ネタバレ! 小説と映画の感想‐青葉台旭

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映画「JUNK HEAD」を観た

TOHOシネマズ六本木ヒルズにて。

配給会社サイト
製作者サイト

原案 堀貴秀
監督 堀貴秀
出演 堀貴秀 他

ネタバレ注意

この記事には、映画「JUNK HEAD」のネタバレがあります。

ネタバレ防止の余談

ふと気づいたのだが、いわゆる新型コロナ『COVID-19』が流行して以降、私が初めて劇場で観た映画がこの「JUNK HEAD」だった。

本編上映前に流れる『au割引』のリスとウサギの脱力漫才みたいなアニメや、『NO MORE 映画泥棒』など、かつては少々ウンザリしていた顔ぶれを、何だか懐かしく思っている自分に驚いた。
『NO NOISE!』『NO KICKING!』『NO CELL PHONE!』っていう唇だけのCGキャラとかも懐かしい。
マスクをしたドラえもんのび太くんは、新顔か。

久しぶりに行った六本木ヒルズは、コロナ前に比べると明らかに人通りが減って静かになっていた。

観光客が減ったからなのか、それともリモート・ワークの普及で、都心に通う知的労働者階級の人々が減ったからなのか。

コロナの流行によって、人々は、「高速インターネットを活用すれば、もはや知的労働は土地に縛られない」と気づかされた(気づいてしまった)
毎日片道1時間・往復2時間も満員電車に揺られて過ごすという人生の無駄から人々を解放したという意味で、これは怪我の功名だったなぁと思う。

実は数年前から、『東京は、徐々に静かになっている』という肌感覚を、私は持っていた。
その『東京における静けさの浸透』が、今回のコロナ禍で一気に加速した感じだ。

それは東京という街が、バブル絶頂期のような『浮かれ騒ぎ』をしなくなった、それだけ大人の街になったという事だろう。

ただ、若干の寂寥感を覚えたのも事実だ。
少し前まで『ヒルズ族』などと謳(うた)われ、富と繁栄と最先端の象徴として賑わっていた東京の中心『六本木ヒルズ』でさえ、静けさが漂っているのか、と。

以上、ネタバレ防止の雑談でした。

以下、ネタバレ。

漫画『BLAME!』を思い出した

この世の有りとあらゆる創作物は、先人の成果の上に成り立っているものだ。

本作品も、古今東西の映像作品や漫画からの影響が見て取れる。
監督自身は、影響を受けた作品として『不思議惑星キン・ザ・ザ』を挙げているらしい。

キン・ザ・ザかぁ……二十歳前後の頃に観たなぁ。
途中で寝てしまった、という記憶しかない。
それと、変な、釣り鐘みたいな宇宙船。
当時の私は、映画リテラシーの全く無い映画ド素人だったから、ハリウッド・エンターテイメントの畳みかけるようなリズム以外は受け付けなかったんだよな。

その後、たまたま入った映画館でカウリスマキ監督の「ラヴィ・ド・ボエーム」を観て、今で言うところの『ジワる』、つまり『後から、じわじわ来る』系のギャグに目覚めたのでした。

キン・ザ・ザ、もう一度観てみようかな。
アマゾン・プライムあたりに来ると良いのだが。今のところはディスクを買うしかないのか……

さて、話を元に戻して、本作品だ。

私は、本作品に影響を与えたであろう作品として、弐瓶勉の漫画『BLAME!』を取り上げたい。

遠い未来の、階層化し荒廃した世界が舞台。
その階層化世界を、『人類を滅亡から救う遺伝子』を求めて流離(さすら)う一人の男。

「人類を救うためのアイテムを探す」という話の縦糸は有れど、シッカリと起承転結を組んだ物語というよりは、訪れた先々での出会い・交流・別れの描写に主眼が置かれている点でも、本作と『BLAME!』は似ている。

そういう意味では、NETFLIXで配信されているアニメ映画の『BLAME!』以上に、本作品は『BLAME!』らしいとさえ言える。

アニメ映画版の『BLAME!』は、主人公が当てもなく流離(さすら)うだけ話(=原作)を、西部劇や黒澤映画のような『村に不思議な男がやって来た』話として読み換えた作品だった。
起承転結を与えて劇映画としての体裁を整えるため、『村人からの視点』が導入されていた。

NETFLIXアニメ版の『BLAME!』も良い映画だと思うし、私自身、わりと好きな映画だが、本質的にどちらが漫画版『BLAME!』に近いかと言えば、『JUNK HEAD』の方が近いと思う。

漫画『BLAME!』最大の魅力として良く言われるのは『寂寥感』だ。

荒廃した未来の階層世界が物語の舞台といっても、例えばブレードランナーで表現されたような『人がゴミゴミと密集した猥雑なスラム街』ではない。
逆に、人口密度は極端に少ない。
人々は広大な階層世界の中で、少人数の村社会・部族社会を作って肩を寄せ合うようにして生きている。そういう村が、互いに交流もなくポツリポツリと存在している。
主人公は、その小さな村から村へと旅をする。
その出会いと別れが、何とも言えない寂寥感を読む者に(観る者に)感じさせる。
こんな所も、本作品と『BLAME!』は似ている。

マット画

本作品の本質が『荒涼とした世界を旅する一人の男』の物語であるとすれば、その魅力は『旅先の風景』だろう。

観客は主人公と一緒に旅をして、旅先の風景に感動し、現地の人々との交流に感動する。
その『一緒に旅をしている感じ』こそが本作品最大の魅力だ。

かつて、映画には『擬似的な観光旅行』という役割があった。
ローマの休日』のテーマは『身分違いの恋』だが、実はこの映画には『ローマ観光案内』という裏テーマがある。
007、男はつらいよ釣りバカ日誌……これらは皆な『バーチャル観光』を裏テーマとして制作されている。

映画の裏テーマが『観光』だとすれば、行った先の観光地、その風景や現地の人々の風俗習慣がどれだけ魅力であるか、それが問われる。

再び漫画『BLAME!』の話になるが、『BLAME!』の風景が魅力的なのは、世界が閉ざされた階層構造であるにも関わらず、非常に広大で開けた感じを読者に与えるからだ。
その『広大で開けている感じ』が、旅する主人公(と読者)の寂寥感を増大させる。

本作『JUNK HEAD』も、閉ざされた地下世界の物語であるにも関わらず、非常に広大で開けた世界のような感じを覚える。

この『広大な世界にポツンと立っている』感じを強調しているのがマット画だ。
例えば、遠近法の消失点まで延々と続く、だだっ広い廊下。

昔のSF映画やファンタジー映画では、マット合成された手書きの背景で世界観が表現されていた。
昨今の精密な3DGCには無い、なんとも言えない味わいがあった。
本作品にも、それと同じ味わいがある。

コマ撮りアニメの魅力

いわゆるセル画アニメでもない、CGアニメでもない、もちろん生身の役者でもない、コマ撮りアニメの魅力が存分に味わえる作品だった。

三部作

まずは、次回作が楽しみだ。

それはそれとして、劇場長編映画を単独では完結させず、最初から連続ものとして製作するという昨今の映画業界のトレンドに関しては、少し考えさせられる部分がある。
DVDやブルーレイ、あるいはネットの動画配信サービスで過去作品をいつでも『予習・復習』できる現代においては、これが主流になって行くのだろうか。
壮大な物語を紡ぐには良い方法であると思う反面、『いま劇場に掛かっている映画をフラリと観る』気安さは無くなるよな。

アマプラで予習してから出直して来い、みたいな。