ネタバレ! 小説と映画の感想‐青葉台旭

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「この世界の片隅に」で描かれる世界

*ネタバレ有り

konosekai.jp

原作漫画を読み始めてる。

まだ全てを読み終わったわけではないが、読みながらあらためて思ったのは、「この世界の片隅に」の世界は色々な要素を含んでいるという事だ。

「○○は××だ」みたいに声高に叫ぶのではなく(唯一、玉音放送直後のすずの怒りの叫びは例外)、相反する複数の要素をさり気なく背景に描くことで全体として「世界の割り切れなさ」が浮き上がるようにしている。

例えば、物語の初め、すずが尋常小学校に通っている頃のシーンでは、日本がまだ豊かな先進国になる前の、つまり高度消費社会に毒される前の人々の素朴な暮らしが描かれている。

主人公のすずは小学校に通いながら、登校前と帰宅後は家業の海苔養殖を手伝い、広島市の繁華街の商人の所へ海苔の入った大きな風呂敷を背負って行く。

一見すると、それは現代日本人が忘れた「貧しくも質素で牧歌的な暮らし」のように見える。

しかし、そんな「貧しくとも穏やかな」戦前(あるいは日中戦争開戦前後)の暮らしの描写の所々に、社会の「ダークサイド」が、さりげなく描写される。

例えば、広島の街で出会った「人さらいの化け物」……幼いすずのフィルターを通して、幻想的に描かれてはいるが、これは「実際に人身売買業者に誘拐されそうになった」とも解釈できる。

あるいは、祖母の家で出会った「座敷わらし」……これも、幼いすずのフィルターを通してファンタジーめいて描かれるが、これは明確に「孤児」であり、のちに遊女となってすずと再開することになる。

登場人物のひとりである水原の家は両親ともアル中でろくに仕事もせず、彼は尋常小学校卒業後、学費の要らない海軍学校へ入学し、のちに軍艦に乗り込んで前線へ行く。

これらの描写で、さりげなく表現されているのは戦前の「貧しくとも牧歌的な社会」の中にも、貧しさゆえの悲劇が無数に存在したという事だ。

余談。薄っぺらな偽りの豊かさと、素朴な生活感あふれる貧しさは、どちらが「正義」か

ここで「この世界の片隅に」から外れて私、青葉台旭の経験を述べさせてもらう。

今から四半世紀前、日本にはバブル景気というものがあった。日本中が偽りの豊かさに浮かれていた。

先日、ある低所得階級の人と話した時、彼が「バブルの頃は、東京で浮かれている奴らなんて俺達には関係ないと思っていたけど、バブルが弾けてみて初めて分かったよ。俺たちもバブル経済のお陰で多少は良い暮らしをしていたんだな、って」と言った。

私自身は、偽りの豊かさは所詮偽りであって、泡で出来た豊かさを社会の根拠にすべきではないと思っているが、世界の良し悪しは一面だけを見ては測れない。

正義を振りかざし、人々に貧しい暮らしを強いる社会の偽善

主人公すずが呉の街を歩いているうちに道に迷って遊郭に入ってしまい、そこで、すずが少女時代に座敷わらしだと思っていた孤児で、今は遊女に身をやつした女と出会う場面がある。

つまり、戦時下にも遊郭があり、遊女が居て、女遊びをする特権階級が存在しているということだ。

人々に「清貧」を強要し、食料を配給制にして雑草を食わせておきながら、一部の特権階級が遊郭遊びをしているという偽善。

この戦争が「正義のための戦い」であり「欲しがりません勝つまでは」「贅沢は敵だ」というのなら、なぜ遊郭を取り壊して軍需工場を建て、遊女たちに作業服を着せて魚雷の一発でも造らせないのか。

物語のラスト近く、終戦後、主人公が何を配給されるかも分からない配給の列に並ぶシーンがある。

配給されたのは、進駐してきたアメリカ兵士の食べ残し、つまり残飯だった。しかもその残飯にはラッキーストライク・タバコの包み紙が浮いている。

ところが、このゴミの浮いた残飯が「とても美味い」のである。すず達は道端にしゃがんでアメリカ軍の残飯に舌鼓を打つ。

人々に大義を押し付け、貧しさを強いてきた祖国の配給食より、原爆を落とし多くの同胞の命を奪った敵兵の食べ残したゴミの浮いている残飯の方が遥かに滋養があって美味しいという皮肉を「この世界の片隅に」は、嫌味ったらしくならずにコミカルに描いている。