ネタバレ! 小説と映画の感想‐青葉台旭

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映画「スターウォーズ 最後のジェダイ」の感想

映画「スターウォーズ 最後のジェダイ」を地元のシネコンで見てきた。

ネタバレ

この記事にはネタバレが含まれています。注意してください。

珍しく初日初回上映で見てきた。

公開初日に見に行くという習慣は私には無いが、色々な都合から今回は日本公開初日の、しかも初回上映 を見てきた。

……と言っても、さすがに深夜のカウントダウンではない。15日の朝一番に、地元のシネコンの スクリーン1(約400席)で上映されていた「2D字幕版」を見てきた。

初日に観たのは「ガメラ 大怪獣空中決戦」以来か。

確か、日比谷で舞台挨拶があって、映画が終わって劇場から出てきたら劇場前の歩道で監督の金子修介特技監督樋口真嗣と脚本の伊藤和典が三人で日向ぼっこしながらダベっていたんだよな。

なんか、今にして思うと牧歌的な光景だったな。

それは、さておき……

スターウォーズ 最後のジェダイ」の感想だ。

良かった点

冒頭シーンで、エックス・ウィングがドリフトっぽくターンするところは、まあまあだった。

ド定番メカ演出ばかりが目立つスターウォーズ・シリーズ…… よく言えば第1作目の伝統を守っている、悪く言えば進歩のない宇宙メカ演出の続くスターウォーズ・ シリーズにあって、あのエックス・ウィングがドリフト気味に反転する機動は、まあまあ新鮮味があった。

ルーク爺さんがミルクを飲むところ。

ルーク爺さんが首長竜みたいなクリーチャーのおっぱいから緑色のミルクを搾乳して、それをその場で ゴクゴク飲むところは、さすがに思わず笑ってしまった。

レイとカイロ・レンが、ニュータイプっぽくテレパシーで語り合うところが良かった。

……いや、もちろんガンダムの方が後発だし、あの作品がスターウォーズの圧倒的な影響の下に生まれているのは 明白だ。
ニュータイプという設定も、当然スターウォーズジェダイとかフォースに影響されたものだ。

それはそれとして、とにかく宇宙空間を何光年も隔てて、レイがカイロ・レンを闇落ちしないように 説得する感じは、結構好きだ。

ああいう「宇宙空間を隔てて心を通わせ合う二人」みたいなシーンはロマンがあって好きだ。 しかも甘くなり過ぎたり、説教臭くなり過ぎたりしないギリギリのラインで寸止めする演出は、清潔感が あって良かった。

レイ役のデイジー・リドリーが良かった。

前作の「フォースの覚醒」でも思ったのだが、このデイジー・リドリーという人は、 誠実な演技をする役者だなと、つくづく思った。

前述した、ルークがボケ爺さんっぽく怪獣の搾乳したてホヤホヤミルクを飲むシーンで、レイがそれを観て 視線のやり場に困ったような半笑いの顔をするのだが、その感じが何とも清涼感があって良い。

この女優の演技を言葉で表すとすれば「誠実さ」「人柄の良さ」が滲み出ている演技、と言ったところか。

レイのコスチュームは何故か二の腕だけが露出したデザインなのだが、そのムッチリ・プリプリ感も、 大好きだ。

他作品の話になるが、オチを知っている推理小説の映画化の今さらリメイクということで全く観る気の起きなかった 「オリエント急行殺人事件」も、このデイジー・リドリーを見るために観ても良いかなと思った。

提督代理が敵の旗艦に特攻を仕掛けるシーンが良かった。

脱出船が基地まで逃げる時間を稼ぐため、一人母船に残った提督代理が船を回頭させて ショート・ワープで敵の旗艦に特攻を仕掛ける。
その瞬間、轟音に満ちていた宇宙空間が一瞬、静寂に包まれる演出は良かった。
敵艦の右舷を切り裂く感じも非常に良かった。

あのメカ描写は素晴らしい。

特攻前の、レイア姫と提督代理とのババア同士の友情描写も微笑ましい。 このバアさん、どっかで観たことあるな。

フィンが敵の大砲に特攻を仕掛けようとする直前、ローズがそれを阻止する所が良かった。

特攻をしようとするフィンの機体に、逆にローズが体当たりをして止めさせる所が良かった。

ハリウッド映画を観ていると、案外「自己犠牲によって敵の進行を阻止し、仲間を助ける英雄」 の描写をよく目にする。
いわゆる「俺がここで時間を稼ぐ。お前たちは先に行け」ってやつだ。 そのたびに私は思う。

「何だかんだ言って、アメリカ人も特攻精神とか好きじゃん」

マーケティング重視のハリウッドで、この手の「戦争や危機的状況での自己犠牲」シーンをしばしば目にする という事は、ヨーロッパ人もアフリカ人もアジア人も……要するに世界中の人々みんな、 実はこの手の自己犠牲シーンが(少なくとも潜在的には)好きなのかもしれない。

先に述べた通り、実際、本作にも提督代理が単艦特攻を仕掛けるシーンがある。

確かに、ドラマ演出と言う観点で見た場合、感情を動かされる一つのパターンである事は間違いない。

しかし同時に、我々日本人としては「特攻=自己犠牲によって敵を倒し仲間を救う」という発想に対して 「本当にそれが正しい道なのか」と思ってしまうのもまた事実だ。

本作のラスト近く、敵の大砲に特攻を仕掛けて仲間を助けようとしたフィンに、 ローズが体当たりをかましてそれを阻止するという描写は、なかなか良かった。

もちろん大局的な視点に立てば、必ずしもローズの行いが正しいとも言えない。
そういう割り切れなさこそが物語の醍醐味だろう。

皇帝の脇を固めるSP忍者のレーザー七節棍みたいなのがカッコいい。

ただし、アメリカ映画あるいは香港映画的なアクロバティックな剣(あるいは刀の)アクションを、 私はどうしても好きになれない。
闘いの前に体の左右で剣をくるくる回す、あの「決めポーズ」は何とかならんのか。

悪かった点……というより私自身の個人的な気持ち

すまん……自分に嘘は吐けないから、正直に言うわ……
スターウォーズ、もう飽きた」

大事な事だからもう一回言うわ。
スターウォーズ、もう飽きた」

先日、第1作目を久しぶりに観た

先日、スターウォーズ第1作目……エピソード・ナンバーでいう所の「エピソード4」を観た。20年ぶりだろうか。

自分で、自分自身に驚いた。

子供時代あれほどワクワクして観たはずのスターウォーズを、冷めた目で観てしまっている自分がいた。

確かに、出演者たちが楽しんで演技をしている感じは画面から良く伝わってきた。
港町の酒場でハン・ソロが初登場するシーンでの、ハリソン・フォードのチンピラ的ニヤニヤ笑いなんか 最高だと思った。

しかしそれ以外の部分では、特撮にしろ、ストーリーにしろ、1977年のスターウォーズは、 2017年の私の胸をもはや熱くさせてはくれなかった。

1970年代において、その特撮シーンの演出が世界の水準から突出していたのは間違いないし、 当時すでに成熟期に入り「複雑で陰鬱」なストーリーになりがちだった1970年代のアメリカ・エンターテイメント界で、 あえてシンプルで王道的なスペース・オペラを大真面目にやるという逆転の発想の素晴らしさも分かる。

スターウォーズ第1作が1970年代において歴史的な偉業を達成した偉大な作品であった事は間違いない。
その「歴史的価値」に関しては、疑う余地が無い。

しかし一方で……1977年のスターウォーズ第1作目は、本当に21世紀の現在も当時と同じ輝きを保っているのだろうか?

例えば1974年公開の「悪魔のいけにえ」という映画は、同時代の人々だけでなく、時代を越え2017年の現代日本に生きる私の胸を強く打った。
残念ながら、先日「スターウォーズ第1作」を再視聴したときには、私は「悪魔のいけにえ」を観たときのような感動を得ることが出来なかった。

少年時代の私を圧倒しワクワクドキドキさせた「スターウォーズの魔法」は、2017年の現在、 (少なくとも私個人に関しては)どうやら解けてしまっていたようだ。

スターウォーズの魔法が解けてしまった目で、今作「最後のジェダイ」をみると

どうにもマンネリに見えてしまった。 それは前作「フォースの覚醒」のを見終えた時にも、実は密かに思っていた事だった。

例えば、念力を発するとき、レイは必ず手を前にグワッと突き出す。

もちろん、それは、第1作でダース・ベーダーがそうしていたからだ。

しかし、レイにはレイなりのフォースの発動の仕方があっても良かったのではないか。

そういう所作ふるまいに始まり、 タイファイターとエックスウィングの「巨大戦艦の表面」 での、レーザーをピュンピュン言わせながらの撃ち合いにしろ、 「敵の巨大兵器の唯一の弱点を攻撃する事で一発逆転を狙う」というストーリー上の動機づけにしろ、 一事が万事、第1作から連綿と受け継がれてきた「伝統芸能」の集積の末端でしかないように思ってしまった。

最後に

先日、中学生になった甥っ子が訪ねてきた。

話の流れでスターウォーズの話題が出て、その中学生の甥っ子はシリーズ第1作目「エピソード4」を 楽しんで観たと言っていた。

だから、スターウォーズ第1作目には、ひょっとしたら時代を越えて少年たちの胸を打つ普遍的な何かが 宿っているのかもしれない。

この記事を書く前に「スターウォーズ 最後のジェダイ」のブログ記事を検索してみたが、どのブログも ほぼ絶賛の嵐といった感じだった。

運悪く「スターウォーズの魔法」が解けてしまったのは世界で私一人だけなのかもしれない。

まじか……「ブレードランナー2049」の背景は、ミニチュアだったのか……

……てっきりフルCGだと思っていたわ。

ニュージーランドのウェタ社とかいう会社が作ったらしい。

ウェタ社ホームページ
http://wetaworkshop.com

最近関わった作品
http://wetaworkshop.com/projects/

ブレードランナー2049のページ
http://wetaworkshop.com/projects/blade-runner-2049/

ミニチュア特撮は全てCGに置き換わってしまったというのは、先入観だった

まだまだ、ミニチュア特撮にも費用対効果が見込める部分はあるということか。

ひょっとしたら、大予算の大作映画ほど「実際に『モノ』として美術を作り込む」という贅沢が許される のかもしれない。

つまり、金をかけて細かいところまで作り込めば作り込むほど、CG制作もミニチュア制作なみに人件費が 増えていき、両者の費用対効果の差が無くなっていくということなのかもしれない。

ハリウッドはロサンゼルスにあるという先入観。

映画というものは「芸術作品」としての側面と同時に「商品」あるいは「工業製品」としての側面も ある。

スマホや自動車が世界中の部品をかき集めて世界中の工場で作られているように、ハリウッドを出資元とした 映画のサプライチェーンが世界中に張り巡らされていたとしても不思議じゃない。

既に大部分デジタル化されている現代の映画、その部品たる個々の特撮シーンを、インターネットと 暗号化通信を使ってハリウッドのメジャー配給会社のサーバーに納品という流通体制は充分に可能だろう。

つまり、何が言いたいのかというと

ニュージーランドの特撮工房が未来都市のミニチュアや小道具をハリウッドに納品できるなら、 日本の特撮工房にだって可能だろうという事だ。

ハリウッド映画の「にちゃにちゃ、くちゃくちゃ」と言う効果音が嫌いだ。

あの、粘液質の物を触るときに、わざとらしく発せられる「にちゃにちゃ、くちゃくちゃ」 という効果音、何とかなりませんかね。

今、ネットフリックスで「ストレンジャー・シングス 未知の世界」を観ている。

まだ視聴途中なので全話観たら感想を上げようと思っている。

今5話まで観たところなのだが、おおざっぱに言えば「アキラ風味のIT(イット)」と言った感じだろうか。

ときは1980年代。
ところは「アメリカのどこにでもありそうな田舎町」
主人公たちは、地元の小学校に通う「いじめられっ子オタク少年グループ」

と言う感じで、この設定だけ取れば映画「IT それが見えたら終わり」によく似ている。

それどころか、主演のフィン・ヴォルフハルトは「IT」にも少年グループの1人として出演している。

そのITみたいな基本設定の上で、アニメーション映画「アキラ」とか映画「スキャナーズ」みたいな、 「超能力者を生み出す極秘の研究」「政府(あるいはバイオ企業)の陰謀論」を絡めたドラマが 展開される。

手にシリアルナンバーを刻印された被験者の少女とか、まさにアキラって感じだ。

彼女が念力で男を吹っ飛ばして男が反対側の壁にブチ当たると、壁に円形のヒビが入る所なんか、 もろ「童夢」とか「アキラ」のような往年の大友克洋の作品を思わせる。
……って言うか「ストレンジャー・シングス」の監督、わざとやってるんだろうな。

監督「あー、効果さん……このシーンは『童夢』っぽくしてくれる? 念力で男が吹っ飛ばされて、 壁にブチ当たると、その部分が丸く割れて凹む感じで……そう、そんな感じ」

みたいに指示を出す監督の姿が目に浮かぶ

……しかし……あれだ……
「IT それが見えたら終わり」と「ストレンジャー・シングス 未知の世界」
これだけ似た企画が1年以内に公開されると言うのは「ハリウッド業界裏話」的な何かがありそうだ。

私は、映画「IT それが見えたら終わり」よりも、この「ストレンジャー・シングス」の方が好きだ。

何と言うか……個々のキャラクターが持つ「切実さ」みたいなものが「IT」よりも「ストレンジャー・シングス」 の方が上だと思う。
「IT」のそれは、いかにも「キャラに深みを持たせるために設定しました」みたいなわざとらしさが鼻につく。

息子が行方不明になって頭おかしくなったオバちゃん……

ウィノナ・ライダーかよ……全然わからなかったわ……やはり向こうの役者は演技力で勝負してるんだな。

それは、それとして、例の「にちゃにちゃ、くちゃくちゃ」だ。

ハリウッドのモンスターって、何かっていうと粘液を分泌するんだよ。
そりゃ、粘液は色んな意味で大事だけどさぁ……ちょっとは我慢しろよ。

で、その粘液のアップになると必ず例の「にちゃにちゃ、くちゃくちゃ」っていう、お決まりの効果音が 鳴って、辟易させられる。

それとカメラの手前を不気味な影が通り過ぎる時に必ず被さる「ブォォーン」っていう音。
何だよ、それ。風切り音のつもりか? いちいち大袈裟なんだよ!

粘液の「にちゃにちゃ、くちゃくちゃ」と、怪しい影が走った時の風切り音……ほんと、もう勘弁してくれ!
と、俺は常日頃から思っているのだが、残念ながらこの「ストレンジャー・シングス」もハリウッドの例に漏れず、 この「ありがち」で「大げさ」な効果音を使っていた。

……で、この粘液が「にちゃにちゃ、くちゃくちゃ」っていう音をハリウッドがいつまでも使い続ける理由に 関して、俺なりに仮説を立ててみた。

あいつらは納豆が食えない。

納豆だけじゃなくて、すりおろした自然薯とかもアメリカ人には無理だろ。
もずく、メカブとかのネバネバ海藻類も食ったことねぇだろ。

ネバネバ健康食品を日常的に食っている俺ら日本人からすると、あの「にちゃにちゃ、くちゃくちゃ」って音は、 わざとらしくて白けるんだよ。

あいつら絶対、日本人が納豆食っているシーンにも例の「にちゃにちゃ、くちゃくちゃ」って効果音 入れてくるぞ。

納豆だろうが、山芋だろうが、エイリアンの半熟卵だろうが、絶対にそんな音しないっての。

結論。

ハリウッドの効果音担当者は納豆を食え。そうすりゃネバネバの描写も、ちょっとはマシになる。

映画「ゴジラ対メガロ」を観た。

怪獣映画を好きで良く見るのだが、同好の士の間でしばしば話題に上がる「ゴジラ対メガロ」は観たことが無かった。

先日、この映画を初めてdtvで視聴した。

wikipediaのアドレスを貼っておく。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ゴジラ対メガロ

噂に違わぬ珍作・珍品でした。以上。

……で、終わりにしたいところだが、少し蛇足を。

まあ、dtvでの視聴だったし、珍作という評判も聞いていたし、半ば怖いもの観たさっていうのもあったし、 「これはこれでアリ」と、じゃっかん半笑い気味で許せる感じではあった。

しかし……もし2017年の今、期待に胸を膨らませワクワクしながら、新作としてこの映画を観に 劇場へ行ったとしたら……
という脳内シミュレーションをしてみたら、怒りに奥歯を噛み締めながら劇場を後にする自分の姿が 目に浮かんだ。

それでも最終的には許してしまうだろうが、な。

怪獣映画好きは、ある種「ダメ男に貢ぐ女」みたいな精神状態になってるからな。
ダメ映画を観て、「もうこれで終わりにしようかな……」などと思いつつ、次の作品が公開されると、 懲りずにまた観に行っちゃうんだよな。

それで誰かが、そのダメ映画の……ひいては怪獣映画全体の批判を始めると、
「違うもん! 彼、本当は凄いんだもん! 今はスランプになっているだけだもん!」 とムキになったりして。
それで必死になって「彼のダメなりに良いところ」を探して、反論して、そして家に帰って、我に帰って、 ムキになって反論した自分を振り返って「私、何やってるんだろ」って痛がる所までがお約束だ。

良かったところ

ダムの決壊シーンは流石に良かった。決壊シーンそのものというより「メガロより大きなダム」の、 そのスケール感が素晴らしかった。一方で、主人公が閉じ込められていたコンテナ・トラックはミニチュア然 としていたが。

今さら言うまでもないが、ストーリーは大人の鑑賞に耐えられるような代物ではない

この当時の映画業界を取り巻く状況、その中で、いつの間にか「ゴジラ」という映画が与えられてしまった 「子供を集客するためのキャラクター」という「役割」を考えれば、当時の製作者なりに、 その役割に真摯に応えようとした結果のストーリーなのかもしれない。

しかし、怪獣映画とは本来、ビッグ・バジェットの壮大なスペクタクル映画であるべきだ。
だとすれば、本作品はさすがに「子供向け」に特化し過ぎてはいないだろうか。

宮崎駿を例に取るまでもなく、現代においては、たとえ「子供向け映画」を標榜していても実際には 大人から子供までオールレンジで集客できるストーリーに仕立てる、というのが王道だろう。

一方、この「ゴジラ対メガロ」のお話をまともに楽しんでくれる客層は、小学生…… それもせいぜい低学年まで、ではないだろうか。
小学生も高学年になれば、一部の女子はおっぱいが膨らみ始め、男子のちんちんには毛の一本も生え始める。
つまり、すでに思春期が始まっている。
その彼らに対して、この「ゴジラ対メガロ」のストーリーでは、正直「キツい」
……それこそ、彼らが思春期特有の「何に対しても半笑いでニヒルに構える」モードにでもなっていなければ、 とても観られたものじゃないだろう。

小学校高学年でさえ「キツい」このストーリーを、ワクワクしながら見てくれるのは、せいぜい 「幼稚園の年長組〜小学校低学年」くらいのものだろう。
恐ろしく狭い層だ。

それでは本来ビッグ・バジェットであるべき「怪獣映画=大スペクタクル映画」の資金は回収できない。

「怪獣キャラ」をダシに使った低予算の「ちびっ子エクスプロイテーション映画」にしかならない。

それでは、ちょっとゴジラが可哀想だ。

 かつて柳田國男は言った。

「妖怪とは、堕落した神の姿だ」

まさに、初代「1954ゴジラ」で人々に災いをもたらす恐ろしくも偉大な「禍つ神」だったゴジラは、 20年の時間をかけて徐々に堕落し、1973年にはチビッ子に愛されるポップ・キャラクター になってしまっていた。

半笑いで「俺、その映画、わりと好きだよ」というのは、観客として正しい態度なのだろうか?

例えば、ジョージ・ルーカス映画作家としてのルーツが、20世紀前半に量産された低俗な(少なくとも 当時の大人たちからは低俗だと思われていた)スペース・オペラや秘境冒険もののパルプ・マガジンと コミックであるのは明らかだ。

スティーブン・スピルバーグティム・バートンクエンティン・タランティーノギレルモ・デル・トロ……世代は違えど、彼らに共通するのは、少年時代に出会った低俗な (と、大人たちからは思われていた)大衆芸術をルーツに持っている点だろう。
彼らは、大人になって、その少年時代に出会った物語を最新の特撮技術、潤沢な予算、洗練された手法で 現代に蘇らせているわけだ。

そのために必要なものは何か。少年時代に好きだった作品への敬意、 これから自分が作る作品への真摯な態度。これが無ければ、ただ堕落しただけの作品しか生まれまい。

一方、われわれ観客は、ともすると半笑い顔で
ゴジラ? 好きッスよ。 あのいかにも着ぐるみっていう見た目にB級の味わいがあって、良いッスよねー」
などと言いがちだ。

私は、本当にそれで良いのかと自問する。

そこには「作品のキッチュな(=低俗で安っぽい)感じも含めて好きって言える俺ってかっこいい」 という、ある種のメタな視点がないだろうか。だとすれば、それは作品を評価する態度として少々不純では ないだろうか。

観客のそういう態度は、いずれ映画製作者をして「わざとキッチュさ(=安っぽさ)を売り物にした 映画づくり」に向かわせるだろう。それが「低予算を逆手に取った映画」 を作るための、最も安易で、最も手っ取り早い方法だからだ。
しかしそれは作品づくりの堕落だ、と言わざるを得ない。

映画製作者が怪獣映画を……すなわち本来は大きな予算をかけるべき大スペクタクル映画を、 子供向け抱き合わせ映画の中の1本として低予算で作るなどという愚行を犯したとき…… 「本当は作るべきではない作品」を作ってしまったときに、我々観客はキチンと怒るべきだ、と、 私は最近思い始めている。

そうは言っても、本作品には憎みきれない「何か」があるのも事実だ

この作品全体に、なんともいえない可愛らしさが漂っているのもまた事実だ。
だから、正直な気持ち、この映画を憎みきれない自分がいる。

ただし、例えば2017年の今、あるいは来年、再来年、この映画がゴジラの新作として公開されたとして、 それを見たいかと言えば……前述した通り、今、これを新作として見せられたら、 怒りで奥歯を噛み締めながら劇場をあとにすると思う。

つまり、こういう事だ。

「私が『ゴジラ対メガロ』をそれなりに楽しんで観たのは事実だ。しかしそれは、私が事前にこの作品の 評判を聞いて、『あえて俗っぽい味覚を楽しむ』モードで観たからだ…… それは作品の鑑賞の仕方としては、邪道なんだ。
東宝よ、こういう作品を作るのは、もう止めるんだ。
まして『こういうキッチュな味わいもゴジラの魅力でしょ』 などというセルフ・パロディ感覚でゴジラを作るべきではない」

追記。なぜ今さら「ゴジラ対メガロ」を観たか

今年も「ゴジラの季節」がやってきたからだ。

今年のゴジラは史上初の「フルCGアニメーションの劇場映画」としてのゴジラだ。
制作はポリゴン・ピクチャー社だ。

私は今年、同社の「ブラム!」を観て、良い映画だと思ったので期待している。

それで、今年のゴジラを観る前に気分を盛り上げておこうと「メガロ」を観た。

さて、ポ社謹製フルCGゴジラの出来は、どんなものだろうか。