ネタバレ! 小説と映画の感想‐青葉台旭

小説と映画のネタバレ感想が書いてあります。メインのブログはこちら http://aobadai-akira.hatenablog.com/

映画「ゲット・アウト」を見た。(ネタバレ)

getout.jp

歌舞伎町の東宝で見た。

この記事はネタバレを含みます。

未見の人は気をつけてください。

静的サイト・ジェネレータを作り直している。

私は自分のドメイン「aobadaiakira.jp」の記事生成に自作の静的サイト・ジェネレータを使っている。

今、それをイチから作り直している。
そのSSGが完成するまでの間、一時的に記事の投稿を控えようと思っていた。先日劇場で観た映画「ゲット・アウト」についての感想も、自作のSSGが完成した段階で「aobadaiakira.jp」と「はてなブログ」に同時投稿するつもりだった。

しかし、劇場公開映画というのは、ある種の「なま物」であるだろうし、旬を過ぎてしまってから感想を投稿するというのも何となく違う感じがするので、先行して「はてなブログ」に感想を書くことにした。

「取り急ぎ」……というやつだ。自分のドメインへは後で転記すれば良いだろう。

さて、本題「ゲット・アウト」の感想。

いや、ちょっと油断しちゃったな。

油断して、予告編やら「ロッテン・トマトで驚異の99点」みたいな煽り文句を真に受けちゃって、期待しすぎた。

やっぱり、あの予告編の、往年の竹中直人も真っ青な「笑いながら泣く家政婦さん」はインパクトがあったからな。
それで「すげーっ」て思って、観る前からちょっと期待しすぎた。

  • どんな映画でも予告編だけは面白い。
  • 「全米興行収入第○位獲得!」 みたいな煽り文句は信用するな!

と言う鉄則を忘れていたよ。

……で、映画館で観た結果は、と言うと……

「まあ悪くないけど、期待した程でもなかった」と言うのが正直なところだ。

これが……
「何の予備知識も無しに『低予算ホラー映画でも観るか』くらいの気持ちでフラリと映画館に入ってチケットを買った」
……っていう感じの出会いだったら、なまじ期待していなかった分、予想以上に面白く感じられて、幸せな気持ちで映画館を後にできたかもしれない。

観る前から期待していたがゆえに、そのぶん要求する面白さの基準が高くなりすぎて、映画が終わった時には「まっ、こんなものか……」と言う若干の残念感を抱いて映画館をあとにする格好になってしまった。

別に悪い映画という訳ではない。割と良く出来ている方だとは思う。

しかし、だからと言って、辛口と言われるロッテン・トマトで99点を取るほどの物でもなかろう。

70点くらいが妥当なところか。

良かった点。やはり俳優の演技は素晴らしかった。

前述した「笑いながら泣く家政婦」役のベティ・ガブリエル、下男役のマーカス・ヘンダーソン、金持ちおばさんの若いツバメちゃんを演じたキース・スタンフィールドの三人は素晴らしかった。

要するに、この三人は、脳手術を受けて本来の人格と移植された人格の両方を持つ一種の二重人格者達なわけだが、その精神的にちょっと歪んだキャラクターを見事に演じていた。

例えば、キース・スタンフィールドは、物語の冒頭で暗い住宅街の通りを歩いている時には、ごく普通のカジュアル兄ちゃんといった感じだった。
それが田舎町で再登場した時には、金持ちおばさんに連れられて歩くナヨナヨした物腰のツバメちゃんを見事に演じていた。
あまりの違いに最初は同一人物だと気づかなかったくらいだ。

このキース・スタンフィールドという人は、あの悪名高い「ネットフリックス版デスノート」にL役で出演しているらしいが、一体どんな演技をしているのかちょっと興味が出てきた。

同じく二重人格者の表現といえば、下男役のマーカス・ヘンダーソンも素晴らしかった。

切り株の上で薪を割っているシーンでの、何ともいえない気持ち悪さも最高だが、物語のラストでフラッシュを浴びて、一瞬、本来の自分に返った時の演技が素晴らしい。
演技というより、ただそこに立っているだけなのだが、その立ち姿だけで「本来の人格を取り戻した」というシッカリした感じを見事に表現していた。
何も言わなくても、ただそこに立っているだけで、昼間の気色悪い男とは別人格である事を観客に分からせるとは、どんな魔法を使ったんだと思ってしまう。

ベティ・ガブリエル、
マーカス・ヘンダーソン、
キース・スタンフィールド。

三人とも「ゲット・アウト」で初めて知った名前だが、これ以降、要チェックすべき名前として、私の記憶に残るだろう。

しかし、どんなに素晴らしい俳優でも、顔芸だけで1時間半の映画を持たせることは出来ない。

前半こそ、映画の醸し出す不気味な雰囲気にワクワクし、俳優たちの気色悪い演技にワクワクしていた。

しかし、いつまでたっても事前に予想した範囲以上のことが起きてくれない。 徐々に、ワクワク感も、ドキドキ感も、しぼんでいってしまった。

終わってみれば、
「やっぱりボディー・スナッチャーものの変種でしたか……まあ、よく出来ているとは思いますが……」
という以上の感想はなかなか出て来ない話だった。

いつまでたっても想定の範囲内じゃあ、困るんです。

観客は、予告編を見て、そこにある情報を読み取り、ある程度「こんな話なのかな」と予想を立てて映画館に行くわけだ。

私なりに予告編を要約すると、

「都会の若いカップルが田舎に行ったら、住民みんな、どこか変」

という感じだったと思う。
この予告編から素直に考えれば、誰もが、

「ボディー・スナッチャーもの」か、
「村人全員カルト教団もの」

の、どちらかかな? という予想を持つと思う。

例の、家政婦さんの「泣きながら笑う顔」も、彼女は何らかの方法で住民たちに支配されていて、本心を言いたいけど言えない葛藤をこの「泣きながら笑う顔」は表しているんだな……というくらいの予想は誰しもが持つと思う。

さすがに、別人の脳を外科的に移植されていたというのは予想できなかったが、それが分かったところで「ふーん、なるほどね」という感想しか出て来ない。

例えば、恋人も実はグルだった、というサプライズにしても、観客がいくつか想定したオプションの中に入っている可能性が高いのではないだろうか。

別に最初から確証があったわけではないが、この手のサスペンスに「意外な犯人」「意外な共犯者」を設定するのは常套手段なので、「ひょっとしたら……」という想定の中には、当然入っていた。

別に、何が何でも「意外な展開」や「意外な結末」が必要、と言っているわけじゃない。最後まで持続する「ホラー的」緊張感が欲しいだけだ。

前半、俳優たちの演技力で不気味な田舎町の雰囲気を醸した、そこまでは良い。

そこからが問題だ。

物語の中盤、「この町は異常だ! この町から逃げよう!」と主人公が思ってからが、この手の映画の「本当の腕の見せ所」だろう。

ところが「ゲット・アウト」は、後半に描かれる追う者と追われる者との葛藤、その積み重ねに、今ひとつ「ホラー映画としての」迫力が無い。

時間が経てば経つほど、敵の親玉である一家が、どんどん「怖くない存在」になっていく。

例えば、
「破れた椅子の中から棉がはみ出しているのを主人公が意味ありげに見つめる」
というカットがある。

もちろんこれは、主人公が機転を利かせて危機を脱出するというサインだ。

しかし、よく考えて欲しい。

これがアクション・アドベンチャーなら、このあと知恵を働かせて危機を脱した主人公に拍手喝采でも送れば良いだろう。

しかし、この「ゲット・アウト」はホラー映画だ。

主人公が機転を利かせて危機を脱出できる予感を事前に観客に与えたら、どうなるか?
主人公の頭の良さより、むしろ敵の頭の悪さ、ひいてはキャラクターとしての弱さを露呈させてしまう。

それではホラーとしての緊張感が緩んでしまい、観客は白けてしまう。

アクション映画の脱出劇と、ホラー映画の脱出劇は違う。

アクション映画の脱出劇は「どんなに危機的な状況でも、ギリギリの所で主人公は脱出に成功する」という爽快感を売り物にする。

しかしホラー映画の脱出劇は「どう足掻いても絶対に抜け出せそうも無い絶望的な状況」を売り物にする。

この「ゲット・アウト」後半の脱出劇においては、残念ながら前者が選ばれていた。「ホラー映画」を標榜しているにも関わらず。

そうは言っても、この映画には「良く出来ている感」はある。

別の言い方をすれば「手先の器用さ」とでも言おうか。
そういう意味では、別に悪い映画じゃない。

最後にもう一度。

最後にもう一度書く。
催眠術をかけられ、脳移植を受けた人々を演じた役者たちの演技力は、やはり素晴らしい。

こういうしっかりした演技を見せられると、アメリカ・エンターテイメント業界の層の厚さと豊かさを改めて思い知らされる。