ネタバレ! 小説と映画の感想‐青葉台旭

小説と映画のネタバレ感想が書いてあります。メインのブログはこちら http://aobadai-akira.hatenablog.com/

日記のような小説、小説のような日記

日記のような小説、小説のような日記

12月5日(土)

久しぶりに夢を見た。

祭の夜だった。
色とりどりの電飾が町中に溢れ、光っていた。
ひとりベンチに座って泣いている若い女がいた。
良く見ると、私が若い頃に勤めていた会社の後輩だった。
私は彼女の隣に座り「どうして泣いているの?」と尋ねた。
彼女は首を振るばかりで理由を言わなかった。
祭の夜だというのに、彼女は一人で、私も一人だった。
私は「ウチに来る?」と彼女に言った。
彼女が頷いた。
私は「ウチに来る前に、銭湯に行って来たら?」と言った。
彼女は立ち上がって銭湯の建物に入った。
彼女が風呂に入っているあいだ、手持ち無沙汰だったので、祭に浮かれている町をブラブラ歩いた。
小さな路地の角を曲がろうとして、誰かにぶつかった。
よく見ると、相手は女優の能年玲奈(のん)だった。
私は彼女に「ウチに来る?」と言った。
のんが頷いた。
私は「ウチに来る前に、銭湯に行って来たら?」と言った。
のんは頷いて銭湯の方へ歩いていった。
私は、また町をブラブラと歩いた。
頃合いだろうと思い、銭湯の前に戻った。
風呂から上がった会社の後輩と、のんと、知り合いの年配の女性が三人並んでベンチに座っていた。
三人とも恐ろしい目で私を睨(にら)んでいた。
年配の女性が、私に向かって「あんたが悪い、あんたが悪い」と繰り返し言った。
私は「やっぱり無理だったか……欲張り過ぎた」と思った。
なんとなく、少し前からこの結末を予想していた。

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体重、89.6Kg

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2030年代の半ばに、内燃機関だけで動く自動車の新車販売が禁止されるらしい。

ハイブリッド車の販売は継続されるようだが、あくまで猶予しているに過ぎないだろう。
いずれ全ての自動車が完全に電化され、日本からガソリンスタンドが消える。

このままでは地球上のあらゆる資源が枯渇する日が来る。それを思えば、まあ妥当な判断だとは思う。

ただ「アクセル・ペダルを踏むとシリンダーの中で燃料が爆発し、クランクがその爆発力を回転運動に変え、マニュアル・トランスミッションを介してタイヤに動力が伝わる」という、この20世紀に隆盛を極めた乗り物が、あと15年かそこらで買えなくなると思うと、ちょっと寂しい気分になる。

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歳を取ったら、いかにもスポーツカーでございますと言った戦闘的な形の車に食指が伸びなくなった。

「見た目は、有りふれた実用コンパクトカー、中身はスポーツカー」といった車に乗りたい。

古くさい表現を使えば「羊の皮を被った狼」が欲しい。

ボディ形状は、セダン・タイプじゃなくて小型ハッチバック・タイプが良い。

ゴルフやシビックなどのCセグメントハッチバックは、もはや大きくなり過ぎた。

日本の道路環境で乗るなら、Bセグメント・ベースがちょうど良い。

400馬力、500馬力などという大出力も必要ない。むしろ日本の道路環境では邪魔とすら言える。
大馬力では「エンジンの美味しい所を使い切る」楽しさを公道で味わえない。
270から300馬力程度がちょうど良い。

重量は1200Kg台くらいか。

小型の実用ハッチバック・ベースとなると、必然的に前輪駆動ベースとなるが、やはり前後可変駆動力配分の4輪駆動が欲しい。
前後の駆動力配分を後輪寄りにして擬似FR的な走りを楽しみたい。

「ラリーのホモロゲーションを取得し、そして勝つために設計され生産された、生まれながらの戦闘マシン」と言ったドラマチックな物語があれば、なお良い。

今どき、クラッチを踏んでギヤを選んでヒール・アンド・トゥで回転を合わせるマニュアル・ギアボックス。

……で、そんな車、この世にあるの?

……あるんですねぇ。これが。

トヨタ・GRヤリス。

ドンピシャ。

世界の自動車業界が電気化される運命にある現在、こういうタイプの車が新車で販売されるのはこれが最後になると思う。

スカイラインGT-R、デルタ・HF・インテグラーレ、ランサー・エボリューション、インプレッサWRX……
20世紀、グループA時代に作られていた「実用車ベースの戦闘マシン」「羊の皮を被った狼」の系譜に連なる最後の一台になるだろう。

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ある映画監督が「若いうちは何にでも興味を持って手を出すのも良いが、歳を取ったら、本当に興味のあるものだけを残して、あとは切り捨てるべきだ」と言っていた。

歳を取ると「何にでも感動できる」という状態ではなくなる。

本当に感動できるもの、ジャンルの数が限りられてくる。

私の場合、「本を読む」「良い景色に出会う」「旨いものを食べる」そして「文章を書く」だ。

それ以外は、すべて余興。(もちろん人生の彩りとしての余興も、それはそれで大事だ)

長い文章を書いた日は、気分が良い。

かつて若いころスポーツに興じて1日を終えた時のような心地よい疲労感と充足感がある。(今の私には自らの肉体を使ってスポーツをする事への興味は無い)

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文章を書くのは楽しいが、その内容を考えるのは中々大変だ。

その点、日記は良い。

何も考えず、その日あった事、その日思った事をつらつら書いていけば良い。

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「詩を書く才能のない者が短編小説を書き、短編小説を書く才能の無い者が長編小説を書く」と、かつて誰かが言った。

つまり文学者としては、詩人が一流、短編小説家が二流、長編小説家が三流という事か。

私に詩人としての才能が無いのは分かっている。それは間違いない。

短編小説家としての才能も、それほど多くは与えられなかっただろうと思う(まぐれ当たりで良い作品を書く可能性くらいはあるだろう)

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朝食
コーヒー、砂糖5g、お粥を少々。

お粥の作り方。
昨日の夜に鶏肉を茹でた、その残り湯を使う。
鶏肉を全部食べた後、その残り湯に出汁パックを入れて一回沸騰させ煮出す。
出汁パックを入れたまま常温まで冷まし、それから鍋ごと冷蔵庫に入れて一晩寝かす。
今日の朝、軽く研いだ米を鍋に入れて火にかけ、お粥を作る。
米が充分に柔らかくなったら器に装って、塩・胡椒で味付けをして、最後に粉チーズをかけてスプーンで食べる。

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オープンカーとスポーツカーは別の概念である。
良いオープンカー必ずしも良いスポーツカーではないし、良いスポーツカー必ずしも良いオープンカーでもない。
もちろん良いオープンカーで、かつ良いスポーツカーという車も(可能性としては)あるだろう。

良いオープンカーの条件。
フロントガラスの角度が立っていて、かつドライバーの顔との距離が離れている(これが一番大事)
コンパクトである。
必須条件ではないが、4人以上乗車できれば、なお良い。
ハンドリングは必ずしも俊敏でなくて良い。
乗り心地は、ある程度快適なのが良い。
スタイリングは良いに越したことはないが、あまり気にしない。
必ずしもマニュアル・トランスミッションでなくても良い。
山道を軽快に走るというよりは、海岸沿いの田舎道をチンタラ流したい。
山に行くなら、雄大な景色を堪能しつつチンタラ流したい。

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四季のある町に住みたい。

一年中温暖な町というのも、それはそれで快適なのだろうが、飽きてしまうような気がする。

しかし、寒暖の差があまりに激しすぎるのも困る。

現在の東京あるいは神奈川の気候は私にとってちょうど良い。(夏は蒸し暑いから、自宅に冷房のある事が大前提だが)

(2020年)

日記のような小説、小説のような日記

日記のような小説、小説のような日記

12月4日(金)

久しぶりの日記。
前回が11月26日だから、1週間以上の間が空いてしまった。
今日から再び毎日つけようと思う。
どんな些細な事でも良いから書いていく。

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最近知ったこと。
田舎町に住んで真っ赤なスポーツカーに乗っていると、周囲の人々から「ちょっと変わったやつ」あるいは「粋がっているやつ」と思われてしまう。

むかし、山口百恵が「真っ赤なポルシェ〜」と歌っていた。
やはり「真っ赤なスポーツカーに乗る」という事が、「粋がっている・強がっている」象徴として歌われていた。

しかし、「あいつ、真っ赤なスポーツカーに乗ってるんだぜ」と陰口を言う人たちも、スポーツカーに乗っているというだけで人格すべてを否定するほど狭隘ではない。
どんな派手な車に乗っていようと性格が良ければ田舎の社会でも認められる。
本人の居ない所で、ちょっと陰口を叩かれる以上の実害は無い。

狭い社会なので、色や形が目立つ車に乗っていると、必要以上に目立ってしまうというだけだ。

ただ、人間関係で失敗したり何か問題を起こした場合、
「あんな派手な車に乗ってチャラチャラしてるから、そんな事になるんだ」
と、地味な車に乗っている人の2倍批判される可能性は有るかもしれない。

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先日、江ノ島に行った。
「湘南の海辺」に行ったのは、初めてかも知れない。

鎌倉には行った事がある。
しかしその時は神社仏閣を巡っただけで海岸までは足を延ばさなかった。

私が江ノ島に行った日は良く晴れてポカポカ陽気で暖かかった。
橋で結ばれた島の対岸には長い砂浜があって、波が無く穏やかで、ウィンド・サーフィンに興じる人が居たり、港にヨットが並んでいたり、ヤシの木が生えていたりして、12月ながら南国情緒を感じた。

「なるほど、これが名高い湘南海岸か」と思ったが、その一方で物足りなさを感じた。

磯の香りが無い。

例えば、海辺の田舎町までドライブして、どこか適当な場所に駐車してドアを開け自動車を降りると、普通ならその瞬間にツンッと磯の匂いが鼻をつく。

ところが、どういう訳か、湘南の海岸にはあの匂いが無い。

どうしてだろう?
波の無い穏やかな海だからだろうか? それとも『磯の香り』というくらいだから、あれは岩場特有の匂いで、湘南海岸のような砂浜の続く海岸には無いのだろうか?

江ノ島に行った後、湘南電車に乗って藤沢に行き、そこから小田急に乗って二つ三つ内陸の駅で降り、住宅地を散策した。
頭上をプロペラの対潜哨戒機が通り過ぎていく。
以前、別の町で見上げたときは、飛行機の高度が高くて、機体も小さく見えたし、エンジン音も遠くに聞こえた。プロペラ機が空をゆっくり横切る姿は、牧歌的だった。
しかし、今回は印象が違った。
アメリカ空軍厚木基地が近いためだろうか、飛行高度が低くエンジン音も大きく聞こえて、多少の威圧感を覚えた。
ああ、なるほど、飛行場の近くに住むというのは、こういう事なのだなと思った。

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最近、デジタル・カメラに関して気づいた事。
田舎に住むなら、なるべく高画質のカメラを買え。
都会に住むなら、なるべく小さなカメラを買え。

大自然を撮影するなら、高画質であればあるほど良い。
大自然の写真は『絵画』的だ。

都会を撮影するなら、持ち運びしやすく、目立たない方が良い。
都会の写真は、スナップショットだ。
二度と来ない瞬間を切り取るものだ。
それには機動力が必要だ。

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先日「アメリカの大衆文化は衰退しているのではないか」と書いた。
アメリカの文化が衰退しているのではなく、それ以外の国々(とくにアジア諸国)の大衆文化が実力を付けて来たため、相対的にアメリカの優位が薄れているのかもしれない。

ある国の国力(政治力・軍事力・経済力)と文化力との相関関係。

アメリカは絶対王者の地位から降りようとしているのか?

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秋は秋で、冬は冬で情緒がある。

12月の頭というのは秋なのだろうか? それとも冬だろうか?

木々の葉が落ち、どんよりと暗い灰色の雲が空を覆う。
それはそれで風情があって良い。
ちょっと寂れた感じの田舎町をドライブしていて、そう思った。

やはり、春夏秋冬それぞれに良さがある。
しかし、あまりに暑すぎたり、逆に寒すぎたりするのは嫌だ。
激しすぎない程々の温度差が良い。

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先日、ダイハツのトールを運転した感想を日記に書いた。
「小さなボディに広々とした室内」という長所のために若干乗り心地が犠牲になっていると書いた。
そういえば、タクシー専用車種として開発されたトヨタ・ジャパンタクシーの乗り心地は、それほど悪くなかったな、と思い出した。

同じ「後席スライドドアの背高ハッチバック」とはいえ、ダイハツ・トールよりもジャパンタクシーの方が車格が上だからだろうか?

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世の中には、
「人生の目標を達成して余生を過ごしている人」
「人生の目標を諦めてしまった人」
「人生の目標を達成しようと戦っている人・途上にある人」
という3種類が居る。

スポーツに例えると、
「勝って試合を終えた人」
「試合に負けた人」
「現在、試合中の人」
である。

私は、3番目だ。

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良い映画を観たい、良い小説を読みたい、天才スポーツ選手の華麗なプレイをこの目で見たい、カッコ良い自動車やバイクや電車や戦闘機の動く様子を見たい。

……というのは、煩悩なのだろうか?

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むかしバブルの絶頂期に、ある小説家のエッセイを読んだ記憶がある。
その小説家いわく「日本は文化的に幼稚で、それに対して欧米の国々には古代ローマ帝国から連綿と続く成熟した文化がある」という事だった。

しかし2020年現在、アメリカ・欧州各国が抱える様々な問題と彼らの対処の仕方を見ていると、「本当にそうだろうか?」と思ってしまう。

彼らだって我々と同じ人間だ。
幼稚な人もいれば成熟した人もいる。彼らの社会には、それなりに良い点もあり、また問題も抱えている。
そういう意味では、我々日本人と大して変わらない。

しかし、時代は移ろう。

いま我々は「ローマ帝国時代から連綿と続いてきた」ヨーロッパ・アメリカ文明の終焉を目の当たりにしているのだろうか?

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「民主主義は絶対正義」で「独裁は絶対悪」は本当なのだろうか?

それとも、この世に完全など無く、あらゆる物はいずれ制度疲労を起こして腐敗していく運命なのだろうか?

中国の隆盛、かの国の市民たちが一党独裁という自国の体制をそれなりに納得して受け入れている現実、コロナを巡る欧米各国のドタバタ、個人の権利と自由を制限する国ほどコロナに上手く対処できるという現実を目の当たりにすると、そんな風に思ってしまう。

私個人は、現体制下の中国に住みたいとは、どうしても思えないが。

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近い将来、インドは国力を付けてアメリカ・中国と肩を並べる大国に成長するだろうか?

広大な国土に、膨大な人口を考えれば、充分に有り得る話だ。

また、個々のインド人を見れば、相当に優秀な人も多そうだ。
それは例えば、アメリカのIT企業で成功したインド移民が少なからず居ることで分かる。

ある国の経済を成長させるために必要な労働力の供給量と、その国の気候との相関関係に興味がある。
あまりに暑すぎる気候は、その国に住む人々の労働意欲を減衰させはしないだろうか?
逆に、ロシアのように寒すぎる気候の国に住む人々の労働意欲は?

誤解なきように言っておくと、私はロシア人と日本人とインド人の労働意欲の差などというものに興味は無い。
そんなものに大した差があるとは思っていない。

そうではなくて、例えば同じ日本人がロシアのような寒冷地に住んだ時と、日本のような温帯に住んだ時と、インドのような熱帯地方に住んだ時で労働意欲に差が出るのか、という問題に興味がある。
なぜなら、気候と労働意欲に相関関係があると仮定すると、その国の国力の限界値が、緯度や気候・平均気温によって決まってしまうからだ。

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都会と田舎の境界線は何処にあるのだろうか? と昔から考えていた。

都会と田舎の境界線上に住みたいと思っていた。

それは例えて言うなら「目の前に雄大な自然が広がる一方、振り返ってみると、気の利いた居酒屋、レストラン、スーパーマーケット、コンビニの立ち並ぶ繁華街が広がっている」場所だ。

例えば、新宿の東京都庁を起点にして、中央線沿いに西へ西へと歩いていく。
中野、荻窪三鷹……どこまで歩いて行けば「都会と田舎の境界」に辿り着くのだろうか?

しかし最近「都会と田舎の境界線などという場所は無い」と思うようになった。

境界線に住むのは諦めて、半年おきに都会と田舎を行ったり来たりする暮らしが良いのかもしれない。

あるいはキャンピング・カーでも買って、ずっと旅を続けるか。

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ある老齢の映画監督が「才能が枯れるのが怖い」と言っていた。
「周りの人間たちに『あの監督も才能が枯れちゃったな』と内心で思われながら、言葉だけは『〇〇監督、さすがですね! 天才ですね!』とチヤホヤされるのが一番怖い」と言っていた。

私は、特定の分野に関して膨大な専門知識を持っている訳でもないし、暗算が得意な訳でもないし、高学歴でもないし、プロ・スポーツ選手のような高い身体能力を持っている訳でもない。
そんな私にとって、人生を切り開いていく武器は一つしかない。
感性の鋭さ・瑞々(みずみず)しさだ。
一瞬で物事の急所を突く感性の鋭さと瑞々しさだけは、絶対に失いたくない。

(2020年)

日記のような小説、小説のような日記

日記のような小説、小説のような日記

11月26日(木)

久しぶりに日記をつける。
前回が11月19日だったから、ちょうど1週間ぶりか。

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奇妙な夢を見た。
内容は全く憶えていないのだが、夢の中に女が一人登場した事だけ憶えている。
登場人物は、その女と私だけだった。
女は背が低く、太っていた。
何が奇妙と言って、その女に見覚えが無い事だ。

当たり前の話だが、夢の中の登場人物というものは、家族・知人・友人か、テレビなどで観る有名人か、そのどちらかだ。

しかし、昨日の夢に出てきた女は、私の全く知らない人物だった。
全く知らない人物が、夢に出てくるなどという現象が、ありうるものだろうか?
それとも、単に私が忘れているだけで、どこかで会った女なのだろうか?

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小説家の小林泰三が亡くなった。

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今、ダイハツ・トールを借りて乗っている。

「トール」というのは、アメコミでも有名な北欧神話のトール神のことか。

製造はダイハツだが、トヨタとスバルに、それぞれ「ルーミー」「ジャスティ」としてOEM供給されている。

「小さなボディ・中は広々」に全振りした自動車で、その外見からは想像もつかない広大な室内を持っている。
ただ、若干、乗り心地が悪い。

狭い車幅、高い天井、後席スライドドアとなれば、乗り心地が悪いのは仕方ないか。

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もうすぐ台湾のテレビ・シリーズ「返校」がネットフリックスに来る。
楽しみだ。

私はテレビ・ゲームに関して詳しくないが、どうやら原作は台湾の白色テロ時代を舞台にしたホラー・ゲームらしい。
台湾では2019年に映画化され、かなり評判が良かったと聞く。
本当は、その劇場映画版も観てみたいのだが、今回ネットフリックスに来るのは、テレビ・ドラマ化されたバージョンだ。
いずれにせよ、楽しみに待つ。

予告編を見た印象としては「未だ近代化途上にあった台湾のノスタルジックな風景・風俗」と「独裁政権による苛酷な思想弾圧」を背景にしたホラーのようだ。

「ノスタルジー」「独裁政権による恐怖政治」「心霊ホラー」の三連コンボ、三題噺。
ホラー・ファンとしては、かなりソソられる。

矛盾した表現だが「二十世紀近代史ゴシック・ホラー」といった雰囲気になるのだろうか?

配信が待ち遠しい。

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20世紀末、私が思春期だった頃、とにかく大衆文化におけるアメリカの地位は絶対だった。
21世紀に入って早や20年の歳月が流れた現在、アメリカの文化的絶対性は、徐々に衰えつつあるように見える。

盛者必衰、奢れる者久しからず、という事なのだろうか?

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アーティストと資本家について、何かアイディアがあったはずなのだが、忘れてしまった。

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最近、私の使っているMacbookAirの電池消耗が激しい。
2017年に買って3年が経過している。
そろそろ買い替え時か。
パソコン、とくに電池を内蔵するノートパソコンの寿命は短い。
そんな短期間消費財であるパソコンに大金をはたくのは、ちょっと馬鹿らしいと思ってしまう。
やはり、再度MacbookAirを買うのが丁度良いのかも知れない。

問題は、Arm版Macの買い時なのだが、homebrewでインストールできる各種オープンソース・ソフトウェアのArmネイティブ化が完了してから買うのが良いだろう。

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CPUのトレンドは、ホモジニアスからヘテロジニアスに向かうらしい。
背景にあるのは、近年、CPUの性能が頭打ちになっているという業界の事情だ。

そのヘテロジニアスCPUの先駆けとなったのが、2006年に発売されたPlayStation3に搭載されていた専用CPUという話も聞いた。
その名をCELLと言う。基本となる命令セットはMIPSRISC)だ。

2006年といえば、スティーブ・ジョブズ率いるAppleが、PowerPCという名のRISCから、IntelCISCへとMacのCPUを載せ替えた年だ。

PlayStationも、3から4になる際に、先進的なCELLから一般的なIntelへCPUを換装した。

そして今年、Macは再びRISCであるArmへCPUを換装する決断をした。

時代は巡る。

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お世話になっている社会に少し恩返しをしようと思い、寄付をする団体を探しているのだが、これがなかなか難しい。

少額でも寄付をする以上は、私のお金を無駄なく有効に使ってくれる団体が良いと思っているが、ちゃんと選ばないと、無駄どころか私のお金が悪いことに使われる可能性もある。

第1の心配は、NPO法人というものが、一部では悪い連中の隠れ蓑になっているという噂である。
その性質上、NPO法人は利益を得てはいけないと法律で定められているのだが、悪い連中は、人件費(すなわち給料の名目で彼らが懐に入れる金)を最大化する事で利益を相殺するというテクニックを使う。

第2の心配は、たとえ最初は善意で始めた組織であっても、時が経てば必ず腐るという経験則である。
そうならないようにするためには、組織上層部に並外れた管理能力が必要なのだが、並外れた善意の持ち主が、すなわち並外れた管理能力の持ち主とは限らない。

どんな組織であれ、それを運営し維持するには並外れた才能と努力を要するものである。
善意だけでは、どうにもならない。

(2020年)

日記のような小説、小説のような日記

日記のような小説、小説のような日記

11月19日(木)


昨日、牛すね肉を煮た汁で作ったお粥。


マクドナルドのハンバーガー(百円)を2つとコーラのSサイズ。


居酒屋で、刺身2皿と手羽先3本、ホッピー1杯、中身おかわり2杯。
家に帰ってから、今日も牛すね肉、ビール500mlを2本。

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新しいプログラミング言語を学んでみようかと思っている。
現在、自分専用の静的サイト・ジェネレータを作る程度にはrubyを使える。
プログラミング言語人気ランキングなどを見ると、いま一番イケてる言語はpythonらしい。
pythonの事は良く知らないが、perl以後に作られたクラス・ベースのオブジェクト指向かつ動的型付けのスクリプト言語という意味で、rubyとは「血の繋がっていない従兄弟」みたいな関係だろう。
違いはあるにせよ、まあ似たような物だろうと予想する。

どうせ新しい言語を学ぶなら、違う発想の物が良い。
本職のプログラマーなら、時代の流れを汲んで少しでも将来性があって給料を多く貰えそうな言語を習得すべきだろうが、私の場合、どうせ素人の手習だ。自分が面白いと思える事をやるのが良い。

javascript
プロトタイプ・ベースのオブジェクト指向というものが何なのか、興味がある。
加えて、javascriptは、htmlと共にウェブ・ブラウザーの『公用語』だ。
現在のブラウザーは、単にハイパー・テキスト閲覧装置というだけでなく、動画再生・GUIなどを装備する総合実行環境だ。
単的に言って『速度を問わなきゃ、何でもできる』
これは魅力だ。

rust
何か、メモリー周りで新しい概念を採用しているらしい。
面白そうだ。
ただ、ライブラリの充実度とドキュメントの充実度が分からない。
素人が手を出すのは時期尚早か。

go
googleがサポートしている。
最近、流行の兆しが見えるらしい。
しばしばrustと比較されているようだ。
完全に新しい概念を取り入れた言語というよりは、ベターC、ベターC++を目指したものか。

lisp
再挑戦したい。

hasckell
再挑戦したい。

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機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』第1巻を読んだ。
第2巻を買った。

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エリック・ホッファーの言葉に次のようなものがある。
「青年が危険なのは、彼らがまだ大人になりきれていないからではない。
 青年が危険なのは、彼らがもう子供ではないからだ」

ここでホッファーの定義している『子供時代』とは、『純粋に何かに感動し、何かに没頭できた時代』だ。
そういう『幸せだった頃』を、人は青年に成長して失う。
感動を失い、没頭を失う。
そして進むべき道に迷い、露頭に迷い、血迷う。

そのホッファーは、28歳のとき自殺未遂事件を起こしている。

別の誰かが「20代後半から30歳くらいまでは『第2の思春期』と言われている」と何処かに書いていた。
なるほど、言い得て妙だと思った。
現代は、その気になれば『大人になること』をいつまでも猶予される時代だ。
特に、中流階級以上の家庭に生まれ、高等教育を受け、自分を知識階級の一員だと思っている人間ほど『大人になる』覚悟が決まらない。
2019年の日本の大学・短大進学率は58.1%らしい。
彼らの多くが、自分を「中流知識階級」だと思っているだろう。
『もう子供ではない、かと言って、まだ大人でもない』時期を思春期と名づけるとすれば、中流知識階級の若者 (すなわち現代日本の若者たちの6割近く)にとっての『思春期』が30歳前後であっても不思議ではない。

私自身の人生を振り返ってみても、20代後半から30歳くらいまでが、自分が何をやって良いか分からず一番悩んでいた時代、一番キツかった時代だったような気がする。
『もはや、あの頃ほどには何に対しても感動できず、何に対しても没頭できない自分』に気付いて、ずっと困惑していた。

最近、村上龍が何処かに「小説なんて、淡々と書けば良いんですよ、淡々と」と書いていた。

何十年も前、押井守は「心臓をグッと掴まれる体験がなければ映画じゃない」と言っていた。

私自身、人生の折り返し地点を過ぎて早や10年経った。
感動と没頭を取り戻す、もう一度それに挑戦しても良い頃だと思っている。

(2020年)

日記のような小説、小説のような日記

日記のような小説、小説のような日記

11月18日(水)

深夜(午前1時ごろ)に起きて、体重を計った。
1Kg太っていた。
昨日の夜、結構な量の酒と摘みを飲み食いしたので、ある程度は予想していたが、しかし実際に目の当たりにすると、やっぱりショックだ。

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昨日の酒が少し残っている。
少々、頭が重い。
「ああ、また酒を飲んでしまったか……」と、目覚めた直後から自己嫌悪になる。
この「酒を飲んだ翌日、体の中に残っているアルコールを感じて自己嫌悪になる」という感覚も、歳を取ってから感じるようになったものなのか、それとも若い頃から「無自覚的に感じていた」事だったのだろうか?
水を飲んでアルコールが体から抜けると同時に、この自己嫌悪感も弱まっていった。

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太陽の牙ダグラム」について。
本放送のときも、ある程度は観ていたと思う(かすかな記憶はある)のだが、内容については殆ど憶えていない。殆ど初見と言っても良いと思う。
まさか、いきなり主役メカの朽ち果てた姿から始まるとは思わなかった。
このファースト・シーンが、ラスト・シーンなのだろうか?
どうやら、植民地の惑星が宗主国である地球から独立するためにゲリラ戦を仕掛けるというのが、背景となる大きな物語らしい。
それと、ヒロインがいわゆる『美少女』じゃない……というのは控えめな言い方で、こう……ちょっと困惑するデザインだ。何か演出意図があってこういうデザインにしたのだろうか?
「登場人物全員が美男美女である方が変でしょ」と言われれば、その通りなのだが……それにしても10代の少女という設定だろうに、そんな風には全く見えない、どころか老女にさえ見えてしまうデザインは、いかがなものか。

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朝食
せんべい数枚。コーヒーに砂糖。

昼食
クッキー。オレンジジュース。

夕食
あんかけ硬焼きそば。アイスクリーム。

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深夜1時に起きて、そのまま眠らずに1日を過ごした。
夜9時ごろに寝た。

(2020年)