ネタバレ! 小説と映画の感想‐青葉台旭

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映画「ミスター・ガラス」を観た。

TOHOシネマズ六本木にて。

公式ページ

監督 M・ナイト・シャマラン
出演 サミュエル・L・ジャクソン

ネタバレ注意

この記事には「ミスター・ガラス」および、同監督作品「アンブレイカブル」「スプリット」のネタバレが含まれます。

ネタバレ防止の雑談。

私が今まで観たシャマラン監督作品を以下に列挙する。

今までに観た映画はこの3作で、本作「ミスター・ガラス」で4本目という事になる。

アンブレイカブル」は日本公開時に劇場で観たが、知人たちと感想を言い合った当時の事を今でもよく憶(おぼ)えている。

なぜ憶えているかといえば、好評価だったのは私一人で、私以外の知人たちからは総スカンを食らっていたからだ。
中には、低評価を下すだけでは飽き足らず「観客を愚弄するな」といった意味のことを、語気を荒げて言う人もいた。

一人だけ「アンブレイカブル」を面白いと思っていた私は、周囲の人々が揃(そろ)って低評価を下したことに戸惑い、
「ええ? みんな何でそんなに嫌いなの? けっこう面白かっただろ」
と内心思ったものだった。

いま思い返してみると、なぜ私の周囲に居た多くの人々が「アンブレイカブル」を嫌ってしまったのか、その理由も何となく分かる。

逆説的な言い方になってしまうが、「シックス・センス」の完成度があまりにも高かったからだ。
それが、人々が「アンブレイカブル」を受け入れられなかった理由だ。

こう言い換えても良い……「シックス・センス」に仕掛けられたドンデン返しは、『 偶然にも 』万人に受け入られるほどに完成度が高かった。だから、人々はシャマランという人を万人受けする映画監督だと勘違いしてしまった。

その「シックス・センス」の完成度の高さゆえ、多くの人々が誤解してしまった。
シャマランに期待しすぎてしまった。
誰もが『なるほど、そういうことだったのか!』と膝を打って納得できる、鮮やかで理に適(かな)ったオチを、次作である「アンブレイカブル」にも求めてしまった。

ひょっとしたら当時のプロモーションも「あの『シックス・センス』の監督が再び……」みたいな文脈で展開されていたかもしれない。

私は彼の作品を4本しか観ていないが、それらを観るかぎり、確かにシャマランは「終盤の強烈なドンデン返し」に命をかけている監督だ。

しかし、シャマラン自身が拘(こだわ)っているオチと、多くの観客が期待する『鮮やかで理に適(かな)ったオチ』とは、全く質が異なると思う。

一般的なオチが「物語の要所要所で伏線を張り、それを見事に回収してみせる」事を本分とするのに対し……

シャマラン流のオチは『物語』そのもの、『物語ること』そのものにトリックを仕掛け、それを終盤でひっくり返す事に全精力を注ぐ。
観客は、彼の映画の終盤、最後の最後になって初めて、それまで自分が考えていたものとは全く別の物語だったことに気づく。
要は『叙述的チャブ台返し』あるいは『メタ的チャブ台返し』という事だ。

例えて言えば、彼のオチは『野球の最後で逆点満塁ホームランを打つ』というような、そういう類(たぐい)のドンデン返しではない。
『それまで野球の試合だと思って観ていたのに、最後の最後で、実はサッカーの試合だったと気づかされた』とでもいうべき、構造そのものをひっくり返すタイプのオチだ。

思い返してみれば「シックス・センスからして『物語り』それ自体のチャブ台返しだったわけだが、「シックス・センス」の場合は、そういう「メタ的なオチ」であると同時に、偶然にも「張りまくった伏線を鮮やかに回収するタイプの一般的なオチ」としても見事に機能してしまった……それゆえに万人にも受けてしまった……という事ではないだろうか。

アンブレイカブルをもう一度観た

今回、『ミスター・ガラス』を観るにあたって、事前に『アンブレイカブル』を改めて観直した。
「あれっ? こんなに渋い絵作りの映画だったっけ?」という感想を持った。
アメリカン・ニューシネマ的というか、1970年代の小作品的というか……
全体に薄暗く、物陰は真っ黒で、カメラは動かないか、動いても非常にゆっくりだった。

以上、ネタバレ防止の雑談でした。

以下、ネタバレ感想。

ラスト近く、三人の男たちが改めて『自分の使命』に目覚める所に感動した

結論から先に言うと、良い映画だった。

私が個人的に一番感動した場面は、物語の終わりの方で、あらためて三人の男たちが『スーパーヒーロー』『ヴィラン(悪の怪人)』としてそれぞれ自分の使命に目覚めた所だ。

ヒーローが自己嫌悪や自己憐憫を超え、あらためてヒーローとしての自分の使命に目覚めるというのはスーパーヒーロー物として定番の場面なのだが、平凡なヒーロー物は、ここで勇壮な『盛り上がる』BGMをかける。

しかし本作では、ここで美しくも物悲しい曲が静かに流れる。
つまり、ヒーローがヒーローとしての使命を自覚するというのは『避けられない運命』であり、『悲しい』出来事でもあるのだという意味だ。
こういう表現は、なかなかに新しいのではないだろうか。

そしてヒーローとして覚醒し世界の『向こう側』へ行こうとする男たちと、彼らを何とか『こちら側』の常識の世界に引き留めようとする女たち、という対比もピタリとハマっている。

今回も見事に『叙述トリック』だった

今回も『物語ること』自体に、その『語り』自体にトリックを仕掛ける、見事なシャマラン流だった。

一例を挙げると、今回、スーパーヒーロー役のブルース・ウィリスと、悪の超人役のジェームズ・マカヴォイとの最後の決戦の場として『オオサカ・ビル』なる超高層ビルが、事前に悪の司令役サミュエル・L・ジャクソンによって提示される。

ここで我々観客は思う。
ブルース・ウィリスの代表作といえば『ダイ・ハード』。そして『ダイ・ハード』といえば『ナカトミ・ビル』だな」と。
ダイ・ハード』と『アンブレイカブル』という役名。どちらも意味は『死なない男』
そして、決戦の舞台はどちらも日系らしき『ナカトミ・ビル』と『オオサカ・ビル』
当然、観客は、頭の片隅で『ダイ・ハード』を思い出し、無意識に『最終決戦は超高層ビル』と思い込む。
もちろん、これは観客がそう思うことを充分に計算した上での『語りのトリック』だ。

終盤までの物語は「自分はスーパーヒーロー(ヴィラン)であると思い込んでいる男たち」と「彼らの妄想を取り除いて何とか正常に戻そうと努力する精神科医」という構図で進む。
観客は、その『妄想』こそが正しく、精神科医の方が間違っていることを知っている。
そして、彼らがいつか『ヒーロー』『ヴィラン』として覚醒し、最後には互いに決着をつけようとするだろう……そういう物語なのだろうと『勝手に思い込む』
もちろん、『超能力者同士の戦いと、常識に囚われた無力な精神科医』というこの構図こそが、本作が仕掛けた基本トリックだったと後から気づかされる。

もう一つのメタ。本作のテーマ

私ごとを言わせてもらえば、時々『ヒーローもの』ジャンルのストーリーを描いてみたいなぁという思いが胸の内に湧き上がる事がある。
そのたびに、スーパーヒーロー物の研究を私なりにしてみるのだが、これがなかなか手強い。難しい。

今のところ、以下のような感じなのかなぁと思っている。

  1. 基本的には『ヒーロー誕生秘話』か『悪の怪人誕生秘話』のどちらかの物語である。
  2. ヒーローにしろ怪人にしろ、どうやって超能力を得たのかという(擬似)科学的根拠と、なぜ彼はヒーローもしくは怪人としての人生を選んだのかという内面的な動機が必要。
  3. 劇場映画作品に関しては、もはや「街の犯罪者をやっつける」程度では、観客はビジュアル的にも物語的にも満足しない。「地球存亡の危機」「人類滅亡の危機」じゃないと満足できない。「敵のインフレ」ならぬ「状況のインフレ」とでも言うべきか。あるいはヒーローの巨大怪獣化とも言えるかもしれない。
  4. 現代においては「ヒーローとは何ぞ」というメタ的な問いかけも避けて通れない。ただし個々に見れば、その問いかけには濃淡があって、エンターテイメント寄りの作品にはこの問いかけが薄く、文芸寄りの作品ほどこの問いかけが濃い。

本作品は、まさに「ヒーローとは何ぞ」どころか「アメリカン・コミックとは何ぞ」というド真ん中のメタ・テーマを掲げた物語だった。

きっとシャマランってスーパーヒーローが大好きで、子供の頃から「ヒーローとは何ぞ」って考え続けてきた人なんだろうなぁ、と思ってしまった。

最後の2段オチについて

「ヒーローたちのことを誇大妄想病患者だと思い込んでいる精神科医
そう観客が思い込んでいたその人こそが真の『ヴィラン』であり、実はこの世界には、ヒーローであれヴィランであれ人並み外れた超能力者を闇から闇へ葬り去る秘密結社が存在していて、何千年ものあいだ歴史の陰で暗躍していた……
これが、本作品の1段目のオチだ。

しかし、ここでは終わらなかった。
以下のような2段目のオチがついていた。

超人的な頭脳で真相を察知していたミスター・ガラスことサミュエル・L・ジャクソンは、病院の監視システムをハッキングして超人たちの戦いを全世界に配信していた。
ヒーローたちの裏をかいたと思っていた精神科医(=秘密結社メンバー)は、さらにその裏をかいたミスター・ガラスに見事にしてやられ、次世代のスーパーヒーローの出現を予感させて物語は幕を閉じる。

正直に言うと、私は、この2段目のオチは蛇足だと思う。
いや、蛇足は言い過ぎか。
それにしても、この2段目のオチは頂けない。
2段目のオチが無い方が、ヒーロー(ヴィラン)たちと、彼らの背負った運命との対比が鮮やかなまま強い余韻を残して終われたと思う。
まず何より、1段目のオチに比べて2段目のオチはキレが悪い。かなり悪い。
最初のオチは、ストーリー全体に渡って「語り」のトリックを忍ばせ、それを終盤一気にひっくり返すという、いかにもシャマランらしいものだったが、2段目のオチは単に「ミスター・ガラスの方が一枚上手でした」というだけのものだ。
「天才ハッカー」がキーボードをカチャカチャさせれば何でも出来ちゃうというのは、凡百のアクション映画ならまだしも、オチに命を掛けているシャマランとは思えぬ安易さと言わざるを得ない。

誰が観ても明らかな勧善懲悪で終わってスカッとさせてくれるエンターテイメントも良いが、観終わった後に観客へ何かを投げかけ「うーん」と考えさせる映画が個人的には好きだ。

この物語は、2段目のオチを付けたことによって、何か『理に落ちてしまった感』が生じてしまって、正直、そこだけは残念だった。

「ヒーロー(ヴィラン)として覚醒し世界の『向こう側』へ行こうとする男たちと、それを何とか留めようとする女たち」という構図の対称性も、何だかこの2段目のラストで壊れてしまった気がした。
ミスター・ガラスのお母さんとビーストを抱きしめた女子高生が、最後に新たなる超能力者の出現の予感にワクワクしている風なのが納得できない。 お母さんや女子高生は『男たちが超能力者になろうとするのを引き留める』立場ではなかったか。

どうであれ、彼らは「ヴィラン」だ。
超人として覚醒するということは、彼らが大量殺戮者や少女誘拐犯として生きる道を選ぶということだ。
それなのに、駅の待合室で、息子らと同じ境遇のヴィランの登場をワクワクしながら待つという結末は如何(いかが)なものか。

あえてシャマランを擁護するとすれば、彼には彼なりの『どうしてもヒーローたちを救いたい』という譲れない思いのようなものがあって、ああいう結末になったのかもしれない。

あるいは「観客は常に希望が持てるラストを望んでいる」というエンターテイメントとしての要請があって、ああいう2段落ちになったのかもしれない。

『ミスター・ガラスは超人的な頭脳の持ち主である』という設定がある以上、たかが精神科医の術中に嵌(はま)ったまま終わる訳には行かない、というのもあるだろう。

しかし、だとしても、せめて、無邪気に喜ぶブルース・ウィリスの息子の横で、第二・第三のミスター・ガラス、第二・第三のビーストの出現を予感して絶望する母親と女子高生……という構図のラストに出来なかったものだろうかと、私は思ってしまう。

ひょっとしたら、その背景には「老いた白人男性から若者、女性、非白人種への主役交代・世代交代」という現代ヒーロー物の大きな流れが影響しているのかもしれない。

今も昔も主流派ヒーロー物のメイン・テーマは『勧善懲悪』だ。
何が善で何が悪かは、その時代その時代で変わっていく。
だとすれば、現代のヒーロー達が21世紀版『勧善懲悪』に従って行動するのは当然のことなのかもしれない。

しかし「アンブレイカブル」から始まる本シリーズは、そういう単純な善悪に還元されないヒーロー像・ヴィラン像の可能性を探る旅のはずではなかっただろうか?
だとすれば、本作品における2段目のオチと、その後にくるラストシーン……朝日を浴びてキラキラと輝く太陽光発電機、そして来たるべき世界への期待に胸を膨らます三人というラストは、あまりに楽観的すぎる勧善懲悪的な着地点になってしまったと、私は残念に思う。

ちょっと苦言

アンブレイカブル」の中でコミック屋の店主が、日本の漫画を明からさまに侮辱するような発言をしていた。
その時は、まあ、そういうキャラ立てなのだろうと気にも留めなかったが、今作品でも、やっぱりコミック屋の店主がキティちゃんに絡めて侮辱的な台詞を吐く場面があった。

アンブレイカブル」と「ミスター・ガラス」の両方で、日本のポップカルチャーをくさすセリフをコミック屋の店主に吐かせたのは、どういう意図だったのか。

三人の男たちの存在感は、それだけでも充分と思えるくらい濃かった

ビーストことジェームズ・マカヴォイの多重人格芸の素晴らしさは言うまでもないが、アンブレイカブルことブルース・ウィリスと、ミスター・ガラスことサミュエル・L・ジャクソンの老年期に入った男の哀愁漂う存在感も素晴らしい。

ブルース・ウィリスも実際の年齢を考えれば立ち回りは大変だったろうが、カメラ・ワークの妙だろうか、年齢を感じさせるようなシーンは殆(ほとん)ど無かった。せいぜい、ロッカールームを走るほんの1〜2秒のカットくらいだろうか。