ネタバレ! 小説と映画の感想‐青葉台旭

小説と映画のネタバレ感想が書いてあります。メインのブログはこちら http://aobadai-akira.hatenablog.com/

「ルチオ・フルチのザ・サイキック」を観た

ルチオ・フルチのザ・サイキック」を観た

U-NEXT にて。

Amazonのページ

脚本 ダルダーノ・サケッティ、ルチオ・フルチ、ロベルト・ジャンヴィッティ
監督 ルチオ・フルチ
出演 ジェニファー・オニール 他

ネタバレ注意

この記事にはネタバレがあります。

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ひとこと感想

主人公の目へのズーム・アップばかりで前半は辟易したが、後半はサスペンスが効いていて、そこそこ楽しめた。

犯人について

もはや『犯人当て』のモチーフ単独で、この手のミステリーを見せるのは限界だと思った。

犯人の意外性どうのこうのという問題ではない。

限られた登場人物の中で、誰が犯人であろうと、
『ああ、そうですか……まあ、別に予想していた訳じゃないけど、特に驚きもありません。そもそも興味がありません』
という感想しか出て来ない。

そこに何らかのプラス・アルファ、例えば『どうしても罪を犯さざるを得なかった悲しいバック・ストーリー』などの『感動要素』があるとか、そういう合わせ技がないと、もはや物語の受け手は『犯人当てゲーム』そのものに興味が無くなっている。

室内装飾のゴテゴテ感について

どピンクの壁紙が唐草模様に埋め尽くされていたり、調度品にいちいち細かい彫り物が施されていたり、照明の傘が真っ赤だったり、とにかく、現代の価値観で見ると、室内装飾がゴテゴテしている。

この胸焼けのするようなゴテゴテの室内装飾が、イタリアン・ジャッロの様式美という事なのだろう。

このクドさがあるからこそ、かろうじて単なるヒッチコックエドガー・アラン・ポーのモノマネにならずに済んでいるような所がある。

このジャッロの過剰装飾的な絵作りは、ひょっとしたら1970年代の少女漫画に影響を与えているかも知れない。

音楽について

オルゴール風の物悲しげなメロディも、ジャッロ映画の様式美か。

ラストについて

ラスト、壁から流れてくる腕時計オルゴールの調べでスパッと終わりにするのは、けっこうオシャレで好みだった。

昨日(10月11日)は、湿気があった

今だに秋の爽やかさが来ない。

昨日(10月11日)は良く晴れた。
秋晴れの良い天気だった……と言いたい所だが、肌にまとわりつく湿気が多く、外を歩いていても今いち爽やかさが無かった。
じっとり蒸し蒸しして、汗が滲(にじ)んでくる感じだ。

本当に爽やかな秋晴れの日は、いつ来るのだろうか?

「クレイジー・キラー 悪魔の焼却炉」を観た

「クレイジー・キラー 悪魔の焼却炉」を観た

U-NEXT にて。

Amazonのページ

脚本 サンチャゴ・モンカダ、マリオ・ムージー
監督 マリオ・バーヴァ
出演 スティーヴン・フォーサイス 他

ネタバレ注意

この記事にはネタバレが含まれます。

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ひとこと感想

映画を1本観たあと、毎回、その映画のタイトルでブログ記事やFilmarksを検索する。
他の観客が、その映画をどう観たかが気になる。

この「クレイジー・キラー」を観た後も、いつも通りウェブ検索をしてみた。

うーん……わりと低評価だな。

広義のジャッロ映画ではあるし、通俗的・見せ物的なドギツさを売り物にした映画だ。
緻密に練られたストーリーという訳でもない。プロットには少々強引なところも散見される。
確かに、お世辞にも上質なエンターテイメントとは言い難い。
評価が低いのは、仕方のない事か。

しかし敢えて言いたい。
私は、なかなか気に入った。

サイコ連続殺人鬼ものと言うと、現代的なモチーフのように思える。
実際、ヒッチコック『サイコ』の後追い作品である事は容易に想像できる。

一方で私は、(現代劇であるにも関わらず)本作品から19世紀の怪奇小説に似たものを感じた。

ハマー・プロの一連の怪奇作品や、同じマリオ・バーヴァの怪奇時代劇よりも、むしろ本作の方が19世紀的であるとさえ思えた。

まるで『罪と罰』と『スペードの女王』を足して2で割ったような、と言ったら、さすがに言い過ぎか。

物語は、青年実業家で同時に連続美女殺人鬼でもある主人公の独白で進む、一種の『悪漢もの』だ。
悪人自身の視点で、連続犯罪の様子と、最後の失敗、逮捕、破滅が描かれる。

冒頭いきなり、オリエント急行のような個室タイプの寝台列車での犯行シーンから始まる。

犯人(主人公)は、特殊なレンチのような工具で個室の鍵を開け忍び込み、セックス真っ最中の新婚夫婦を惨殺する。

その様子を廊下の隅からジッと見つめる美少年が居る。

しまった! 犯行現場を見られた!
この美少年は、口封じに殺されるのか!?

……と、思いきや、犯人(主人公)と少年は互いに目を合わせるだけだ。
犯人は何事も無かったかのように犯行を続けるし、少年が車掌を呼んだり鉄道警察に通報する事もない。
少年は、ただ一部始終を黙って見つめているだけだ。

ここで、私は少々混乱してしまった。
え? どういう事?

やがて、第二の犯罪が行われる。
あの少年が再び現れる。

そこで、やっと理解した。

ああ、なるほど、この少年は主人公だけに見えている幻覚で、少年期の彼自身の姿なのか、と。

この構成には、ちょっとシビれた。

なかなか粋(いき)な事をやってくれるじゃないか。

後半、主人公は、殺した妻の亡霊に悩まされる。
それも彼の内なる幻覚か? と思いきや、亡霊は周囲の人々の前にだけ姿を現し、主人公には彼女が見えない。
通常のいわゆるサイコ映画とは状況が逆転している。
このあたりに19世紀の怪奇小説の雰囲気を強く感じた。

惜しむらくは、19世紀怪奇小説は短編形式でこそ真価が発揮されるジャンルだった、という事だ。
つまり、長編映画には向いていない。
この『クレイジー・キラー』の上映時間は88分。長編映画としては短い部類だが、それでも間延びした感じは否めなかった。
1時間ジャストくらいが適正な長さだったかもしれない。

結論

エンターテイメントとして見ると、押しが弱い。
一般受けしなかったのは道理だと思う。
しかし、私は好きだ。

余談

このところ古いイタリアン・ジャッロ映画ばかりを連続で観ている。
アマゾン・プライムとU-NEXT は、古い作品を定期的に仕入れてくれるので助かる。
それも皆んなが知っている名作ではなく、いわゆるB級作品を仕入れて来てくれる。

今回連続で観た作品群が、上流階級を舞台にした物ばかりだった事に気づいた。

たまたま偶然だったのかも知れないが、同じプロットでも上流階級や華やかなファッション業界を舞台にするのと、中流以下の社会階層を舞台にするのとでは、だいぶ印象が違うだろうな、とは思った。

リアリズムにはリアリズムの良さがあるだろうけれど、華やかで虚飾に満ちた上流社交会が舞台だからこそ映(は)えるエロ・グロというのも確かにあるだろう。

通俗的でドギツい見せ物エンターテイメントであるジャッロに、上流階級を舞台にしたものが多いというのは面白い。

なんだかんだ言って、大衆は上流階級が大好きという事か。

映画「女の秘めごと」を観た

映画「女の秘めごと」を観た

U-NEXT にて。

脚本 ルチオ・フルチ
監督 ルチオ・フルチ
出演 ジャン・ソレル 他

ひとこと感想

ここで一句。

現代劇
50年経てば
時代劇

以前の記事にも書いた事だが、1960年代に作られた「現代劇」は、2021年を生きる我々にとっては、もはや「時代劇」になってしまったのだなぁと、あらためて思った。

2021年現在、この「女の秘めごと」という映画の価値、つまり2021年に生きる我々が敢(あ)えてこの映画を観る意味の相当部分は「それが1960年代の作品であること」に依存していると思う。

1960年代のサンフランシスコの風景、1960年代の自動車、1960年代のファッション、1960年代の女たちのメイク、1960年代の建物(外観およびインテリア)、1960年代の家具……

それらは、当時の作り手たちにとっては、ありふれた同時代の品々に過ぎない。
一方で、2021年の私たちにとっては『失われた時代』の遺物だ。

1960年代に作られたこの現代劇は、50年の時を経た結果、『ここではない何処(どこ)か』、『今ではない何時(いつ)か」を物語った、一種のファンタジーに昇華している。

日本初の時代小説と言われる中里介山の『大菩薩峠』の新聞連載開始が1913年。その舞台となったのは幕末・安政5年(1857年)
わずか56年前の物語を、当時の人たちは『時代劇』と認識していた。

昔話の冒頭の決まり文句「むかし、むかし、ある所に……」は、英語では「ワンス・アポン・ア・タイム……」という。

「むかし、むかし、アメリカで……」というタイトルの「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」の公開年は1984年。物語の舞台は1930年代初頭の禁酒法時代。その差50年。

「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」も同じだ。
公開が2019年。物語の題材となった「シャロン・テート事件」が1969年。その差50年。

ならば、実際に50年以上前に撮影された『現代劇』も、今となってはもう立派な『時代劇』と言って良いだろう。

かつて映画は、賞味期限のある『なまもの』だった。

一番館で封切られ、二番館に掛けられ、三番館に掛けられて終わり。
公開が終われば、一般人が目にする機会は殆(ほとん)ど無くなる。
あとはポツリポツリと思い出したように名画座に掛かるか、テレビの洋画劇場番組で放映されるか。

やがて家庭用ビデオ・カセットが発明され、DVDが発明され、とうとう動画配信サービスで過去の作品をいつでも観られるようになった。

「時空を超え、かつての現代劇をまるで時代劇のように鑑賞する」能力を我々は手に入れてしまった。

ジャッロについて

数日前の映画感想記事で、私は『ジャッロ』というジャンルに属する2つの映画作品を褒めちぎった。

映画「白い肌に狂う鞭」を観た

映画「モデル連続殺人!」を観た

ちょっと反省した。

『ジャッロ』とはイタリア語で「黄色」の事だ。
かつてイタリアで販売されていた悪趣味で刺激の強いスリラー小説を、その表紙の色に因(ちな)んで『ジャッロ=黄表紙』と呼んだ。

転じて、イタリア産の、やはり悪趣味で刺激の強いスリラー映画も「ジャッロ映画」と呼ぶようになった。

江戸川乱歩の通俗エロ・グロ作品がそうであるように、イタリアン・ジャッロも基本的にはB級ジャンク作品である。
ストーリーはご都合主義だし、俳優の演技は大味だ。
その点は承知の上で、鑑賞されたい。

以下、余談。

それにしても何で、ジャッロ映画って、あんなに口の動きと音声(セリフ)がズレているんだろう?
アフレコにしたって、もう少しちゃんとやれば良いのにと思ってしまう。