――― 仕切り直し ―――
――― 仕切り直し ―――
映画「聲の形」について。(ネタバレ)
- 出版社/メーカー: ポニーキャニオン
- 発売日: 2017/05/17
- メディア: Blu-ray
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注意。ネタバレあり。
未見の人は注意してください。
本作品に対する批判について。
曰く「聴覚障碍者のヒロインが、まるで聖人のように描かれているのは、おかしい。これは『聖母のように清らかな心の障碍者ヒロイン出しときゃ、みんな感動するだろ』っていう感動ポルノではないのか」
この映画の感想が書かれた記事をインターネットで検索すると、時々、このような批判的な記事やコメントを見かけることがある。
ある芸術作品を鑑賞して何を思い、どう評価するかは鑑賞した者の自由なので、それ自体にどうこう言うつもりはない。
……が、上に記したような感想を持った人は、この物語を読み違えているような気がする。
少なくとも、私の解釈とは違う。
その辺を解説していきたい。
本題に入る前に、アニメーション映画「聲の形」に対する私の評価を書く。
今から、ほぼ一年前に劇場で見た。
どの劇場で見たかは忘れてしまったが、劇場公開時に、どこかのシネマ・コンプレックスで見た。
私は原作漫画を読んでいない。
だから、アニメーション映画「聲の形」に対する評価は、純粋に映画としての評価のみということになる。
良い作品だとは思ったが、しかし、飛び抜けて素晴らしいという感じはしなかった。
悪くない映画だとは思ったが、ちょっと話運びが「ぎこちない」と感じた。
その「ぎこちない感じ」の原因が何によるものかは分からなかったが、何かギリギリのところで、ちょっとだけスムースさを欠いた話運びだなと思った。
本題。この物語のヒロインのキャラクターについて。
「まるで聖女のような非現実的な障碍者を登場させて安易な感動を買おうという、いわゆる『感動ポルノ』ではないのか」
と思っている人は、私とは、根本的な部分でヒロインの解釈が違っている。
この映画のヒロイン設定は「女神様」設定じゃないだろ。「うざい女」設定だろ。
つまり自殺願望も含めて、思春期特有の面倒臭さ全開の「面倒臭い女」だろ。
そう解釈しないと、後半に飛び降り自殺しそうになったことも含めて、物語の整合性が取れない。
このヒロインは、いわゆる「中二病」的な思春期特有の精神状態をこじらせてしまった結果、好きな彼氏とのコミュニケーションも上手く出来ず、相手の都合も考えずに自分の殻に閉じこもってみたり、そうかと思うと、ぐいぐい相手に近づいてみたりする「うざい女」だ。
「聖女」なんかじゃない。
そう解釈しないと、この物語は成立しない。
(まあ、歴史上の実在の聖女、聖人、英雄などという人たちも、実は、今風に言えば中二病をこじらせたまま大人になった人たちなのかもしれない……という逆説は有りうるが……それはこの記事の主旨ではない)
この物語のメイン・テーマ
思春期の精神状態をこじらせて周囲の人間とのコミュニケーションがうまく取れなくなってしまった『面倒くさい性格の少年』
……と、
同じく、思春期の精神状態をこじらせて周囲の人間とのコミュニケーションがうまく取れなくなってしまった『面倒くさい性格の少女』
が……、
ひょんな事から再会し、大した理由もなく恋に落ち、その「大した理由もない思春期の恋」を取っ掛かりにして、お互いに理解し合おうとし、ひいては周囲の人々と理解し合おうとし、ひいては社会の中で他人とコミュニケーションを取りながら生きていこうと努力する……というのが、この物語の骨子だろう。
ちなみに、思春期の恋には大した理由は無い。
しいて理由をあげれば、第二次性徴期の異常なホルモン分泌量か……
大人の恋には、ちゃんと理由がある。おっぱいとか、おっぱいとか、おっぱいとか、尻の形とか。
女だったら、男の年収とか、男の年収とか、男の年収とか、男のちんこの長さとか。
この主人公カップルも、やがて大人になり、それぞれ別々の道を歩み、そこで人生を共にすべき「別の相手」と出会う事になるのかもしれない。
あるいは、このまま大人になってそのままゴールインするかもしれない。
いずれにしろ、思春期の大した理由もない恋であっても、それをきっかけに社会と少しずつ向き合っていこうと努力するなら、それはそれで尊重されるべき彼ら自身の判断だ。
……話が逸れた。元に戻す……
一部の批判者がいう「ヒロイン=聖女のような清らかな性格の障碍者」設定では、この物語は成立しない。
少女が「女神さま」として設定されていると言う解釈では、主人公の「思春期をこじらせちゃった面倒臭い少年」が、一生懸命に他人との関わりを取り戻そうとするモチベーションが発生しない。
物語として成立しない。
後半でヒロインが自殺すると言う展開の辻褄(つじつま)が合わない。
ヒロインと主人公の両方ともが、同じように、他人との距離感が測れず、コミュニケーションが上手く取れず、「自分なんか生きている価値のない人間なんだ」と言う気持ちを潜在的に常に持ってるからこそ、この二人は、きれいな対称になるわけだし、同じく「中二病」をこじらせて不登校になっていた男装の妹が、主人公とヒロインが分かり合えそうなのを見て自分も復学すると言うサブストーリーとの対称も成立すると言うものだ。
繰り返して書くが、
この物語は「女神様のような清らかな心のヒロイン」と言う設定では成立しない。
「他人との距離を上手く測れない、コミュニケーション下手の、しかも自殺願望のある面倒くさい女」と言う設定じゃないと、そもそも物語として成立しない。
ヒロインがコミュニーケーション下手であることと、彼女が聴覚障碍者であることとは関係ない。
……いや、関係が無いと言い切ってしまっては、行き過ぎか。
ひょっとしたら、ヒロインのコミュニケーション下手や自殺願望と、彼女の持つ障碍とは間接的には関係があるのかもしれないし、無いかもしれない。
しかし、そんなことはこの物語の本質ではない。
本作品のメイン・テーマは
「子供から大人への成長過程にある思春期の少年たちがコミュニケーション能力(=社会性)を獲得しようと藻掻(もが)く」
という事だろう。
聴覚障碍者というヒロイン設定について。
確かに「あざとい感じ」が全く無いっちゃ、嘘になる。
ヒロインの障碍者設定だけでなく、この物語の登場人物全体の設定(例えば性格とか家庭環境とか)には、正直、「あざとさ」が有るわな。
ヒロインが聴覚障碍者というのは、話の本筋とはあまり関係のない設定なわけだが、ヒロインが聴覚障碍者として設定されている事で、「思春期の少年少女が社会性(=コミュニケーション能力)を獲得しようと努力する物語」という作品のテーマが際立つ……と、そういう作劇上の〈機能〉は有るのかもしれない。
「障碍者」という属性を、物語に抑揚をつけるための「小道具」として使っているわけだ。
でもそれは、例えば「座頭市」なんかも同じでしょ。
座頭市が視覚障碍者であるという設定は、主に殺陣に独自性を出すためのものであって、作品のテーマとは何の関係も無い。
そして、座頭市が「視覚障碍者感動ポルノ」だなどという話は聞いたことがない。
それと同じレベルで、この物語のヒロインが聴覚障碍者であるという事と、この作品のテーマとはあまり関係がない。
だから例えば、このヒロインが聴覚障碍者ではなく「眼鏡っ娘のコンビニバイト店員」だとしても物語は成立する。
逆に言えば「ヒロインは眼鏡っ娘のコンビニバイト店員」という設定が許されるなら、同じレベルで「ヒロインは聴覚障害者」という設定でも別に構わないだろ、という事だ。
「眼鏡っ娘のコンビニバイト店員」の物語だとしても、ことさら「眼鏡っ娘ポルノ」「コンビニバイト店員ポルノ」と言って騒ぎ立てる必要が無いのと同じように、聴覚障碍者というヒロイン属性だからと言って特別騒ぎ立てる必要も無い。
若者が必死で社会と自分の関係を築こうとする姿を、大人は無下に否定するべきでは無い。
特に、20世紀末……1970年代〜90年代初めに青春時代を送ったオジさんオバさんたちは、この物語の主要登場人物である少年少女たちに向かって、こう言いたいかもしれない。
「社会に迎合なんかするな! 引きこもりだろうが、コミュニケーション能力不足だろうが、中二病だろうが、それも立派なお前の性格だ。それを無理して矯正して、社会に合わせる必要なんかない! 自分に誇りを持て! ありのままの自分をつらぬけ!」
しかし、中二病をこじらせてしまった少年少女たちが、そこから脱して社会性を獲得しようと決心したのなら、それはそれで尊重すべき彼ら自身の、彼ら独自の、立派な意志であり選択だ。
(追記)大人の役割
私は、この記事を「大人は子供たちが社会性を獲得しようとする努力を暖かく見守るべきだ」という一文で締めくくろうと思ったのだが、それも何か違うような気がするので、書き直すことにした。
この物語が「少年たちが徐々に社会性を獲得して自ら大人になろうとする物語」だとしたら、やはり大人の役割は重要だろう。
大人とは、つまり親、教師、地域社会の大人たちだ。
少年たちの最終目的が、「大人社会」という名のプロリーグでそれぞれの居場所を見つける事だとすれば、やはり小学校リーグ、中学校リーグ、高校リーグそれぞれの段階でのコーチ(=大人たち)の役割は重要だ。
少年リーグでのコーチングで重要な事は、
- まずは安全性の確保が第一だ。危険なプレイをしないようコーチングし、彼らが安全圏を逸脱しないか常に監視の目を光らせ、彼らが危険なプレイをしようとしたら直ぐに強制的に介入して怪我を未然に防ぐ。
- ゲームの(ルールブックに明記された)ルールと、マナー(不文律)を教える。
- 基礎的なテクニックを習得させる。
- 子供それぞれの特性にあったプレイスタイルとポジションを探し、探させる。
という事だ。
この物語は、前半が小学校時代、後半が高校時代な訳だが、高校時代というのは、例えば3年生にもなれば一部の学生には選挙権が与えられる年齢で、もうほとんどプロリーグ・デビューが目前に迫っている時期だ。
自動車教習で言えば路上実習が始まっていて然るべきで、この時点で実社会で必要な社会性の八割くらいは持っていてるのが好ましい。
じゃあ何で、主人公たちが高校生にもなって「ボールのパス回し」程度の基礎的な能力獲得に四苦八苦しなければいけないかと言えば、物語の前半部、小学校時代に怪我をした・させてしまったからだ。
これは大人たちが未然に察知し、強制的に介入して防ぐべき事案だったはずで、それをしなかったのは大人たちの怠慢であり、コーチングの失敗だ。
そう言えばこの物語では、小学校教師がこれ以上無いっていうくらいに卑怯な悪者として描かれていたな。
これは教師個人個人の質の問題であると同時に、地域の教育委員会、都道府県の教育委員会、さらには文部科学省つまり国の統治能力の問題であろう。
これ以上は「大人の組織論」の話になってしまって、この映画のテーマから逸脱してしまうので、また別の機会に書きたいと思う。
映画「動くな、死ね、甦れ!」を観た。(ネタバレ)
渋谷ユーロスペースで観た。
この記事はネタバレを含みます。
未見の人はご注意ください。
さて、本作品の感想。
まあ、とにかく、ヤサグレているんだわ。
町すべて……というより世界すべて、画面に出てくる全てがヤサグレてる。
大人も子供も、男も女も、とにかく、どいつもこいつも貧乏で不幸で、道路は未舗装で泥ドロで水たまりだらけで木屑みたいなのが浮いているし、みんな小汚いコート着て、小汚いボロアパートに住んでいるし、どいつもこいつも隙あらば他人の物を盗んだり奪い取ろうとしているし、ダンスホールでは傷痍軍人らしき身体障碍者をみんなで寄ってたかってタコ殴りにするし。
お前ら何でそんなにヤサグレてるんだよ。
日本人捕虜が登場するので、どうやら第二次世界大戦終戦直後の収容所の町が舞台らしい。
ああ、なるほど終戦直後の話か……それにしてもロシア人、ヤサグレ過ぎだろ。
少し前に「野良犬」っていう終戦4年後に公開された日本の映画を見たけど、ここまで町全体がヤサグレてはいなかったぞ。
お前ら、第二次世界大戦では勝ち組のはずだろ?
何で、そんなドン底生活しててヤサグレてるの?
しかも、小学校に行ったら子供たちが泥々の校庭で行進しながら「我らがスターリン様は偉大な指導者〜」みたいな変な歌を歌わされているし……
主人公が、便所にイースト菌を流して肥溜めのウンコを膨張させて校庭に溢れさせるっていう臭さ過ぎるイタズラをして、それが学校側にバレたら、主人公の母親が校長の所に飛んで来て「ウチの子は成績優秀なんです! 数学も得意なんです! お許しを〜、収容所だけはご勘弁を〜」みたいな事を言いながら泣き叫ぶし……
ヨボヨボの爺さんが、小麦の配給にありつけずに、奥さん連中から小麦を分けてもらうんだけど、その大切な小麦を、帰る途中でいきなり水たまりにブチ撒けて泥と一緒にコネコネして、にやにや笑いながら食うっていう恐ろしい展開になった時に、それを見ていた周りの奴らが「可哀想に……モスクワじゃ一流の科学者だったのに、収容所に入れられて頭が変になっちゃって……」とか言ってるし。
全体主義管理社会とスラム街が最強合体した地獄っていうか。
終戦直後のソ連って本当にこんな感じだったのか、それともこの映画が作られたソ連末期、ソ連崩壊直前の世相の比喩なのか……
いずれにしても、あの時代あの国に生きていた人間だけが描ける本物の末世感だろう。
これ見ちゃうと、マッドマックス怒りのデスロードの終末感にしろ、ブレードランナー2049の終末感にしろ、しょせんはディズニーランドのアトラクションでしか無いような気がするよな。
なんだかんだ言って、資本主義社会で幸せに育ったお坊っちゃんの想像力でしか無いというか。
ヒロインは、そんなヤサグレ世界に降り立った天使……
……っていうよりは、姉さん女房っていう感じだったな。
「私がちゃんと後始末しといてあげたわよっ、もうっ、ホント、私がいないとダメなんだからっ」
みたいな感じ。
しかもまだ小学生なのに、
町から逃げ出す彼氏(=小学生)に、「私も連れて行って」と言って縋(すが)り付いたのに、結局、彼氏(=小学生)に捨てられて、その挙げ句に追いかけて来た警察犬に噛まれる……という経験をしていながら……
夏になったら彼氏(=小学生)の住む街へ一人で訪ねて行って「迎えに来てあげたわよっ! さあ、帰りましょ!」って言う健気さ。
いずれにしろ、大人も子供も男も女も皆が皆、一人残らずヤサグレている世界で、たった一人、まともな感性を持った人間として描かれていた。
しかし、そんなヤサグレ地獄にまともな感性の少女が生きる場所などあろうはずもなく、結局、天使は天に帰るしかなかった、ということか。
最後のシーンは、ちょっと俺にも良く分かんない。
天の声「おい、カメラマン! 子供はいいから、女を追いかけろ!」
女(すっぽんぽんで箒にまたがって)「ヒャーッハッハッハ」
俺「……」(?????)
追記。最後のシーンについて。
この物語全体が、実は「シベリア収容所のある街での暮らし」みたいなドキュメンタリー映画でした……っていうオチなのかもしれないな。
でも、本当のところは分からない。
以下、余談。
ちゃんとした(日本語の)ホームページが無いようなので、仕方が無いからWikipediaのURLを貼っておく。
配給会社のページも一応あるのだが、専用のURLではなく、トップページの一部で「最新公開映画」として紹介されているだけなので、おそらく公開終了とともに削除されると思われる。
それだったら、WIkipediaの方が永続性という意味で少しはマシかと思う。
映画「IT それが見えたら、終わり。」を観た。(ネタバレ)
この記事はネタバレを含みます。
未見の人は気をつけてください。
私は、スティーブン・キングの原作も、1990年のテレビ映画も見ていない。
以下に述べるのは、純粋に2017年公開の劇場映画「IT それが見えたら、終わり。」単独の感想である。
いつものハリウッド娯楽大作映画。それ以上でもそれ以下でも無い
エンドロールが終わって劇場が明るくなった時の感想は、「よくあるハリウッド娯楽大作映画。それ以上のものは無い」というものだった。
いつもの、ハリウッド娯楽大作映画お決まりの……
週刊少年ジャンプみたいな「友情、努力、勝利」の物語。
「仲間ってマジ最高」
「遺伝子で繋がった親子より仲間の方がマジ大事」
いつもの、ハリウッド娯楽大作映画お決まりの……
「明るい面ばかりではなく、心に悲しみや傷や弱さを抱えた陰影のある登場人物たち」
「自らの心のダークサイドを克服する物語」
いつもの、ハリウッド娯楽大作映画お決まりの……
「お決まりの場面で鳴り響く、お決まりの音楽と効果音」
美しいシーンでは、どこかで聞いたことがあるような美しい音楽。
不気味なシーンでは、どこかで聞いたことがあるようなバイオリンの不協和音。
ネバネバした物体に対しては「くちゅくちゅ、にちゃにちゃ」という、いつもの効果音。
突然敵が現れて「どーん」
いつものハリウッド娯楽大作映画と同じく、上に書いた特徴は全て、観客に「そこそこの満足感を与える」ために計算されつくしたもの。
少なくとも「支払った入場料と、映画館で過ごした2時間なり3時間は、無駄ではなかったな」という程度には満足感を与えてくれる親切設計。
しかし「観客の魂を揺さぶり、心を鷲掴みにする」には程遠い。
今のハリウッド娯楽大作につきまとう「それ以上でも、それ以下でも無い」感。
言い方を変えると、どうしても「良いにつけ、悪しきにつけ」という修飾語を付けざるを得ない「今風のハリウッド娯楽大作映画」感。
つまり、
- よく計算されているストーリー。
- ダークサイドも含めて、よく計算されたキャラクター設定。
- 金が掛かっているからゴージャス感がある。
- とりあえず、1800円の入場料と、映画館で過ごした時間が無駄になったとは思わせない、そつの無い作り。
しかし、じゃあそれ以上の魂を揺さぶるような何かがあるかといえば、それも無い。
「ま、良いんじゃないですかね……」という感想以上のものが、なかなか出て来ない。
よかった点。
田舎町の周辺の自然が美しかった。
田舎町の周辺に広がる森や、子供たちが水遊びをする川が美しく、目の保養になる。
「アメリカのどこにでもあるような(しかし、実際にはどこにもない)田舎町」の物語というのはハリウッド製ホラーの定番なのだが、アメリカは広いから、同じ田舎でも荒涼とした砂漠の真ん中にある田舎町とか、トウモロコシ畑が延々続く中にポツンとある田舎町とか、映画によってバラエティーに富んでる。
今回の田舎町は、例えば「ゲット・アウト」と同じ「森の中にある田舎町」系の舞台なのだが、「ゲット・アウト」が恋人の家周辺のごく限られた場所で進行する一種のシチュエーション・ホラーで、森という存在を孤立した主人公を取り囲む不気味さの象徴として描いていたに対し、この「IT〜」は「美しく牧歌的な背景の中で繰り広げられる陰惨な事件」という対比を強調した作りになっていた。
そのため、ちょっとあざといぐらいに自然の美しさが強調されていたが、それでも美しいものは美しいので目の保養になった。
少女がブラジャーとパンティーだけの姿で日光浴をしているシーンで、ガン見していた少年たちが、あわてて目を逸らすシーンは笑ってしまった。
ベタネタですけどね。やっぱり、ああいうプチ下ネタは笑ってしまう。
いつも通り、子役たちの演技は良かった。
もう子役っていうのは子役であるってだけで、良い演技をする事が約束されたようなものですね。
ピエロの口の中から化け物の口が出てくる感じは気持ち悪くて良かった。
エイリアンなんかと同じように、今回のピエロも「口の中から口が出てくる」系の化け物なのだが、その気持ち悪さはエイリアンよりも上だと思った。
ラスト・シーンの、美しい自然の中で子供たちが輪っかになって手を繋ぐシーンは良かった。
美しい自然の中で、子供たちが美しい事をする……もう、それだけで美しいでしょ。
以下、余談。
リンクを張って気づいたが、公式ウェブサイトのURLがサブディレクトリ形式だった。
つまり、個々の映画が独自にドメインを取得するのではなく、ワーナーブラザーズ・ジャパンという配給会社のドメインがあって、そのサブディレクトリとして、個別の作品である「IT」のホームページがあるという形式だ。
これは、なかなか好感の持てる政策だ。
私はURL、あるいはドメイン名にとって最も重要なことは「永続性」だと思っている。
つまり、ひとたびそのURLがこの世界に設定されたのなら、未来永劫、そのURLはこの世界に存続するべきだと思っている。
なかなか現実的には難しいかもしれないが、少なくとも「心意気」の点ではそうであるべきだと思う。
そうしないと、例えば、この感想記事で張ったリンクが劇場公開が終わると同時にリンク切れを起こす、というような事になってしまう。
リンク切れは最悪だ。
劇場公開終了後も、あらすじと「この映画の劇場公開は終了しました」の一言だけのホームページでも良いから、せめてURLだけは永続させて欲しいと思う。
その一方で、毎週、毎月、毎年公開される何十、何百、あるいは何千という映像作品が、それぞれ独自にドメイン名を取得している。
毎年毎年、無数に公開され続ける自社の作品すべてに対し、配給会社はいちいち独自のドメインを取得し、過去に取得したドメインも含めて毎年使用料を払い続け、メンテナンスし続けるつもりなのだろうか?
過去に取得したドメインの累積の上に、新たな映画のドメインを毎年毎年、追加し続けるつもりなのだろうか?
私は、そんなことは現実的ではないと思うし、また、よく言われるインターネット・アドレスの枯渇という観点からも有害だと思う。
そんなことをするより、各配給会社なり制作会社が、会社として一つのドメインを持ち、そのサブディレクトリに個々の映画のホームページがある、という構造の方が健全だと思う。
年月が経過し、配給元なり管理会社なりが変更された映画については、元のホームページには「この映画の管理責任は弊社から〇〇配給会社に移りました」という一言と、移管先の会社のへのリンクを貼って置けば良い。
映画に限らず、日々この世界には何万という商品が生み出されては消え、生み出されては消えている。
その一つ一つの商品に対して個別のURLが紐づけられている状態が理想ではあるが、しかし、個々の商品が「ドメイン名」まで取得するのは、少々やりすぎのような気がする。
私は私自身のために「aobadaiakira.jp」というドメイン名を取得し、そのサブディレクトリにて小説を公開しているわけだが、個別の小説一つ一つにまで個別のドメイン名を当てがおうとは思っていない。
つまり、そういう意味だ。
静的サイト・ジェネレータを作り直している。
私は自分のドメイン「aobadaiakira.jp」の記事生成に自作の静的サイト・ジェネレータを使っている。
今、それをイチから作り直している。
そのSSGが完成するまでの間、一時的に記事の投稿を控えようと思っていた。先日劇場で観た映画「IT それが見えたら、終わり。」についての感想も、自作のSSGが完成した段階で「aobadaiakira.jp」と「はてなブログ」に同時投稿するつもりだった。
しかし、劇場公開映画というのは、ある種の「なま物」であるだろうし、旬を過ぎてしまってから感想を投稿するというのも何となく違う感じがするので、先行して「はてなブログ」に感想を書くことにした。
「取り急ぎ」……というやつだ。自分のドメインへは後で転記すれば良いだろう。
映画「ゲット・アウト」を見た。(ネタバレ)
歌舞伎町の東宝で見た。
この記事はネタバレを含みます。
未見の人は気をつけてください。
静的サイト・ジェネレータを作り直している。
私は自分のドメイン「aobadaiakira.jp」の記事生成に自作の静的サイト・ジェネレータを使っている。
今、それをイチから作り直している。
そのSSGが完成するまでの間、一時的に記事の投稿を控えようと思っていた。先日劇場で観た映画「ゲット・アウト」についての感想も、自作のSSGが完成した段階で「aobadaiakira.jp」と「はてなブログ」に同時投稿するつもりだった。
しかし、劇場公開映画というのは、ある種の「なま物」であるだろうし、旬を過ぎてしまってから感想を投稿するというのも何となく違う感じがするので、先行して「はてなブログ」に感想を書くことにした。
「取り急ぎ」……というやつだ。自分のドメインへは後で転記すれば良いだろう。
さて、本題「ゲット・アウト」の感想。
いや、ちょっと油断しちゃったな。
油断して、予告編やら「ロッテン・トマトで驚異の99点」みたいな煽り文句を真に受けちゃって、期待しすぎた。
やっぱり、あの予告編の、往年の竹中直人も真っ青な「笑いながら泣く家政婦さん」はインパクトがあったからな。
それで「すげーっ」て思って、観る前からちょっと期待しすぎた。
- どんな映画でも予告編だけは面白い。
- 「全米興行収入第○位獲得!」 みたいな煽り文句は信用するな!
と言う鉄則を忘れていたよ。
……で、映画館で観た結果は、と言うと……
「まあ悪くないけど、期待した程でもなかった」と言うのが正直なところだ。
これが……
「何の予備知識も無しに『低予算ホラー映画でも観るか』くらいの気持ちでフラリと映画館に入ってチケットを買った」
……っていう感じの出会いだったら、なまじ期待していなかった分、予想以上に面白く感じられて、幸せな気持ちで映画館を後にできたかもしれない。
観る前から期待していたがゆえに、そのぶん要求する面白さの基準が高くなりすぎて、映画が終わった時には「まっ、こんなものか……」と言う若干の残念感を抱いて映画館をあとにする格好になってしまった。
別に悪い映画という訳ではない。割と良く出来ている方だとは思う。
しかし、だからと言って、辛口と言われるロッテン・トマトで99点を取るほどの物でもなかろう。
70点くらいが妥当なところか。
良かった点。やはり俳優の演技は素晴らしかった。
前述した「笑いながら泣く家政婦」役のベティ・ガブリエル、下男役のマーカス・ヘンダーソン、金持ちおばさんの若いツバメちゃんを演じたキース・スタンフィールドの三人は素晴らしかった。
要するに、この三人は、脳手術を受けて本来の人格と移植された人格の両方を持つ一種の二重人格者達なわけだが、その精神的にちょっと歪んだキャラクターを見事に演じていた。
例えば、キース・スタンフィールドは、物語の冒頭で暗い住宅街の通りを歩いている時には、ごく普通のカジュアル兄ちゃんといった感じだった。
それが田舎町で再登場した時には、金持ちおばさんに連れられて歩くナヨナヨした物腰のツバメちゃんを見事に演じていた。
あまりの違いに最初は同一人物だと気づかなかったくらいだ。
このキース・スタンフィールドという人は、あの悪名高い「ネットフリックス版デスノート」にL役で出演しているらしいが、一体どんな演技をしているのかちょっと興味が出てきた。
同じく二重人格者の表現といえば、下男役のマーカス・ヘンダーソンも素晴らしかった。
切り株の上で薪を割っているシーンでの、何ともいえない気持ち悪さも最高だが、物語のラストでフラッシュを浴びて、一瞬、本来の自分に返った時の演技が素晴らしい。
演技というより、ただそこに立っているだけなのだが、その立ち姿だけで「本来の人格を取り戻した」というシッカリした感じを見事に表現していた。
何も言わなくても、ただそこに立っているだけで、昼間の気色悪い男とは別人格である事を観客に分からせるとは、どんな魔法を使ったんだと思ってしまう。
ベティ・ガブリエル、
マーカス・ヘンダーソン、
キース・スタンフィールド。
三人とも「ゲット・アウト」で初めて知った名前だが、これ以降、要チェックすべき名前として、私の記憶に残るだろう。
しかし、どんなに素晴らしい俳優でも、顔芸だけで1時間半の映画を持たせることは出来ない。
前半こそ、映画の醸し出す不気味な雰囲気にワクワクし、俳優たちの気色悪い演技にワクワクしていた。
しかし、いつまでたっても事前に予想した範囲以上のことが起きてくれない。 徐々に、ワクワク感も、ドキドキ感も、しぼんでいってしまった。
終わってみれば、
「やっぱりボディー・スナッチャーものの変種でしたか……まあ、よく出来ているとは思いますが……」
という以上の感想はなかなか出て来ない話だった。
いつまでたっても想定の範囲内じゃあ、困るんです。
観客は、予告編を見て、そこにある情報を読み取り、ある程度「こんな話なのかな」と予想を立てて映画館に行くわけだ。
私なりに予告編を要約すると、
「都会の若いカップルが田舎に行ったら、住民みんな、どこか変」
という感じだったと思う。
この予告編から素直に考えれば、誰もが、
「ボディー・スナッチャーもの」か、
「村人全員カルト教団もの」
の、どちらかかな? という予想を持つと思う。
例の、家政婦さんの「泣きながら笑う顔」も、彼女は何らかの方法で住民たちに支配されていて、本心を言いたいけど言えない葛藤をこの「泣きながら笑う顔」は表しているんだな……というくらいの予想は誰しもが持つと思う。
さすがに、別人の脳を外科的に移植されていたというのは予想できなかったが、それが分かったところで「ふーん、なるほどね」という感想しか出て来ない。
例えば、恋人も実はグルだった、というサプライズにしても、観客がいくつか想定したオプションの中に入っている可能性が高いのではないだろうか。
別に最初から確証があったわけではないが、この手のサスペンスに「意外な犯人」「意外な共犯者」を設定するのは常套手段なので、「ひょっとしたら……」という想定の中には、当然入っていた。
別に、何が何でも「意外な展開」や「意外な結末」が必要、と言っているわけじゃない。最後まで持続する「ホラー的」緊張感が欲しいだけだ。
前半、俳優たちの演技力で不気味な田舎町の雰囲気を醸した、そこまでは良い。
そこからが問題だ。
物語の中盤、「この町は異常だ! この町から逃げよう!」と主人公が思ってからが、この手の映画の「本当の腕の見せ所」だろう。
ところが「ゲット・アウト」は、後半に描かれる追う者と追われる者との葛藤、その積み重ねに、今ひとつ「ホラー映画としての」迫力が無い。
時間が経てば経つほど、敵の親玉である一家が、どんどん「怖くない存在」になっていく。
例えば、
「破れた椅子の中から棉がはみ出しているのを主人公が意味ありげに見つめる」
というカットがある。
もちろんこれは、主人公が機転を利かせて危機を脱出するというサインだ。
しかし、よく考えて欲しい。
これがアクション・アドベンチャーなら、このあと知恵を働かせて危機を脱した主人公に拍手喝采でも送れば良いだろう。
しかし、この「ゲット・アウト」はホラー映画だ。
主人公が機転を利かせて危機を脱出できる予感を事前に観客に与えたら、どうなるか?
主人公の頭の良さより、むしろ敵の頭の悪さ、ひいてはキャラクターとしての弱さを露呈させてしまう。
それではホラーとしての緊張感が緩んでしまい、観客は白けてしまう。
アクション映画の脱出劇と、ホラー映画の脱出劇は違う。
アクション映画の脱出劇は「どんなに危機的な状況でも、ギリギリの所で主人公は脱出に成功する」という爽快感を売り物にする。
しかしホラー映画の脱出劇は「どう足掻いても絶対に抜け出せそうも無い絶望的な状況」を売り物にする。
この「ゲット・アウト」後半の脱出劇においては、残念ながら前者が選ばれていた。「ホラー映画」を標榜しているにも関わらず。
そうは言っても、この映画には「良く出来ている感」はある。
別の言い方をすれば「手先の器用さ」とでも言おうか。
そういう意味では、別に悪い映画じゃない。
最後にもう一度。
最後にもう一度書く。
催眠術をかけられ、脳移植を受けた人々を演じた役者たちの演技力は、やはり素晴らしい。
こういうしっかりした演技を見せられると、アメリカ・エンターテイメント業界の層の厚さと豊かさを改めて思い知らされる。