ネタバレ! 小説と映画の感想‐青葉台旭

小説と映画のネタバレ感想が書いてあります。メインのブログはこちら http://aobadai-akira.hatenablog.com/

ショタ VTUBER の名前を考えてみた

ショタ VTUBER の名前を考えてみた

『イケショタ波しょうたろう』

どうだろうか?

ショタの語源は横山光輝版の正太郎じゃない、だと?

最近「ショタ」で検索してみて、ウィキペディアの記事を読んで、衝撃の事実を知った。

なんと「ショタ」の語源は 「太陽の使者 鉄人28号」バージョン の正太郎だった。

……マジか……

てっきり横山光輝原作バージョンだと思っていた。
のちに名探偵コナンに継承される「ブレザー・ネクタイ・半ズボン」の正統派1950年代お坊ちゃんファッションの少年だと、ばっかり……

うん? しかし、待てよ? と言うことは?

「太陽の使者 鉄人28号」放送当時、ほぼ正太郎くんと同世代のリアル美男子小学生だった私には、バ美肉バーチャル美少女受肉ならぬバーチャル美少年受肉)する権利が充分あるのではないだろうか?

もし、 『イケショタ波しょうたろう』 の名で近々デビューするバーチャルYouTuber が居たら、それは私なので、ショタラーのお姉さんたちはよろしくお願いします。

ちなみに、YouTube 内で「ショタvtuber」で検索すると

男性配信者もチラホラ居るには居るが、女性配信者の方が多いな。

まあ、アニメのショタ・キャラクターも、演じているのは女性声優が圧倒的に多いから妥当な結果か。

という事は実質的に『ショタVTUBER = 美少女VTUBER』という図式になるのだろうか?

ショタVTUBER 『イケショタ波しょうたろう』 の声が、半世紀を生きたオッサンの渋い声だったら、ギャップ萌えする?

気づいたら、窓の外は雪

ちょっと肌寒いと思って窓の外を見たら、雪が降っている。

こりゃ、少し積もるかな。

私は幼少期を雪国で過ごしたので、本能に刷り込まれた「雪の上でも滑らない歩き方」プログラムが自動的に発動する。

しかしネイティブ江戸っ子の皆さんは、雪上歩行の経験が無いので、雪が降ると、よく転ぶ。

カレーは、一晩寝かせた翌日の方が美味いと言う。
雪は、一晩寝かせた翌日の方が危険だ。
夜間の気温低下とともにカチンカチンに凍るからだ。

皆さんも街歩きの際には気をつけてほしい。

コツは、足の裏全体を地面(雪面)に密着させて均等に圧力が掛かるようにし、さらに足の裏に対し水平方向の力を一定以上かけないようにする事だ。
また、急激な重心移動をせず、前に出す足を高く上げずに地面スレスレを移動させる事も大事だ。

要は、剣術や柔道などで教わる、日本古来の『すり足』で歩くことだ。

できれば寒冷地仕様の長靴を履くのが理想だ。
おしゃれブランドのカッコいいブーツじゃなくて、靴底に大きな滑り止めパターンが刻まれたゴム長靴が良い。

それと、路面に雪が積もっていたり凍っている場合は、絶対に自動車を運転してはいけない。
雪上では、スノータイヤじゃないと全く機能しない。
凍結路面では、スノータイヤでさえも殆(ほとん)どグリップしない。

映画「ドント・ルック・アップ」を観た

Netflix にて。

Netflix へのリンク

脚本 アダム・マッケイ
監督 アダム・マッケイ
出演 レオナルド・ディカプリオ 他

ネタバレ注意

この記事にはネタバレが含まれます。

この記事にはネタバレが含まれます。

この記事にはネタバレが含まれます。

この記事にはネタバレが含まれます。

この記事にはネタバレが含まれます。

ひとこと感想

良い映画だった。
皆さんは、最初の数十秒を観ただけで「あ、これは良い映画だ」と直感し、実際その通りだったという経験があるだろうか?
ごく稀(まれ)だが、そういう経験が私には何度かある。
この映画「ドント・ルック・アップ」が、正にそれだった。

何なんだろうね。始まってすぐに「良い映画だ」って分かっちゃうのって。
まさか超能力という訳でもあるまい。
カメラの構図とか、カットの割り方の上手さから、無意識にそう判断しているのだろうか。

久しぶりに観た、品の良いコメディ映画だった。
こんなに力のある監督は、ぜひ名前を覚えておこう……と思ったら「マネー・ショート」の人か。
「マネー・ショート」の時には、ブラット・ピットが伝説の相場師として出ていて、いかにも田舎臭いオッサン(実はインテリ)といった感じの、味のある演技をしていた。
本作品では、主演のレオナルド・ディカプリオが、やはり田舎臭いオッサン(実はインテリ)を演じていて、やっぱり味のある演技をしていた。
良い年齢(とし)をした大スターの「野暮ったい田舎のオッサン」演技って、ほんと良いよね。

ディカプリオだけでなく、脇を固める出演者たちも皆んな、芸達者で魅力的だった。
出てくるキャラクター(アメリカ上流社会の紳士淑女)たちが、揃いも揃って底の浅い俗物ばかりなのだが、それを演じる役者たちの実力が素晴らしく、「ああ、こういう奴って、本当に居そうだよなぁ」と思わせる。

アリアナ・グランデのテレビ出演→元カレのサプライズ出演→さらにテレビ出演中のプロポーズのくだりとか、もう最高に気持ち悪くて、最高。
そのアリアナが終盤にチャリティー・コンサートを開いて、そこでフィアンセとデュエット・ソングを歌う所も、すごく気持ち悪くて、最高。
それにしても……アリアナ・グランデの歌を初めて聞いたが、微妙に音痴な歌姫やな。
それとも、この「微妙に音痴な歌」も含めて、お馬鹿アイドル歌手というキャラ作り・役作りなのだろうか?
余談だが、同監督の「マネー・ショート」には、アイドル女優・歌手のセレーナ・ゴメスが本人役で出ていた。
今回のアリアナも、役名こそ違えど、アリアナ本人のパブリック・イメージを明らかに想起させる作りになっていて、ある種「お馬鹿アイドルを演じる、お馬鹿アイドル(と、世間では思われれいる)本人」というメタ構造になっていた。
言うまでもないが、アリアナ・グランデにしろ、セレーナ・ゴメスにしろ、メタ演技ができる時点で実際には単なる『お馬鹿アイドル』ではない。

アリアナ・グランデだけでなく、
『少年のようにピュアな心を持つ天才』のふりをしている、実際には金の亡者のIT経営者とか、
ゲストの立場が変わると、さりげなく接し方を変える男性ニュース・キャスターとか、
そういう、いかにもアメリカ上流社会に住んでいそうな「わりと知能が高くて学歴もあって洗練されているんだけど、どうしようもない俗物で金の亡者」な魑魅魍魎キャラクターを演じる芸達者な俳優陣の演技は、観ているだけで楽しい。
このニュース・キャスターはタイラー・ペリーって言うのか。

えっ? 最後の方に出てきた田舎の不良兄ちゃんって、デューンの超絶美形な若様なの?
まったく私は、役者の顔と名前を覚えられない。

大統領役のメリル・ストリープは、ちょっと演じ過ぎのような気がしたが、それ以外の役者たちの演技は総じて肩の力が抜けていて、押し付けがましい所が無く、それがこのコメディを上品なものにしていた。
品が良いといえば、シーンの切り替わりも品が良い。
ある1つのシーンの葛藤に決着が付く前に、その決着を最後まで見せず、スパッと次のシーンへ場面を切り替えていた。

余談(自分語り)

ある程度の数のハリウッド・エンタテイメント映画を観ると、話の構成にパターンがあるのではないだろうか? という疑いを持つようになる。

  1. まだ何者でもない主人公の、平凡で退屈な毎日。
  2. ある日、事件に巻き込まれる。
  3. わけも分からず必死の思いで事件の元凶を取り除き、その結果、一時(いっとき)ヒーローに祭り上げられる。
  4. いい気になって自分を見失う主人公と仲間たち。
  5. 有頂天になり自分を見失った結果、その『しっぺ返し』を食らい、一気に失意のドン底へ突き落とされる。
  6. ドン底で『本当に自分がやるべきこと』に目覚め、再び立ち上がる。
  7. 最後のクライマックス、ラスボスとの決闘。
  8. 大団円。

ざっと、こんなパターンで2時間の物語が進行している。
ファンタジーだろうが現代ラブコメだろうがスーパーヒーロー物だろうが、多くがこのパターンに従って進んで行く事に気づく。

そしてある時期、「ハリウッド脚本術」みたいな本を読み漁った私は、実際、ハリウッド映画が『お決まりのパターン』に従って作られている事を知って、ちょっとだけ冷めてしまう。

2時間の映画の開始30分あたりで、主人公と仲間たちが最初の「中ボス」を倒し、有頂天になって浮かれ騒ぎを始める様(さま)を観ながら、私はボンヤリと「いい気になっている主人公に、そろそろ手痛い罰が下される頃合いかな?」なんぞと思ってしまう。
主人公が浮かれて自分を見失っている描写は、その後に来る手痛い『しっぺ返し』の前振りなんだろうな、などと余計なことを考えてしまう。

物語のちょうど半分、1時間が経過したころには、ドン底に落とされ打ちひしがれている主人公を観て「そろそろ『本来の自分』を取り戻し、『本当にすべき事』を自覚して、再起を誓う頃合いかな?」などと思ってしまう。

初日の出を見た

初日の出を見た

記憶が正しければ、ちゃんと初日の出を拝んだのは、半世紀の人生で初めてだ。
実際に初日の出を見たら確かに心が洗われた、ような気がした。
世界と自分自身が新たに生まれ変わったような清々しさを覚えた。
なるほど、これが初日の出の御利益(ごりやく)か。

初日の出を拝むって、こんなに簡単だったんだね。
今日の今日まで気づかなかったよ。
現在、日本および世界の大半で使われている太陽暦グレゴリオ暦)に於いては、冬至から10日ほど後に年が切り替わる。
冬至とは、日に日に短くなっていった昼間の時間が底を打って再び伸び始める境目の日だ。
徐々に衰えていった古い太陽が役目を終えて西に沈み、新しい太陽に生まれ変わり再び力を取り戻して東から昇る日のことだ。
だからキリストの誕生日も冬至近くに設定され、新たな年の始まりも冬至近くに設定された。

冬至と元日は近い→1年で昼が最も短く夜が最も長い→すなわち元日の日出時間は遅い。

例えば2022年1月1日、東京の日の出は6:50。
大して早起きする必要もない。
7時ちょっと前までに、東に開けた海岸なり、高台の公園なり、ビルの屋上なりに行って東を向けば、水平線から、地平線から、あるいは高層ビルの向こうから徐々に昇って来る朝日を拝める。

もっとも、晴れていれば、の話だが。
冬場の関東地方(平野部)は晴れの日が多い。
しかしこの時期、曇りがちだったり雪が降っている地方もあるだろう。

それにしても、新年に昇る最初の太陽の光は、なぜこんなにも清々しく爽やかなのだろうか?
なぜこんなにも心洗われる気分になるのか?
けさ昇った太陽と、昨日の太陽や明日の太陽との間に、大きな違いがある訳じゃない。
ただ人間が勝手に作った暦の中で、今日が一年の始まりに設定されているだけだ。
にも関わらず、確かに、けさの朝日は私の心へ沁み入り、何かを洗い流して行った。

何事も気の持ちようと言うのなら、確かにその通りだろう。
『私自身の気の持ちよう』こそが私に対して最も強い力を持つ。

そして『今日は一年の始まりの日』という、社会全体が『とりあえず設定した』決まり事、『今日である事それ自体には意味のない』決まり事が、社会の構成員たる私個人の『気の持ちよう』に大きな作用を与えた。

一年の始まりが昨日であっても構わなかった。
一年の始まりが明日であっても構わなかった。
ただ、『今日こそが始まりの日だ』という共通の決め事が必要だった。
社会全体で共有され、構成員全員がそれに従って時計の針を合わせるという決め事が必要だった。
でなければ、一人一人がバラバラになり、社会が成立しないからだ。
そして、ひとたび何かが決まってしまうと、その『何か』は、(私が元日の朝日を特別と感じたように)社会の構成員一人一人の気の持ちように強い作用を与える。

これこそが『祭り事』(まつりごと=宗教)であり、『政り事』(まつりごと=政治)なのだろう。

新年、明けましておめでとうございます。
新たな年が、皆さんにとって良き一年でありますように。