ネタバレ! 小説と映画の感想‐青葉台旭

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映画「白痴」を観た。

映画「白痴」を観た。

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脚本 久板栄二郎黒澤明
監督 黒澤明
出演 森雅之 他

ネタバレ注意。

この記事には、
ドストエフスキーの小説「白痴」と、
黒澤明監督の映画「白痴」のネタバレが含まれます。

原作の登場人物と演じた俳優の対応表

ムイシュキン公爵 - 森雅之
ナスターシャ - 原節子
アグラーヤ - 久我美子
ロゴージン - 三船敏郎
リザヴェータ夫人 - 東山千栄子
エバンチン将軍 - 志村喬
ガヴリーラ - 千秋実

いつもの黒澤映画どおり、七人の侍から三船敏郎志村喬千秋実の三人が異世界転生。(こっちの方が先だが)

ひとこと感想

松竹映画制作ということは、東宝争議で黒澤明が浪人生活をしていた頃の作品か。

全体の感想としては、小説「白痴」の単なるダイジェスト版にしか見えなかった。
物語運びに特筆すべき所は無い。

それにしてもダイジェストし過ぎてる。
原作を知っている人にとってはスカスカな内容にしか見えない。
原作を知らない人にとっては、話が飛び過ぎるしキャラクターの掘り下げが不充分だから、いったい何が起きているのか分からないだろう。

……と、思って wikipedia を読んでみたら、本来4時間25分あった映画を、配給の松竹の意向で2時間46分にまで短縮されてしまったらしい。

大げさに言うと半分にされている。さすがにそこまで切られたら、そりゃダイジェストにしかならないよな。

やっぱりロシアの小説を映画化するなら、往年のロシア・東欧映画みたいに半日がかり上映するような大作にしないと。

4時間25分のディレクターズカット・バージョンは現在この世に存在しないらしい。残念。

と、いきなり苦言を呈してしまったが、じゃあ、この映画は見るべきものが無いかと言えば、さにあらず。

ものすごい見所が、この映画にはある。

原節子

すごい……久しぶりに映画を見て鳥肌が立った。

もちろん、原節子と言えば往年の日本映画を代表する大女優なわけだが、まさか、ここまで凄い女優だったとは、迂闊にも思っていなかった。

登場シーンからして、凄い。
全身黒ずくめのゾロッとしたロングコートで玄関に表れた時点で、只ならぬ妖気を発している。

次のシーンで、もう完全にノックアウトされてしまった。
椅子に座った原節子のアップが画面中央にあり、その後ろで左右に分かれて三船敏郎千秋実が、彼女と結婚する権利の売り買い(値段交渉)を始めるシーンだ。
挑戦的で高飛車だったナスターシャ役の原節子の顔が、徐々に悲しみへ、そして絶望へと変わる。
そして「これで私も40万円も値段が上がったわけね」と言って哄笑する。狂ったように嘲笑う。
しかし、森雅之に「あなたは、そんな人じゃない」と言われ、今度は泣き笑い顔を浮かべる。

この初登場シーンだけで「世界に対する憎悪、嘲笑、悲しみ、絶望、純情、狂気」という、ナスターシャが幾重にも背負い続ける内面を、ただ表情の微妙な変化だけで一瞬で表す。

「世界の全てを嘲(あざけ)る下品な大笑い」から「涙を浮かべた微笑み」の振れ幅が凄い。

それからも、とにかく原節子の存在感が凄い。
真っ黒なコートを着て、真っ白な雪の中にスッと立っているその立ち姿だけで、もう目が離せない。
月並みな表現で申し訳ないが、まさに『魔女であると同時に聖女』といった佇まいだ。

ナスターシャとアグラーヤの対決

これは原作でも「アグラーヤとムイシュキンの婚約が破棄され、今度はナスターシャとムイシュキンが婚約する」という最重要な転換点で、事実上のクライマックスだ。

私は、このシーンを原作で読んだとき興奮してページをめくる手が止まらなかった。(Kindleだったが)

そして、この映画で同じシーンを見て、比喩でも何でもなく文字どおり全身に鳥肌が立った。

原節子に、その演技のあまりの凄まじさに圧倒され釘付けになった。

ああ、このシーンだけでも、この映画を観て良かった。

相手役であるアグラーヤの久我美子の演技も素晴らしい。

良家のお嬢様らしく清純ではあるが世間知らずで頭でっかちで我がままという性格を良く体現している。

最初、原節子久我美子を値踏みするようにジッと見つめるが、久我美子原節子と目を合わせられない。 ようやく原節子を見返しても、久我美子の瞳は常に右に左に小さく揺れていて心許ない。
全く視線にブレのない原節子とは対照的だ。

家柄も良く、既にムイシュキンと婚約しているという圧倒的に有利な立場でありながら、実際の対決ではアグラーヤはナスターシャに逆に圧倒される。

幼くして孤児になり十代で後見人の男に犯され続けて愛人になる以外に無かったナスターシャの方が女としての格が圧倒的に上である……そう思い知らされ、尻尾を巻いて逃げるお嬢様という難しいキャラクターを、久我美子は良く演じている。

男たち

女優たちの火花バチバチな感じに比べると、本作の男たちは総じて大人しい。

三船敏郎は、どんな映画に出演しても『ザ・三船敏郎』以外の何者でもないが、三船敏郎はそれで良い。それが大スターというものだ。とにかく画面の中に三船敏郎がいるだけで観客としては充分に満足できる。
……が、このロゴージンというキャラクターは原作でも主要男女4キャラクターの中では一番『受け身』な役割で、そういう意味では元々見せ場は少ない。

そして、主人公ムイシュキン公爵役の森雅之についてだが、個人的には私のイメージするムイシュキンとは残念ながらキャラクターの肉付けが違っていた。

これは森雅之がどうこうというより、黒澤明の演出プランに依るものだろう。その黒澤プランに、私は乗れなかった。

幼稚園児のように「ボクはね……」と常に舌っ足らずで話すのだが、正直、原作が目指していた『ムイシュキン=無条件に善良な人』って、そういう意味なのかなぁ、と首を傾(かし)げてしまった。

『無条件に善良な人』という非現実的な存在を、生身の肉体をもって演じるというのは相当にハードルが高いという事だろうか。

世界中の女優は、これを観ろ

とにかく原節子が異常。素晴らしく異常。

全世界の女優の必修科目。

世のお父さん達に、ぜひお願いしたい。
もし娘さんが「女優になりたい」と言ったら、この「白痴」を見せて欲しい。
そして「この映画の原節子を超える自信があるなら、やってみろ」と言って欲しい。

日本映画全盛期の女優たちの凄さをまざまざと見せつけられた一品だった。

現代日本に転生したスュン。

「ハーレム禁止の最強剣士!」のヒロイン、スュンが現代日本の女子高校生に転生した姿です。

思い入れのあるキャラにこそ、過酷な運命を与える

今回は、小説の作者は何を考えているのかというメタ・レベルの話である。
作品の直接の感想ではない。

最近、ドストエフスキーを読んでいる。
コロナ以降、どういう訳か現代の作品よりも所謂(いわゆる)名作に興味が移ってしまった。

「二重人格者」「罪と罰」「悪霊」「未成年」「カラマーゾフの兄弟」を読み終え、今は「白痴」を読んでる。

二十代の頃まとめて読んで以来だから、もうウン十年ぶりか。
若い頃に読んだ時も「すげぇ」と思ったが、この年になってもう一度読んで、やっぱり感動した。

そして、「どうしてドストエフスキーは、登場人物たちに対してこんなにも過酷な運命を与えるのか」という疑問を持った。

「よくもまあ、ここまで自分のキャラを酷く扱えるな」と思った。

そして、ふと気づいた。
思い入れが無いから、キャラを酷い目に会わせるんじゃないんだ。キャラに思い入れがあるからこそ、酷い目に会わせているんだ。

ガンダムの「ジオン」とは、「シオン」の事だった

今さらだが、機動戦士ガンダムに出て来る「ジオン」が、ユダヤ人のイスラエル回帰運動を表す「シオン」の捩(もじ)りである事に気づいた。

確証があるわけではないし、またアルファベット表記だと「Zeon」と「Zion」で一文字違いなのだが、富野由悠季監督がユダヤ民族運動の象徴である「シオン」に関連付けて「ジオン」と名付けたというのは、充分に有りうる話だと思う。

宇宙移民と地球人

宇宙移民の末裔である「スペースノイド」は、宇宙に捨てられた賤(いや)しき民であるとして地球連邦から差別を受けているという基本設定が、ガンダムの世界観にはある。

そのスペースノイドたちが、「宇宙に住む者の中にこそ、進化した新たな人類が出現する」というニュータイプ論を得て「我々スペースノイドこそ優れた民族だ」という極端な民族主義に走った結果、悲惨な戦争に突入していく悲劇が語られる。

つまりここで語られるのは、差別され続けた民族が、それゆえに極端な民族主義に突っ走る皮肉であり、『賎民』であるがゆえに自らを『選民』と思い込むという皮肉だ。

そして、長いあいだ地球人から差別され続けてきた宇宙の人々は、広場に集まり拳(こぶし)を天に突き上げて『ジーク・ジオン』(ジオンに勝利を!)と叫ぶ。
もちろんこれはナチスのスローガン『ジーク・ハイル』がモデルであるが、前述の通り『ジオン』がユダヤ民族主義を表す『シオン』から来ているとすれば、彼らは、ナチス風の軍服に身を包んで『ユダヤに勝利を!』と叫んでいる事になる。

ジオン=シオンである事に気づいたとき、「いやはや、これは皮肉の何重奏だよ」と私は思った。

抑圧されてきた側が、あれよあれよという間に今度は抑圧する側にまわり、善意と救済を意図していたはずのニュータイプ論が、人々を自滅へ走らせてしまう。

知っての通り、物語の主人公アムロ地球連邦軍の側に属する。
長いあいだ差別を受けてきたスペースノイド側ではなく、豊富な資源と圧倒的な国力を持ちスペースノイドたちを差別し続けてきた側である地球連邦側の、それも権力の中枢ではなく『体制内部の厄介者』的な視点で物語が進む。
それにより「長い被差別の歴史の果てに自ら民族主義に突き進む人々」「高邁な理想を掲げて大量殺戮を行う人々」に対し、あるていど客観視できる構造になっている。

人種に関して

人種に関して述べると、ガンダム・シリーズ全体で見れば、地球連邦・ジオン双方に様々な人種が居ると分かる。
恐らく宇宙世紀時代には、連邦・ジオンそれぞれの内部では人種間の融和が進んでいると思われる。

一説によると連邦軍総司令レビル将軍のフルネームは「ヨハン・イブラヒム・レビル」であるらしい。(ただし後付け設定の可能性あり)
ユダヤキリスト教の名とイスラム教の名の両方を持つ人間が軍の総司令である事は、地球連邦内部で人種間の融和が進んでいる証のようにも思われる。

しかし集団の内部で人種間の融和が進んでいたとしても、それ即(すなわ)ち一切の差別が無くなっている事を意味しない。
仮に集団内部で平等が実現されていたとしても、彼らが集団外部までをも差別しないという保証は無い。

例えばアメリカ軍の内部で人種間の差別が無かったとしても、彼らが(外部の存在である)ベトナム人を差別しなかったとは言い切れない。

東京に聖路加病院(英語名セント・ルーク病院)という施設がある。
第二次世界大戦中、東京大空襲に際して、アメリカ軍はこの聖路加病院周辺にだけは爆弾を落とさなかった。
この判断には、
「敵国人であろうとも、人種民族に関係なく、キリスト教徒は我が同胞である」という平等主義と、「異教徒なら民間人であろうと大量殺戮して構わない」という差別主義が奇妙に混在している。