ネタバレ! 小説と映画の感想‐青葉台旭

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ネタバレ! 2014年アメリカ版「ゴジラ」の感想。

google play にて再視聴。

GODZILLA ゴジラ[2014] Blu-ray2枚組

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*ネタバレ。

あらためて、2014年版アメリカ製ゴジラを再視聴した。いわゆる「ギャレ・ゴジ」という奴だ。

あらすじ。

1999年。フィリピンの鉱山で、放射能を帯びた謎の巨大生物の骨が見つかった。

鉱山の地下空間を調査した芹沢博士は、そこで巨大生物の卵を見つける。卵は二つあり、そのうちの一つは既に孵化した後で、卵から生まれた生物が穴を掘って地上へ出て、海へ逃げた痕跡が見つかった。

それから数日後、日本の富士山の麓にある町ジャンジラの原子力発電所では、周期的に発する謎の微振動が記録されていた。

発電所に勤務するアメリカ人のジョーは、同じく発電所に勤務する妻に、原子炉の様子を見て来るように頼む。

ジョーの妻が原子炉の点検をしている最中、突然、謎の地震が発電所を襲い、そのショックで原子炉が暴走してしまう。

本題に入る前に。

映画の中で、ジョーが原子炉の隔壁を閉めないで奥さんを待っている時、指令室からインターホンで「早く閉鎖しないと町が危険だ」という指示がある。(日本語字幕では、こう表示される)

わたしの耳には「close the door, うんたらかんたら or whole the city is exposed」と聞こえた。これは「ドアを閉めろ、街中が被ばくするぞ」だろう。

ハリウッドのアクション映画を観ていて時々思うのは、核とか放射能に対する無神経さ、である。

われわれ日本人からすると「それは無いだろう」という描写をアチラの人たちは平気でする事がある。

しかし、だからと言って、そういう外国映画における無神経な原子力描写をわざわざ字幕で隠すのは、いかがなものか。

外国人は、われわれ日本人ほどには「核」「放射能」と言うものに対して神経質では無い、という現実もふくめて、正直に字幕にするべきではないだろうか。

字幕をマイルドな表現に変えることで、そういう現実から目をそらさせるというのは、いかがなものか。

話がそれた。

このアメリカ版ゴジラは、映画として面白かっただろうか?

まずは一言。面白かった。

第一に、単純に、アメリカ製のアクション大作として面白かった。

次から次へとアクションシーンが続き、最後まで飽きずに観ることが出来た。

第二に、ゴジラおよび敵怪獣ムートーが、ちゃんと「怪獣」していた。

生物としてこうあるべき、という科学的な考証よりも、キャラクターとして「立っている」ことを優先させていた。

生物学的な正しさよりも、フィクションとしての面白さ、「怪獣」としてカッコ良い動き、カッコ良い登場シーンなどを優先させていた。

ただし、この「ちゃんと怪獣らしさがあった」という言葉の前には、どうしても「ハリウッド製にしては」「ハリウッド製のわりには」という言葉を付けざるを得ないが。

ハリウッド製アクション映画としては十分楽しめたが、怪獣映画としては物足りなさも感じた。

「怪獣」というよりは「巨大生物」然としていた1998年のハリウッド製ゴジラよりは、怪獣としてのキャラが立っていた今回の映画ではあるが、それでも日本人のコアな怪獣ファンからすると、まだまだ物足りなかった。

とくに平成ガメラシリーズを観てしまった後だと、怪獣の「魅せ方」へのこだわりが、まだまだのように思う。

不遜な言い方になってしまうが、「ハリウッド製の怪獣映画としては良く頑張った方だとは思うけど、日本の怪獣ファンとしては、あと少し足りなかった」といった所か。

例えばハワイで初めてゴジラが出現するシーンで、この映画は最大限ケレン味を効かせたつもりなのだとは思うが、正直「惜しい! 90点」と思ってしまった。

この「ゴジラがハワイに上陸するシーン」に製作者側が最大限の神経を使って「ケレン味たっぷりに見せてやるぞ」と意気込んでいる感じはひしひしと伝わったのだが、何かもうひと味たりない感じが残った。

ゴジラの上陸シーンでは、明らかに津波を思わせる描写がある。

もちろん製作者の頭の中にはスマトラ島沖地震での津波や、東日本大震災での、あの津波の映像があったはずだ。

つまり、怪獣映画における「自然災害の象徴」としての「怪獣」という面を製作者側は充分に理解しているという事だ。

「怪獣バーサスもの」の最大の見せ場である「対決シーン」をチョットしか見せない。

せっかく2匹の怪獣が出会った所を映しておきながら「さあ闘うぞ」という手前で「ハワイ編」が終了して、さらっとサンフランシスコにシーンが変わってしまったのは、一体、どういう事か。

しかも、せっかくの見せ場であるはずの「第1ラウンド:ハワイ空港編」を、主人公の奥さんが見ているテレビの中で、ちょこちょこ、と見せてハイッ、おしまい。……とは。

本来なら「ムートーとゴジラ、2大怪獣のバーサスもの」として最大の見せ場であるべき怪獣どうしの対決シーンを思わせぶりな「チラ見せ」で終わらせるというこの映画の手法は、何だ?

このモヤモヤ感は、最終決戦の場所サンフランシスコに上陸した後も続く。

サンフランシスコ近くの海底から浮上して、ゴールデンゲートブリッジ付近での再登場シーンは、スクールバスとの対比などを使い、結構手数を掛けているにも関わらず、上陸した後の肝心のムートーとの戦闘シーンは、思わせぶりな「チラ見せ」が続く。

唯一、まともに戦っている所が映ったのは、サンフランシスコの中華街で数分だけ2対1の格闘戦を見せた時くらいか。それも僅か数分。

そのサンフランシスコで、オスのムートーにとどめを刺すやり方が「飛んできた敵に尻尾をぶつけてビルの壁に叩きつけたら、打ち所が悪くて敵がグッタリした」というのは、いかがなものか。

尻尾を振る時のカット割りやカメラアングルに趣向を凝らしている訳でも無く、地味な絵面のワンカットで「ブンッ、ボンッ、おしまい」じゃあ、せっかくの「怪獣が怪獣に、とどめを刺す」という一大イベントが、あまりに呆気無い。

メスのムートーとの戦いも、ラストの「敵の口の中に放射能火焔を流し込む」というケリの付け方は、まあ良いとして、それまでに戦闘シーンがほとんど無いのは、一体どうしたんだ。

この映画におけるゴジラの描写。

あらためて整理しよう。

この映画における怪獣描写とは。

  1. 前回の1998年(巨大生物というリアリズムにこだわり過ぎていた)ハリウッド版ゴジラに比べれば、今回はちゃんとキャラクター性のある「怪獣」になっていた。
  2. しかし、その「怪獣としての魅力的なキャラ立ち描写」は、もっぱら「登場シーン」に重点的に割かれていた。ハワイ上陸シーン、およびサンフランシスコ上陸シーンは時間的な尺もカットの手数も多く、製作者側が神経を使ったなという事が分かった。
  3. 登場した後の、肝心の怪獣対怪獣のバトルシーンは「チラ見せ」に終始し、残りの時間のほとんどを人間のドラマに使っていた。

ゴジラのスタイルについて。

今回のゴジラに関して、一部のファンの間で「太り過ぎ」という声がささやかれていた。

しかし、私は、その意見には賛成できない。

実際映像で見ると、太っているというよりは「筋肉質である」というほうが相応しい。

ただし、その筋肉の付き方はヘビー級ボクサー風だ。

つまり、ライト級格闘家の引き締まったスマートさというよりは、ぶ厚い筋肉で全身を覆い、首の筋肉も鍛えて極太になっている、というスタイルだ。

そして、両腕が人間に近い形をしている。

肩から先のデザインは、今までのゴジラの中で一番「人間くさい」形をしているのではないだろうか。

つまり全体のフォルムが人間、それも重量級の格闘家のような体形にデザインされている。

これは、例えばエメリッヒ・ゴジラがティラノザウルスの発展形としてデザインされていた事や、あるいは日本の着ぐるみが、中に人間が入っているからこそ、その人間のフォルムを隠そう隠そうとしたのとは正反対のアプローチだ。

動きも、今までのゴジラの中では一番人間臭い。

人間のような形体のゴジラ、あるいはヘビー級格闘家のようなゴジラ……それは一体何を意味するのだろうか。

私の考えは、こうだ。

今回のゴジラは人間のような格闘アクションをする前提でデザインされている

実際、ゴジラ対ムートーの数少ない対決シーンと言えるサンフランシスコでの戦い(それさえも数分だが)では、ゴジラが、まるで往年のブルース・ウィリスのように敵の肩をつかんで押し倒すというアクションが見られる。

ゴジラが地上に現れた意図は、何だ?

なぜ、ゴジラはムートーを追いかけて地上に現れたのか?

これが、イマイチはっきりしない。

一応、芹沢博士のセリフとして「自然界は常にバランスを取ろうとする。ムートーに対するバランスとしてゴジラが居る」という解釈が提示される。

ふつう「自然界のバランス」という言葉から連想されるのは「肉食獣が草食獣を食べる事によって、数のバランスが保たれる」という食物連鎖のピラミッドだろう。

しかし、ゴジラはムートーを追いかけ、彼らに戦いを挑みこそすれ、勝ったからと言ってムートーを食べる訳ではない。

では、ゴジラがムートーを追いかけて殺した動機は何だ?

手掛りは「劇中に2カ所だけ挿入される、ゴジラが人間と意志を通わせたかのように見えるシーン」だ。

夜のサンフランシスコで、パラシュートで降下した主人公とゴジラが、一瞬、目を合わせるシーンがある。

「しまった、怪獣に見つかった、食われる!」と思いきや、ゴジラは主人公と一瞬目を合わせただけで去って行く。

2つ目のシーンは、ラスト・シーンだ。

ムートーを倒し、疲れて仮眠を取っていたゴジラが起き上がって海へ帰って行く、その直前、芹沢博士と目を合わせる。

以上、2つのシーンによって「ゴジラは、ひょっとしたら人類の味方かも知れない」という事がほのめかされる。

だとすると、先の芹沢博士の「ムートーが現れた時、自然界はそれに対してバランスを取ろうとする。それがゴジラだ」という言葉の意味は、いわゆる「食物連鎖による数の調整」の事では無く、地球(あるいは人類)の平和をおびやかすような存在が現れたとき、人知を超えた『大いなる意志』によって地球と人類を守るために出現する存在こそがゴジラ という可能性がある。

人類の、あるいは地球自然環境の守護者としてのゴジラを作るつもり?

時々、日本のファンの間で言われるのは、今回のゴジラと平成ガメラの類似点だ。

私は、全体のストーリーラインが、それほどガメラと似ているとは思えない。とくに人間側のドラマは全く違う。

むしろ私が平成ガメラと今回のゴジラが似ているな、と思ったのは、劇中でほのめかされている「地球環境を脅かす存在(敵怪獣)が現れたとき、それに対抗すべく大自然の『大いなる意志』によって使わされた地球の守護者」というゴジラの役どころだ。

ただし、この一作だけでは、上の仮説は「ほのめかされている」程度であり、製作者側の本当の意図は、この「ギャレ・ゴジ」がシリーズ化されて、ゴジラという存在のシリーズ全体を通しての役どころが見えてこないと確定できない。

ハリウッドは、この「ギャレ・ゴジ」をシリーズ化する気ありあり?

ヒットした大作がシリーズ化するのは良くある話だが、ひょっとしたら今回の「ギャレ・ゴジ」は、最初からシリーズ前提で企画が進んでいるのではないか。

そして、シリーズ化によって、ゆくゆくはゴジラを「巨大なアメコミ・ヒーロー」にするつもりではないだろうか。

そう考えると、今回ゴジラに与えられた「ヘビー級ボクサーのような体形」や「巨大なアクション・スターのような格闘シーン」も納得がいく。

誤解を恐れずに言えば「超巨大な超人ハルク」的なデザインとアクションという事だ。

現に、今回のゴジラでは、放射能火焔を吐く前に、まるでポパイのように胸を大きく膨らませるという、ギャグすれすれのカートゥーンチックな描写がある。

そして、ゴジラをして「正義のアメコミ・ヒーロー」たらしめるための設定として、平成ガメラなどを参考にして、「地球を脅かす敵怪獣が現れた時、大自然の大いなる意志によって使わされる地球の(あるいは人類の)守護者」という設定、そして「目配せなどを通して、かすかに人類と意志を通わせ合う事ができる」という設定が、今回ほのめかされたのではないだろうか。

確かに怪獣にはある種のキャラクター化が必要だとは思う。しかし……

ゴジラに対する「過度の擬人化」そしてその果ての「巨大なアメコミ・ヒーローとしてのゴジラ」は、果たして正しいのだろうか。

シリーズもののアメコミ・ヒーロー全盛の今のハリウッドを見ると、特に経済効率から言えば、それは一つの方法論だとは思う。

しかし、ゴジラと名の付く怪獣にそれを求めるかと言えば、私は「否」と言わざるを得ない。

ゴジラという存在には、人知を超えた孤高の存在であってほしいと、私個人は願うからだ。

正直、放射能火焔を吐くたびにポパイみたいに胸を「プゥー」と膨らませるゴジラは、ちょっと困る。

ひょっとしたら、怪獣どうしの格闘シーンがほとんど無かった理由は……

このゴジラを観ると、監督のギャレス・エドワーズは、怪獣の何たるかを分かっているな、という気がする。

怪獣というのは、歌舞伎役者のようにケレン味たっぷりに舞台に登場し、舞台の上で「カッ」と大見栄を切って見せるべき存在なのだと、良く分かっている。

では何故、ハワイ登場シーンとサンフランシスコ登場シーンには、あれほどの手数をかけたにも関わらず、肝心の怪獣どうしの戦闘を、まるで「見せたくない」とでも言うように思わせぶりな「チラ見せ」に終始させたのだろうか。

ゴジラの体形を、極太の首周りの「ヘビー級ボクサー」体形にしたという事は、今回の怪獣アクションを「巨大なアーノルド・シュワルツェネッガー」あるいは「巨大な超人ハルク」として演出するというプランは早い段階で決まっていたはずだ。

それにも関わらず、なぜ、怪獣どうしの戦いをほとんど映さない?

ここからは、私の、うがった予想というか、ほとんど陰謀論的な妄想になってしまうが、ひょっとしたらギャレス・エドワーズは、怪獣の何たるかを知っているだけに、ハリウッド上層部で決定された「ゴジラ・アメコミ・ヒーロー・シリーズ化」には反対だったのではないだろうか。その決定に対するささやかな反抗として、アクション・ヒーローまがいの怪獣戦闘シーンを極小に抑えたのではないだろうか。

ストーリーは、どうか。

いままで、全体を通してのストーリー、とりわけ人間側のストーリーを書かずに来たが、結論から言うと、ストーリー的には全く見るべきものが無い。

行き当たりばったりの展開、とくに後半の核弾頭を巡るドタバタ劇は酷すぎて見ていられない。

怪獣たちの行動と、地上でのドタバタ劇が、全く有機的に繋がっていない。

文句をあげつらえばきりが無いが「展開が行き当たりばったり過ぎる」この一言に尽きる。

  • 主人公が父親を引き取りに日本へ行った翌日、たまたまソナーに反応が出る。
  • 主人公と父親が危険区域内に侵入して逮捕された時だけ、たまたま、秘密結社の本部へ連れていかれる。それ以前は、逮捕されても東京の拘置所に入れられていたのに。
  • 主人公たちが秘密結社の施設と化した原子力発電所に連れていかれたら、たまたま、ムートーが覚醒して秘密結社の施設が破壊され、怪獣が逃げ出す。
  • 主人公が空母を降りて、民間機で故郷に帰ろうとハワイに行ったら、たまたま、怪獣たちもハワイを目指す。最初から怪獣がハワイを目指すと分かっていたのなら、主人公を上陸させなかったはずだから、主人公がハワイに行ったタイミングで同じ場所に怪獣が向かったのは「偶然」だ。
  • 怪獣の出現によってハワイで足止めを食らった主人公は、たまたま通りがかった軍のトラックに乗って、そのままサンフランシスコへ連れて行ってもらう。
  • 怪獣たちの最後の決戦の場所は、たまたま、主人公の家族が住んでいるサンフランシスコだ。別にロサンゼルスでも良いのに。
  • 芹沢博士が「そうか、核廃棄物保管施設の卵が危ない!」と叫んで、兵士たちがそこに向かうと、たまたま、直前にムートーは逃げ出した後だった。処理施設にあんなでっかい穴を開けられたら、普通はもっと早くに気づくだろう。それとも、あんな大穴を開けられても気づかないほどアメリカの核廃棄物の管理は杜撰なのか。
  • 核弾頭を田舎の貨物列車で運ぶ。しかもミサイルの形丸見えの、むき出しの状態で。そんなん、怪獣の前にテロリストが喜ぶわ。
  • 脱線して川に落っこちた核弾頭を、ヘリコプターでサンフランシスコまで運ぶ。だったら最初からヘリで運べ。

後半サンフランシスコに上陸してからは、「緊急指令! 核タイマーを解除せよ!」とでも名付けたくなるようなB級とすら呼べない行き当たりばったりの、しかも使い古された爆弾解除タイム・サスペンスを延々と見せられて、怪獣映画観てんだか出来の悪いアクション映画観てんだか分からなくなった。

それにしても、核の扱いが杜撰すぎる。

核の申し子としての怪獣、という思想上の切実さが全くなく、単に怪獣と人間の動機付けに使われているだけだった。

ようするに、核というものが単なる「マクガフィン」に成り下がっていた。別に怪獣が狙うのが巨大なダイヤの原石でも良いし、米軍が大事そうに運ぶのもダイヤの原石で何ら構わない。「とりあえず、みんなでそれを追っかけられればいい」程度の扱いだった。

逆に言えば、日本人以外の世界中の人間にとって、「核」というのは「ダイヤの指輪」ていどの意味しか無いという事か。

怪獣は、出現前にミステリアスなムードを盛り上げなくては駄目だ。

この映画では、ゴジラにしても、ムートーにしても、あっけらかんと、いきなり画面に登場する。

それでは駄目だ。

……いや、確かに、ハワイでのゴジラの上陸シーンはなかなか手間がかかっていて見ごたえがあるのだが、私が言っているのは、その「ハワイ上陸」に至るまでの過程だ。

その「ハワイ上陸シーン」の何日も前から、「ミステリアスな生物ゴジラ」の周囲に、ミステリアスで不穏な空気を醸成して置かなくては駄目だ。

最初は少しずつ、徐々にクレッシェンドをかけて、ミステリアスに「不吉な予感」を盛り上げていき、その予感が最高潮に達した瞬間、「どどーん」と出現しないと駄目だ。

空母が最初にゴジラを感知する前に「なんだ? この異常なデータは? 何かの予兆か?」みたいに人間側が困惑しつつも、それを追跡して行き、徐々に「怪獣」の全貌が現れる、という感じにしないと駄目だ。

何だかんだ言って、最後までダレずに面白く見られたのも事実。

これだけ行き当たりばったりのストーリーで、それでも最後までダレずに観られたのは、やはり最近のハリウッド大作らしくアクションに次ぐアクションで畳みかけるようにして、ご都合主義のストーリーでも力技で観客を引っ張ったからだろう。

そして、やっぱり「怪獣」というものには人々を引き付ける魅力があるという事か。

さいごに。

つくづく、怪獣というのは映画の題材として特別な物なんだなぁ、と感じた。

日本人にとってはもちろん、海外の人々にとっても。ものすごく魅力的な存在であることは間違いない。

しかし、それだけに扱いの難しい存在でもあるのだろう。

「怪獣とは何ぞ」という問いかけに始まり、再び「怪獣とは何ぞ」という問いかけに戻る。百人いれば百人の怪獣感がある。

その怪獣の中でも「ゴジラ」という名前は、さらに特別な響きを持つ。

まさに「キング・オブ・怪獣」といった所か。

1998年の初のアメリカ製ゴジラから15年かけて、ハリウッドはようやく「単なる巨大生物ではなく、何らかの文化的キャラクター性を付加された存在として怪獣を創造する」という地点にたどりついた。

おそらく、これからアメリカ版ゴジラがシリーズ化される事になれば、アメリカ文化の特性を背負った「ゴジラ」になって行くはずだ。

一つの可能性は「アメコミ・ヒーローとしてのゴジラ」だろう。

ハリウッドは今回の「ギャレ・ゴジ」で、日本が持っているもう一つの怪獣ブランド「ガメラ」を参考にしつつ、既に「アメコミ・ヒーロー・ゴジラ」の可能性を探っているように見えてならない。

ハリウッド・ゴジラがこれからも作られ続けたと仮定して、何年か後に振り返って見たとき、このギャレ・ゴジは、ハリウッド・ゴジラが「単なる巨大生物」から脱して「アメコミ・ヒーロー」としての地位を確立する、その過渡期の作品として評価されるのではないだろうか。

私個人は、そういうチャンピオンまつり的なゴジラを一概に否定したくないと思いつつも、やはり、ゴジラと名前が付いている以上は、人間の価値感の外側に立ち、人間に何かを突きつけてくる存在であってほしいと思う。