ネタバレ! 小説と映画の感想‐青葉台旭

小説と映画のネタバレ感想が書いてあります。メインのブログはこちら http://aobadai-akira.hatenablog.com/

異世界シャワーあります。

最近、異世界シャワーが流行っていますが、拙作「ハーレム禁止の最強剣士!」にもあります。
もし興味があったら、読んで観てください。

カクヨム
https://kakuyomu.jp/works/4852201425154887341

小説家になろう
https://ncode.syosetu.com/n6714cr/

aobadaiakira.jp
http://aobadaiakira.jp/novel/novel_1k8517d/index.html

今村昌弘「屍人荘の殺人」を読んだ。

東京創元社kindle版。

ネタバレあり。

この記事にはネタバレが含まれています。

ネタバレ記事によくある「改行連打」を、あまり好きになれない。

インターネットには、いわゆる「ネタバレ感想小説ブログ」「ネタバレ感想映画ブログ」と言うものが 星の数ほどある。
タイトルや記事冒頭に「ネタバレ」の一語を入れるのは良いとして、そのネタバレ警告文の直下から、 いきなりネタバレ全開で記事を書いて良いものかどうか、と言うのは記者それぞれ頭を悩ますところだと思う。

つまり「この記事には、ネタバレが含まれます」の一文を書いたその次の行でいきなり「犯人は○○」 とネタバレ行を書いてしまうのは如何なものか、という話だ。

「ネタバレを含みます」と書いた直下に「犯人は○○」と書いてしまっては、その二つの行がブラウザの 同一画面に表示されてしまい、ネタバレされたくない読者の視界に嫌でも「犯人は○○」 と書かれた行が入ってしまうのではないか。

一部の「ネタバレ感想ブログ」では、以下のような感じで「ネタバレされたくない読者の視界」から、 その「ネタバレ文」を遠ざけている。

注意! 以下、ネタバレ!











こんな感じだ。

しかし私は「こういう表現は、ちょっと無粋だなぁ」と思ってしまう。

HTMLタグを駆使してレイアウトされていた、1990年代インターネット黎明期の悪しき「ホームページ」カルチャーを 若干、引きずっているようにも思える。

そこで私は考えた。

ネタバレの本題に入る前に、ちょっとした小話というか、本題とはあまり関係のない話を書けば良いのでは ないか、と。

メインディッシュの前に前菜を食べてもらう、という感じだ。

今回は、これくらい「前菜の章」を書けば良いだろう。さて本題、「屍人荘の殺人」のネタバレ感想だ。

「屍人荘の殺人」にゾンビが出ると書くのは「ネタバレ」か?

ネット界隈では、この小説の感想文に「ゾンビ」という一語を入れるのはネタバレか? 否か?
という議論があるらしい。

しかし、ゾンビものに少しでも興味がある人ならタイトルの「屍人荘の殺人」でピンッと来るはずだ。
現に私も、この「屍人」というタイトルに惹かれてkindle版を買った。

amazonの商品紹介ページに書かれていた、

このミステリーがすごい!2018年版』第1位
週刊文春』ミステリーベスト第1位
『2018本格ミステリ・ベスト10』第1位

という煽り文句にも少しだけ興味を持ったという事もあるが……それはそれとして、ともかく「屍人荘〜」 というタイトルだ。

「死人」ではなく「屍人」、「死」ではなく「屍(しかばね)」という漢字をわざわざ当て字した場合、 それは「リビング・デッド」すなわち「生きている屍(しかばね=死体)」を表すというのは、 もはや日本のゾンビもの製作者と、その消費者であるゾンビ愛好家との間での共通認識になっていると思う。

だから、見る人が見れば、この「屍人荘の殺人」というタイトルは「ゾンビ荘の殺人」と読み替えられる。 直ぐにピンッと来る。

「ほほう……ゾンビものと推理小説の融合か」……と。

そもそも「ゾンビがペンションを取り囲む」というのは、本作においては開幕数十ページ で発生する「初期設定」であり「状況設定」だ。バラされたからといって物語への興味が削がれるような物ではない。

それにしても……いや、困ったな……俺もゾンビ小説書いている最中なんだが……

私も小説投稿サイト「小説家になろう」と「カクヨム」に、ゾンビ小説を投稿している。
「リビング・デッド、リビング・リビング・リビング」という題だ。
最近、更新が滞っていて読者の皆さんには大変申し訳なく思っているのだが、興味がある人は読んでみてほしい。

小説家になろう
https://ncode.syosetu.com/n7959df/

カクヨム
https://kakuyomu.jp/works/1177354054880790470

さて、この拙作「リビング・デッド、リビング・リビング・リビング」では、人々がいわゆる「ゾンビ」 のようになってしまう理由として未知の細菌あるいはウィルスが原因という説明を登場人物にさせているのだが、 その描写が、偶然にもこの「屍人荘の殺人」とやや似てしまっていた。

まあ、しょせんゾンビなんてジョージ・ロメロを親とする兄弟なんだから似ていて当たり前、むしろ似ていなかったら 不自然とさえ言えるのだが……

登場人物の名前がそのまま背格好や性格を表すというちょっとした「遊び」も含めて、 この三冠を達成した「屍人荘の殺人」と拙作が、偶然とはいえ「小説としてのキャラが若干被ってしまった」 のはマズいだろうか……拙作の設定や描写を変更すべきだろうか……うーん、悩む。

まずは何より、とにかく文体が読みやすい。

この小説の最大の美点は、実はこれに尽きると思う。
何しろスルスルと頭の中に入っていくる。

そう書くと、一部のライトノベルやウェブ小説のようなスカスカの文体を想像する人も居ると思うが、 そうではない。

ちゃんとした……いや、それどころか日本語として端正とさえ言える文章であり、同時に読みやすく、どんどんページを めくって行ける。

探偵役の少女がらみの描写は、ちょっと子供っぽい。

いわゆる「萌え」を意識した言動が目立つ。

ワトソン役である主人公の語り口も、この探偵役の少女が絡むと、途端に「天然ボケ少女に対して心の中でツッコミを入れる主人公」 といった感じの、ライトノベルっぽい、甘ったるいモノローグになってしまっている。

ひょっとしたら、こういう「ラノベ的」「萌え」要素はマーケティングとしては正しいのかもしれないが、 正直、私は感心しなかった。

「萌え」要素や「ラブコメ」要素それ自体を私は一概には否定しない。場合によっては、ちょっとした アクセントとして、物語に花を添えると思う。

しかし、事この「屍人荘の殺人」に関して言えば、ホラー映画に笑えないラブコメ・シーンが挿入されているようで、 興ざめだった。

そもそもミステリーというのは、その始まりからして「ラノベ」だった。

推理小説の主人公「名探偵」が、「過剰なまでのキャラ属性」を持った変人キャラクターとして登場するというのは、 実は19世紀からの伝統だ。

だから「屍人荘の殺人」の探偵がラノベのキャラっぽくても、その探偵と主人公がラブコメっぽいやりとり をしたとしても、それは仕方のない事なのかもしない。

私は筋金入りの「推理小説マニア」という訳では全くないが、それでも「本好き少年」だったオッサンの1人として、 10代の頃はシャーロック・ホームズ、エルキュール・ポワロ、ブラウン神父あたりを良く読んだ。

今でもブラウン神父は時々読み返す。
20世紀初頭のイギリス上流階級あるいはアッパーミドル階級特有の何とも言えないオシャレ感と ブラウン神父の飄々としたキャラクターが合わさって、独特の雰囲気を醸している所が好きだ。

余談だが、少年時代の私が外国の小説をどう読んでいたかというと、一種の「異世界ファンタジー」として 読んでいたと思う。
シャーロック・ホームズなら19世紀霧の都ロンドン、ブラウン神父なら20世紀初頭のイギリス、 もう少し成長してから読み始めたハードボイルドなら、20世紀半ばのアメリカ……
もちろん書かれた当時の読者にとっては同時代の物語だ。
しかし私にとっては、行ったこともない時代、行ったこともない場所で繰り広げられる冒険活劇だった。
エキゾチックな「ファンタジー」だった。
あるいは「異国の時代劇」だった。
物語の主人公である探偵たちを、私は、ある種ファンタジーの住人として見ていたように思う。

しかし多感な少年時代に楽しんだシャーロック・ホームズの物語も、大人になり多少は分別がつくようになってから読み直すと、 正直、主人公ホームズの「あざといまでのキャラクター造形」が鼻につくばかりだった。

キザで、常に他人を小バカにして、超人的な推理力があり、格闘術を会得していて滅法つよい。

ラノベや、いわゆる「なろう小説」の主人公も真っ青な、まさに「俺TUEEE」(俺、強ぇぇぇ)と揶揄される ようなキャラクター設定だ。

そして気づいた。これは当時の人たちにとってのラノベなんだ、と。

  1. 19世紀イギリスにおいて急速に勃興しつつあった「大衆消費社会」の中で、シャーロック・ホームズが 消費者たちから絶大な支持を得ていた。
  2. 現代日本においてライトノベル「ソード・アート・オンライン」の主人公が大衆文化の消費者=オタクたちに支持されている。

この二つは、別の時代、別の国で起こった同じ現象だ。

つまり、初期の推理小説は19世紀イギリスの大衆に向けて書かれた「ライトノベル」だった、という訳だ。

本格ミステリー」の意味

「本格」とは、「本来の格式(しきたり、礼儀作法)にのっとった」という意味の言葉だ。

第二次世界大戦以前の日本で活躍していた探偵小説作家たちが、自分たちの小説を「本格探偵小説」と呼んだのが 「本格ミステリー」という呼び名の始まりだ。

欧米の大衆エンターテイメント小説を咀嚼しきれいていなかった戦前の日本では、 ホラーもSFもみんな一緒くたに「探偵小説」というレッテルが貼られていた。
当時の探偵小説の作家たちは、自分たちが書いている(本来の意味での)探偵小説と、 ホラーやSFなどの周辺ジャンルとを区別する必要があった。
そこで生み出されたのが「本格探偵小説」という言葉だ。

だから、ホラーやSFなどのジャンル分けが一般に認知されている現代日本においては、もはや必要のない言葉のはずだ。 にも関わらず、今だに「本格ミステリー」という言葉は使われ続けている。

どういう意味として使われているかといえば……シャーロック・ホームズやエルキュール・ポワロが 活躍していた初期の伝統を守っている推理小説、という意味だ。
ハードボイルド、サスペンス、政治スリラー、ノワール小説など、比較的後発でありながら今や主流になってしまった 推理小説スタイルに対抗して、「古典推理小説の伝統的スタイルを守っていきましょう」という意味合いが強い。

早い話「19世紀末〜20世紀初頭に欧米の大衆に向けて書かれたライトノベル(のようなもの)」 だった初期の探偵小説スタイルを復古した小説群のことだ。

リアリティー・レベルという言葉がある。

映画や小説などでは「リアリティー・レベルを揃える」という言葉をよく使う。

人間は、どんなに荒唐無稽な話でも、語り手が前もって「これは荒唐無稽な話ですよ」と言ってくれさえすれば、 それを受け入れる。

「ここまでなら騙されてやろう」と思う。

スーパーマンが空を飛ぼうが機関車をなぎ倒そうが「これは、そういうお話=フィクションです」と前もって 言ってくれれば、それを受け入れる。

これを「リアリティーのレベルが揃っている」という。

しかし、例えば「これは現実にあった事件です」という触れ込みでアメリカと旧ソ連との息詰まる 諜報戦を描いた映画に……いきなり途中からアーノルド・シュワルツェネッガーが現れて、 機関銃を持った敵を素手でバッタバッタと薙ぎ倒し始めたら、どうだろうか。

観客は困惑し、
「だったら最初からアーノルド・シュワルツェネッガー主演の痛快娯楽作品って言ってくれよ。そしたら、 こっちもそのつもりで観たのに……」
と、思うのではないだろうか。

歌舞伎の世界では「黒子は見えない」ことにするのが観客のマナーだという。
物語の導入部で、作者がちゃんと「今回はこのリアリティー・レベル行きます」と宣言し、 読者がそれを共有してくれれば……そして作者が、最初に約束したリアリテー・レベルを最後まで守ってくれさえすれば、 リアリティー・レベルの高低それ自体は問題ではないということだ。
逆に、そこの部分の共有ができなければ、読者は「おいおい、そういう話だったのかよ……」と困惑してしまうだろう。

本格ミステリーは「一種のファンタジー」だ。

人間は誰しも平凡な日常から逃れたいと思っている。
宇宙を飛び回り、異星人をレーザー光線で倒したいと思っている。
異世界へ行って、悪い魔法使いを伝説の剣で斬り倒したりしたいと思っている。

だから、ファンタジーやSFを読む。

しかし、異世界や別の銀河のお話は、現実社会のルールや科学の法則に縛られず自由に想像力を発揮できる反面、 あまりに突飛すぎて「肌で感じるリアリティー」に乏しい。どこまで行っても絵空事で他人事だ。

だから我々は、さらに、こう思う。
「今、僕の住んでいるこの町に、僕らが知っている常識やルールに矛盾しない形で、リアルに感じられる『異世界』 が出現してくれないかな」と。

虫の良い話だが、その虫の良い話を書いちゃおうというのが「本格ミステリー」の本質だと思う。

  1. 悪い魔法使い(=犯人)が、魔法(=トリック)を使ってこの世界を瘴気漂う『異世界』に変えてしまう。
  2. その異世界に迷い込んだ主人公たちは、逃げ惑い、元の世界に帰ろうと必死に足掻く。
  3. しかし、1人また1人と悪い魔法使いの餌食になって殺される。
  4. そこに颯爽と1人の英雄(=名探偵)が現れ、伝説の剣(=超人的な推理力)で悪い魔法使いを倒す(=お前が犯人だ!)
  5. 英雄によって瘴気は払われ、世界は再び秩序を取り戻す。

上記のような「異世界ファンタジー」のプロットを、異世界に行かずに、この現実の世界で、現実世界のルールに矛盾しないように 書く。それが本格ミステリーというジャンルの本質だ。

リアリティーレベルの高い「現代日本の出来事(事件)」と、リアリティーレベルの低い「異世界ファンタジー」を 融合させようという試みだ。

しかし、それは、21世紀の現代においては、恐ろしく困難な試みだ。

19世紀のロンドンや20世紀初頭のアメリカ、あるいは終戦直後くらいまでの日本なら、 まだ社会も科学も充分に発達していなかったから、現実の社会にも「空想」の入り込む余地があった。
「現実」と「ファンタジー」の両立は可能だった。

しかし、21世紀は髪の毛一本から犯人のDNAを割り出せる時代であり、スマートフォン1丁あれば世界中の あらゆる場所の衛星写真を閲覧できる時代だ。

最初から最後までリアリティーのレベルを揃え、失笑を買わずに「名探偵」を活躍させることは相当難しい のではないだろうか。

一つの方法は、初期設定時に意図的に物語のリアリティー・レベルを下げ、あるいは後退させて 「今回は、この(低めの)レベルで行きますから。対応よろしくお願いします」と宣言してしまうことだろう。

例えば、江戸時代を舞台にしたミステリーにしたり、明治時代の話にしたり、大正、昭和初期、あるいは 終戦直後の混乱期の話にすれば、それだけで社会レベルおよび科学レベルを下げられる。
現実社会とファンタジーが共存する余地が増える。

この「屍人荘の殺人」には、大前提となる「ゾンビが跋扈する世界」という「大きな嘘」の他に、 しれっ、と本作のリアリティー・レベルを左右するセリフが挿入されていた。
物語の途中で、探偵役の美少女が「私、事件を引き寄せる体質なの」と主人公に言い、主人公も特に拘(こだわ)らずに それを受け入れるくだりだ。
もし、本格ミステリーという物をあくまでリアリズムの小説と捉えるなら、これは看過できないオカルトめいたセリフだ。

これは、
「一部の設定のリアリティー・レベルを下げます。そこにツッコミを入れないでください」 という、作者から読者への宣言だ。
暗に「黒子は見なかったことにしてください」と言っている訳だ。

その目的は、おそらく「ダイハード問題」の回避だ。
つまり「ダイハード・シリーズの世界では、なぜ毎回毎回ブルース・ウィリスばかりが大変な目にあうのか」という、 シリーズ物のリアリティー・レベルに必ず付いて回る問題に対して、 あらかじめ「読者の皆さん、その部分のリアリティー・レベルは下げておいてください」と宣言しているわけだ。

ジャンルもののこれから

ディーン・R・クーンツというホラー作家が居る……少なくとも、かつては居た。

1990年代に日本でモダン・ホラー・ブームが起きた時、スティーブン・キングと並び称され、当時の日本で 次々に翻訳出版されていた。

結局、ブームが終わってみれば、アメリカのモダン・ホラー界で、継続的に翻訳出版されているのはキング唯1人で、 他の人たちは、生きているのか死んでいるのかも(少なくとも日本人の私にとっては)分からない状態になって しまっているが……

そのクーンツの著書に「ベストセラー小説の書き方」という1980年代に書かれた本がある。
うろ覚えだが、昔、その本を読んだとき、その中に以下のような一節があって驚いた。

「もはやSF、ミステリー、ホラーなどのジャンル小説は儲からない。ジャンル小説を書くべきではない。 私(クーンツ)もスティーブン・キングも、ジャンル小説は書いていない」

なんと、日本で「モダン・ホラー作家」として紹介されていたクーンツもキングも、(クーンツ自身の定義に従えば) ホラー作家ではないというのだ。

クーンツの「ベストセラー小説の書き方」を読んで随分経つが、今なら、私にも彼の言いたかった事が分かる。
「私(クーンツ)やキングが書いているのは、コアなホラー小説ではない。ホラー風味の総合エンターテイメント小説だ」
と言いたかったのだろう。

考えてみれば、人はSFだからSFを読むわけでもないし、ホラーだからホラーを観るわけでも無い。
大事なのは、その小説が面白いかどうか、感動できるかどうかだ。
ドストエフスキーの書いた小説が、SFなのかホラーなのか推理小説なのかなどという事は、 読者にとっては究極的にはどうでも良いことだ。

だとすれば、これからますますジャンルの境界は溶けて曖昧になり、全てのジャンル小説は「総合エンターテイメント小説」 を目指すだろう。

もちろん人は、日によって「今日は何となくラーメンが食べたい」「今日は寿司が食べたい」と思うように、 「何となく今日はSFが読みたい気分」「今日は本格ミステリーが読みたい気分」と思って書店の棚の間をさ迷うこともある。
また、書店によっては「SFコーナー」「ホラーコーナー」という棚わりにするかもしれないし、アマゾンのカテゴリーから、 「ミステリー」とか「SF」とかの名称が消えることも無いだろう。

しかし、それは便宜的なものに過ぎない。客の利便性を考えた「とりあえずのジャンル分け」に過ぎない。

ミステリーの棚に並んでいるのが「本格的なミステリー」なのか「ミステリー仕立てのヒューマン・ドラマ」 なのかは、読者にとってはどうでも良いことだ。

大事なのは、面白いのか、感動できるのか、だ。

「本格的なSF」「本格的なホラー」そして「本格的なミステリー」は衰退して行き、最終的には一部の好事家の ためのものになるだろう。

そしてジャンル同士の境界が無くなり「総合エンターテイメント小説」という大きな枠組みの中で 「SF風味」「ホラー風味」「ミステリー風味」および、それらのハイブリッドという形に変容していくだろう。

ゾンビ小説でもあり同時に推理小説でもある「屍人荘の殺人」が今年の「このミステリーがすごい」 1位に選ばれたということは、「このミステリーがすごい」というムックの内容も既に変容し始めているということだ。
辞書的な意味はともかく、このタイトルの実質的な意味は「この『総合エンターテイメント小説』がすごい」だ。
この傾向は今後ますます加速するだろう。

その波は、ライトノベルにもいずれ押し寄せる。
コアなライトノベルは減り、逆に他のジャンルがライトノベル的要素を取り入れる形で、 「ライトノベル的要素を持った総合エンターテイメント小説」が増えていく。

おそらく、ライトノベル業界最大手レーベル「電撃文庫」は、10年後には、

  1. 規模を縮小してコアなライトノベル・ファン向けの「本格ライトノベル」文庫になっているか
  2. ライトノベル要素も多少ある、総合エンターテインメント小説レーベルに生まれ変わっているか

の、どちらかになっているはずだ。

最後に「屍人荘の殺人」の感想まとめ

「屍人荘の殺人」の感想にかこつけて、ジャンル小説の今後に関する私の意見を披露してしまった。

最後に、記事のタイトル通り「屍人荘の殺人」の感想を書く。

文章が素晴らしい。

前述した通り、頭の中にスルスルと入っていく読みやすい文章であり、また同時に、端正な文章だ。

ゾンビ現象が発生してから籠城するまでの手際が良い。

肝試しからゾンビ出現→籠城までの手際も良いし、ゾンビ・オタクが解説するシーンまでの手際も良い。

名探偵の萌えキャラ設定と、主人公とのラブコメ描写は、ちょっと困る。

少年時代にはカッコ良いと思っていたシャーロック・ホームズを大人になって読み返して「あざとい」 と感じてしまった私としては、本作の探偵少女の萌えキャラ設定と、彼女と主人公とのラブコメ的会話 (および主人公のラブコメ的モノローグ)には、ちょっと辟易してしまった。

19世紀のライトノベルシャーロック・ホームズ」の末裔としては、それが正解だったのかもしれないが……

推理小説」の部分には全く興味が持てなかった。

この小説を一言で表すとすれば「ゾンビ小説+(本格)推理小説のハイブリッド」という事になるだろう。

ゾンビ小説としての部分に関しては、手際よくスピーディーに展開していて素晴らしいと思った。

しかし「推理小説」の部分には全く興味が持てなかった。

そもそも私は、「犯人VS探偵」あるいは「作者VS読者」の知的ゲームとしての推理小説に何の興味もない。 どれだけ精密なトリックを披露してもらったところで「ああ、そうですか」としか言いようが無い。

本作の3つの殺人の中で、第2の殺人における「エレベーターの重量オーバーを利用したゾンビの排除」 には少しだけ感心したが、それだけだ。

前述した通り、推理小説における「犯人」と「探偵」の機能は、「読者への挑戦」に象徴されるような、 なぞなぞ知的ゲームの提供ではない。

「犯人」の物語上の機能は、悪い魔法使いとして世界に邪悪な魔法をかけ、登場人物たちを異次元空間に閉じ込める事であり、
「探偵」の物語上の機能は、正義の騎士として「天才的な推理力」という伝家の宝刀で邪悪な異空間を切り裂き、 犯人によって裏返されてしまった世界の秩序を再度裏返して元に戻し、囚われていた人々を解放する事だ。

別の言い方をすれば、ある共同体の中で徐々に蓄積されていた「穢れ」がついに限界点に達した時、 「連続殺人事件」という名の「祭り」が始まるというのが推理小説の本質だ。

そして、祭りの陰の主役である鬼(=犯人)は、祭りがクライマックスに達した直後、共同体の外からやって来た 異人(まれびと)で神の使いでもある英雄(=名探偵)によって裁きを受け、鬼の面を剥がされ素顔を晒し、 最後に自らが生贄となって祭りを終わらせ、共同体に再び秩序と安定が戻ってくる……というのが推理小説の本質だ。

ところが本作において人々を「異世界」に閉じ込めたのは「ゾンビ」であり、犯人は孤立した 空間の中で淡々と3つの殺人を犯し、探偵役の少女は、それを淡々と暴いただけだ。

共同体(=大学映画研究会)に蓄積されていた「穢れ」は、その内容の深刻さはともかく、描写は淡白で 事務的だ。だから読者は、犯人に対してプラス方向にもマイナス方向にも感情移入できず、 「鬼」としての迫力を感じることができない。
この犯人には、一時的に世界を変質させ、人々を悪しき空間の虜にするだけの「呪力」がない。 怨念が足りない。いや……あるのかもしれないが、この小説からは伝わってこない。
犯人の代わりに世界を異空間にしているのは、周囲をうろつくゾンビどもだ。

最後に犯人が自決しても、別にそれが「世界の秩序の回復」を意味するわけでもない。 だからカタルシスが無い。
そもそもこの犯人は、世界の秩序を変容させこの世ならぬ異空間を作り上げるだけの強い怨念や執念を最初から持っていない。
ただ、ゾンビが作り上げてくれた異空間に乗っかり、それを利用しただけだ。
単に、救助のヘリが来ました、僕たちは助かりました、というだけのエンディングだ。

世界はゾンビによって変容し、自衛隊のヘリによって回復した……って、それじゃあ犯人も探偵も、犯人が犯した3つ(実際は2つ)の殺人も、 物語への貢献度があまりに低すぎる。

「物理的な隔離」は、「異空間の完成」ではない。

山荘に泊まったら嵐が来て閉じ込められたり、絶海の孤島に行ったら台風が来て帰れなくなったり、あるいはアルプスの山の中で豪華列車が立ち往生したり……
そういう、アガサ・クリスティ時代の推理小説にしばしば見られる「外の世界からの隔離」は、あくまで舞台設定であり初期設定だ。
せいぜい下地作り……やっと基礎工事が終わった程度のものだ。

ゾンビに基礎工事をさせて、そこで満足してはいけない。

その基礎工事の上に、どれほど強い呪いの力で、どれほど禍々しい異空間を建築してみせるか……(妙な言い方だが)それこそが、犯人の「腕の見せ所」というものだろう。

最後に一言。

なんだかんだ言って、一気読みしたのは事実です。

ネットフリックス「ストレンジャー・シングス」第1シーズン、第2シーズン視聴完了。

面白かった。
噂に違わぬ「睡眠時間泥棒」だったわ。

感想は後ほどジックリと書きたいと思うが……

とりあえず一言。

「イレブンかわいい」

歳のせいかなぁ……最近、めっきり涙腺が緩くなってしまって……
この手の「報われない運命に負けず、けなげに頑張る少女」の物語は、その緩んだ涙腺のツボを、ホント、刺激して来るんだよ。

しかも第1シーズンでは、それこそ男か女か分からない丸刈りの「子ども」だったのに、1年経って 第2シーズンでは早くも女の艶っぽさが出始めてるし。

もうイレブンの顔のアップとか止めてくんないかな。心臓がドキドキして物語に集中できないんだけど。

「赤ちゃんみたいなプリプリツヤツヤの頰っぺに、運命に立ち向かう潤んだ眼差し」

……って……もうそれ自体が最強兵器。

しかし

ネットフリックスって、1話終わってエンドクレジットが流れた直後に自動的に次の話が再生されるんだけど、 油断してたら第2シーズン最終回終了後に、なんか出演者の座談会みたいなのが流れ出してさぁ……

そしたら、その座談会で話してるイレブン役のミリー・ボビー・ブラウンが、ガキの癖して、 いっちょまえに女優風を吹かしてる、こまっしゃくれた嫌な子どもだったんだよ。

8秒で画面閉じたわ。

ミリー・ボビー・ブラウンよ……これだけは覚えておけ。

お前がどんなに嫌な性格のガキンチョだったとしても、「ストレンジャー・シングス」でのお前の演技は最高だ。

今日のところは以上。

映画「スターウォーズ 最後のジェダイ」の感想

映画「スターウォーズ 最後のジェダイ」を地元のシネコンで見てきた。

ネタバレ

この記事にはネタバレが含まれています。注意してください。

珍しく初日初回上映で見てきた。

公開初日に見に行くという習慣は私には無いが、色々な都合から今回は日本公開初日の、しかも初回上映 を見てきた。

……と言っても、さすがに深夜のカウントダウンではない。15日の朝一番に、地元のシネコンの スクリーン1(約400席)で上映されていた「2D字幕版」を見てきた。

初日に観たのは「ガメラ 大怪獣空中決戦」以来か。

確か、日比谷で舞台挨拶があって、映画が終わって劇場から出てきたら劇場前の歩道で監督の金子修介特技監督樋口真嗣と脚本の伊藤和典が三人で日向ぼっこしながらダベっていたんだよな。

なんか、今にして思うと牧歌的な光景だったな。

それは、さておき……

スターウォーズ 最後のジェダイ」の感想だ。

良かった点

冒頭シーンで、エックス・ウィングがドリフトっぽくターンするところは、まあまあだった。

ド定番メカ演出ばかりが目立つスターウォーズ・シリーズ…… よく言えば第1作目の伝統を守っている、悪く言えば進歩のない宇宙メカ演出の続くスターウォーズ・ シリーズにあって、あのエックス・ウィングがドリフト気味に反転する機動は、まあまあ新鮮味があった。

ルーク爺さんがミルクを飲むところ。

ルーク爺さんが首長竜みたいなクリーチャーのおっぱいから緑色のミルクを搾乳して、それをその場で ゴクゴク飲むところは、さすがに思わず笑ってしまった。

レイとカイロ・レンが、ニュータイプっぽくテレパシーで語り合うところが良かった。

……いや、もちろんガンダムの方が後発だし、あの作品がスターウォーズの圧倒的な影響の下に生まれているのは 明白だ。
ニュータイプという設定も、当然スターウォーズジェダイとかフォースに影響されたものだ。

それはそれとして、とにかく宇宙空間を何光年も隔てて、レイがカイロ・レンを闇落ちしないように 説得する感じは、結構好きだ。

ああいう「宇宙空間を隔てて心を通わせ合う二人」みたいなシーンはロマンがあって好きだ。 しかも甘くなり過ぎたり、説教臭くなり過ぎたりしないギリギリのラインで寸止めする演出は、清潔感が あって良かった。

レイ役のデイジー・リドリーが良かった。

前作の「フォースの覚醒」でも思ったのだが、このデイジー・リドリーという人は、 誠実な演技をする役者だなと、つくづく思った。

前述した、ルークがボケ爺さんっぽく怪獣の搾乳したてホヤホヤミルクを飲むシーンで、レイがそれを観て 視線のやり場に困ったような半笑いの顔をするのだが、その感じが何とも清涼感があって良い。

この女優の演技を言葉で表すとすれば「誠実さ」「人柄の良さ」が滲み出ている演技、と言ったところか。

レイのコスチュームは何故か二の腕だけが露出したデザインなのだが、そのムッチリ・プリプリ感も、 大好きだ。

他作品の話になるが、オチを知っている推理小説の映画化の今さらリメイクということで全く観る気の起きなかった 「オリエント急行殺人事件」も、このデイジー・リドリーを見るために観ても良いかなと思った。

提督代理が敵の旗艦に特攻を仕掛けるシーンが良かった。

脱出船が基地まで逃げる時間を稼ぐため、一人母船に残った提督代理が船を回頭させて ショート・ワープで敵の旗艦に特攻を仕掛ける。
その瞬間、轟音に満ちていた宇宙空間が一瞬、静寂に包まれる演出は良かった。
敵艦の右舷を切り裂く感じも非常に良かった。

あのメカ描写は素晴らしい。

特攻前の、レイア姫と提督代理とのババア同士の友情描写も微笑ましい。 このバアさん、どっかで観たことあるな。

フィンが敵の大砲に特攻を仕掛けようとする直前、ローズがそれを阻止する所が良かった。

特攻をしようとするフィンの機体に、逆にローズが体当たりをして止めさせる所が良かった。

ハリウッド映画を観ていると、案外「自己犠牲によって敵の進行を阻止し、仲間を助ける英雄」 の描写をよく目にする。
いわゆる「俺がここで時間を稼ぐ。お前たちは先に行け」ってやつだ。 そのたびに私は思う。

「何だかんだ言って、アメリカ人も特攻精神とか好きじゃん」

マーケティング重視のハリウッドで、この手の「戦争や危機的状況での自己犠牲」シーンをしばしば目にする という事は、ヨーロッパ人もアフリカ人もアジア人も……要するに世界中の人々みんな、 実はこの手の自己犠牲シーンが(少なくとも潜在的には)好きなのかもしれない。

先に述べた通り、実際、本作にも提督代理が単艦特攻を仕掛けるシーンがある。

確かに、ドラマ演出と言う観点で見た場合、感情を動かされる一つのパターンである事は間違いない。

しかし同時に、我々日本人としては「特攻=自己犠牲によって敵を倒し仲間を救う」という発想に対して 「本当にそれが正しい道なのか」と思ってしまうのもまた事実だ。

本作のラスト近く、敵の大砲に特攻を仕掛けて仲間を助けようとしたフィンに、 ローズが体当たりをかましてそれを阻止するという描写は、なかなか良かった。

もちろん大局的な視点に立てば、必ずしもローズの行いが正しいとも言えない。
そういう割り切れなさこそが物語の醍醐味だろう。

皇帝の脇を固めるSP忍者のレーザー七節棍みたいなのがカッコいい。

ただし、アメリカ映画あるいは香港映画的なアクロバティックな剣(あるいは刀の)アクションを、 私はどうしても好きになれない。
闘いの前に体の左右で剣をくるくる回す、あの「決めポーズ」は何とかならんのか。

悪かった点……というより私自身の個人的な気持ち

すまん……自分に嘘は吐けないから、正直に言うわ……
スターウォーズ、もう飽きた」

大事な事だからもう一回言うわ。
スターウォーズ、もう飽きた」

先日、第1作目を久しぶりに観た

先日、スターウォーズ第1作目……エピソード・ナンバーでいう所の「エピソード4」を観た。20年ぶりだろうか。

自分で、自分自身に驚いた。

子供時代あれほどワクワクして観たはずのスターウォーズを、冷めた目で観てしまっている自分がいた。

確かに、出演者たちが楽しんで演技をしている感じは画面から良く伝わってきた。
港町の酒場でハン・ソロが初登場するシーンでの、ハリソン・フォードのチンピラ的ニヤニヤ笑いなんか 最高だと思った。

しかしそれ以外の部分では、特撮にしろ、ストーリーにしろ、1977年のスターウォーズは、 2017年の私の胸をもはや熱くさせてはくれなかった。

1970年代において、その特撮シーンの演出が世界の水準から突出していたのは間違いないし、 当時すでに成熟期に入り「複雑で陰鬱」なストーリーになりがちだった1970年代のアメリカ・エンターテイメント界で、 あえてシンプルで王道的なスペース・オペラを大真面目にやるという逆転の発想の素晴らしさも分かる。

スターウォーズ第1作が1970年代において歴史的な偉業を達成した偉大な作品であった事は間違いない。
その「歴史的価値」に関しては、疑う余地が無い。

しかし一方で……1977年のスターウォーズ第1作目は、本当に21世紀の現在も当時と同じ輝きを保っているのだろうか?

例えば1974年公開の「悪魔のいけにえ」という映画は、同時代の人々だけでなく、時代を越え2017年の現代日本に生きる私の胸を強く打った。
残念ながら、先日「スターウォーズ第1作」を再視聴したときには、私は「悪魔のいけにえ」を観たときのような感動を得ることが出来なかった。

少年時代の私を圧倒しワクワクドキドキさせた「スターウォーズの魔法」は、2017年の現在、 (少なくとも私個人に関しては)どうやら解けてしまっていたようだ。

スターウォーズの魔法が解けてしまった目で、今作「最後のジェダイ」をみると

どうにもマンネリに見えてしまった。 それは前作「フォースの覚醒」のを見終えた時にも、実は密かに思っていた事だった。

例えば、念力を発するとき、レイは必ず手を前にグワッと突き出す。

もちろん、それは、第1作でダース・ベーダーがそうしていたからだ。

しかし、レイにはレイなりのフォースの発動の仕方があっても良かったのではないか。

そういう所作ふるまいに始まり、 タイファイターとエックスウィングの「巨大戦艦の表面」 での、レーザーをピュンピュン言わせながらの撃ち合いにしろ、 「敵の巨大兵器の唯一の弱点を攻撃する事で一発逆転を狙う」というストーリー上の動機づけにしろ、 一事が万事、第1作から連綿と受け継がれてきた「伝統芸能」の集積の末端でしかないように思ってしまった。

最後に

先日、中学生になった甥っ子が訪ねてきた。

話の流れでスターウォーズの話題が出て、その中学生の甥っ子はシリーズ第1作目「エピソード4」を 楽しんで観たと言っていた。

だから、スターウォーズ第1作目には、ひょっとしたら時代を越えて少年たちの胸を打つ普遍的な何かが 宿っているのかもしれない。

この記事を書く前に「スターウォーズ 最後のジェダイ」のブログ記事を検索してみたが、どのブログも ほぼ絶賛の嵐といった感じだった。

運悪く「スターウォーズの魔法」が解けてしまったのは世界で私一人だけなのかもしれない。

まじか……「ブレードランナー2049」の背景は、ミニチュアだったのか……

……てっきりフルCGだと思っていたわ。

ニュージーランドのウェタ社とかいう会社が作ったらしい。

ウェタ社ホームページ
http://wetaworkshop.com

最近関わった作品
http://wetaworkshop.com/projects/

ブレードランナー2049のページ
http://wetaworkshop.com/projects/blade-runner-2049/

ミニチュア特撮は全てCGに置き換わってしまったというのは、先入観だった

まだまだ、ミニチュア特撮にも費用対効果が見込める部分はあるということか。

ひょっとしたら、大予算の大作映画ほど「実際に『モノ』として美術を作り込む」という贅沢が許される のかもしれない。

つまり、金をかけて細かいところまで作り込めば作り込むほど、CG制作もミニチュア制作なみに人件費が 増えていき、両者の費用対効果の差が無くなっていくということなのかもしれない。

ハリウッドはロサンゼルスにあるという先入観。

映画というものは「芸術作品」としての側面と同時に「商品」あるいは「工業製品」としての側面も ある。

スマホや自動車が世界中の部品をかき集めて世界中の工場で作られているように、ハリウッドを出資元とした 映画のサプライチェーンが世界中に張り巡らされていたとしても不思議じゃない。

既に大部分デジタル化されている現代の映画、その部品たる個々の特撮シーンを、インターネットと 暗号化通信を使ってハリウッドのメジャー配給会社のサーバーに納品という流通体制は充分に可能だろう。

つまり、何が言いたいのかというと

ニュージーランドの特撮工房が未来都市のミニチュアや小道具をハリウッドに納品できるなら、 日本の特撮工房にだって可能だろうという事だ。