ネタバレ! 小説と映画の感想‐青葉台旭

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ブライアン・ラムレイ作「けがれ」を読んだ

*ネタバレ有り。

 アンソロジー「古きものたちの墓 クトゥルフ神話への招待」に収録されている、ブライアン・ラムレイ作「けがれ」を読んだ。 

  ほとんど満足できたが、若干、不満がない訳でも無かった。

ラブクラフトの小説には、人種差別的表現がある

 ラブクラフトの小説を読むと、現代の価値観に照らし合わせて、人種差別的と思われても仕方が無いような表現がある。
 ……と、いうのは控えめな言い方で、あからさまに言うと、
「この世界には、野蛮な信仰と文化を持ち、太古の怪物の血を受け継いだ異人種どもが居て、やつらとアメリカの白人がセックスする事で、優等人種であるはずの白人の遺伝子が徐々に汚されつつある」
 これが、ラブクラフトが書くホラー小説のメイン・テーマの一つだ。
 人種差別だけでなく、たとえば「野蛮な顔つきの奴らは、精神的にも劣っている」みたいな外見から来る差別とか、いろいろと現代の視点から見て「穏当でない」描写がある。
 もうすぐ死後八十年になろうという人物の性格を現代の価値観で分析をするのも何だが、ラブクラフトが、そういう「優等人種である白人の血統が、化け物の子孫である異人種の遺伝子で汚されていく」という恐怖を小説を書く上での重要なテーマにした理由を私なりに考えてみたい。
 一つには彼自身が、ちょっとフランケンシュタインっぽいゴツイ骨格の顔をしてた事があるのではないだろうか。つまり「劣等な顔つきの奴らは、精神的にも劣等だ」という表現は、ラブクラフト自身がそういう顔つきに生まれてしまったという彼自身の恐怖感の表れなのかもしれない。
 また「金持ちの家に生まれながら父親が神経症を患い、名家であった母親の実家で育てられたが、大学受験に失敗したあと田舎に引きこもって安い原稿料で怪奇小説を書いて貧乏になり、結婚にも失敗した」という彼の歩んだ人生も、彼が人種差別的なテーマを好んだ理由の一つかもしれない。
 いつの時代、どの国でもそうだが、「没落していく人々」「社会に認められず悶々としている人々」というのは、自分とは違った人種・自分とは違った文化を持つ人々に対して不寛容なものだ。
 また、「二十世紀初めという時代を考えれば、アメリカ白人男性であるラブクラフトが人種差別的な価値観を持っていても仕方が無かったんだ」という擁護も一応は成り立つだろう。
 当時のアメリカ白人にとっては、恐らく「差別の対象」だったであろう我々日本人だって、同じ時代にいろいろと差別をしていた訳だし、時代を考えればどの国だって似たような物だったはずだ。
 ラブクラフトと同時代……戦前の日本で活躍した怪奇・探偵小説家、例えば江戸川乱歩夢野久作なんかを読んでも差別上等な表現バリバリで、かならず本の最後に「本書には、現代の価値観に照らし合わせて穏当でない表現が含まれますが、書かれた時代を考慮し、また、すでに評価の定まった小説であることから、そのまま掲載しました」などと書かれている。

「倫理的にマズイ描写がある」のに「芸術作品として素晴らしい」作品に出会った時、われわれは困惑する

「正しくない」のに「感動する、させられてしまう」事を、どう捉えたら良いのか。
 一番シンプルで、社会や人々を安心させやすい対応は、「正しくないものは、正しくない。駄目なものは、駄目」といって、あくまで現実社会の倫理でバッサリその作品を切り捨ててしまう事だろう。
 いつの時代、どの国でも、「物語は現実の『正しさ』に奉仕すべきだ」と、「正しさ」を押し付けてくる人々は居る。
 封建時代の日本では、封建的な価値観以外の物語は「御法度」だったであろうし、中世ヨーロッパではキリスト教の価値観に合わない物語は「異端」だったであろう。
 いわゆる「勧善懲悪」というやつだ。
 現代でも、物語に対し過剰に「正しさ」を求める人々の声は大きい。正しさの基準が封建制度キリスト教から現代的な倫理観に代わっただけだ。

あらかじめ書いておくが、私は差別主義者ではない

 そもそも差別というのは「みっともない」
 例えば、現代日本において日本人以外を差別するという事は、差別している者は、それで相手をおとしめたよう思っているかも知れないが、実は、誰を一番恥ずかしめているかといえば、差別をしている当の本人であるし、日本人全体にも泥を塗っている。
 国益に対し重大な責任を負っている職業、つまり公務員・政治家・軍需産業関係者などの職種の採用に関しては、日本国籍に限定するべきだと思うし、選挙権・被選挙権は日本国籍に限定すべきだとも思うが、それ以外の事柄で、その人自身以外の要素……生まれた場所や、両親が誰か、などで人を評価するのは不当という物だ。
……などという話は、さておき。

ここまでが前置き。やっと、ブライアン・ラムレイの「けがれ」の話

 物語は、イギリスの田舎町の医師ジェームズ・ジェイミソンの視点で語られていく。
 ジェイミソンにはジリー・ホワイトという女性の患者が居て、ジリーにはアンという娘が居る。
 ジリ―の夫ジョージ・ホワイトは、インスマウスというアメリカの田舎町の出身で、一年前に自殺している。
 娘のアンは、頭は悪くないが学校での集団生活に問題があって、いつも一人でいるようだ。
 町にはジェフという少年がいて、彼は魚か両生類のような異様な顔をしていて、海に潜って魚を獲るのが上手くその特技で育ての親であるトム・フォスターの家計を助けている。

名作、インスマウスを覆う影を下敷きにした作品だが……

 インスマウスの、一番の恐怖……
 上にも挙げた、
「優等人種である白人の遺伝子の中に、知らぬ間に劣等人種の血、さらには奴らが崇めている邪教の神(怪物)の遺伝子が混じり込んでしまっている。ひょっとしたら、自分の体の中にも怪物の穢れた血が混じっているのではないか」
 というテーマに沿っているように見えるのだが、どうにも本家ラブクラフトに比べて迫力が弱い。
 恐らく、作者のブライアン・ラムレイは「優等人種であるアメリカ白人の遺伝子が、劣等人種どもによって汚されていく」というインスマウスのテーマを本気で信じていないのではないだろうか。
 それは当然の事だ。1937年生まれのラムレイは、当然、公民権運動を経験しているだろうし、ラブクラフトが本気で信じて怖がっていたであろう上記のテーマも現実には古臭く感じているはずだ。
 それは、現代に生きる人間として間違いなく「正しい」
 しかし、ラブクラフトが本気で怖がっていたであろう「間違っているテーマ」をラムレイは本気で信じられくなっている分だけ、その筆運びは、どこかクールでドライで一歩引いた感じがあって、読者の胸に迫って来ない。
 そのかわり現代の作家らしく「邪神教団」「秘密結社」「悪の科学者」という、日本の変身ヒーロー物やアメリカン・コミックに出て来そうなポップなガジェットが強調されていて、現代的といえば現代的にアップデートされている。
 また、読者が「インスマウス」をすでに読んでいることを前提としているため、怪物の遺伝子が発現して水棲生物に変化していく様子を描写しても「ああ、インスマウスの、あれね」と思うだけだ。
 本家「インスマウス」は、何度読んでも、異様な顔をした怪物と人間の混血の住人ばかりの町インスマウスを主人公が彷徨さまよう時の息苦しさ、「何なんだ、こいつらは」「何なんだ、この町は」という感覚を濃厚に味わえる。そして最後の、自分もインスマウスの末裔すなわち怪物の血を受け継ぐものだったと分かった時のショックも鮮やかだ。
 結局、このラムレイの小説のキモは、主人公で傍観者だと思っていた医師が、実はインスマウスの住人で、彼自身が怪物の血を引いていて、しかも邪神の教団のメンバーだったというオチだけだ。
 1990年代後半から2000年代にハリウッドのホラー映画やサスペンス映画ででしばしば使われた「信用できない語り手」の一種で、それが明かされた時には少しだけ驚くが、まあ、それだけだ。
 ラブクラフトや戦前の日本の怪奇小説作家たちの魅力の一つである迫力のある「おどろおどろしさ」がない。

昔、「マイナス札を集めてプラスに転じる」と言った作家がいたらしい

 なるほど、芸術にはそういう一面もあるように思う。
 もう細かいルールは忘れてしまったが、トランプの「大貧民」だか「大富豪」にはマイナス札というものがあって、それをゲーム終了まで持っていると不利になる。
 多くのプレイヤーは、そのマイナス札を無くそう無くそうと努力するのだが、実はマイナス札は一定数以上集めるとプラス札に変換され、一気に逆転が狙えるという機能があって、それに賭けるという手もある……そんなゲームだったように記憶している。
 芸術にもそういう一面があって、一般社会では決してほめられたことではない「差別意識」とか「自分の顔や血統に対するコンプレックス」とかいう負の感情も、徹底的に煮詰めていけば、ある種の「異様さ」や「凄み」になって、芸術的価値を生んでしまう。
 それが、芸術の面白い所でもあり、厄介な所でもある。

ラブクラフトは、確かに時代の変わり目に立っていてた存在だと思う

 ラブクラフトという作家は、文章が上手いと評価されたことは無いし、ある時期までは(一部の熱狂的なファン以外にとっては)煽情的な表紙のパルプ雑誌に安い原稿料で書き続けた三文小説家という評価だったのだと思う。
 しかし、ラブクラフトを知ってしまうと、それより一世代前の、十九世紀イギリスの(主に幽霊を扱った)怪奇小説が、どうにも古臭く見えてしまうのも事実だ。
 十九世紀が終わり、二十世紀が始まって、西欧社会の主役がイギリスから「新興国」アメリカに移り、そのアメリカで、現代まで連綿と続く大衆消費社会が花開いて行く、その切り替わりの時期に、当時の新メディアであった「パルプ・マガジン」(現代日本で言えばライトノベルのような物か)を舞台に活躍したカルト作家、それがラブクラフトという事だろう。

私(青葉台旭)にとってのラブクラフト

 やはり、古典的な幽霊話よりも、ラブクラフト的な「世界にはもう一つの顔、怪物たちの棲む『裏の世界』があって、何かの拍子に我々の住む『表の世界』が怪物たちの住む『裏の世界』に浸食されていく」展開に惹かれてしまう。
 しかし、だからと言って「クトゥルー神話」それ自体に手を出そうとは思わない。
 さすがに、2016年に「クトゥルー」だの「ダゴン」だの「ナイアーラトテップ」と言っても、すでに手垢が付きすぎていてパロディの対象にしかならないだろう。
 実は、私は、ラブクラフト怪奇小説そのものよりも、ラブクラフトから影響を受けていると思われる諸星大二郎の怪奇漫画に惹かれる。
 諸星大二郎の漫画には「この世界のどこかに、進化の過程で枝分かれし、人類とは別の道筋をたどった『もう一種類の人類(別の進化を遂げた、別の人類)』が住んでいる」というモチーフがしばしば出現する。
 この「別の進化を遂げた、別の人類」というモチーフは、「その『もう一方の人類』と我々を分けたのは、進化の過程で起きた少しの違いに過ぎない。場合によっては我々が別の進化をたどっていた可能性もある」という魅力的なイメージを喚起させてくれる。
 ラブクラフトが書いた「邪神(怪物)は宇宙からやってきた」というイメージは、パルプ・マガジン全盛期には良かったのかもしれないが、現代でそれを書くには、ちょっと中途半端にSF的であり、同時に怪奇性も中途半端になっているように思う。
 いずれにしろ「どこにでもありそうな日本の田舎町に迷い込んだ主人公が、ささいなっかけから隠された世界の裏側を覗いてしまう」という話をどうしても書きたいと思う。