ネタバレ! 小説と映画の感想‐青葉台旭

小説と映画のネタバレ感想が書いてあります。メインのブログはこちら http://aobadai-akira.hatenablog.com/

まじか……「ブレードランナー2049」の背景は、ミニチュアだったのか……

……てっきりフルCGだと思っていたわ。

ニュージーランドのウェタ社とかいう会社が作ったらしい。

ウェタ社ホームページ
http://wetaworkshop.com

最近関わった作品
http://wetaworkshop.com/projects/

ブレードランナー2049のページ
http://wetaworkshop.com/projects/blade-runner-2049/

ミニチュア特撮は全てCGに置き換わってしまったというのは、先入観だった

まだまだ、ミニチュア特撮にも費用対効果が見込める部分はあるということか。

ひょっとしたら、大予算の大作映画ほど「実際に『モノ』として美術を作り込む」という贅沢が許される のかもしれない。

つまり、金をかけて細かいところまで作り込めば作り込むほど、CG制作もミニチュア制作なみに人件費が 増えていき、両者の費用対効果の差が無くなっていくということなのかもしれない。

ハリウッドはロサンゼルスにあるという先入観。

映画というものは「芸術作品」としての側面と同時に「商品」あるいは「工業製品」としての側面も ある。

スマホや自動車が世界中の部品をかき集めて世界中の工場で作られているように、ハリウッドを出資元とした 映画のサプライチェーンが世界中に張り巡らされていたとしても不思議じゃない。

既に大部分デジタル化されている現代の映画、その部品たる個々の特撮シーンを、インターネットと 暗号化通信を使ってハリウッドのメジャー配給会社のサーバーに納品という流通体制は充分に可能だろう。

つまり、何が言いたいのかというと

ニュージーランドの特撮工房が未来都市のミニチュアや小道具をハリウッドに納品できるなら、 日本の特撮工房にだって可能だろうという事だ。

ハリウッド映画の「にちゃにちゃ、くちゃくちゃ」と言う効果音が嫌いだ。

あの、粘液質の物を触るときに、わざとらしく発せられる「にちゃにちゃ、くちゃくちゃ」 という効果音、何とかなりませんかね。

今、ネットフリックスで「ストレンジャー・シングス 未知の世界」を観ている。

まだ視聴途中なので全話観たら感想を上げようと思っている。

今5話まで観たところなのだが、おおざっぱに言えば「アキラ風味のIT(イット)」と言った感じだろうか。

ときは1980年代。
ところは「アメリカのどこにでもありそうな田舎町」
主人公たちは、地元の小学校に通う「いじめられっ子オタク少年グループ」

と言う感じで、この設定だけ取れば映画「IT それが見えたら終わり」によく似ている。

それどころか、主演のフィン・ヴォルフハルトは「IT」にも少年グループの1人として出演している。

そのITみたいな基本設定の上で、アニメーション映画「アキラ」とか映画「スキャナーズ」みたいな、 「超能力者を生み出す極秘の研究」「政府(あるいはバイオ企業)の陰謀論」を絡めたドラマが 展開される。

手にシリアルナンバーを刻印された被験者の少女とか、まさにアキラって感じだ。

彼女が念力で男を吹っ飛ばして男が反対側の壁にブチ当たると、壁に円形のヒビが入る所なんか、 もろ「童夢」とか「アキラ」のような往年の大友克洋の作品を思わせる。
……って言うか「ストレンジャー・シングス」の監督、わざとやってるんだろうな。

監督「あー、効果さん……このシーンは『童夢』っぽくしてくれる? 念力で男が吹っ飛ばされて、 壁にブチ当たると、その部分が丸く割れて凹む感じで……そう、そんな感じ」

みたいに指示を出す監督の姿が目に浮かぶ

……しかし……あれだ……
「IT それが見えたら終わり」と「ストレンジャー・シングス 未知の世界」
これだけ似た企画が1年以内に公開されると言うのは「ハリウッド業界裏話」的な何かがありそうだ。

私は、映画「IT それが見えたら終わり」よりも、この「ストレンジャー・シングス」の方が好きだ。

何と言うか……個々のキャラクターが持つ「切実さ」みたいなものが「IT」よりも「ストレンジャー・シングス」 の方が上だと思う。
「IT」のそれは、いかにも「キャラに深みを持たせるために設定しました」みたいなわざとらしさが鼻につく。

息子が行方不明になって頭おかしくなったオバちゃん……

ウィノナ・ライダーかよ……全然わからなかったわ……やはり向こうの役者は演技力で勝負してるんだな。

それは、それとして、例の「にちゃにちゃ、くちゃくちゃ」だ。

ハリウッドのモンスターって、何かっていうと粘液を分泌するんだよ。
そりゃ、粘液は色んな意味で大事だけどさぁ……ちょっとは我慢しろよ。

で、その粘液のアップになると必ず例の「にちゃにちゃ、くちゃくちゃ」っていう、お決まりの効果音が 鳴って、辟易させられる。

それとカメラの手前を不気味な影が通り過ぎる時に必ず被さる「ブォォーン」っていう音。
何だよ、それ。風切り音のつもりか? いちいち大袈裟なんだよ!

粘液の「にちゃにちゃ、くちゃくちゃ」と、怪しい影が走った時の風切り音……ほんと、もう勘弁してくれ!
と、俺は常日頃から思っているのだが、残念ながらこの「ストレンジャー・シングス」もハリウッドの例に漏れず、 この「ありがち」で「大げさ」な効果音を使っていた。

……で、この粘液が「にちゃにちゃ、くちゃくちゃ」っていう音をハリウッドがいつまでも使い続ける理由に 関して、俺なりに仮説を立ててみた。

あいつらは納豆が食えない。

納豆だけじゃなくて、すりおろした自然薯とかもアメリカ人には無理だろ。
もずく、メカブとかのネバネバ海藻類も食ったことねぇだろ。

ネバネバ健康食品を日常的に食っている俺ら日本人からすると、あの「にちゃにちゃ、くちゃくちゃ」って音は、 わざとらしくて白けるんだよ。

あいつら絶対、日本人が納豆食っているシーンにも例の「にちゃにちゃ、くちゃくちゃ」って効果音 入れてくるぞ。

納豆だろうが、山芋だろうが、エイリアンの半熟卵だろうが、絶対にそんな音しないっての。

結論。

ハリウッドの効果音担当者は納豆を食え。そうすりゃネバネバの描写も、ちょっとはマシになる。

映画「ゴジラ対メガロ」を観た。

怪獣映画を好きで良く見るのだが、同好の士の間でしばしば話題に上がる「ゴジラ対メガロ」は観たことが無かった。

先日、この映画を初めてdtvで視聴した。

wikipediaのアドレスを貼っておく。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ゴジラ対メガロ

噂に違わぬ珍作・珍品でした。以上。

……で、終わりにしたいところだが、少し蛇足を。

まあ、dtvでの視聴だったし、珍作という評判も聞いていたし、半ば怖いもの観たさっていうのもあったし、 「これはこれでアリ」と、じゃっかん半笑い気味で許せる感じではあった。

しかし……もし2017年の今、期待に胸を膨らませワクワクしながら、新作としてこの映画を観に 劇場へ行ったとしたら……
という脳内シミュレーションをしてみたら、怒りに奥歯を噛み締めながら劇場を後にする自分の姿が 目に浮かんだ。

それでも最終的には許してしまうだろうが、な。

怪獣映画好きは、ある種「ダメ男に貢ぐ女」みたいな精神状態になってるからな。
ダメ映画を観て、「もうこれで終わりにしようかな……」などと思いつつ、次の作品が公開されると、 懲りずにまた観に行っちゃうんだよな。

それで誰かが、そのダメ映画の……ひいては怪獣映画全体の批判を始めると、
「違うもん! 彼、本当は凄いんだもん! 今はスランプになっているだけだもん!」 とムキになったりして。
それで必死になって「彼のダメなりに良いところ」を探して、反論して、そして家に帰って、我に帰って、 ムキになって反論した自分を振り返って「私、何やってるんだろ」って痛がる所までがお約束だ。

良かったところ

ダムの決壊シーンは流石に良かった。決壊シーンそのものというより「メガロより大きなダム」の、 そのスケール感が素晴らしかった。一方で、主人公が閉じ込められていたコンテナ・トラックはミニチュア然 としていたが。

今さら言うまでもないが、ストーリーは大人の鑑賞に耐えられるような代物ではない

この当時の映画業界を取り巻く状況、その中で、いつの間にか「ゴジラ」という映画が与えられてしまった 「子供を集客するためのキャラクター」という「役割」を考えれば、当時の製作者なりに、 その役割に真摯に応えようとした結果のストーリーなのかもしれない。

しかし、怪獣映画とは本来、ビッグ・バジェットの壮大なスペクタクル映画であるべきだ。
だとすれば、本作品はさすがに「子供向け」に特化し過ぎてはいないだろうか。

宮崎駿を例に取るまでもなく、現代においては、たとえ「子供向け映画」を標榜していても実際には 大人から子供までオールレンジで集客できるストーリーに仕立てる、というのが王道だろう。

一方、この「ゴジラ対メガロ」のお話をまともに楽しんでくれる客層は、小学生…… それもせいぜい低学年まで、ではないだろうか。
小学生も高学年になれば、一部の女子はおっぱいが膨らみ始め、男子のちんちんには毛の一本も生え始める。
つまり、すでに思春期が始まっている。
その彼らに対して、この「ゴジラ対メガロ」のストーリーでは、正直「キツい」
……それこそ、彼らが思春期特有の「何に対しても半笑いでニヒルに構える」モードにでもなっていなければ、 とても観られたものじゃないだろう。

小学校高学年でさえ「キツい」このストーリーを、ワクワクしながら見てくれるのは、せいぜい 「幼稚園の年長組〜小学校低学年」くらいのものだろう。
恐ろしく狭い層だ。

それでは本来ビッグ・バジェットであるべき「怪獣映画=大スペクタクル映画」の資金は回収できない。

「怪獣キャラ」をダシに使った低予算の「ちびっ子エクスプロイテーション映画」にしかならない。

それでは、ちょっとゴジラが可哀想だ。

 かつて柳田國男は言った。

「妖怪とは、堕落した神の姿だ」

まさに、初代「1954ゴジラ」で人々に災いをもたらす恐ろしくも偉大な「禍つ神」だったゴジラは、 20年の時間をかけて徐々に堕落し、1973年にはチビッ子に愛されるポップ・キャラクター になってしまっていた。

半笑いで「俺、その映画、わりと好きだよ」というのは、観客として正しい態度なのだろうか?

例えば、ジョージ・ルーカス映画作家としてのルーツが、20世紀前半に量産された低俗な(少なくとも 当時の大人たちからは低俗だと思われていた)スペース・オペラや秘境冒険もののパルプ・マガジンと コミックであるのは明らかだ。

スティーブン・スピルバーグティム・バートンクエンティン・タランティーノギレルモ・デル・トロ……世代は違えど、彼らに共通するのは、少年時代に出会った低俗な (と、大人たちからは思われていた)大衆芸術をルーツに持っている点だろう。
彼らは、大人になって、その少年時代に出会った物語を最新の特撮技術、潤沢な予算、洗練された手法で 現代に蘇らせているわけだ。

そのために必要なものは何か。少年時代に好きだった作品への敬意、 これから自分が作る作品への真摯な態度。これが無ければ、ただ堕落しただけの作品しか生まれまい。

一方、われわれ観客は、ともすると半笑い顔で
ゴジラ? 好きッスよ。 あのいかにも着ぐるみっていう見た目にB級の味わいがあって、良いッスよねー」
などと言いがちだ。

私は、本当にそれで良いのかと自問する。

そこには「作品のキッチュな(=低俗で安っぽい)感じも含めて好きって言える俺ってかっこいい」 という、ある種のメタな視点がないだろうか。だとすれば、それは作品を評価する態度として少々不純では ないだろうか。

観客のそういう態度は、いずれ映画製作者をして「わざとキッチュさ(=安っぽさ)を売り物にした 映画づくり」に向かわせるだろう。それが「低予算を逆手に取った映画」 を作るための、最も安易で、最も手っ取り早い方法だからだ。
しかしそれは作品づくりの堕落だ、と言わざるを得ない。

映画製作者が怪獣映画を……すなわち本来は大きな予算をかけるべき大スペクタクル映画を、 子供向け抱き合わせ映画の中の1本として低予算で作るなどという愚行を犯したとき…… 「本当は作るべきではない作品」を作ってしまったときに、我々観客はキチンと怒るべきだ、と、 私は最近思い始めている。

そうは言っても、本作品には憎みきれない「何か」があるのも事実だ

この作品全体に、なんともいえない可愛らしさが漂っているのもまた事実だ。
だから、正直な気持ち、この映画を憎みきれない自分がいる。

ただし、例えば2017年の今、あるいは来年、再来年、この映画がゴジラの新作として公開されたとして、 それを見たいかと言えば……前述した通り、今、これを新作として見せられたら、 怒りで奥歯を噛み締めながら劇場をあとにすると思う。

つまり、こういう事だ。

「私が『ゴジラ対メガロ』をそれなりに楽しんで観たのは事実だ。しかしそれは、私が事前にこの作品の 評判を聞いて、『あえて俗っぽい味覚を楽しむ』モードで観たからだ…… それは作品の鑑賞の仕方としては、邪道なんだ。
東宝よ、こういう作品を作るのは、もう止めるんだ。
まして『こういうキッチュな味わいもゴジラの魅力でしょ』 などというセルフ・パロディ感覚でゴジラを作るべきではない」

追記。なぜ今さら「ゴジラ対メガロ」を観たか

今年も「ゴジラの季節」がやってきたからだ。

今年のゴジラは史上初の「フルCGアニメーションの劇場映画」としてのゴジラだ。
制作はポリゴン・ピクチャー社だ。

私は今年、同社の「ブラム!」を観て、良い映画だと思ったので期待している。

それで、今年のゴジラを観る前に気分を盛り上げておこうと「メガロ」を観た。

さて、ポ社謹製フルCGゴジラの出来は、どんなものだろうか。

映画「聲の形」について。(ネタバレ)

注意。ネタバレあり。

未見の人は注意してください。

本作品に対する批判について。

曰く「聴覚障碍者のヒロインが、まるで聖人のように描かれているのは、おかしい。これは『聖母のように清らかな心の障碍者ヒロイン出しときゃ、みんな感動するだろ』っていう感動ポルノではないのか」

この映画の感想が書かれた記事をインターネットで検索すると、時々、このような批判的な記事やコメントを見かけることがある。

ある芸術作品を鑑賞して何を思い、どう評価するかは鑑賞した者の自由なので、それ自体にどうこう言うつもりはない。

……が、上に記したような感想を持った人は、この物語を読み違えているような気がする。
少なくとも、私の解釈とは違う。

その辺を解説していきたい。

本題に入る前に、アニメーション映画「聲の形」に対する私の評価を書く。

今から、ほぼ一年前に劇場で見た。

どの劇場で見たかは忘れてしまったが、劇場公開時に、どこかのシネマ・コンプレックスで見た。

私は原作漫画を読んでいない。

だから、アニメーション映画「聲の形」に対する評価は、純粋に映画としての評価のみということになる。

良い作品だとは思ったが、しかし、飛び抜けて素晴らしいという感じはしなかった。

悪くない映画だとは思ったが、ちょっと話運びが「ぎこちない」と感じた。
その「ぎこちない感じ」の原因が何によるものかは分からなかったが、何かギリギリのところで、ちょっとだけスムースさを欠いた話運びだなと思った。

本題。この物語のヒロインのキャラクターについて。

「まるで聖女のような非現実的な障碍者を登場させて安易な感動を買おうという、いわゆる『感動ポルノ』ではないのか」

と思っている人は、私とは、根本的な部分でヒロインの解釈が違っている。

この映画のヒロイン設定は「女神様」設定じゃないだろ。「うざい女」設定だろ。

つまり自殺願望も含めて、思春期特有の面倒臭さ全開の「面倒臭い女」だろ。

そう解釈しないと、後半に飛び降り自殺しそうになったことも含めて、物語の整合性が取れない。

このヒロインは、いわゆる「中二病」的な思春期特有の精神状態をこじらせてしまった結果、好きな彼氏とのコミュニケーションも上手く出来ず、相手の都合も考えずに自分の殻に閉じこもってみたり、そうかと思うと、ぐいぐい相手に近づいてみたりする「うざい女」だ。

「聖女」なんかじゃない。

そう解釈しないと、この物語は成立しない。

(まあ、歴史上の実在の聖女、聖人、英雄などという人たちも、実は、今風に言えば中二病をこじらせたまま大人になった人たちなのかもしれない……という逆説は有りうるが……それはこの記事の主旨ではない)

この物語のメイン・テーマ

思春期の精神状態をこじらせて周囲の人間とのコミュニケーションがうまく取れなくなってしまった『面倒くさい性格の少年』

……と、

同じく、思春期の精神状態をこじらせて周囲の人間とのコミュニケーションがうまく取れなくなってしまった『面倒くさい性格の少女』

が……、

ひょんな事から再会し、大した理由もなく恋に落ち、その「大した理由もない思春期の恋」を取っ掛かりにして、お互いに理解し合おうとし、ひいては周囲の人々と理解し合おうとし、ひいては社会の中で他人とコミュニケーションを取りながら生きていこうと努力する……というのが、この物語の骨子だろう。

ちなみに、思春期の恋には大した理由は無い。

しいて理由をあげれば、第二次性徴期の異常なホルモン分泌量か……

大人の恋には、ちゃんと理由がある。おっぱいとか、おっぱいとか、おっぱいとか、尻の形とか。
女だったら、男の年収とか、男の年収とか、男の年収とか、男のちんこの長さとか。

この主人公カップルも、やがて大人になり、それぞれ別々の道を歩み、そこで人生を共にすべき「別の相手」と出会う事になるのかもしれない。
あるいは、このまま大人になってそのままゴールインするかもしれない。

いずれにしろ、思春期の大した理由もない恋であっても、それをきっかけに社会と少しずつ向き合っていこうと努力するなら、それはそれで尊重されるべき彼ら自身の判断だ。

……話が逸れた。元に戻す……

一部の批判者がいう「ヒロイン=聖女のような清らかな性格の障碍者」設定では、この物語は成立しない。

少女が「女神さま」として設定されていると言う解釈では、主人公の「思春期をこじらせちゃった面倒臭い少年」が、一生懸命に他人との関わりを取り戻そうとするモチベーションが発生しない。

物語として成立しない。

後半でヒロインが自殺すると言う展開の辻褄(つじつま)が合わない。

ヒロインと主人公の両方ともが、同じように、他人との距離感が測れず、コミュニケーションが上手く取れず、「自分なんか生きている価値のない人間なんだ」と言う気持ちを潜在的に常に持ってるからこそ、この二人は、きれいな対称になるわけだし、同じく「中二病」をこじらせて不登校になっていた男装の妹が、主人公とヒロインが分かり合えそうなのを見て自分も復学すると言うサブストーリーとの対称も成立すると言うものだ。

繰り返して書くが、

この物語は「女神様のような清らかな心のヒロイン」と言う設定では成立しない。

「他人との距離を上手く測れない、コミュニケーション下手の、しかも自殺願望のある面倒くさい女」と言う設定じゃないと、そもそも物語として成立しない。

ヒロインがコミュニーケーション下手であることと、彼女が聴覚障碍者であることとは関係ない。

……いや、関係が無いと言い切ってしまっては、行き過ぎか。

ひょっとしたら、ヒロインのコミュニケーション下手や自殺願望と、彼女の持つ障碍とは間接的には関係があるのかもしれないし、無いかもしれない。

しかし、そんなことはこの物語の本質ではない。

本作品のメイン・テーマは
「子供から大人への成長過程にある思春期の少年たちがコミュニケーション能力(=社会性)を獲得しようと藻掻(もが)く」
という事だろう。

聴覚障碍者というヒロイン設定について。

確かに「あざとい感じ」が全く無いっちゃ、嘘になる。
ヒロインの障碍者設定だけでなく、この物語の登場人物全体の設定(例えば性格とか家庭環境とか)には、正直、「あざとさ」が有るわな。

ヒロインが聴覚障碍者というのは、話の本筋とはあまり関係のない設定なわけだが、ヒロインが聴覚障碍者として設定されている事で、「思春期の少年少女が社会性(=コミュニケーション能力)を獲得しようと努力する物語」という作品のテーマが際立つ……と、そういう作劇上の〈機能〉は有るのかもしれない。
障碍者」という属性を、物語に抑揚をつけるための「小道具」として使っているわけだ。

でもそれは、例えば「座頭市」なんかも同じでしょ。
座頭市が視覚障碍者であるという設定は、主に殺陣に独自性を出すためのものであって、作品のテーマとは何の関係も無い。
そして、座頭市が「視覚障碍者感動ポルノ」だなどという話は聞いたことがない。
それと同じレベルで、この物語のヒロインが聴覚障碍者であるという事と、この作品のテーマとはあまり関係がない。

だから例えば、このヒロインが聴覚障碍者ではなく「眼鏡っ娘のコンビニバイト店員」だとしても物語は成立する。
逆に言えば「ヒロインは眼鏡っ娘のコンビニバイト店員」という設定が許されるなら、同じレベルで「ヒロインは聴覚障害者」という設定でも別に構わないだろ、という事だ。

眼鏡っ娘のコンビニバイト店員」の物語だとしても、ことさら「眼鏡っ娘ポルノ」「コンビニバイト店員ポルノ」と言って騒ぎ立てる必要が無いのと同じように、聴覚障碍者というヒロイン属性だからと言って特別騒ぎ立てる必要も無い。

若者が必死で社会と自分の関係を築こうとする姿を、大人は無下に否定するべきでは無い。

特に、20世紀末……1970年代〜90年代初めに青春時代を送ったオジさんオバさんたちは、この物語の主要登場人物である少年少女たちに向かって、こう言いたいかもしれない。

「社会に迎合なんかするな! 引きこもりだろうが、コミュニケーション能力不足だろうが、中二病だろうが、それも立派なお前の性格だ。それを無理して矯正して、社会に合わせる必要なんかない! 自分に誇りを持て! ありのままの自分をつらぬけ!」

しかし、中二病をこじらせてしまった少年少女たちが、そこから脱して社会性を獲得しようと決心したのなら、それはそれで尊重すべき彼ら自身の、彼ら独自の、立派な意志であり選択だ。

(追記)大人の役割

私は、この記事を「大人は子供たちが社会性を獲得しようとする努力を暖かく見守るべきだ」という一文で締めくくろうと思ったのだが、それも何か違うような気がするので、書き直すことにした。

この物語が「少年たちが徐々に社会性を獲得して自ら大人になろうとする物語」だとしたら、やはり大人の役割は重要だろう。

大人とは、つまり親、教師、地域社会の大人たちだ。

少年たちの最終目的が、「大人社会」という名のプロリーグでそれぞれの居場所を見つける事だとすれば、やはり小学校リーグ、中学校リーグ、高校リーグそれぞれの段階でのコーチ(=大人たち)の役割は重要だ。

少年リーグでのコーチングで重要な事は、

  1. まずは安全性の確保が第一だ。危険なプレイをしないようコーチングし、彼らが安全圏を逸脱しないか常に監視の目を光らせ、彼らが危険なプレイをしようとしたら直ぐに強制的に介入して怪我を未然に防ぐ。
  2. ゲームの(ルールブックに明記された)ルールと、マナー(不文律)を教える。
  3. 基礎的なテクニックを習得させる。
  4. 子供それぞれの特性にあったプレイスタイルとポジションを探し、探させる。

という事だ。

この物語は、前半が小学校時代、後半が高校時代な訳だが、高校時代というのは、例えば3年生にもなれば一部の学生には選挙権が与えられる年齢で、もうほとんどプロリーグ・デビューが目前に迫っている時期だ。

自動車教習で言えば路上実習が始まっていて然るべきで、この時点で実社会で必要な社会性の八割くらいは持っていてるのが好ましい。

じゃあ何で、主人公たちが高校生にもなって「ボールのパス回し」程度の基礎的な能力獲得に四苦八苦しなければいけないかと言えば、物語の前半部、小学校時代に怪我をした・させてしまったからだ。
これは大人たちが未然に察知し、強制的に介入して防ぐべき事案だったはずで、それをしなかったのは大人たちの怠慢であり、コーチングの失敗だ。

そう言えばこの物語では、小学校教師がこれ以上無いっていうくらいに卑怯な悪者として描かれていたな。

これは教師個人個人の質の問題であると同時に、地域の教育委員会都道府県の教育委員会、さらには文部科学省つまり国の統治能力の問題であろう。
これ以上は「大人の組織論」の話になってしまって、この映画のテーマから逸脱してしまうので、また別の機会に書きたいと思う。