心の支えの引きこもり底辺男の物語」というのは、男にとっては「分かる……分かるぞ、ライアン!」という感じだが、ゴズリング・ファンの女たちにとっては辛かったかも知れないな。

バーチャル彼女が、聖母マリア様のような慈愛でどこまでも優しくライアンを見守るキャラに育成されているのも、何か痛い感じだし。

瞬時にあらゆるコスプレをしてくれるオプション付きっていうのも何かキモいし。

デリヘル嬢の顔にバーチャル彼女の顔を重ね合わせてナニするシーンでは「いやいや、それは、さすがにデリヘル嬢さんに失礼だろ……」と、男の俺でさえ思ってしまった。
しかも何か美談っていうか、何かしら美しいシーンみたいに描かれてるし……

むかし何かの本で、「アイドルとセックスしている気分を味わいたいからと、引き伸ばしたアイドルの顔写真をガールフレンドの顔にセロテープで貼り付けてセックスする最低男」の話を読んだ記憶があるが、それに匹敵する最低男ぶりだ。

ちょっと、たけし映画のヒロインを思い出させるバーチャル彼女。

そう言えば、先日ビートたけしの「アナログ」という小説を読んだが、本作品に出てくるバーチャル彼女の「聖母のような慈愛で主人公を見守る、絶対に触れられない存在」という感じは、たけし映画のヒロインにも通じる気がする。

この映画の良さは、2つある。

  1. 莫大な金をかけて作り込まれた、美しくも荒廃した背景美術。
  2. 話の後半でジャンルが切り替わる「ジャンル切り替わり映画」である点。

以下で、1つ1つ説明する。

ブレードランナー2049の特徴その1、莫大な金をかけて作り込まれた背景美術。

私は、新宿コマ劇場跡の東宝劇場で2D上映を見てきたが、まあ、とにかく巨大なスクリーンに映し出される美しくも荒廃した未来絵図は、見ているだけで「眼福、眼福、ありがたや、ありがたや〜 」と言いたくなるほどだった。

冒頭の、放射能灰で薄らボンヤリと煙る視界に、太陽光発電の鏡がキラッ、キラッと光るシーンで、もう「すげーっ」ってなった。

続いて田植え前の水を張った田んぼみたいなのが延々続く空撮でますます「すげーっ」ってなった。

それから、もう出てくる背景、出てくる背景、全部最高。

そしてクライマックスの、荒波が寄せる波打ちぎわでの車内の決闘シーン。
夜の海岸、暗闇に冷たい白色LED車内灯だけが光り、その車内にザップーン、ザップーン、って波が入って来る中での決闘……ああ、その何と美しい事よ。

廃工場の階段の角度にさえ幾何学的な美しさがある。

主人公の幼少期の記憶に出てきた廃工場の、階段の配置と角度が、何か凄い。

CGなんだか、セットなんだか、はたまた実在する廃工場でロケしたのかは知らないが、CGであれセットであれ、階段の角度や配置の美しさにまで気を使っているのが凄い。
実在する廃工場だとしたらもっと凄い。そんな美しい廃工場が実在するのが凄い。ロケハンで見つけてきたスタッフも凄い。

記憶デザイナーの研究所がカッコイイ。

雪景色の中に浮かび上がった、記憶デザイナーのお姉ちゃんが住んでいる研究所もカッコイイ。

これは、アール・デコっていうよりは、1950年代〜60年代のモダン建築だな。ひとことで言うと、科学特捜隊とか、ウルトラ警備隊の基地のイメージ。

あの建物、どこかに実在してるのか?

デザインのスタイルは2系統。

  1. 猥雑なアジアン・テイストの街。
  2. 死んだアール・デコ

1作目のブレードランナーからして、この2つが入り混じっていたように記憶しているが、今回の2049では、1作目よりもこの2つのデザイン・スタイルの純度が上がっている気がした。

美術デザインのスタイルその1、猥雑なアジアの街テイスト。

アジアン・テイストに関しては、アジアっていうより、もう明確に「日本」「東京」だな。 ネオンサインや立体ホログラムなんかも、パチンコ屋のケバいネオンとかのイメージだ。
……っていうか、俺ら日本人が雨の日には全員で透明ビニール傘を差す、なんて事をどこで聞いて来たんだよ。

美術デザインのスタイルその2、死んだアール・デコ

猥雑だが生命力に溢れた街を一歩出ると、そこには「死んだアール・デコ」が静かに横たわっている。

20世紀初頭にヨーロッパで生まれ、やがて大西洋を渡って新大陸で花開き、20世紀半ばまでアメリカで隆盛を極めたアール・デコ様式は、古き良きアメリカの象徴なのかもしれない。

その古き良きアメリカの象徴たるアール・デコ達は、何者かに破壊されたわけでも蹂躙されたわけでもなく、ただ、そこで消費に溺れていた人々が消え去って、物としての役割を失い、静かに死んでいる……そんな感じで荒野に佇んでいる。

一方、悪の親玉であるレプリカント製造会社も荘厳なアール・デコ様式で統一されている。 こちらにも生命の匂いは一切しない。
生命から生命らしさを徹底的に排除して「物」として扱おうという強い意志が感じられるデザインだ。

猥雑な生命力に溢れたアジアン・テイストと、生命の匂いの全く無い古き良きアメリカのアール・デコの対比

「一部のエリートの居城か、さもなくば荒野に捨てられた廃墟のためのデザインであるアール・デコ」と「猥雑だが生命力に溢れたアジアン・テイストの街」という対比に、この映画の製作者は何かを暗示させたいのかもしれない。

上映時間が長く退屈という意見について。

この記事を書く前に、ちょっと他の感想ブログをのぞいて見たが「上映時間が長い」という意見がチラホラ。

確かに、物語の語り口は往年の共産主義国が採算度外視で作っていた大作映画みたいにゆっくりだから、今のハリウッドのジェットコースター・ムービーと比べると退屈なのは間違いない。

しかし、そのゆっくりと進む物語進行から一歩引いて「映像美を楽しむ一種の環境映画」として見れば、2時間40分は長すぎるという程でもない。

NHK日曜美術館2時間40分スペシャルだと思えば、良いんじゃね?

例えばNHK日曜美術館2時間40分スペシャル「2049年ロサンゼルスの風景〜死んだアール・デコと猥雑なジャポニズムが出会う場所〜」みたいな番組があったら、みんな見るでしょ?

話が逸れるが、映画館でブレードランナー2049を観た翌日、たまたま出先のホテルでテレビを点けたらNHKスペシャルでピラミッドの特集をやっていた。

私は思わず見入ってしまった。

古代の巨大建造物遺跡や美術品には何とも言えない魅力がある。

その魅力の源泉は何かといえば、「大昔の権力者や大商人たちが、その強大な権力と莫大な財力に物をいわせて当時一流の職人(=アーティスト)たちに作らせた」という説得力なんだと思う。

このブレードランナー2049にも、「現代の巨大権力者」たる大資本家たちが出資した160億とも190億とも言われる大金を湯水のように使い、一流の職人(=映画スタッフ)たちに背景美術を作らせた凄みがある。

だから、まるで巨大な美術館か博物館を巡っているような感じを味わえたし、観ていて飽きなかった。

ブレードランナー2049の特徴その2、物語上の斬新さは、話の後半でジャンルが切り替わる「ジャンル切り替わり映画」だという点にある。

ジャンル切り替わりというのは、たまにホラー/サスペンス映画などで見かける「仕掛け」のことだ。

例えば、
「冒頭、幽霊の仕業としか思えない異様な事件が発生する」
→「しかし、物語の後半、それが犯人の巧妙なトリックであると明かされる」
という仕掛けだ。

「心霊ホラー」と見せかけて……実は「トリックのあるミステリー」でした……となるわけだ。

つまり前半の「いかにも超自然現象が起きているような感じ」は観客に対するミスリードで、製作者側としては、物語の終盤で「これはトリックなんだよ」と明かして、観客をアッと驚かせたいわけだ。

前半の展開は、観客に「この映画は〇〇ジャンルだな」と思い込ませるための、にせ物の展開、目くらましだ。

では、ブレードランナー2049は、何から何へのジャンル切り替え映画なのか。

  1. 貴種流離譚」「父子もの映画」と思い込ませておいて……
  2. じつは「底辺男の意地」映画

というドンデン返しの映画だった。

前半部「貴種流離譚」「父子もの」というミスリード

貴種流離譚というのは、

  1. 特別な血を受け継いだ高貴な身分の赤ん坊が……
  2. 何らかの事情で親と別れ、貧しく卑しい身分として育てられ……
  3. 成長して、放浪の旅に出て、
  4. 最後は自分が高貴な血筋である事に気付き、
  5. 本来の地位を取り戻して幸せに暮らす。
  6. めでたし、めでたし。

という物語の事だ。

何千年も前から、世界のあらゆる場所で語り継がれて来た物語で、いちいち例を出すのも面倒くさいぐらいだが、有名なSF映画で言えば「スター・ウォーズ」なんかはその典型だ。

……で、このブレードランナー2049も、いかにも「貴種流離譚」「パパを訪ねて三千里」的な展開で、観客を騙す。

つまり「結局、みんなが探し回っていた子供はライアン・ゴズリング自身で、最後に父親ハリソン・フォードと『パパ、会いたかったよ』とか言いながら抱き合って、めでたし、めでたし、ってなるんだろ」と思わせて、油断させるわけだ。

「30年前に死んだ女性レプリカントの骨が発見され、どうやらその女性レプリカントは赤ちゃんを産んだらしいと分かって、一同どよめく」って冒頭シーンから、正直、私も油断しちゃってましたよ。

「はいはい……この、30年前に生まれた赤ちゃんが、今回この映画の『マクガフィン』ね……良いもん悪もん、みんなで、この赤ちゃんの争奪戦を繰り広げるわけだ」

「そんで、目の前には、ちょうど30歳くらいに見えるライアン・ゴズリング君が居ます、と……もう、バレバレですね」

「しかも、ゴズリングくん、バーチャル彼女に『あなたは特別よ』とか言わせて、孤独な底辺男特有の『どうせ俺なんか、会社辞めたって直ぐに別の誰かが補充されちゃうような、量産型ザクみたいな存在ですよ……ああ、せめてシャア・ザクくらいの特別感は欲しいよ、俺自身……』みたいな哀愁漂わせているとなれば……このスペシャル・ベイビーはゴズリング君で決まりだね!」

前述したように、この映画の2時間40分という上映時間に耐えられず退屈してしまった人も多かったようだが、もしかしたら、それは単に尺の長さだけの問題ではないのかも知れない。

観客は、物語の序盤早々に「主人公をはじめとして登場人物みんなが必死で探し回っている30年前の赤ん坊の正体は、じつは当の主人公自身」という思い込みを持ってしまう。

そして、その思い込みが覆されないまま物語終盤まで進んでしまうから、その「正体バレバレの赤ん坊」を巡ってのドタバタ劇が、だんだん白々しく思えてくる。

私は、この「30年前の赤ちゃん=実は主人公」を巡るドタバタ劇(というミスリードされた思い込み)に飽きて以降、ストーリーを追うよりも背景の美術を堪能する事に意識の比重を移したから、幸いにも映画に飽きることはなかった。

その一方で、長尺のわりにシンプルすぎるストーリー展開に飽きちゃう人がいても仕方ないかな、とも思っていた。

ところが、物語の終盤にジャンル切り替えのドンデン返しが待っていた。

この物語の一番のキーポイントは、間違いなく、物語終盤の以下のシーンだ。

ライアン「あ、どうも、初めまして」(パパ、会いたかったよ……)

ハリソン「お、おう……」(こいつ誰だよ)

どかーん!

爆発とともにクソ女登場。

腹こわして動けないライアンの目の前でハリソン・パパを拉致。

しかも、このクソ女、ライアンが手塩にかけて育てたバーチャル彼女育成シミュレーション・ゲームの大切な育成データ入りUSBメモリーを、ついでに踏み潰して去っていく。

ライアン「何すんだ、このクソ女! ……ガクッ」(気絶)

革命軍のアジト

革命軍のリーダー「ハリソン・パパから大事な女の子の情報が漏れる前に、パパを奪還しなくては」

ライアン「え……? 赤ん坊って、女の子なんすか?」

リーダー「あれ? もしかして、ライアン君、自分のことだと思ってた? 自分こそがスペシャル・ニュータイプ・スーパー・ウルトラ・ハイパー・次世代型レプリカントだと思ってた? ぷぷぷっ」

ライアン「べ、別に……」

リーダー「そりゃ、誰でも自分がスペシャルだと思いたいよねぇ……」(でも、あんた、ただの量産型だから)

ライアン「……」

ここで、今まで典型的な貴種流離譚だと思って観ていた観客は、ガーンとなる。

『世の中の誰からも必要とされていない孤独な青年』という主人公の属性は、あくまで世を忍ぶ仮の姿で、実は彼こそがレプリカントたちを革命に導く『神の子』だ! ……と、ずーっと思ってきたのに、「やっぱり彼は『世の中の誰からも必要とされていない孤独な青年』そのまんまでした」と言われて「えっ?」ってなる。

唯一、自分を必要としてくれ(るように育成してい)たバーチャル彼女(育成シミュレーションゲームのデータ)も、クソ女に殺されて(破壊されて)、もうこの世に自分の存在価値を認めてくれるものは無い。

ここで、いきなり「孤独な底辺男の意地の物語」が発動する。

主人公が、しょんぼり肩を落として橋の上を歩いていると、巨大な全裸女の3D映像が「ハンサムなお兄さ〜ん、私と遊ばな〜い?」と誘ってくる。
その姿は、主人公が手塩にかけて育成し、敵のクソ女に殺されて(データを破壊されて)しまったバーチャル彼女にそっくりだ。
……しょせんバーチャル彼女はバーチャル彼女。幾らでもコピー可能な単なるコンピュータ・ソフトウェアに過ぎない。
個々の「データ」の尊厳なぞ無きに等しい。
主人公は、その残酷な事実を、目の前の巨大な彼女(いや、彼女そっくりの3D映像に)突きつけられる。

この世の中で、ほとんど価値のない存在であるという点は、主人公自身も同じだ。

どうやらレプリカントの外見や性格にはそれぞれ個性があるようだが、しかし、だからといって「都会の片隅に生きる孤独な男」である主人公に、何か抜きん出た特別な属性があるわけでもない。

生まれながらにしてレプリカント達から「我が民族の希望の光」として崇められ、命がけで守護されている女……デッカードとレイチェルの娘のような存在ではない。

その事実を……どこまで行っても自分は何の特別性も持たない使い捨ての「量産型」に過ぎない、という事実を、死んだバーチャル彼女そっくりの3D映像によって突きつけられた主人公は、逆にそこで開き直り、何の利益も見返りも無い闘いに、ただ「男の意地」だけで命をかけて挑む決意をする。

「ちくしょー、やってやる! やってやるぜ! 見てろよクソ女! 会社辞めても悲しんでくれる同僚の一人も居ないような、そんな使い捨ての量産型ザクみてぇな俺だけどよぉ、底辺には底辺なりの男の意地ってもんがあるんだ! 首を洗って待ってろ! クソ女め!」

そして、見事ミッションを達成し、ハリソン・パパを娘のいる研究所に送り届け、「俺だって、やれば出来るんだ。一寸の虫にだって五分の魂があるんだぜ」という事を、他でもない自分自身に証明して見せ、満足の中で静かに死んで行く。

貴種流離譚」で始まり、「底辺男が意地と命をかけて闘う物語」で終わるというジャンル切り替えは、ひょっとしたら世界初なのではないか?

それは、別の言い方をすれば「レプリカントというマイノリティ民族のアイデンティティの物語」に見せかけて始まり、終わってみれば、実は「(レプリカントとか人間とかに関わらず)社会の底辺で暮らさざるを得ない孤独な個人のアイデンティティの物語」だった、という事だ。

日々世界中で封切られている膨大な数の映画の極一部しか見ていない私ごときが軽率なことは言えないのだが……いずれにしろ、このブレードランナー2049の(ストーリー上の)目新しさは、この一点に集約されるのではないだろうか。

逆に言えば、ストーリー上の他の部分は、それほどスリリングでも無い。

「ロボット・人造人間のアイデンティティの物語」って言っても、それ自体は過去に何百回となく語られてきた物語だろうし。
逆に「社会の片隅に生きる平凡な男のアイデンティティの物語」だけでも、それも今まで何百回となく語られてきた物語だろうし。

その二つを組み合わせた「ジャンル切り替え映画」であるという事、その切り替えポイントが、この映画の見所だろう。

「一人の男が報われない努力をする」っていう話は、あんまり需要がないかもしれないな。

まあ、大部分の人は、気持ち良くなるためにエンターテイメントに足を運ぶんだからね。

本人の努力だろうと、隠された血筋だろうと、何でも良いから、最後は社会的階層を底辺から一気に頂点へ上り詰めて終わって欲しいと、普通の人は思うかもしれないな。

気になったこと。スピナー壊しすぎだろ。

スピナーとは空飛ぶパトカーのことだが……

墜落したり破壊される度に、次のシーンでは、しれっ、と新車で空を飛んでいるのは、どういうことなんですかね。

最後の出撃なんて、警察クビになった後だろ? あのパトカーって、まさか警察からチョロまかして来たのか?

気になったこと、その2。ハリソン・パパが拉致られたシーンで、クソ女は何でライアンに止めを刺さなかったの?

普通、確実に殺しておくでしょ? 殺しておかないと後々メンドーな事になるでしょ?

気になったこと、その3。レジェンドが何かする度に、ドキドキする。

まあ、レジェンドってハリソン・フォードのことなんですが……

まさかハリソン・フォードが誰かを殴るシーンでこんなにドキドキするとは思わなかった。

「そ、そんなに力一杯殴ったら、ハリソンお爺ちゃん、心臓が止まっちゃうよ!」

殴って「心臓発作が起きないか」とハラハラし、殴られて「心臓発作が起きないか」とハラハラした。

クライマックスで、ハリソン・フォードの顔が水面から出たり沈んだりしてるところなんて「おいおい『撮影中にご臨終』なんて、マジでシャレにならんぞ」と、そっちの方が気になって映画の本筋に集中できなかったよ。

まあ、冷静に考えれば、そんな事あり得ないんだけどね。

監督について。

ドゥニ・ヴィルヌーヴって何かF1レーサーみたいな名前だなー、って思って検索してみたら、ああ「プリズナーズ」の監督か……あれ良い映画だったな。

スターウォーズ」とかヒーローもの映画みたいな「生まれながらに神から特別な能力を授かった英雄たちの、勝利と栄光の物語」よりは、「特別なものは何にも持っていない平々凡々な男の哀しみの物語」みたいなのが得意な監督なのかね。

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指定した色が反映されないブラウザ

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それ以外のブラウザの最新バージョンなら問題なく反映されると思います。

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