ドラマ「刑事コロンボ 殺人処方箋」を観た
U-NEXT にて。
脚本 リチャード・レヴィンソン、ウィリアム・リンク
監督 リチャード・アーヴィング
出演 ジーン・バリー 他
刑事コロンボ・シリーズの記念すべき第1作。
1968年放映。
ジーン・バリーは、1953年『宇宙戦争』で主演を務めている。
ネタバレ注意
この記事にはネタバレがあります。
ネタバレ防止の雑談
どの国であれ、外国映画を観る動機の一つに『異国情緒』(エキゾチシズム)があると思う。
ストーリーがどうだとか、カメラ・アングルがどうだとか、俳優の演技がどうだとか以前に、まず何より『外国の映画である』という事自体が、そもそも一つの魅力なのだなと思う。
そこに映し出される知らない街の風景が、視聴者にとっては既に魅力だ。
たとえ現実社会・現代社会が舞台であったとしても、外国であるというだけで、ある種の『異世界ファンタジー』なんだと思う。
一方で、『実際その国へ行けば、我々と大して変わらぬ人々が、我々と対して変わらぬ平凡な日常を送っているのだろうな』とは、頭の片隅の何処(どこ)かで常に思い続けているが。
人は常に『ここではない何処か』を探し求めている。
しかし、どんな非日常も、そこで暮らし続けていれば日常になる。
私が旅先で感じた非日常は、現地の人々にとっての平凡な日常だ。
海外のインターネット・ミーム(=ネット上の流行語)に、こんな物がある。
『我々は、地球を探検するには生まれるのが遅すぎた。宇宙を探検するには生まれるのが早すぎた』
グーグル・マップとストリート・ビューが全世界を網羅(もうら)し、世界中ありとあらゆる場所にマクドナルドとスターバックスの看板が並ぶ現代に於(お)いて、真の意味での『秘境』は地球上から消滅してしまった、そんなものはもう何処にも存在しない、という意味だ。
エベレストの山頂でさえ観光地化され、押し寄せた観光客たちの捨てたゴミが至る所に散乱している、という話も聞く。
我々が外国映画に感じる異国情緒(エキゾチシズム)も、今では薄れてしまった。
「そもそも異国情緒などという物を外国映画に求めること自体、映画の鑑賞方法として不純だ。邪道だ」
と言われれば、「おっしゃる通りです。反論の余地もございません」と謝るしかない。
以上、ネタバレ防止の雑談でした。
以下、ネタバレ感想です。
1968年のロサンゼルス
本作品が放映された1968年のロサンゼルスが、なんだかレトロで、エキゾチックだ。
今(2021年)から53年も前の、アメリカ映画産業のお膝元。
やけに平べったく無駄に大きな『アメ車』が街の通りを埋め尽くしている。
我々の住む現代社会と地続きでありながら、どこか現実離れした風景が心地良い。
53年前といえば、もはや『時代劇』『歴史劇』の範疇だからなー。
日本初の大衆時代小説『大菩薩峠』の連載開始が1913年。
その大菩薩峠の舞台となった時代が、安政5年(1858年)
その差、55年だ。
当時リアルタイムで新聞連載を読んでいた読者にとって『大菩薩峠』が遠い過去の物語(=時代小説)だったというのなら、現代に生きる我々にとっての『刑事コロンボ』も、もはや充分に『時代劇』と言って良いのかも知れない。
逆に言えば、『大菩薩峠』連載当時の読者と主人公・机龍之介との距離感は、我々とコロンボくらいの距離感でしかなかったという事か。
倒叙ミステリー
推理小説(ミステリー)には『倒叙もの』と呼ばれるサブ・ジャンルがある。
まず物語冒頭、周到に計画された犯行の様子を描き、その完璧と思われた犯行計画を、あとから登場した探偵が徐々に切り崩していくタイプの推理小説だ。
通常の推理小説とは物語の描かれ方が逆になっているから、『倒置された叙述=倒叙』という訳だ。
一見、完璧に思われた犯行計画が徐々に切り崩され、犯人がだんだん追い詰められていく様子を見て楽しむジャンルだ。
コロンボは『ザマァもの』で『貴種流離譚』?
『小説家になろう』などのネット小説界隈には、『ザマァ』というネット・スラングがある。
『ざまぁ見ろ』の略だ。
『物語の序盤で主人公をバカにして虐(いじ)めていた敵役が、物語の終盤で主人公と立場が逆転し、ひどい屈辱を味わう』
というお決まりの物語パターンを指す。
序盤、敵役が性根の曲がった嫌なヤツである事をコッテリと描写し、最後にその敵役が主人公に負けて屈辱に塗(まみ)れる様子を、これまたコッテリと描く。
身も蓋もない言い方をすると、ある種の倒錯したサディズムを味わう小説だ。
話をコロンボに戻す。
『刑事コロンボ』の特徴として良く言われているのは、『犯人は上流階級・知的エリート階級に属している』という定型だ。
犯人は、単にお金持ちであるだけでなく、医者・弁護士・売れっ子小説家・美術評論家など、インテリ職業の場合が多い。
そのキザで鼻持ちならない上流インテリ名士の犯人たちが知恵を絞って周到に準備した犯罪を 、ヨレヨレのコートを着てボロボロの中古車から現れたコロンボが徐々に切り崩し、犯人を追い詰める。
最初、犯人はコロンボをバカにする。「こんな小汚い姿のドン臭そうな男が、インテリ階級の俺様によって周到に立てられた犯罪計画を見破るはずがない」と。
ところが物語が進むにつれて、その小汚なくてドン臭そうだった小男が、実は犯人より一枚も二枚も上手の、鋭い知性の持ち主であると分かる。
彼を小馬鹿にしていた犯人は焦り始め、追い詰められ、最後には逮捕の屈辱を味わう。
まさに『ザマァ』だ。
物語の序盤で犯人がコロンボをバカにすればするほど、後半の逆転劇で落差が生まれ、観客の味わう『ザマァ』の快感が強くなる。
『刑事コロンボ』を含めた『ザマァ』系物語の構造を見てみよう。
- 最初は、周囲や敵から小馬鹿にされる主人公
- 中盤から終盤にかけて徐々に明かされる主人公の優位性(特殊な戦闘術の使い手である、知力・芸術的センスに秀でている、魔法や超能力など隠された力がある、実は地位が高い、など)
- 鮮やかな逆転劇
のちの『ランボー』や『ダイハード』にも見られるこの構造は、物語論的に言えば『貴種流離譚』にその源流があると思われる。
- 最初は周囲から馬鹿にされていた醜(みにく)い子アヒルが、
- 実は、何らかの事情でアヒルの巣に紛れこんだ(流離した)、白鳥の子(貴種)であり、
- 最後に美しい白鳥となって舞い上がり、自分を馬鹿にした他のアヒルたちを空から見おろす。
という物語構造の事だ。
『シンデレラ』や、日本の『鉢かつぎ』『姥皮』などの『継子(ままこ)いじめ譚』も、広い意味では『貴種流離譚』の一種とも言える。
高貴な生まれの美少女が、その美しさを封印され継母に虐(いじ)められるが、最後はその秘められた美しさや高貴な生まれゆえの教養の高さが現れて、それまで彼女を馬鹿にしていた周囲の人々が驚き、虐めていた継母が罰を受けるという類型だ。
こちらも「冒頭で馬鹿にされる主人公→やがて隠された才能が発現し、立場が逆転する」のが、話のポイントだ。
ここまで書いて気づいた。
そうか、『小説家になろう』の『ザマァ』とは、『貴種流離譚』の亜種だったのか。
『ザマァ』的サディズムは、太古より我々のDNAに刻まれた物語嗜好という事か。
ちなみに、『みにくいアヒルの子』などに代表される貴種流離譚に対し、しばしば政治的な批判を繰り広げる人たちも居るが、物語の構造を見るコツは『政治的な立場をいったん棚上げにして共通項を見つけ出す』事だ。
話をコロンボに戻す。
これまでの通説は、
「小汚くドン臭い小男と見られ馬鹿にされていた刑事が、実は並外れた知性と推理力の持ち主だった。序盤、犯人はその刑事を馬鹿にするが、徐々に追い詰められ、ついに馬脚を現して破滅する。その犯人の追い詰められっぷりを楽しむ物語」
それが『刑事コロンボ』である、というものだった。
別の言い方をすると、
「最初はシンデレラを馬鹿にしながら贅沢に暮らし、次にシンデレラの才能の発現に怯え、最後は過去の罪を暴かれて罰を受ける『継母』の没落っぷりを見て『ザマァ』する物語」とでも言おうか。
実は、犯人に感情移入するように作られていた
今回あらためて『刑事コロンボ』の第1話『殺人処方箋』を観て気づいたのが、『犯人に感情移入するよう』観客を誘導する話づくりと演出だ。
『首を絞めて殺したはずの妻が、実は完全には死んでいなかった。その事をコロンボから告げられた犯人が、コロンボと一緒に病院へ行く』
というシーケンスを見たときに気づいた。
そのシーケンスに於(お)ける問題解決は、「結局、妻は意識が戻らぬまま死んでしまいました」という呆気(あっけ)ないものだ。
犯人が知恵を絞り、タイミングを見計らって今度こそ確実に息の根を止めた……という訳でもない。
完全無欠インテリ上流紳士さまである筈(はず)の犯人は、ただオロオロと狼狽(うろた)えていただけだ。
仮に、前章で述べた通説に従い、本作品を「インテリ上流階級の犯人が落ちぶれていくさまを見て『ザマァ』する物語である」と規定するなら、このシーケンスは明らかに余計だ。
観客は、こんな『犯人のマヌケな失敗』を見たい訳じゃない。
インテリを自認するプライドの高い犯人が、そのプライドをコロンボに折られて膝をつく様を、この目で見たいんだ。
あくまでも犯人は『知的で用意周到』であるべきだ。それでこそ、コロンボにとって打ち負かし甲斐があるというものだ。
最初からマヌケな犯人を負かしたところで、面白くも何ともない。
ところが、このシーケンスでの犯人は、単に「妻が意識を取り戻したら、どうしよう?」とハラハラ、ドキドキしていただけだ。
あげくの果てに、その胸の内を見透かされ、コロンボに疑いの目を向けられてしまう。
そんな間抜けな犯人の「ハラハラ、ドキドキ」に対し、なんと驚いたことに、本作品は観客の感情移入を誘導するように演出されている。
もしこの作品に於(お)ける『犯人』が、ひたすら『ザマァ』をするだけの対象だとしたら、こんなサスペンスなどは必要ない筈(はず)だ。
サディズムとマゾヒズム
そろそろ本記事の結論を述べよう。
『刑事コロンボ』とは、以下に述べるようなエンターテイメント作品だ。
「インテリ上流階級の犯人が、コロンボに追い詰められ、最後に破滅する様子を見て楽しむ」サディズム作品である。
……と、同時に……
「徐々に追い詰められていく犯人に感情移入してハラハラドキドキのサスペンスを楽しむ」マゾヒズム作品でもある。
なんと、一本の映画でサディズムとマゾヒズムの両方を同時に味わえる『ひと粒で二度おいしい』作品だった。
演出や物語の運び方によっては、一本の映画の中で『犯人を追い詰めるサディスティックな快楽』と『犯人の身になって追い詰められていくマゾヒスティックな快楽』の両方を観客に味わわせる事ができる。
……と、今回この作品を観て学んだ。
これは私にとって嬉しい発見だった。
追記 (2021.5.16)
コロンボが貴種流離譚である、っていうの言い過ぎだったかな。
ちょっと飛躍しすぎたかも知らん。
別に貴族の生まれとかでもないし、放浪とかもしてないし。
『物語の冒頭では馬鹿にされていた主人公が、実は何らかの優位性を隠し持っていて、ついにクライマックスでその隠された能力が発現し、主人公を馬鹿にして虐(いじ)めていた奴らが罰を受ける』
っていう物語の類型に、なんか良い名前は無いだろうか?
そういう分類クラスが、『貴種流離譚』と『継子いじめ譚』の両方を包括する上位クラスとしてあると思うんだけどな。
『馬鹿にしてた奴らを見返してザマァ譚』とか?
コロナワクチン接種について
いよいよ状況は『どれだけ迅速にワクチン接種を行い、全員接種を完了するか』という局面に来た。
そこで、思ったことを少々書く。
その1
コロナワクチンを接種する人の順番は、効率とリスク管理を最優先に考えて決めれば良い。
たとえそれが不公平でも不平等でも問題無い。
公平性や平等性を重んじるあまりに、時間や人的資源を浪費するのは本末転倒だ。
最低限の時間的・人的コストで片っ端から注射を打てば良い。
火事で燃えさかる家を目の前にして、『誰から先に救助するか、まずは公平に籤(くじ)を引いて決めよう』などと呑気(のんき)に言う消防隊員は居ない。
平和な時なら、平等性や公平性にコストを割(さ)くのも良かろう。
しかし今は緊急事態だ。
「今日はA地区の65歳以上に打ちます、明日はB地区の65歳以上に打ちます、明後日はC地区が対象です……」
これで良い。
当然、Z地区の老人たちは「なんでワシらが最後なんじゃ!」と怒るだろうが、別に構うことはない。
どういう決め方をしようと、誰かが先に注射を打って、誰かが後回しにされる事には変わりない。どうやっても根本的な部分での不平等は避けられない。
単に「早い者勝ち」や「籤(くじ)引き」で決めれば公平のような気がするだけだ。
その「公平で平等なような気がする」ためだけに、わざわざ電話受付に人的資源を割(さ)く必要はない。
効率のためにも予約は必要というのなら、まずはネット予約だけにすれば良い。
まずはネットを使いこなせる老人たちや、子供や孫のサポートを受けられる老人たちから掬(すく)って行けば良い。ネットの出来ない孤独な老人は後回しでも良い。
福島市は、インターネットに不慣れな老人のために、彼らを公民館らしき場所に集めて「インターネットの使い方講座」を開催した。
こんな事をする暇があったら、これに使った人的資源を別の場所で使うべきだ。
あるいは、せっかく老人たちを集めたんだから、「ネットの使い方を教える」などという回りくどい事なんかせずに、その場で予約申込用紙に記入させてサッサと帰し、最優先で彼らの予約登録をすれば良い。その方が手っ取り早い。
その2
自治体の首長や、ワクチン接種オペレーションに従事している公務員が自ら優先的に接種を受ける事に、何の問題も無い。
むしろ自ら率先して接種を受けるべきだ。
彼らの使命は、1日でも早く全住民への接種を完了する事だ。当然、『全住民』には彼ら自身も含まれる。
「私の接種は最後で構いません。どうぞ住民の皆さん、お先に接種して下さい」
などと言って、オペレーション半ばでコロナに感染して倒れてしまうような市長よりも、
「真っ先に私が接種します。そして自らが感染しない体になって、全力で事態の終了のために働きます。最速で全住民への接種を完了してみせます」
と言う市長を私は選ぶ。
自治体の首長と公務員に、私は言いたい。
「俺より先にワクチン打っても構わないから、ちゃんと働け。ちゃんと結果を出せ」
漫画「メギドの火」全3巻を読んだ
漫画「メギドの火」全3巻を読んだ
作 つのだじろう
ネタバレ注意
この記事には以下のネタバレが含まれます。
ひとこと感想
1970年代、オカルト・ブーム全盛期の作品。
今の目から見ると、色々とハチャメチャだが、そのハチャメチャ感がちょっと楽しい。
あくまでフィクションとして楽しんでいるぶんには、楽しい漫画だ。
しかし、それにしても、この手のオカルト界隈から派生したと思(おぼ)しき陰謀論を、2021年の今でも大真面目に信じている人々が居るのは、一体どういう事だろう、と思う。
例えば、
『世界の資本主義を裏で操っている秘密結社が存在し、さらにその背後にはトカゲ型の宇宙人が居て、水面下で着々と地球の支配を進めている』
とか、
『スキャンダルで失脚した政治家Aは、トカゲ型宇宙人の侵略から地球を守るため、はるか銀河の彼方〈光の国〉から派遣された〈光の戦士〉であり、敵の巧妙な罠にハメられて失脚したのだ』
とか、そういう陰謀論を真面目に信じる人々が現実に居るというのは、一体どういう事なのだろうか。
話を『メギドの火』に戻す。
物語の最後、超大国どうしが最終戦争に突入し、人類のほとんどが死んでしまう。
わずかに生き残った者たちはイースター島に逃れるが、そこでも人間はエゴを丸出しにして互いに殺し合い、せっかく与えられた復興のチャンスも生かせず、ついに人類は滅びる。
このタイプのラストは、どうやら1970年代のオカルト・ブーム(あるいはスピリチュアル・ブーム)の一つの定型だったようだ。
- この世界には、超越的な力を有する高次の何か(異星人・超古代文明人・神・天使・悪魔・意思を宿した高次元エネルギー体など)が存在する。
- 主人公は偶然その『高次の存在』に触れ、その力の一部を自らの物とする。
- 主人公は、手に入れた強大な力に戸惑いながらも、人類を良き方向に導こうとする。
- しかし主人公の努力も虚しく、人類はその残忍性やエゴを剥き出しにして互いに争い、自滅の道を歩む。
- あるいは、煩悩まみれの人類に愛想を尽かした『高次の存在』によって滅ぼされ(浄化され)てしまう。
ざっと思い出すだけでも以下のような漫画・アニメが思い浮かぶ。
やはり、このタイプの元祖はデビルマンなのだろうか?
あるいは、さらに遡(さかのぼ)って平井和正・石ノ森章太郎『幻魔大戦』あたりにそのプロトタイプを見るべきか?
漫画版の『幻魔大戦』は未読だが、この機会に読んでみようかな。
余談だが現代風にアレンジしてテレビアニメ・シリーズにしたら、幻魔大戦って面白いかもしれない。
1970年代のオカルト(スピリチャル)ブームと、世界滅亡(人類のエゴによる自滅)エンディング・ブームの関係性というのをもう少し深く考えてみたい。
『聖書(黙示録)』『アルマゲドン』『米ソ冷戦』『ベトナム戦争』『公害問題』あたりのキーワードが取っ掛かりになるか。
2000年代セカイ系との関連
2000年代(通称ゼロ年代)に花開いた『セカイ系』の系譜を辿(たど)って行くと1995年の『新世紀エヴァンゲリオン』に行き着く。
その『エヴァンゲリオン』の系譜をさらに辿って行くと1970年代の『オカルト(スピリチャル)系』の漫画・アニメに行き着く……という解釈は、どうだろうか?
ゼロ年代の『セカイ系』ブームとは、ある意味1970年代『オカルト(スピリチュアル)』ブームのリバイバルだった、という解釈も成立し得るか。
その方面も、もう少し考えてみたい。
続・猿の惑星
互いに争うだけの愚かな人類(の末裔)に絶望し、世界の破滅を選択するラストは、1970年『続・猿の惑星』からの影響もあるか。
小説「機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ」について
作 富野由悠季
何十年も前、若い時に一度読んだ。
今年(2021年)映画化されると聞いて、あらためて読み直した。
ここ1ヶ月の間に、三冊通して2回も読んでしまった。
ネタバレ注意
この記事には以下のネタバレが含まれます。
ネタバレ防止の雑談
時々、こんな事を思う。
「演劇とは『必ず終わる』芸術形態なのだなぁ」
と。
演劇の作り手は『必ず終わらせる責任』を負っている、とも言い換えられる。
広義の『演劇』の中に『映画』を含んでも良い。
『演劇には、始まりと、真ん中と、終わりがある』とは、すでに古代ギリシャ・アリストテレスの時代から言われていた事だ。
劇の流れを『始まり』『真ん中』『終わり』の三つに大別する考えは、古代ギリシャから現代ハリウッドの三幕構成理論まで、西洋の演劇理論の基本だったと言えるだろう。
シェイクスピアには、そのものズバリ『終わり良ければ全て良し』という劇がある。
日本の能などでよく言われる『序破急』や、漢詩から借用され広く日本の物語構成に根づいた『起承転結』も、簡単に言えば『始まり・真ん中・終わり』についての理論だ。
とにかく、劇には『終わり』が必要だ。
ところが、これが小説になると、必ずしも『終わり』が有るとは限らない。
『カラマーゾフの兄弟』という小説がある。
百年以上前に書かれ既に評価の定まった作品でもあるし、歴史的事実なのでネタバレにならないと思うから書くが、この「カラマーゾフの兄弟」は作者の死によって未完のままになっている。
にも関わらず、この小説は『古典文学ベスト100』のような企画で、必ず上位にランクインされる。
集計方法によって1位の時もあれば3位の場合もあるが、ベスト3以内には必ず選ばれる。
これは即(すなわ)ち、小説にとって『終わる』という事は必ずしも重要ではない事を意味する。
夏目漱石は『本当に面白い小説は、どこから読んでも面白い』と言った。
話の筋なんか無視して適当にページを開いて読んでも、面白い小説は面白いという事だ。
『演劇』と『小説』の違いは、どこから来るのだろう? と、時どき考える。
おそらく『時間をコントロールする権利と責任』が、作り手と受け手のどちらに帰属するかの問題だろう。
演劇に於(お)いては、時間をコントロールするのは作り手側の権利であり責任である。
観客は、劇の開演時刻から終演時刻まで、作り手の時間の中に身を委(ゆだ)ねるしかない。
一方、小説で時間をコントロールしているのは読者だ。
読者は、いつ本を読んでも構わないし、いつ読むのを止めても構わないし、どんな速度で読んでも構わない。
作者は、読者の時間をコントロールできない。
この違いが、演劇には『終わり』が必要であり、小説は『終わる』必要がないという違となって現れているのではないだろうか。
以上、ネタバレ防止の雑談おわり。
以下、ネタバレ。
若い時に読んだ。その記憶
この『閃光のハサウェイ」を、私は二十代の頃に一度読んでいる。
主人公が体制側に捕まって銃殺刑になるラストと、銃殺を命じるライバルが最後に主人公の耳元で「好きだぜ」と呟(つぶや)くという描写が、とても印象に残っていた。
逆に、それ以外のパートは殆(ほとん)ど忘れていた。
なぜ、『主人公が銃殺刑になる』という結末が私の心に残ったのだろうか?
それを自己分析してみる。
若かったとはいえ、私も既に良い大人になっていたから、この世界には『悲劇』という物語形態がある事は知っていた。
『いやしくも巨大ロボを操縦する正義のヒーローであるからには、必ず戦いに勝って生き残り、世界に平和をもたらすべき』などと子供っぽく思う年頃は、さすがに過ぎていた。
また『物語のラストで主人公が死ぬ』悲劇的展開を、作者の富野由悠季がしばしば好んで使う事も知っていた。
『ハサウェイ』を読んだ当時の私は、もはや「主人公が最後に死ぬ結末」だけで驚くような初心(うぶ)ではなかったという事だ。
にも関わらず、主人公が銃殺されるという『ハサウェイ』の結末は印象に残った。
いま思い返してみると、ハサウェイの結末が私の心に深い印象を残した原因は、主人公の死そのものというより『銃殺刑』という死に様(ざま)にあったような気がする。
『主人公の死で幕を閉じる悲劇であったとしても、せめて、その死に方は英雄的であって欲しい』と、当時の私は思い込んでいたんだと思う。
英雄的な死に方とは、例えば、富野の前作『逆襲のシャア』に於けるアムロのような最期の事だ。
物語の主人公であるからには、アムロのように「自分の命と引き換えに、地球を滅亡の危機から救う」というスペシャルな死に方しか認められないと、当時の私は無意識に思い込んでいたのだろう。
それに比べると『ハサウェイ』の死に様は、やけに呆気(あっけ)無く、地味だった。
乗機であるガンダムといっしょに捕虜となり、反政府組織による救出作戦もなく、そのまま数日後に体制側の隠し別荘で人知れず処刑されて、終わり。
そのヒーローっぽくない死に方、情けない死に方が、逆に私の心に強い印象を残したのだと思う。
数十年の時を経て2021年に再読した私が、どう感じたか。
ひと言。
「なんて爽やかな終わり方なんだ」
と思った。
とにかく読後の余韻が素晴らしく清々(すがすが)しい。
なんというか、時間的にも空間的にも、視界が未来へ向かって、世界に向かって、『開(ひら)けていく』感覚がある。
この爽快感を伴った読後の余韻は、ハサウェイの銃殺刑シーンではなく、その後のエピローグが与えてくれたものだった。
私は、このエピローグを完全に忘れていた。
二十代の私の印象には残らなかったのだろう。
しかし歳を重ねた今、ようやく、このエピローグの素晴らしさが分かった。
ハサウェイ銃殺後のエピローグは、彼を処刑したケネス大佐(准将)を中心に語られる。
処刑の翌日、ハサウェイの死が体制側によって脚色されプロパガンダに使われた事を新聞で知ったケネスは、真相を知る自分とギギの命が連邦政府に狙われる可能性に思い至り、彼女と共に逃亡する。
そして密航した気象観測用小型ジェットの行き先が、偶然にもハサウェイの母ミライ・ヤシマの故郷・日本である事を知り、ケネスとギギは、亡き友人ハサウェイを思う。
ケネスとギギは、互いに、これからの進路を語りあう。
ケネスは「ハサウェイの遺志を継いで反政府組織を作る」と言う。そして「メイスと縒(よ)りを戻す」とも言う。
メイスとは、ギギがケネスの傍(そば)に自分の居場所を確保するため追い出した女の名で、つまりギギに追い出されたケネスの元愛人だ。
ここで暗にケネスが宣言しているのは『密航が終わって日本に到着したら、そこでギギとの関係は永遠に終わりだ』という事だ。もう二度と会う事は無い、と。
一方のギギは、逃避行の先がハサウェイの故郷だと知って「人も少ないし、気候もいいっていうし、そこで死ぬわ」と言う。
この場合の「そこで死ぬわ」は文字通り『今すぐ死ぬ』という意味ではなくて、「その土地で独り静かに暮らして天寿を全うし、骨を埋める」という意味だ。
機動戦士ガンダムの世界観に於いて、日本は過疎化が極端に進んだ僻地、ど田舎という設定だ。
そんな人里離れた場所でギギは生涯を過ごす、隠棲すると言っている。
普通なら、二十歳にも満たない少女がそんな事を言えば、「世捨て人」「引きこもり」というネガティブな印象になるはずだが、不思議とギギのセリフは潔(いさぎよ)く、清々(すがすが)しい。
同じ旅客機に居合わせた事をきっかけにして同じ運命の歯車の上をぐるぐる回っていた三人の男女が、物語の終わりで一人は銃殺され、もう一人の男は女の元から永遠に去って革命に身を窶(やつ)し、女は死んだ友の故郷で独り静かに天寿を全うする事を選ぶ。
この物語のラストは、典型的なエンターテイメントの『ハッピーエンド』からは、ほど遠い。
にも関わらず、どんなハッピーエンドよりも爽やかな読後の余韻を残す。
時間的にも空間的にも、読む者の視界が未来へ、世界へと広がっていく明るさがある。
こんなに爽やかな読後感を覚えたのは、『カラマーゾフの兄弟』以来だ、と思う。
なぜだろうか?
本記事を書いている間に、ふと頭に浮かんだ仮説が一つある。
この小説『ハサウェイ』の清々しい読後感の理由は、メイン登場人物三人三様の『迷いの無さ』かも知れない。
銃殺される直前のハサウェイにも、日本行きのジェットに乗ったケネスとギギにも、『自分の人生に対する迷い』が無い。
銃殺されようが、地下組織に身を投じようが、若くして孤独な田舎暮らしを選ぼうが、自分の人生を迷いなく選択できたならば、それは潔く、清々(すがすが)しく、爽やかな事だろう。
逆に、物語の終盤までは、彼ら三人の行動には常に『迷い』が付きまとっている。
革命に身を投じようと、軍の要職に就こうと、大富豪の愛人として上流階級の暮らしを満喫していようとも、迷っている限り、人生は救われない。
思い悩んでいた三人の主人公たちが、物語のラストで自分自身の行く末に迷わなくなった事が、物語の余韻の清々しさを生んでいるのかも知れない。
まとめ
本記事の要旨を短くまとめる。
- 小説『ハサウェイ』の読後感は、主人公が銃殺されるという悲劇にも関わらず、なぜか爽やかで清々しい。
- それは『カラマーゾフの兄弟』の読後感に似ている。
- なぜ、そんなにも読後感が爽やかなのか、その理由はハッキリとは分からないが、物語の最後で、主人公ら三人の『迷い』が消えた事が関係しているのかも知れない。
以上、本記事の要旨でした。
以下、余談です。
本作品に於けるモビルスーツの扱い
この章では、作品内でのモビルスーツの扱いについて、どうしても気になった点を挙げる。
気になった点その1。モビルスーツの値段
『機動戦士ガンダム』に於けるモビルスーツの役どころは、現実世界で例えるなら最新鋭の戦闘機に匹敵するものだろうと、なんとなく思っていた。
例えば、現実世界では最新鋭の戦闘機F35は、1機100億円と言われている。
そんな高価な兵器を、単なるゲリラ・テロリストが運用できるだろうか?
たとえそれが旧式の型落ちモビルスーツであったとしても、普通に考えれば調達・運用は不可能だと考えるのが常識だ。
現実世界のゲリラが、旧式になりつつあるF15戦闘機やF16戦闘機を調達できるとも思えないし、整備・運用できるとも思えない。
さらに遡(さかのぼ)って、ベトナム戦争時代に使われたF4戦闘機でさえ、現代のテロリストには手に余るだろう。
単純に『旧式モビルスーツ→安いから貧乏なゲリラでも使える』という図式が成立するだろうか?
気になった点その2。モビルスーツの動力源
モビルスーツは小型核融合エンジンを動力源とする、というのが『ガンダム』世界の設定だ。
その『小型核融合エンジン』なるものが、科学的・工学的にどのような物であるのかは、詳しく描写されない。
その事に関して、とやかく言うつもりはない。
どうせ実用化されていない技術なのだから、その作品の世界観に合った形で、都合よく描写すれば良い。
だがしかし、個々の設定が全体の世界観と齟齬をきたし矛盾するとなれば看過できない。
本作品を読んでいて分かるのは、どうやらモビルスーツの核融合エンジンを撃ち抜くと、原爆なみの大爆発が起きてキノコ雲が舞い上がり、周囲に放射性物質を撒き散らす、という事だ。
そんな危険な兵器を、反政府ゲリラたちは安価で調達し、何機も保有し、野営地で整備し、テロに使用しているのだろうか?
さすがに非現実的ではないだろうか?
いやしくも地球環境の保全を旗印に掲げる環境テロリストが、そんな危険で環境負荷の高い兵器をテロ活動に使うだろうか?
テロリスト集団の描写
主人公が首領を務める『マフティ』というテロ集団の描写も気になった。
あまりに理想化された「善人ばかりのテロ集団」で、さすがにリアリティが無い。
テロ集団って、実際にはもっとドロドロした組織だと思うんだけど。
この小説を読んでいると、テロ集団というものが、まるで『善人だけの原始共同体』か『平等主義的で進歩的な部族社会』のような物として描写されている。
『反政府組織』なるものを、あまりに理想化し美化し過ぎているように感じられる。
そこは今回の小説の主題じゃないって事で、類型に逃げたのかも知れないが。
テロリストが主人公の巨大ロボット・アニメ
テロリストが主人公のロボット・アニメというのも珍しい。
単に主人公が犯罪者だから珍しいというだけでなく、物語構造が他のロボット・アニメとは一線を画している。
一般的な所謂(いわゆる)『巨大ロボット・アニメ』は、『平和な僕らの町に、ある日とつぜん敵が攻めてきた』事から物語が始まる。
『敵』は、悪の秘密結社の場合もあるだろうし、他国の軍隊の場合もあるだろうし、異星人の場合もあるだろう。
ここで重要なのは、主人公が巨大ロボで戦う動機が『敵が攻めて来たから、止むに止まれずロボに乗って出撃した、こちらも応戦せざるを得なかった』という点だ。
主人公の暴力の行使は『正当防衛』という裏付けを持って行われる。
つまり一般的なロボット・アニメでは、常に敵側が将棋の『先手』で、主人公側は常に『後手』で物語が始まる。
しかし、本作品は違う。
最初に暴力を行使するのはハサウェイとその一味だ。テロリストなんだから当然だ。
大都市アデレードに攻め入って無辜の市民を巻き添えにしながらモビルスーツ戦を仕掛けるのが主人公一味で、テロリストの侵攻からアデレードの街を守るのが敵である連邦軍の役割だ。
将棋の先手と後手が逆転している。
主人公の自殺願望
明確に主人公の自殺願望が描写されている箇所は無いのだが、物語の要所要所で『死の予感』めいたものが描かれている。
主人公のハサウェイは『こんな事を繰り返していたら、いつか自分は死んでしまうだろう』と思いながら出撃している。
それは積極的な自殺願望ではないにせよ、『消極的な自殺願望』あるいは『未必の自殺願望』と言える。
後述するように、自分自身をキリストになぞらえて、『首領である自分が死んで、むしろ政治的状況が前進する』事を最初から折り込んでいるような気配さえ感じられる。
父、ブライト・ノア
ガンダムと共にテロリスト首領の捕獲に成功したケネス大佐(准将)は、しかし地球連邦の腐った官僚主義にほとほと嫌気がさして、上司に辞表を出す。
その後任として地球に赴任するのが、ハサウェイの父親ブライト・ノアだ。
まさか父親に息子の処刑をさせる訳にもいかず、ケネスは自らハサウェイを処刑せざるを得なくなる。
業務引き継ぎのため、軍敷地内の別荘にブライトがやって来る。
まさにその時、その同じ建物内で、息子のハサウェイは処刑された訳だが、父親に気づかれずにケネスは引き継ぎを完了し、遺体は密封され館から運び出される。
翌朝、ケネスとギギは、連邦政府がプロパガンダのために態(わざ)とブライトに息子の死を知らせたという新聞記事を目にする。
ブライトが息子の死を知ったときの様子は描写されない。
ケネスとギギが読んだ新聞記事として間接的に描写されるだけだ。
息子の最期を知ってブライトがどれほど悲しんだかを直接描写しない事も、読後の余韻に一役買っていると思う。
キリストの磔刑
二十代で読んだ時には気づかなかったが、今回読んでみて、この物語がキリストの磔刑に準(なぞら)えて書かれていると気づいた。
物語の中で『マフティ』という名前には『預言者』という意味が込められていると説明される。 これもキリストを想起させる。
主人公の乗る『クスィー・ガンダム』は、最後にビーム・バリアーの大電流によって制御系を焼かれ、両腕を真横に広げた十文字の格好で停止する。
当然、これも十字架の比喩だ。
さらに、ビーム・ライフルなどの武器を持てないようにするため、敵モビルスーツによって両手をビーム・サーベルで焼かれる。
これも、キリストの両手に撃ち込まれた釘を連想させる。
処刑直前、「最後に言いたい事は無いか?」と尋ねたケネスに対し、ハサウェイは「人類の健やかな精神が、この地球をまもると信じている。それまでは、人の犯した過ちは、今後ともマフティーが、粛正しつづける」と答える。
これは、キリストの死後その教義が全ヨーロッパに広がって行った史実を念頭に置いた言葉だろう。
自ら処刑される事で人類の原罪を浄化したとされるキリストの、『過激派バージョン』になっているようにも思える。
現実世界での私個人の意見を聞かれれば、「どんなに立派な理想も、いずれ必ず、その名の下に異端審問と魔女狩りを始める」と言わざるを得ない。
作者の富野だって、そんな事は百も承知に違いない。それは彼の他の作品を見れば分かる。
今回は、あえて『革命組織のダークサイド』は描かなかった、そこに主題を置かなかったという事か。
ドストエフスキー
読後の余韻が「カラマーゾフの兄弟」に似ていると書いたが、それ以外にも少しだけドストエフスキーを連想させる部分がある。
主人公とライバル(親友)が偶然同じ飛行機に乗り合わせた所から物語が始まるというのは、ちょっと『白痴』を思わせる。
また、テロリストの首領が上流階級出身のインテリ青年である所は、ちょっと『悪霊』を思わせる。
「カラマーゾフの兄弟」は、第1部を書き終えた所で作者が死に、本編であるはずの第2部は永遠に書かれなかった。
第1部は、主人公アリョーシャと親交を深めつつあった小学生の少年が亡くなり、少年の同級生たちとアリョーシャが田舎道を歩きながら永遠の友情を誓い合うところで終わる。
一説によると、第2部は十三年後の物語として構想されていたらしい。
かつてアリョーシャと永遠の友情を誓い合った小学生たちは大人になり、アリョーシャは彼らと共にテロ組織を作って首領の座に納まり、ロシア皇帝の暗殺を企て、失敗し、銃殺刑になるという話だったと言われている。
その顛末をキリストの受難に準(なぞら)えて描く予定だったとも言われている。
善良なインテリ青年がテロリストに転じる所も含めて、ちょっと本作品に似ている。
余談のさらに余談だが、「カラマーゾフ」の第2部が上記のような話になるはずだったとしたら、第1部の最後は、まさしく『俺たちの戦いはこれからだ!(第1部・完)』という事になる。
まさに、世界最古のジャンプ打ち切りエンドだ。
おわりに
今年(2021年)5月7日から、本作品の劇場アニメ映画が公開される。
4月19日現在、YouTube で冒頭16分が特別公開されている。
何にせよ、楽しみだ。
ドラクロワ「民衆を導く自由の女神」について
まさか山田五郎がYouTubeチャンネルを開設しているとは思わなかった。
山田五郎といえば、我々の世代にとってはタモリ倶楽部のお尻評論家だが、このYouTubeチャンネルは『炉端で大学生の孫娘に昔話を語るお爺ちゃん』みたいな感じだった。
その山田五郎チャンネルにあった「民衆を導く自由の女神」の回を観て、目から鱗だったので記す。
自由の女神
以前から私は不思議に思っていたのだが、ニューヨークにある「自由の女神」は、なぜ(日本語で)「自由の女神」と呼ぶのか?
英語では『Statue of Liberty』
直訳すると『自由の像』
どこにも『女神』という要素が無い。
もちろん、実物を見れば確かに『女神像』なんだから、意訳して『自由の女神』で問題ない訳だが……じゃあ、逆に、なぜ元の英語が『Goddess of Liberty』じゃないのか?
山田五郎の動画を観ているうちに、これが『Statue of Liberty』である理由が分かった。
ああ、なるほど、これは『概念のキャラクター化』だから、単に『Liberty』だけで表されているのか、と。
概念を萌えキャラ化したものだから、概念を表す単語それ自体が、キャラの名前になっているんだ。
キャラの名前だから"The"などの冠詞も必要ない。
要するに彼女の名前は『リバティちゃん』だから、ニューヨークにあるのは『リバティちゃんの像』だから、『Statue of Liberty』で正しい訳だ。
さらに、山田五郎の動画を観ていて、この『自由』という概念を萌えキャラ化した『リバティちゃん』には、別の名があると学んだ。
その名も『マリアンヌ』
なんでマリアンヌという名前なのかは分からないが、とにかくこの『自由という概念をキャラ化』した女性は、マリアンヌという名前で呼ばれている。
そして、この『自由という概念の擬人化=マリアンヌ』は、読みひと知らずのパブリック・ドメイン(公的所有された著作物)だから、フランス人なら誰でも二次創作して良い、と。
ちなみに、ニューヨークにある自由の女神も、フランス人が作ったものだ。
神には神のルール。人には人のルール。
ここからが本題。
私が山田五郎の動画を観て、何にハッとさせられたのか、という話。
まず、本動画の題は「なぜ丸出し?『民衆を導く自由の女神』ドラクロワ」だ。
ドラクロワの絵の真ん中でフランスの三色旗を振っているのが自由の女神(またの名をマリアンヌ)である事は大前提として、なぜ、彼女はオッパイをモロ出ししているのか?
山田によれば、以下のような理由らしい。
「伝統的なヨーロッパ絵画に於(お)いて人間のヌードを描く事はタブーだったが、神々(神話的人物)を描く場合にはヌードが許されていた」
ギリシャ・ローマ時代の彫刻の多くは神々や神話的英雄を表したものであり、彼らは皆な裸体で表現されている。
それを範としたヨーロッパの伝統的絵画でも、神話的人物を描くときに限りヌード表現が許されていた。
やがて時代が下ると、それまで『神話的人物なら裸を描いてもOK』だったのが逆転して、『裸で描かれているのだから、この人物は神様に違いない』という受け取られ方になった、と。
だから、ドラクロワの絵に出てくる女性が庶民的なスカートを履いていようとフリジア帽子をかぶっていようと、とにかく上半身裸でオッパイ丸出しなのだから、彼女は女神様なんだよ……こういう認識が、芸術の作り手と受け手の間で広く共有されていた、と。
つまり、こういう事だ。
そのキャラクターが人間なのか神なのかで、受け手側のモードが変わる。ゲームのルールが変わる。
好景気なら悲劇を、不景気なら喜劇を。
私は『リビング・デッド、リビング・リビング・リビング』で、登場人物に『景気の良い時代には、人々は重厚な悲劇を求める。逆に、景気の悪い時代には、人々は気軽に楽しめる喜劇を求める』 といった趣旨の事を喋らせた。
これはフィクションのセリフだが、私自身の肌感覚として、確かに(現実社会でも)こういう傾向は有ると思う。
そして、ミクロ的視点で見れば景気の良い年も景気の良い業界もチラホラと有るのだろうが、全体の傾向をマクロで見たとき、日本や世界を取り巻く状況を楽観している人は少ないと思う。
現代の人々は、たとえ今月の収入が多少増えたとしても、何か漠然とした不安を抱えながら日々を過ごしているように思える。
だから、せめてエンターテイメントの中だけでも気軽に楽しめてワッハッハと笑えるコンテンツを消費したい、と思っているのではないだろうか?
実際には、重厚長大な悲劇的物語も、それなりに需要がある。
しかし、実際にエンターテイメント業界を見回してみると、必ずしも喜劇ばかりが流行している訳でもない。
重厚長大で壮大な悲劇的コンテンツもしばしば製作され、中には大ヒットを飛ばしている物もある。
これは、どういう事だろうか?
ここで私が思ったのは、前述の山田五郎の動画で知った『人々を描いた絵と、神々を描いた絵では、鑑賞する側の受けとめ方が違う』という法則だ。
今ここに、現実世界で傷つき疲弊した一人の男が居たとしよう。
彼は、こう思う。
「現実世界は辛く厳しいものなのだから、せめてフィクションの世界くらいは、明るく楽しいものであって欲しい。フィクションの世界に浸っている時まで、辛く厳しい現実を突きつけられるのは真っぴら御免だ」と。
しかし、その『辛く厳しい物語』が、現実の自分に近い人々の身に起きた事ではなく、天上の神々に起きた悲劇だったら、どうだろうか?
それを鑑賞する人間の心には、むしろある種の『高揚感』が発生し、それは『癒し』にさえ成り得るのではないだろうか。
それは何故か?
おそらく、人々が芸術作品を鑑賞するとき、『人の物語』と『神の物語』とでは鑑賞者の心の中で発動するルールが違うからだ。