ネタバレ! 小説と映画の感想‐青葉台旭

小説と映画のネタバレ感想が書いてあります。メインのブログはこちら http://aobadai-akira.hatenablog.com/

映画「ブレードランナー2049」を見た。(ネタバレ)

www.bladerunner2049.jp

歌舞伎町の東宝で見た。

この記事はネタバレを含みます。

未見の人は気をつけてください。

静的サイト・ジェネレータを作り直している。

私は自分のドメイン「aobadaiakira.jp」の記事生成に自作の静的サイト・ジェネレータを使っている。

今、それをイチから作り直している。
そのSSGが完成するまでの間、一時的に記事の投稿を控えようと思っていた。先日劇場で観た映画「ブレードランナー2049」についての感想も、自作のSSGが完成した段階で「aobadaiakira.jp」と「はてなブログ」に同時投稿するつもりだった。

しかし、劇場公開映画というのは、ある種の「なま物」であるだろうし、旬を過ぎてしまってから感想を投稿するというのも何となく違う感じがするので、先行して「はてなブログ」に感想を書くことにした。

「取り急ぎ」……というやつだ。自分のドメインへは後で転記すれば良いだろう。

さて、本題「ブレードランナー2049」の感想。

「終わってみれば、男臭い映画だったなぁ……」というのが、スタッフロールが終わり映画館内が明るくなった直後の、私の感想だった。

ある種のヤクザ映画とか、外国で言えばノワールと呼ばれる比較的低予算の犯罪映画にしばしば見られる、「一寸の虫にも五分の魂があるってことを見せてやるぜ!」系の映画だった。

あるいは「何の取り柄もない底辺男の、命をかけた意地の物語」とでも言おうか。

そういう、女たちからは「訳わかんない」とか言われてバッサリ切り捨てられそうな、でも男たちの心にはジーンと来る映画だった。

ちなみに、この世には、全世界の男が感動しまくったのに、全世界の女には何が良いんだかサッパリ分からない……という不思議な映画が存在する。
例えば「スタンド・バイ・ミー」だ。私は、あの映画を嫌う男に今まで出会ったことが無いし、あの映画を絶賛する女に出会ったことも無い。

それは、さておき……

繰り返しになるが、要するに本作品は、低予算犯罪映画などにしばしばある「底辺男の意地」映画だった。
その「底辺男の意地」が、160億円とも190億円とも言われる莫大な制作費をかけた壮大な未来絵図を背景に語られる訳だ。

別の言い方をすれば「ドライブ2049」とでも言おうか

同じライアン・ゴズリング主演で言えば、今回の「レプリカントK」という役は「ドライブ」の主人公に近い。
確か、ドライブの主人公にも役名が無かったはずだから、そういった部分でもちょっと似ている。

ダーティーな仕事に従事する凄腕の男。しかし、実社会ではコミュニケーションが不得意で引きこもりがちなオタク気質。
その凄腕底辺引きこもりオタク男が、さして本人に利益があるとも思えない「何か」のために自分の命と男の意地をかける……
そんな感じのストーリー展開が似ている。

ライアン・ゴズリングの演技は、変顔をする必要が無いぶん、「ドライブ」の時より自然だった。

私は映画「ドライブ」の感想記事で、ライアン・ゴズリングはイケメン過ぎて「女にモテない引きこもりのキモい底辺オタク」みたいな役をするには無理があると書いた。
その事を自覚しているライアン・ゴズリングは、わざとアホ面の演技をして自分のイケメン度を中和しようとしていたが、必ずしも成功しているとは言い難い……とも書いた。

しかし、役柄が似ていても、今回のライアン・ゴズリングの演技は「ドライブ」の時より自然だった。無表情だったが変顔演技ではなかった。

おそらく今回のキャラ設定が「ドライブ」のとき以上に『気持ち悪い男』だった事が、かえって功を奏したのだろう。

映画「ドライブ」の時と同じく、今回のライアン・ゴズリングの役どころも、仕事が終わればそそくさとワンルーム・アパートに引きこもる孤独な男だ。
しかも、その一人暮らしワンルーム・アパートには、ロリ顔のバーチャル彼女が居る。ゴズリングは、その3Dのバーチャル彼女に話しかける事で孤独を癒している。

「ドライブ」の時より数段、キャラのキモい度がレベルアップしている。

もともと人造人間という設定でもあるし、イケメンが変顔するとか、そういう次元を遥かに超越した気持ち悪いキャラ設定だったので、ライアン・ゴズリングの演技も「ドライブ」の時より自然だった。

つまり、設定そのものが「誰が見てもキモい男」なので、わざわざキモい演技をする必要が無く、そのぶん演技が自然だったという事だ。

ちょっと、女性は引いてしまうキモ男設定かもしれない。

しかし、それにしても……あれだ……この「ロリ顔バーチャル彼女育成シミュレーションゲームだけが心の支えの引きこもり底辺男の物語」というのは、男にとっては「分かる……分かるぞ、ライアン!」という感じだが、ゴズリング・ファンの女たちにとっては辛かったかも知れないな。

バーチャル彼女が、聖母マリア様のような慈愛でどこまでも優しくライアンを見守るキャラに育成されているのも、何か痛い感じだし。

瞬時にあらゆるコスプレをしてくれるオプション付きっていうのも何かキモいし。

デリヘル嬢の顔にバーチャル彼女の顔を重ね合わせてナニするシーンでは「いやいや、それは、さすがにデリヘル嬢さんに失礼だろ……」と、男の俺でさえ思ってしまった。
しかも何か美談っていうか、何かしら美しいシーンみたいに描かれてるし……

むかし何かの本で、「アイドルとセックスしている気分を味わいたいからと、引き伸ばしたアイドルの顔写真をガールフレンドの顔にセロテープで貼り付けてセックスする最低男」の話を読んだ記憶があるが、それに匹敵する最低男ぶりだ。

ちょっと、たけし映画のヒロインを思い出させるバーチャル彼女。

そう言えば、先日ビートたけしの「アナログ」という小説を読んだが、本作品に出てくるバーチャル彼女の「聖母のような慈愛で主人公を見守る、絶対に触れられない存在」という感じは、たけし映画のヒロインにも通じる気がする。

この映画の良さは、2つある。

  1. 莫大な金をかけて作り込まれた、美しくも荒廃した背景美術。
  2. 話の後半でジャンルが切り替わる「ジャンル切り替わり映画」である点。

以下で、1つ1つ説明する。

ブレードランナー2049の特徴その1、莫大な金をかけて作り込まれた背景美術。

私は、新宿コマ劇場跡の東宝劇場で2D上映を見てきたが、まあ、とにかく巨大なスクリーンに映し出される美しくも荒廃した未来絵図は、見ているだけで「眼福、眼福、ありがたや、ありがたや〜 」と言いたくなるほどだった。

冒頭の、放射能灰で薄らボンヤリと煙る視界に、太陽光発電の鏡がキラッ、キラッと光るシーンで、もう「すげーっ」ってなった。

続いて田植え前の水を張った田んぼみたいなのが延々続く空撮でますます「すげーっ」ってなった。

それから、もう出てくる背景、出てくる背景、全部最高。

そしてクライマックスの、荒波が寄せる波打ちぎわでの車内の決闘シーン。
夜の海岸、暗闇に冷たい白色LED車内灯だけが光り、その車内にザップーン、ザップーン、って波が入って来る中での決闘……ああ、その何と美しい事よ。

廃工場の階段の角度にさえ幾何学的な美しさがある。

主人公の幼少期の記憶に出てきた廃工場の、階段の配置と角度が、何か凄い。

CGなんだか、セットなんだか、はたまた実在する廃工場でロケしたのかは知らないが、CGであれセットであれ、階段の角度や配置の美しさにまで気を使っているのが凄い。
実在する廃工場だとしたらもっと凄い。そんな美しい廃工場が実在するのが凄い。ロケハンで見つけてきたスタッフも凄い。

記憶デザイナーの研究所がカッコイイ。

雪景色の中に浮かび上がった、記憶デザイナーのお姉ちゃんが住んでいる研究所もカッコイイ。

これは、アール・デコっていうよりは、1950年代〜60年代のモダン建築だな。ひとことで言うと、科学特捜隊とか、ウルトラ警備隊の基地のイメージ。

あの建物、どこかに実在してるのか?

デザインのスタイルは2系統。

  1. 猥雑なアジアン・テイストの街。
  2. 死んだアール・デコ

1作目のブレードランナーからして、この2つが入り混じっていたように記憶しているが、今回の2049では、1作目よりもこの2つのデザイン・スタイルの純度が上がっている気がした。

美術デザインのスタイルその1、猥雑なアジアの街テイスト。

アジアン・テイストに関しては、アジアっていうより、もう明確に「日本」「東京」だな。 ネオンサインや立体ホログラムなんかも、パチンコ屋のケバいネオンとかのイメージだ。
……っていうか、俺ら日本人が雨の日には全員で透明ビニール傘を差す、なんて事をどこで聞いて来たんだよ。

美術デザインのスタイルその2、死んだアール・デコ

猥雑だが生命力に溢れた街を一歩出ると、そこには「死んだアール・デコ」が静かに横たわっている。

20世紀初頭にヨーロッパで生まれ、やがて大西洋を渡って新大陸で花開き、20世紀半ばまでアメリカで隆盛を極めたアール・デコ様式は、古き良きアメリカの象徴なのかもしれない。

その古き良きアメリカの象徴たるアール・デコ達は、何者かに破壊されたわけでも蹂躙されたわけでもなく、ただ、そこで消費に溺れていた人々が消え去って、物としての役割を失い、静かに死んでいる……そんな感じで荒野に佇んでいる。

一方、悪の親玉であるレプリカント製造会社も荘厳なアール・デコ様式で統一されている。 こちらにも生命の匂いは一切しない。
生命から生命らしさを徹底的に排除して「物」として扱おうという強い意志が感じられるデザインだ。

猥雑な生命力に溢れたアジアン・テイストと、生命の匂いの全く無い古き良きアメリカのアール・デコの対比

「一部のエリートの居城か、さもなくば荒野に捨てられた廃墟のためのデザインであるアール・デコ」と「猥雑だが生命力に溢れたアジアン・テイストの街」という対比に、この映画の製作者は何かを暗示させたいのかもしれない。

上映時間が長く退屈という意見について。

この記事を書く前に、ちょっと他の感想ブログをのぞいて見たが「上映時間が長い」という意見がチラホラ。

確かに、物語の語り口は往年の共産主義国が採算度外視で作っていた大作映画みたいにゆっくりだから、今のハリウッドのジェットコースター・ムービーと比べると退屈なのは間違いない。

しかし、そのゆっくりと進む物語進行から一歩引いて「映像美を楽しむ一種の環境映画」として見れば、2時間40分は長すぎるという程でもない。

NHK日曜美術館2時間40分スペシャルだと思えば、良いんじゃね?

例えばNHK日曜美術館2時間40分スペシャル「2049年ロサンゼルスの風景〜死んだアール・デコと猥雑なジャポニズムが出会う場所〜」みたいな番組があったら、みんな見るでしょ?

話が逸れるが、映画館でブレードランナー2049を観た翌日、たまたま出先のホテルでテレビを点けたらNHKスペシャルでピラミッドの特集をやっていた。

私は思わず見入ってしまった。

古代の巨大建造物遺跡や美術品には何とも言えない魅力がある。

その魅力の源泉は何かといえば、「大昔の権力者や大商人たちが、その強大な権力と莫大な財力に物をいわせて当時一流の職人(=アーティスト)たちに作らせた」という説得力なんだと思う。

このブレードランナー2049にも、「現代の巨大権力者」たる大資本家たちが出資した160億とも190億とも言われる大金を湯水のように使い、一流の職人(=映画スタッフ)たちに背景美術を作らせた凄みがある。

だから、まるで巨大な美術館か博物館を巡っているような感じを味わえたし、観ていて飽きなかった。

ブレードランナー2049の特徴その2、物語上の斬新さは、話の後半でジャンルが切り替わる「ジャンル切り替わり映画」だという点にある。

ジャンル切り替わりというのは、たまにホラー/サスペンス映画などで見かける「仕掛け」のことだ。

例えば、
「冒頭、幽霊の仕業としか思えない異様な事件が発生する」
→「しかし、物語の後半、それが犯人の巧妙なトリックであると明かされる」
という仕掛けだ。

「心霊ホラー」と見せかけて……実は「トリックのあるミステリー」でした……となるわけだ。

つまり前半の「いかにも超自然現象が起きているような感じ」は観客に対するミスリードで、製作者側としては、物語の終盤で「これはトリックなんだよ」と明かして、観客をアッと驚かせたいわけだ。

前半の展開は、観客に「この映画は〇〇ジャンルだな」と思い込ませるための、にせ物の展開、目くらましだ。

では、ブレードランナー2049は、何から何へのジャンル切り替え映画なのか。

  1. 貴種流離譚」「父子もの映画」と思い込ませておいて……
  2. じつは「底辺男の意地」映画

というドンデン返しの映画だった。

前半部「貴種流離譚」「父子もの」というミスリード

貴種流離譚というのは、

  1. 特別な血を受け継いだ高貴な身分の赤ん坊が……
  2. 何らかの事情で親と別れ、貧しく卑しい身分として育てられ……
  3. 成長して、放浪の旅に出て、
  4. 最後は自分が高貴な血筋である事に気付き、
  5. 本来の地位を取り戻して幸せに暮らす。
  6. めでたし、めでたし。

という物語の事だ。

何千年も前から、世界のあらゆる場所で語り継がれて来た物語で、いちいち例を出すのも面倒くさいぐらいだが、有名なSF映画で言えば「スター・ウォーズ」なんかはその典型だ。

……で、このブレードランナー2049も、いかにも「貴種流離譚」「パパを訪ねて三千里」的な展開で、観客を騙す。

つまり「結局、みんなが探し回っていた子供はライアン・ゴズリング自身で、最後に父親ハリソン・フォードと『パパ、会いたかったよ』とか言いながら抱き合って、めでたし、めでたし、ってなるんだろ」と思わせて、油断させるわけだ。

「30年前に死んだ女性レプリカントの骨が発見され、どうやらその女性レプリカントは赤ちゃんを産んだらしいと分かって、一同どよめく」って冒頭シーンから、正直、私も油断しちゃってましたよ。

「はいはい……この、30年前に生まれた赤ちゃんが、今回この映画の『マクガフィン』ね……良いもん悪もん、みんなで、この赤ちゃんの争奪戦を繰り広げるわけだ」

「そんで、目の前には、ちょうど30歳くらいに見えるライアン・ゴズリング君が居ます、と……もう、バレバレですね」

「しかも、ゴズリングくん、バーチャル彼女に『あなたは特別よ』とか言わせて、孤独な底辺男特有の『どうせ俺なんか、会社辞めたって直ぐに別の誰かが補充されちゃうような、量産型ザクみたいな存在ですよ……ああ、せめてシャア・ザクくらいの特別感は欲しいよ、俺自身……』みたいな哀愁漂わせているとなれば……このスペシャル・ベイビーはゴズリング君で決まりだね!」

前述したように、この映画の2時間40分という上映時間に耐えられず退屈してしまった人も多かったようだが、もしかしたら、それは単に尺の長さだけの問題ではないのかも知れない。

観客は、物語の序盤早々に「主人公をはじめとして登場人物みんなが必死で探し回っている30年前の赤ん坊の正体は、じつは当の主人公自身」という思い込みを持ってしまう。

そして、その思い込みが覆されないまま物語終盤まで進んでしまうから、その「正体バレバレの赤ん坊」を巡ってのドタバタ劇が、だんだん白々しく思えてくる。

私は、この「30年前の赤ちゃん=実は主人公」を巡るドタバタ劇(というミスリードされた思い込み)に飽きて以降、ストーリーを追うよりも背景の美術を堪能する事に意識の比重を移したから、幸いにも映画に飽きることはなかった。

その一方で、長尺のわりにシンプルすぎるストーリー展開に飽きちゃう人がいても仕方ないかな、とも思っていた。

ところが、物語の終盤にジャンル切り替えのドンデン返しが待っていた。

この物語の一番のキーポイントは、間違いなく、物語終盤の以下のシーンだ。

ライアン「あ、どうも、初めまして」(パパ、会いたかったよ……)

ハリソン「お、おう……」(こいつ誰だよ)

どかーん!

爆発とともにクソ女登場。

腹こわして動けないライアンの目の前でハリソン・パパを拉致。

しかも、このクソ女、ライアンが手塩にかけて育てたバーチャル彼女育成シミュレーション・ゲームの大切な育成データ入りUSBメモリーを、ついでに踏み潰して去っていく。

ライアン「何すんだ、このクソ女! ……ガクッ」(気絶)

革命軍のアジト

革命軍のリーダー「ハリソン・パパから大事な女の子の情報が漏れる前に、パパを奪還しなくては」

ライアン「え……? 赤ん坊って、女の子なんすか?」

リーダー「あれ? もしかして、ライアン君、自分のことだと思ってた? 自分こそがスペシャル・ニュータイプ・スーパー・ウルトラ・ハイパー・次世代型レプリカントだと思ってた? ぷぷぷっ」

ライアン「べ、別に……」

リーダー「そりゃ、誰でも自分がスペシャルだと思いたいよねぇ……」(でも、あんた、ただの量産型だから)

ライアン「……」

ここで、今まで典型的な貴種流離譚だと思って観ていた観客は、ガーンとなる。

『世の中の誰からも必要とされていない孤独な青年』という主人公の属性は、あくまで世を忍ぶ仮の姿で、実は彼こそがレプリカントたちを革命に導く『神の子』だ! ……と、ずーっと思ってきたのに、「やっぱり彼は『世の中の誰からも必要とされていない孤独な青年』そのまんまでした」と言われて「えっ?」ってなる。

唯一、自分を必要としてくれ(るように育成してい)たバーチャル彼女(育成シミュレーションゲームのデータ)も、クソ女に殺されて(破壊されて)、もうこの世に自分の存在価値を認めてくれるものは無い。

ここで、いきなり「孤独な底辺男の意地の物語」が発動する。

主人公が、しょんぼり肩を落として橋の上を歩いていると、巨大な全裸女の3D映像が「ハンサムなお兄さ〜ん、私と遊ばな〜い?」と誘ってくる。
その姿は、主人公が手塩にかけて育成し、敵のクソ女に殺されて(データを破壊されて)しまったバーチャル彼女にそっくりだ。
……しょせんバーチャル彼女はバーチャル彼女。幾らでもコピー可能な単なるコンピュータ・ソフトウェアに過ぎない。
個々の「データ」の尊厳なぞ無きに等しい。
主人公は、その残酷な事実を、目の前の巨大な彼女(いや、彼女そっくりの3D映像に)突きつけられる。

この世の中で、ほとんど価値のない存在であるという点は、主人公自身も同じだ。

どうやらレプリカントの外見や性格にはそれぞれ個性があるようだが、しかし、だからといって「都会の片隅に生きる孤独な男」である主人公に、何か抜きん出た特別な属性があるわけでもない。

生まれながらにしてレプリカント達から「我が民族の希望の光」として崇められ、命がけで守護されている女……デッカードとレイチェルの娘のような存在ではない。

その事実を……どこまで行っても自分は何の特別性も持たない使い捨ての「量産型」に過ぎない、という事実を、死んだバーチャル彼女そっくりの3D映像によって突きつけられた主人公は、逆にそこで開き直り、何の利益も見返りも無い闘いに、ただ「男の意地」だけで命をかけて挑む決意をする。

「ちくしょー、やってやる! やってやるぜ! 見てろよクソ女! 会社辞めても悲しんでくれる同僚の一人も居ないような、そんな使い捨ての量産型ザクみてぇな俺だけどよぉ、底辺には底辺なりの男の意地ってもんがあるんだ! 首を洗って待ってろ! クソ女め!」

そして、見事ミッションを達成し、ハリソン・パパを娘のいる研究所に送り届け、「俺だって、やれば出来るんだ。一寸の虫にだって五分の魂があるんだぜ」という事を、他でもない自分自身に証明して見せ、満足の中で静かに死んで行く。

貴種流離譚」で始まり、「底辺男が意地と命をかけて闘う物語」で終わるというジャンル切り替えは、ひょっとしたら世界初なのではないか?

それは、別の言い方をすれば「レプリカントというマイノリティ民族のアイデンティティの物語」に見せかけて始まり、終わってみれば、実は「(レプリカントとか人間とかに関わらず)社会の底辺で暮らさざるを得ない孤独な個人のアイデンティティの物語」だった、という事だ。

日々世界中で封切られている膨大な数の映画の極一部しか見ていない私ごときが軽率なことは言えないのだが……いずれにしろ、このブレードランナー2049の(ストーリー上の)目新しさは、この一点に集約されるのではないだろうか。

逆に言えば、ストーリー上の他の部分は、それほどスリリングでも無い。

「ロボット・人造人間のアイデンティティの物語」って言っても、それ自体は過去に何百回となく語られてきた物語だろうし。
逆に「社会の片隅に生きる平凡な男のアイデンティティの物語」だけでも、それも今まで何百回となく語られてきた物語だろうし。

その二つを組み合わせた「ジャンル切り替え映画」であるという事、その切り替えポイントが、この映画の見所だろう。

「一人の男が報われない努力をする」っていう話は、あんまり需要がないかもしれないな。

まあ、大部分の人は、気持ち良くなるためにエンターテイメントに足を運ぶんだからね。

本人の努力だろうと、隠された血筋だろうと、何でも良いから、最後は社会的階層を底辺から一気に頂点へ上り詰めて終わって欲しいと、普通の人は思うかもしれないな。

気になったこと。スピナー壊しすぎだろ。

スピナーとは空飛ぶパトカーのことだが……

墜落したり破壊される度に、次のシーンでは、しれっ、と新車で空を飛んでいるのは、どういうことなんですかね。

最後の出撃なんて、警察クビになった後だろ? あのパトカーって、まさか警察からチョロまかして来たのか?

気になったこと、その2。ハリソン・パパが拉致られたシーンで、クソ女は何でライアンに止めを刺さなかったの?

普通、確実に殺しておくでしょ? 殺しておかないと後々メンドーな事になるでしょ?

気になったこと、その3。レジェンドが何かする度に、ドキドキする。

まあ、レジェンドってハリソン・フォードのことなんですが……

まさかハリソン・フォードが誰かを殴るシーンでこんなにドキドキするとは思わなかった。

「そ、そんなに力一杯殴ったら、ハリソンお爺ちゃん、心臓が止まっちゃうよ!」

殴って「心臓発作が起きないか」とハラハラし、殴られて「心臓発作が起きないか」とハラハラした。

クライマックスで、ハリソン・フォードの顔が水面から出たり沈んだりしてるところなんて「おいおい『撮影中にご臨終』なんて、マジでシャレにならんぞ」と、そっちの方が気になって映画の本筋に集中できなかったよ。

まあ、冷静に考えれば、そんな事あり得ないんだけどね。

監督について。

ドゥニ・ヴィルヌーヴって何かF1レーサーみたいな名前だなー、って思って検索してみたら、ああ「プリズナーズ」の監督か……あれ良い映画だったな。

スターウォーズ」とかヒーローもの映画みたいな「生まれながらに神から特別な能力を授かった英雄たちの、勝利と栄光の物語」よりは、「特別なものは何にも持っていない平々凡々な男の哀しみの物語」みたいなのが得意な監督なのかね。

自作テーマを適用しました。現状、一部のブラウザで色指定が機能していません。

自作テーマを適用しました。
CSS3のカスタムプロパティを使用しています。現状まだ一部のブラウザではサポートされていない機能なので、色指定できていません。

指定した色が反映されないブラウザ

以上のブラウザでは残念ながら現時点で色が正確に反映されません。
それ以外のブラウザの最新バージョンなら問題なく反映されると思います。

Egdeが対応したら、テーマストアに投稿しようと思っています。
その時は、よろしくおねがいします。

漫画「この世界の片隅に」を読んだ。

*ネタバレあり。

この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 中 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 中 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 下 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 下 (アクションコミックス)

この世界の片隅に」を読了した。

言うまでもなく、多くの場合、原作と映画は別物だ。

……で、この「この世界の片隅に」における原作と漫画の相違点の話だが。

最終回の「しあはせの手紙」が素晴らしかった。

本当に素晴らしかった。

映画版もラストはとても感動的なのだが、原作には、その感動的なシーンに「しあはせの手紙」という詩がナレーションのように書かれていて、感動がさらに何倍にも増した。

これは、アニメーションでも不可能な、漫画ならではの表現だろう。

すずのキャラクターの印象が大分(だいぶ)ちがう。

まず、原作は男女関係の描写が多い……いや、書き方が逆だな……原作にあった、主人公すずと夫である周作の男女の描写を、映画版ではバッサリとカットしている。

映画では、本土空襲が始まる前のすずは、屈託のない笑顔や、失敗した時の「あちゃー」といった感じの可愛らしいさで周囲を和ませる癒し系キャラの要素が大きいが、原作漫画では、いきなり最初の見開き画面が、丘の上から瀬戸内海を憂いを含んだ眼差しで見るすずのカットで始まる。

主人公が天真爛漫なだけでは終わらない物語である事を暗示している。

映画版でも、結婚したてのすずが円形脱毛症になるという描写があって、それで「いっけん脳天気そうなすずにも、嫁ぎ先でのストレスはあるんだ」という事が暗示されるが、映画の序盤での「すずのストレス描写」は、せいぜいこの程度だ。

原作版のすずは現代女性にも通じる「リアルな女」成分が多めと言えるし、映画版は、そういう女の生々しさをバッサリとカットすることで「物語の登場人物として純粋」な、つまりリアルと言うよりは神話的なキャラクター設定になっている。

漫画の上中下の三冊は、わりと明確に話の色調が分かれている。

つまり、三部作に近い形になっていて、単行本の一冊一冊がそれぞれ第一部・第二部・第三部と呼べるような構成になっている。

あえて命名すれば、

  • 第一巻「少女・結婚編」
  • 第二巻「恋愛編」
  • 第三巻「戦争激化編」

とでも言おうか。

現代劇は、恋愛→結婚と話が進むが、戦前・戦中の物語では結婚→恋愛と話が進む。

現代劇と違うのは、夫婦の恋愛模様が結婚後に描かれることだ。つまり現代なら恋愛→結婚と話が進む所を、まず(すずにとっては)見ず知らずの男・周作との結婚があり、それから周作との恋愛感情が綴られていく訳だ。

そして、第三巻の空襲が激化する中で、それと平行して描かれるのは、嫁ぎ先に自分(すず)が居る意味の不確かさであり、夫・周作との関係の不確かさである。

いや、嫁ぎ先の舅・姑は常にすずに優しいし、義理の姉も最初こそ意地悪な小姑として登場し、娘を亡くした時は動転してすずを責めるが、決して悪い人物ではない。夫・周作も、米軍機の機銃掃射からすずを守りながら「お前との結婚生活は楽しかった」という。

しかし、それでもすずは広島の実家に帰りたいと願う。周作と結婚し北條家に嫁いだ事の不確かさに喘ぐ。

つまり、嫁ぎ先である北条家の人々の問題ではないという事だ。これは、すず自身の気持ちの有り様の問題だ。

その象徴として白鷺が空を飛ぶ。呉の町から広島へ飛び立とうとする白鷺は、嫁ぎ先に居ることの意味を見失い、生まれ故郷に帰りたがっている自分の分身であり、初恋のひと水原の象徴であり、水原と結婚していたかもしれない自分、つまり「ひょっとしたら今と違う人生を生きていたかもしれないもう一人の自分」の象徴だ。

その「北条家の嫁」という居場所の不確かさに喘ぎ、ふらふらと道に飛び出し米軍機の機銃に殺されかかったすずを、夫・周作は抱きしめ、命がけで助ける。

それでも、すずは周作の気持ちに答えられず「聞こえん!」と言って逃げる。

この時、持っていたハンドバッグが、すず自身の身代わりになるかのように米軍機の機銃掃射を受け、大切に取っておいた中の品物もろとも粉々になってしまうというのも象徴的だ。

外出するときに肌身離さず持っているハンドバッグというのは、女にとってある種、自分の一部みたいなものなのだろうか。あるいは、お守りのような存在か。

それが自分の身代わりになって破壊され、中に入っていた思い出の品々(幼なじみからもらった鳥の羽、夫からスケッチブック代わりにもらった……そして夫の元カノ発覚の証拠でもあるノート、遊女からもらった口紅)もろとも粉々になってしまうというのは、おそらく「過去の自分との(強制的な)決別」を意味している。

すずにとっての右手の意味。

なぜ、すずは広島へ帰りたくなったのか。

日毎に増す軍港の町への空襲に怯える生活に疲れてしまったのかもしれない。また、仲の良かった姪っ子を爆弾により目の前で殺されてしまったからかもしれない。その事で義理の姉になじられたからかもしれない。

そして、何より右手を失ったことが大きいのだろう。

右手は、少女時代から趣味だった絵を書くことに使っていた利き手であり、絵が上手という以外にさして取り柄もない少女にとって、その唯一の才能の象徴だ。

それを突然奪われるという事は、自分がこの世界にいる意味を奪われるという事だ。

いかに戦前・戦中とはいえ、結婚において女性に拒否権が全く無かったわけではない。

物語の初めのほうで、すずは叔母さんに「気に入らにゃ断りゃええよ」と言われる。

いかに戦前・戦中とはいえ、お見合いで女性の側に全く拒否権が無かったわけでは無い。

厳しい言い方をすれば、拒否権があるにもかかわらずそれを行使せず、あれよあれよという間に結婚してしまったのは、すずが結婚するということに対して、つまり自分の人生に対して「何も考えていなかった」からだ。

そして、面識のない(と、すずは思っている)夫とその家庭に嫁いで以降、どうにか幸せにやって来られたのも、(嫁ぎ先の人たちが良い人だったという事もあるが……)すずが天真爛漫な少女だったから、言い方を変えれば「何も考えていなかった」からだ。

つまり結婚する前の、あるいは結婚直後のすずは、例えば旧約聖書エデンの園に住む(知恵の実を食べる以前の)アダムとイブのような、あるいはロシア民話の「イワンの馬鹿」のような「神に祝福された愚か者」な訳だ。今風に言えば天然少女だ。

そして、彼女にとって絵を描くということは、幼い頃から持っていた才能であり、物心ついた頃には既に好きだった趣味だ。つまりこれも「神からの贈り物」だ。

血の滲むような努力の末に獲得した能力でもないし、この才能で社会階級を昇っていこうという意志も無い。そういう自覚的な物ではない。

そういう、天真爛漫・純粋無垢な「聖なる愚か者」だった少女が、結婚し、夫との初夜を経て男女の愛情を知り、その結果、夫の(元)愛人に対する嫉妬や劣等感に苛まれ、嫁ぎ先でのストレスのために円形脱毛症になる。

純粋無垢な聖なる存在は、男女の愛を知り、生まれ育った家族のもとを離れて見ず知らずの人々(社会)と生活を共にすることで、徐々に人間としての苦悩を持ち始める。

そして、神から与えられた才能(右手)さえも奪われ、ついに完全に人間になった少女は、初めて自らに問うわけだ。

「私は、いったい何者なのか」と。

ついに「聖なる少女」から「人間の女」になったすずに決心をさせたのは、既に「自立した女」として生きていた義理の姉だった。

自分を抱きしめ、命がけで機銃掃射から守ってくれた夫の愛の告白にさえ答えられず、駄々っ子のように「聞こえない」「広島へ帰る」と繰り返し、気まずい思いで出勤する夫を見送った後、すずは義理の姉と二人きりで話す。

姉は言う。

「自分は好きで結婚した夫に先に死なれ、店も壊され、息子とも離れ離れになった。しかし、自分で選んだ人生だから不幸せではない。その一方で、お前は、他人の言いなりに結婚して、言いなりに働いている。それは、つまらない人生だ」

そして、こう続ける。

「ここ(北條家)がイヤになったのなら出て行けば良い。イヤでないのなら、我々はお前を受け入れる。自分で決めろ」と。

その瞬間、すずの故郷の広島が「ピカッ」と光る。

そして、すずは決断し、義理の姉に抱きつく。「ここに居させてください」と。

つまり、生まれ故郷の広島で歴史的な恐ろしい悲劇が起きたその瞬間、すずは、一人の人間として自分の生き様を自分の意志で決めた(神の子・聖なる少女から、ひとりの人間になった)訳だ。

ある意味、漫画版は壮大な「プロポーズ大作戦」物語だった。

タイトルにもなっているラスト近くの「ありがとう、この世界の片隅に、うちを見つけてくれて」というセリフも、私は漫画と映画でずいぶん違う印象を受けた。

映画版を見た時は、このセリフは文字通り「私を奥さんにしてくれて(愛してくれて)ありがとう」という、夫の愛情に対する受け身のセリフだと思ったが、漫画版を読んでみたら、この、いっけん受け身のように聞こえるセリフは日本人特有の婉曲表現で、実際の意味は、もっと主体的な、

「やっぱりアンタと一緒に暮らして行くことに決めたから、これからもヨロシク!」

という意味だった。

つまり、これは戦前・戦中・戦後にまたがった壮大なプロポーズ大作戦物語だった。

自由恋愛が当たり前になった現代では、物語は「男女が出会う→恋愛期間→男の元カノとか、女の元カレとかと色々ある→男が女にプロポーズ→女がプロポーズを受諾する→結婚」という風に流れる。

この物語は戦時中の話ゆえに「男女が出会う→いきなり男がプロポーズ→いきなり結婚→恋愛期間→男の元カノとか、女の元カレとかと色々ある→その間に戦争→最後に女がプロポーズを受諾する」という風に動いていく。

正直言って、私は途中から完全に夫・周作に感情移入してしまっていた

漫画版では、すずと夫・周作のシーンが多い。ゆえに、男である私は途中から完全に周作目線で読んでしまっていた。

前章で述べた「ありがとう、この世界の片隅に、うちを見つけてくれて」というセリフも、

例えて言うなら、映画の時は、

すず「ありがとう、この世界の片隅に、うちを見つけてくれて」
周作(=俺)「可愛い事言ってくれるじゃねーか! チキショー、抱きしめちゃうぞ!」

って感じだったが、漫画版を読んだ時は、

すず「ありがとう、この世界の片隅に、うちを見つけてくれて」
周作(=俺)「お、おう……こ、こちらこそ、よ、よろしくな」

って感じになってしまった。

ノートを届けるとかいうのを口実にして、すず(妄想の中では俺の嫁)をいきなりデートに誘い、「しみじみニヤニヤしとるんじゃ」とか言われて肩をバンバン叩かれた時には、心のなかで「やったぜ。嫁さんポイント、ゲットだぜ」とか、ほくそ笑んでいたが、デート中に「幼なじみの水兵さんに会ったらどうしよう」とか言って周作(=俺)の背中に隠れた時には思わず「その幼なじみってお前の何なんだよ。今は俺の嫁さんなんだから堂々としてろよ」とイラだってしまった。

……しかし、まさか、りんが周作の元カノとかいう展開になるとは、映画版を見たときには思っても居なかった。

aobadai-akira-2.hatenablog.com

に、「彼自身のすずに対する愛情は子供のとき人さらいのカゴの中で出会って以降少しも変わらない」とか書いちゃったよ。

まさかフーゾクの元カノが居たなんて……しかも、嫁さんと元カノが知り合いだったなんて……

だいたい、すずが納屋の二階で女物の茶碗を見つけた時から不穏な空気が流れていたんだよな。

直後、周作(=俺)の伯母が「好き嫌いと合う合わんはべつじゃけえね」とか剣呑なこと言い出したときには思わず「おいババア、嫁さんの前で何言い出すんだよ」とうろたえ、「一時の気の迷いで変な子に決めんでほんま良かった」って時点で、もう「黙れクソババア」状態だった。

だいたい、周作も周作っていうか、何で、元カノにあげる予定だったプレゼント(しかも元カノの着物とお揃いの柄)などという危険物質を、結婚する前に処分しないで大事に取ってあるんだよ。それ位は、最低限のエチケットってもんだろ。

戦時中で物を粗末にできないっていうのなら、せめて闇市で物々交換しておくとか、姉さんにあげちゃう(ただし固く口止めしておく)とか、方法があっただろう、と。

しかも、元カノにあげるはずだったプレゼントを嫁さんにあげちゃうとか……周作くん、正気か。

もう、この時点で100%有罪判決くだっちゃう予感バリバリだろうが。

その後、すずさんが竹やぶで竹を切っている時にリンドウの花を見て、ハッとなって、周作の部屋に飛び込んでノートを見るシーンは、恐くて見てられなかった。まさか、すずさんの鋭い洞察力を見て「女って恐ぇー」と思う日が来るとは。

しかも、そのせいで、すずさん、周作の元カノが気になってセックスに集中できなくなっちゃってるし。

話は逸れるが、原作漫画には、すずさんと周作さんの濡れ場シーンがあったんだな。これ、アニメの完全版が出来たら、のんが演じるんだろうか?

……などという下世話な話はともかく……

元カノへのプレゼントを処分しなかったがためにすずさんにセックス拒否されるとか、何やってんだ、周作(=俺)。

「子供が出来んのを気にしとんか?」などというトンチンカンな問いかけが、また痛い。

あえてここで周作の弁護をしておくと、セックスが失敗に終わった後、すずさんが「代用品」とつぶやくが、男は目の前の仕事に全力で集中する生き物だから、奥さんを抱きながら別の女の事を思い浮かべたり、奥さんを別の女の代用品に考えるようなことはしない。

ただし「それはそれ、これはこれ」とか自分勝手なことを言って、元カノと愛人関係を続けつつ別の女と結婚するような不届きな男は、世の中に居るかもしれない。

ちなみに私個人は、そのような不届きな行為は絶対にしない。そもそも自分にそんな器用なことが出来るとは思わない。

水原について。

まず、水を汲んでいるすずをいきなり肩に担ぎ、さりげなく尻を触っている時点で気に入らない。

幼なじみだか初恋だか知らないが、何の権利があって他人の嫁にそんなことをするのか。

すずもすずで、なぜ夫以外の男にそんなにも無防備なんだ。

しかし、まあ、水原が泊まった夜に、すずを水原の部屋に行かせる周作の気持ちも分からんではない。

すずと水原がイイ感じにじゃれているのを見て、本当は自分の嫁さんは今でも幼なじみのことが好きで、その相手は明日には戦地へ戻って死んでしまうかもしれないと思ったら、何となく自分が横取りしたような負い目と「思い残す事のないように」という優しさから、ああいう行動を取ってしまう気持ちは理解できる。

しかし、それは自分勝手な優しさで、列車内での夫婦喧嘩ですずが言ったように、夫として、やってはいけない行為だろう。映画の時は聞き逃したが、漫画に書いてあった「うちに子供が出来んけえ、ええとでも思ったんですか?」というセリフには、ドキリとさせられる。逆に言えば「一晩の行為で水原との間に子供が出来てしまったら、あなたは夫として責任をとってくれるのか」という意味だからだ。

結果として、すずが「夫婦とは、そんなものなのか」と言って怒ってくれたということは、周作にとっては嬉しかったのではないだろうか。

周作に怒ったということは、すずがそういう事にちゃんと一線を引けるシッカリとした価値観と意志の持ち主ということだからだ。

自分が相手を好きだという気持ちが確かなものであっても、相手が自分を本当に好きかどうかというのは、ちょっとした時に不安になるものだ。

また、人間は好き嫌いだけで生きているわけではない。決断とか、けじめとか、そういうものの方が好き嫌いよりも大切な場合もある。それが生きるということだ。

それと膝まくらは駄目だ。他の男に膝まくらは、ありえないよ。すずさん。

「この世界の片隅に」で描かれる世界

*ネタバレ有り

konosekai.jp

原作漫画を読み始めてる。

まだ全てを読み終わったわけではないが、読みながらあらためて思ったのは、「この世界の片隅に」の世界は色々な要素を含んでいるという事だ。

「○○は××だ」みたいに声高に叫ぶのではなく(唯一、玉音放送直後のすずの怒りの叫びは例外)、相反する複数の要素をさり気なく背景に描くことで全体として「世界の割り切れなさ」が浮き上がるようにしている。

例えば、物語の初め、すずが尋常小学校に通っている頃のシーンでは、日本がまだ豊かな先進国になる前の、つまり高度消費社会に毒される前の人々の素朴な暮らしが描かれている。

主人公のすずは小学校に通いながら、登校前と帰宅後は家業の海苔養殖を手伝い、広島市の繁華街の商人の所へ海苔の入った大きな風呂敷を背負って行く。

一見すると、それは現代日本人が忘れた「貧しくも質素で牧歌的な暮らし」のように見える。

しかし、そんな「貧しくとも穏やかな」戦前(あるいは日中戦争開戦前後)の暮らしの描写の所々に、社会の「ダークサイド」が、さりげなく描写される。

例えば、広島の街で出会った「人さらいの化け物」……幼いすずのフィルターを通して、幻想的に描かれてはいるが、これは「実際に人身売買業者に誘拐されそうになった」とも解釈できる。

あるいは、祖母の家で出会った「座敷わらし」……これも、幼いすずのフィルターを通してファンタジーめいて描かれるが、これは明確に「孤児」であり、のちに遊女となってすずと再開することになる。

登場人物のひとりである水原の家は両親ともアル中でろくに仕事もせず、彼は尋常小学校卒業後、学費の要らない海軍学校へ入学し、のちに軍艦に乗り込んで前線へ行く。

これらの描写で、さりげなく表現されているのは戦前の「貧しくとも牧歌的な社会」の中にも、貧しさゆえの悲劇が無数に存在したという事だ。

余談。薄っぺらな偽りの豊かさと、素朴な生活感あふれる貧しさは、どちらが「正義」か

ここで「この世界の片隅に」から外れて私、青葉台旭の経験を述べさせてもらう。

今から四半世紀前、日本にはバブル景気というものがあった。日本中が偽りの豊かさに浮かれていた。

先日、ある低所得階級の人と話した時、彼が「バブルの頃は、東京で浮かれている奴らなんて俺達には関係ないと思っていたけど、バブルが弾けてみて初めて分かったよ。俺たちもバブル経済のお陰で多少は良い暮らしをしていたんだな、って」と言った。

私自身は、偽りの豊かさは所詮偽りであって、泡で出来た豊かさを社会の根拠にすべきではないと思っているが、世界の良し悪しは一面だけを見ては測れない。

正義を振りかざし、人々に貧しい暮らしを強いる社会の偽善

主人公すずが呉の街を歩いているうちに道に迷って遊郭に入ってしまい、そこで、すずが少女時代に座敷わらしだと思っていた孤児で、今は遊女に身をやつした女と出会う場面がある。

つまり、戦時下にも遊郭があり、遊女が居て、女遊びをする特権階級が存在しているということだ。

人々に「清貧」を強要し、食料を配給制にして雑草を食わせておきながら、一部の特権階級が遊郭遊びをしているという偽善。

この戦争が「正義のための戦い」であり「欲しがりません勝つまでは」「贅沢は敵だ」というのなら、なぜ遊郭を取り壊して軍需工場を建て、遊女たちに作業服を着せて魚雷の一発でも造らせないのか。

物語のラスト近く、終戦後、主人公が何を配給されるかも分からない配給の列に並ぶシーンがある。

配給されたのは、進駐してきたアメリカ兵士の食べ残し、つまり残飯だった。しかもその残飯にはラッキーストライク・タバコの包み紙が浮いている。

ところが、このゴミの浮いた残飯が「とても美味い」のである。すず達は道端にしゃがんでアメリカ軍の残飯に舌鼓を打つ。

人々に大義を押し付け、貧しさを強いてきた祖国の配給食より、原爆を落とし多くの同胞の命を奪った敵兵の食べ残したゴミの浮いている残飯の方が遥かに滋養があって美味しいという皮肉を「この世界の片隅に」は、嫌味ったらしくならずにコミカルに描いている。