ネタバレ! 小説と映画の感想‐青葉台旭

小説と映画のネタバレ感想が書いてあります。メインのブログはこちら http://aobadai-akira.hatenablog.com/

なぜ映画「座頭市」で北野武は髪を脱色したのか?

*ネタバレ有り

座頭市 <北野武監督作品> [DVD]

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時代劇なのに、なぜ髪を脱色しているのか

 北野武の「座頭市」が公開されたころ、なぜ主演の北野武は時代劇なのに髪を脱色しているのかという疑問を投げかける人が少なからず居た。
 知り合いからの「また聞き」だが、これを観た欧米の観客たちも「なぜ時代劇なのに金髪なのか」というミスマッチ感を指摘する声が少なからずあったという。
 しかし、私は、すぐにその理由が分かった。
 子供時代、私が住んでいた家の近所に、座頭市そっくりのオジサンが居たからだ。

子供の頃、家の近所に座頭市そっくりのオジサンが住んでいた。

 そのオジサンは、「お爺さん」と呼ぶ程の高齢ではなく、せいぜい中年と呼ぶべき年齢にもかかわらず髪の毛が真っ白だった。
 また肌の色も、とても白かった。いや、白というよりはピンク色だった。
 そして、いつも「仕込み杖」ならぬ視覚障碍者用の白地に赤のストライプが入った杖をついて歩いていた。
 母親に「あのオジサンは何をしている人なのか」と聞くと、「マッサージ師のオジサンよ」と答えた。
 そのオジサン……それほどの年齢でもないのに頭髪が真っ白で、肌も白く、視覚障碍者用の杖をついているマッサージ師のオジサン……を現実に知っている私は、北野武座頭市を演じるにあたって髪を真っ白に脱色した意味をすぐに理解した。
 むしろ「何で『髪に色素が無い』という意味が分からないんだ?」と、「時代劇なのに金髪」という事の意味が分からない人たちに対して思っていたくらいだ。
 これは、座頭市アルビノ……先天性の色素欠乏症だという意味だ。

色素欠乏症の人は、しばしば視力も弱い。

 訓練しだいで触覚のみを頼りに出来るマッサージ師(按摩)の仕事は、かつては視覚障碍者の人がよく従事している仕事だった。
 だから、座頭市(視覚障碍者である市)はマッサージ師なのだ。
 そして、先天性色素欠乏症の人たちは、しばしば視力が弱く(完全に見えない訳ではなく、多少は見えているらしい)、彼らもまたマッサージ師の訓練を受け、その職業に就く傾向があった。
 二十一世紀の現在、そういう特定の障害を持つ人が特定の職業に就くという伝統というか傾向が残っているのか、いないのか、私には分からない。
 少なくとも江戸時代においてはそうだったし、私が子供時代まで、そういう事はあった。
 それが良い事なのか悪い事なのかは分からないが、とにかく私の近所の色素欠乏症で視覚障害を持ったオジサンは、マッサージ師だった……まさに座頭市のように。

結局、座頭市は目が見えていたのか? いなかったのか?

 物語のラスト、敵の親分に「てめえ、目が見えていたのか」と聞かれた座頭市が、初めてカッと目を見開く場面がある。
 その時の座頭市の目は、虹彩が真っ白だ。
 私は医学的な知識はゼロなので軽率な事は言えないが、座頭市アルビノで、虹彩に全く色素が無かったと仮定すると、カメラでいう所の「露出補正」が適切に行われず常に明るい光にさらされているという可能性がある。
 彼は「完全な盲目ではないが、極端に視力が弱く、またサングラスの無かった当時、日差しの強い昼間は目蓋(まぶた)を閉じて(あるいは薄開きにして)暮らしていた」という設定は充分に有りうる。
 市の目が見えていたか、いなかったか、という点についての私の解釈は、こうだ。
「完全な盲目ではないが、極端に視力は弱く、薄目でものを見る習慣が身についていた」
 完全な盲目でもなく、さりとて健常者のようには見えていない、という事だ。
 だから一番最後のシーンで、夜道でつまづいて転んでしまったのだろう。

物語を理解するには、ある程度の教養、つまり知識の共有が必要だ。

 上にも書いた通り、私は、世の中の少なからぬ人たちが「時代劇なのに髪を脱色する意味が分からない」と思った事に驚いた。
 かつて座頭市そっくりのオジサンの近所で子供時代を過ごした私には、その意味が一瞬で理解できたからだ。
 小説でも映画でも何でもそうだろうが、ある物語を表現するには、作者と読者、作り手と受け手の間に、一定ラインの知識の共有……つまり教養……が必要だ。
 とくに映画では時間的な制約により、くどくど説明を入れる訳にはいかないので「時代劇なのに金髪→これは『市は先天性色素欠乏症』という意味」と、観客が一瞬で理解してくれないと困る。
 最近思うのは、そういう日本全体での知識の共有=教養のレベルが下がっているのではないかという事だ。
 かつては作り手と受け手の間で一瞬で分かり合えた事が、今では、いちいち全てを懇切丁寧に説明しないと分からなくなっている。
 これは単に娯楽の作り手と受け手という話だけでなく、現代の日本社会の中で、いろいろな社会グループ間の断絶が深刻になりつつある、その表れではないか、と心配をしてしまう。

映画「ドライヴ」のネタバレ感想。

*ネタバレ有り

ドライヴ [Blu-ray]

ドライヴ [Blu-ray]

 

 監督:ニコラス・ウィンディング・レフン

主演:ライアン・ゴズリング

あらすじ

 舞台はロサンゼルス。
 主人公は、昼は小さな町工場で自動車修理工として働き、ときどき映画の撮影で自動車のスタントマンをしながらロサンゼルスのアパートで暮らしている。
 彼には、もう一つ「裏の顔」があり、優秀なドライビング技術を使って強盗犯の逃走を助けて金を稼いでいた。
 ある日、アパートのエレベーターで、幼い息子と二人で隣の部屋に住んでいる若い女と出会う。

感想

 トータルとしては充分に楽しめた。
 ただ、少々、不満が無い訳でも無かった。
 最初は、シーンとシーンのつなぎ目に置きがちな余計な説明カットが無いことから、割と突き放した感じのドライな演出で行くのかなと思っていた。
 しかし、話が進むにつれて装飾的なカットやカメラの動きが出てきて、音楽の挿入の仕方も、「不穏な場面で、いかにも不穏な音を鳴らす」というハリウッド映画に有りがちな説明的なものになっていって、ちょっと困った。
 日本の映画にも時々ある「つくす男の物語」、つまりフーテンの寅さんや任侠映画などにも通じる「男が、惚れた女のために、何の見返りも求めず命を懸ける」という話だった事、また、序盤の演出が「余計な説明を削ぎ落した」ものだった事から、日本人の私も楽しめる内容なのかなと思って観ていた。
 しかし観ているうちに、だんだんとハリウッド流の有りがちな「説明演出」も混入してきて、ちょっとテンションが下がった。
 それでも、典型的なハリウッド流娯楽大作ほどには「ありがち説明演出」が、くどくどと繰り返される事は無かったので、トータルとしては楽しめた。

良かった点

冒頭シーンは緊張感があって良かった。

 力押しのカーチェイスではなく「静かに逃げる」緊張感があって、そうかと思うと発見された瞬間にアクセルを思い切り踏み込んだりして、その緩急が素晴らしかった。
 また、最後にバスケットの試合が終わって出てきた客たちに紛れて逃走するというオチも良かった。

説明カットが(比較的)少ないのが良かった。

シーンとシーンのつなぎ目で、余計な説明カットを(比較的)入れていないのが、贅肉をそぎ落とした感じで良かった。

突然見せられる残酷シーンが鮮烈で、それでいて、くど過ぎなくて良かった。

 ヒロインの夫が質屋に強盗に入り、成功して無事に店から出てきたな、と思ったら突然首を撃たれて倒れるシーンには驚いた。
 また、強盗一味の女が、洗面所で頭をショットガンで撃たれて頭蓋骨が爆発する様子をスローモーションで映したシーンは鮮烈で、それでいて、嫌悪感が出てくる直前に次のカットに移るという手際の良さだった。
 また、エレベーターで殺し屋に襲われるシーンでも、最後に殺し屋の頭を何度も踏みつけて最後にグシャッと潰れてしまうというのも良かった。

主演のライアン・ゴズリングの演技が良かった。

 とくに、クライマックスの中華料理屋での敵ボスとの会話シーンは、終始無表情の中に、ごくわずかな目の周辺の筋肉の動きで「最初は怒り」「最後は、あきらめと悲しみ」を表現していて良かった。
 無表情なのに「怒り→あきらめと悲しみ」という心の動きがひしひしと伝わって来て良かった。
 とにかく、この中華料理屋のシーンのライアン・ゴズリングの演技は、観る者をドキリッとさせて、良かった。

ロサンゼルスの乾いた感じが良かった。

 まあ、ハリウッド映画は大抵そうなんだが……やはり、風景や気候風土は大事だなと思った。

残念だった点

最初、余計な説明カットが無かったせいで「ぜい肉をそぎ落とした演出」で行くのかな、と思ったら、それ程でも無かった。

 案外、カメラの余計な動きとか、アクションの前に挿入される、ハリウッドでよく使われる「不穏な音」が、この映画でも使われていて、ちょっとゲンナリした。

「突然の暴力」も、かなり良く出来ている方だが、若干、詰めが甘い部分も見受けられた。

 例えば、食堂で悪い奴らが集まって話し合っているシーンで、ボスが失敗した子分の目にフォークを突き刺し、包丁で喉を切って殺す場面がある。
 北野武の映画の「箸を目に突き刺す」有名なシーンの研ぎ澄まされた感じと比べると、「ドライヴ」の演出は詰めが甘い。
 わざわざカウンターまでフォークを取りに行って戻って来て男の目に突き刺し、さらに包丁をカウンターに取りに行って戻って来て喉をかき切る……という動作なので、とても冗長になってしまってる。  

ライアン・ゴズリングの演技は上手かったが「うまい演技だな」と分かってしまった。

 良かった点と矛盾するが、ライアン・ゴズリングの演技は、とても上手いと思ったのだが、観客に「上手い演技だな」と思わせてしまう感じで、そこが若干気になった。
 もちろん下手な演技を見せられるよりは、ずっと良い。……自分で書いていて贅沢な要求だという自覚はある。  

ライアン・ゴズリングがイケメン過ぎる。

 こういう「つくす男」ものの主役を演じるには、ライアン・ゴズリングはイケメン過ぎる。
 いい男に生まれたのは別にライアン・ゴズリングのせいではないが、この手の話の主役はイケメン過ぎない方が良い。
 そうかと言って「フーテンの寅さん」の渥美清みたいなファニーフェイスだと、さすがに、隣の奥さん(ダンナは刑務所の中)が主人公にヨロッとなるという話に無理が出てくるので、こういう話のイケメン度としては「普通よりちょっとだけいい男」ぐらいが、ちょうどいい。
 ライアン・ゴズリングも恐らくその点は分かっていて、自分のイケメンっぷりを中和しようと「コミュニケーションは不得意だがドライビング・テクニックは超一流のクルマ・オタク」というキャラクター設定に沿った「終始、無表情で何を考えているか分からない演技」を一生懸命しているのだが、いかんせんイケメンは何をやってもイケメンなので「寡黙な所がカッコ良いイケメン」という印象から脱し切れているとは言えなかった。
 それでも普段はできるだけ「ゆるんだ顔=ややバカっぽい顔」でいるように努力して演技をしていて、その点に関しては好感が持てた。

エレベーターでのキス・シーンをどう解釈するか。

 主人公とヒロインと殺し屋が同じエレベーターに乗り合わせ、主人公が殺し屋に気づいた直後、ヒロインにキスをするという不思議なシーンがある。
このシーンの解釈をどうするか。

解釈その1。キス・シーンは主人公の妄想で、実は二人はキスをしていない。

 この解釈だと、第三者も乗り合わせたエレベーターの中で堂々とキスをするという事の説明も付くし、キスと同時にエレベーターの照明が暗くなるという不思議な演出にも説明が付く。
 しかし、そう仮定すると、キスが終わってエレベーターの照明が元に戻った時の主人公とヒロインの立ち位置が変だ。キス・シーンが妄想だとすると、次のアクションの直前に二人が向かい合った形になっているのは不自然だ。
 まあ多少強引だが、主人公が殺し屋との闘いの前にヒロインを安全なコーナーへ押しやる時に、たまたま、そういう立ち位置になったという解釈も可能だが。

解釈その2。主人公とヒロインは本当にキスをした。

 本当にキスをしたのだとすると、「凄腕のドライバーでケンカも強いが、コミュニケーション下手で、女に告白も出来ない」という「つくす男の物語」としての純粋さが失われてしまうし、「ちょっとした痴話げんかの後の和解のキス」という、これまたハリウッド映画に有りがちな演出に(ストーリー上は、もっと切実なシーンだが)見えてしまう。

もう二度と会えない。

 妄想であれ、実際にキスをしたのであれ、
「殺し屋からヒロインを守るために戦えば、自分が裏社会で修羅場をくぐり抜けてきた男だという事がバレてしまい、堅気であるヒロインとの関係は決定的に失われてしまう。その前にせめてキスだけでもしておきたい」
 という主人公の切実さを強調したかったのだろうとは思うのだが……

さいごに

 一般的な傾向として、
「日本の映画の演出は感情過多で湿っぽい。ウェットすぎる。ハリウッドの演出は機能主義的で無駄が無い」
 こんな印象を持っている観客は多いだろう。
 しかし、この「ドライヴ」を見て思ったのは、全体としては贅肉を削ぎ落した演出を目指しているだけに、わずかに混入している「ハリウッド流演出」が不純に感じられてしまうな、という事だ。
 典型的なハリウッド流演出も、それはそれで典型的な日本式演出とはまた別の意味で感情の盛り上げ方が過剰で、しかも最近はお約束演出に頼ってしまっている感じがある。
 北野武の映画を観てしまった後だと、こういう「ハリウッド流の盛り上げ方」……たとえばホラー映画なら化け物だ現れる前に必ず鳴り響くバイオリンの不協和音とか、この「ドライヴ」で言えば、アクションが始まる時にエレクトリック・ギター(シンセサイザーかもしれない)の「ブンッ、ブンッ、ブンッ」という低音のリズムで不穏さを盛り上げる演出とかは、どうしても余計なものに思えてしまった。
 最近のハリウッド映画を観ると、こういう「お約束演出」にあまりに頼り過ぎている感じがして、それが「ハリウッドの終わりの始まり」を暗示しているような気がしてならない。
 ちょっと厳しい感想になってしまったが、トータルとしては、この「ドライヴ」は充分に満足できる良い映画だったと思う。

ネタバレ感想。映画「ザ・ボーイ~人形少年の館~」を観た。

*ネタバレ有り

とても惜しく、残念な映画だった。

それは作り手たちの責任ではない。

日本の配給会社の宣伝部の責任だ。

google playの予告編から引用……「先入観に騙される、ジャンルスイッチムービー」

おいおい、予告編でそういう事を言っちゃったらお終いだろう!

時々、日本の配給会社は、ポスターのレイアウトやキャッチコピーなどで盛大にネタバレをすることある。

この映画も、その失策をやらかしていた。

予告編に「ジャンルスイッチムービー」などど表示してしまったら、その言葉と序盤の展開だけで「ああ、そういう事ね……」と感づいてしまうではないか。

配給会社は、とにかく客に入ってほしいと焦(あせ)るあまりに、映画そのものの内容の評価を落としている。

本末転倒だ。

いや、配給会社の気持ちも(多少は)分かる。

「映画の内容を評価するも何も、まずはお客さんに入ってもらわなければ何も始まらない」

「ネタバレだろうと、酷(ひど)いタイトルだろうと、とにかく宣伝第一、インパクト重視、まずは強烈なアピールで少しでも多くの人の目に止まらなければ」

こんな気持ちで、日々、原題とは似ても似つかない酷いタイトルを付け、最大の「売り」を堂々とキャッチコピーにしたネタバレ全開のポスターや予告編を作っているのだろう。

しかし、作品内容を貶めるような宣伝の仕方は、めぐり巡って自分の首を絞めているのではないだろうか。

今日の日銭ほしさに、将来の評価を質草に入れて借金をしているようなものだ。

最終的には誰も得をしない。

そんな宣伝の仕方は今すぐ止めるべきだ。

序盤が典型的な心霊ホラー展開で、しかも予告編で「ジャンルスイッチムービー」と言われれば。

ああ、これは心霊ホラーと思わせておいて途中から違うジャンル……たとえばミステリーとかサスペンスになるんだな……心霊現象に見せかけた「トリック」を使う犯人が居るんだな……と、分かってしまう。

しかも、ご丁寧に予告編には、壁に造り付けられた鏡が「裏側から爆発する」シーンや、ヒロインが「壁の裏側から」部屋を覗くシーンが出てくる。

その予告編が頭の片隅に残った状態で映画を観始めると「少年の魂が人形に乗り移った」げな演出、さらに「その人形が別の部屋にいるヒロインたちの会話を盗み聞きしている」げな演出が、これ見よがしな感じで出てくる。

もう、この辺でピンと来てしまう。

ああ、これは「いかにも人形が盗み聞きしている」ようなカメラアングルだが、実はカメラの外に「現実の犯人」 が居て、すべての怪現象は、そいつが人形の仕業に見せかけているんだな、と。

そして、さらに予告編の「壁の裏側」シーンを思い出し、また、ピンッと来る。

ああ、この屋敷は壁が二重構造になっていて、壁と壁の間の秘密の通路を使って、屋敷のどんな部屋へも、誰にも知られずに行けるんだな、と。

あんな予告編じゃなければ、意表を突かれて、もうすこし高い評価になっただろう。

「ジャンルスイッチムービー」の意味は、最初は心霊ホラー → 最後はスラッシャーだった。

つまり、最初は、十何年前に死んだ少年の魂が人形に乗り移って怪現象を起こしていると思わせておいて、実は、その少年は生きていて、何十年ものあいだ屋敷の中に張り巡らされた秘密の通路の中で暮らし、凶悪な猟奇殺人犯に成長していた……という展開だ。

猟奇殺人犯に成長した少年は、ご丁寧に人形を模した仮面を被っていて、まあ、これは当然ながら13日の金曜日のジェイソンや、ハロウィンのマイケルを露骨に連想させる。

ネタがバレてからは典型的スラッシャー映画的展開、つまり「精神は少年のまま、肉体だけが怪力男に成長してしまった殺人鬼にヒロインが延々追いかけられる」というだけの話で、有りがちにも程がある展開だ。

しかし、有りがちな展開のわりには緊張感が持続するという意味で、なかなかの演出の手際だった。

これで、予告編でネタバレせずに、本編でネタが明かされた時に本気で驚けていれば、なかなか良く出来た作品だなあと思っていただろう。

しかし、最大の売りである「心霊現象と思わせて、実は秘密の通路を使ったトリックだった」というネタが機能しなければ、単なる「前半ありがち心霊物、後半ありがちスラッシャーもの」な映画でしかなく、見終わった後に非常に残念な気持ちになってしまった。

ブライアン・ラムレイ作「けがれ」を読んだ

*ネタバレ有り。

 アンソロジー「古きものたちの墓 クトゥルフ神話への招待」に収録されている、ブライアン・ラムレイ作「けがれ」を読んだ。 

  ほとんど満足できたが、若干、不満がない訳でも無かった。

ラブクラフトの小説には、人種差別的表現がある

 ラブクラフトの小説を読むと、現代の価値観に照らし合わせて、人種差別的と思われても仕方が無いような表現がある。
 ……と、いうのは控えめな言い方で、あからさまに言うと、
「この世界には、野蛮な信仰と文化を持ち、太古の怪物の血を受け継いだ異人種どもが居て、やつらとアメリカの白人がセックスする事で、優等人種であるはずの白人の遺伝子が徐々に汚されつつある」
 これが、ラブクラフトが書くホラー小説のメイン・テーマの一つだ。
 人種差別だけでなく、たとえば「野蛮な顔つきの奴らは、精神的にも劣っている」みたいな外見から来る差別とか、いろいろと現代の視点から見て「穏当でない」描写がある。
 もうすぐ死後八十年になろうという人物の性格を現代の価値観で分析をするのも何だが、ラブクラフトが、そういう「優等人種である白人の血統が、化け物の子孫である異人種の遺伝子で汚されていく」という恐怖を小説を書く上での重要なテーマにした理由を私なりに考えてみたい。
 一つには彼自身が、ちょっとフランケンシュタインっぽいゴツイ骨格の顔をしてた事があるのではないだろうか。つまり「劣等な顔つきの奴らは、精神的にも劣等だ」という表現は、ラブクラフト自身がそういう顔つきに生まれてしまったという彼自身の恐怖感の表れなのかもしれない。
 また「金持ちの家に生まれながら父親が神経症を患い、名家であった母親の実家で育てられたが、大学受験に失敗したあと田舎に引きこもって安い原稿料で怪奇小説を書いて貧乏になり、結婚にも失敗した」という彼の歩んだ人生も、彼が人種差別的なテーマを好んだ理由の一つかもしれない。
 いつの時代、どの国でもそうだが、「没落していく人々」「社会に認められず悶々としている人々」というのは、自分とは違った人種・自分とは違った文化を持つ人々に対して不寛容なものだ。
 また、「二十世紀初めという時代を考えれば、アメリカ白人男性であるラブクラフトが人種差別的な価値観を持っていても仕方が無かったんだ」という擁護も一応は成り立つだろう。
 当時のアメリカ白人にとっては、恐らく「差別の対象」だったであろう我々日本人だって、同じ時代にいろいろと差別をしていた訳だし、時代を考えればどの国だって似たような物だったはずだ。
 ラブクラフトと同時代……戦前の日本で活躍した怪奇・探偵小説家、例えば江戸川乱歩夢野久作なんかを読んでも差別上等な表現バリバリで、かならず本の最後に「本書には、現代の価値観に照らし合わせて穏当でない表現が含まれますが、書かれた時代を考慮し、また、すでに評価の定まった小説であることから、そのまま掲載しました」などと書かれている。

「倫理的にマズイ描写がある」のに「芸術作品として素晴らしい」作品に出会った時、われわれは困惑する

「正しくない」のに「感動する、させられてしまう」事を、どう捉えたら良いのか。
 一番シンプルで、社会や人々を安心させやすい対応は、「正しくないものは、正しくない。駄目なものは、駄目」といって、あくまで現実社会の倫理でバッサリその作品を切り捨ててしまう事だろう。
 いつの時代、どの国でも、「物語は現実の『正しさ』に奉仕すべきだ」と、「正しさ」を押し付けてくる人々は居る。
 封建時代の日本では、封建的な価値観以外の物語は「御法度」だったであろうし、中世ヨーロッパではキリスト教の価値観に合わない物語は「異端」だったであろう。
 いわゆる「勧善懲悪」というやつだ。
 現代でも、物語に対し過剰に「正しさ」を求める人々の声は大きい。正しさの基準が封建制度キリスト教から現代的な倫理観に代わっただけだ。

あらかじめ書いておくが、私は差別主義者ではない

 そもそも差別というのは「みっともない」
 例えば、現代日本において日本人以外を差別するという事は、差別している者は、それで相手をおとしめたよう思っているかも知れないが、実は、誰を一番恥ずかしめているかといえば、差別をしている当の本人であるし、日本人全体にも泥を塗っている。
 国益に対し重大な責任を負っている職業、つまり公務員・政治家・軍需産業関係者などの職種の採用に関しては、日本国籍に限定するべきだと思うし、選挙権・被選挙権は日本国籍に限定すべきだとも思うが、それ以外の事柄で、その人自身以外の要素……生まれた場所や、両親が誰か、などで人を評価するのは不当という物だ。
……などという話は、さておき。

ここまでが前置き。やっと、ブライアン・ラムレイの「けがれ」の話

 物語は、イギリスの田舎町の医師ジェームズ・ジェイミソンの視点で語られていく。
 ジェイミソンにはジリー・ホワイトという女性の患者が居て、ジリーにはアンという娘が居る。
 ジリ―の夫ジョージ・ホワイトは、インスマウスというアメリカの田舎町の出身で、一年前に自殺している。
 娘のアンは、頭は悪くないが学校での集団生活に問題があって、いつも一人でいるようだ。
 町にはジェフという少年がいて、彼は魚か両生類のような異様な顔をしていて、海に潜って魚を獲るのが上手くその特技で育ての親であるトム・フォスターの家計を助けている。

名作、インスマウスを覆う影を下敷きにした作品だが……

 インスマウスの、一番の恐怖……
 上にも挙げた、
「優等人種である白人の遺伝子の中に、知らぬ間に劣等人種の血、さらには奴らが崇めている邪教の神(怪物)の遺伝子が混じり込んでしまっている。ひょっとしたら、自分の体の中にも怪物の穢れた血が混じっているのではないか」
 というテーマに沿っているように見えるのだが、どうにも本家ラブクラフトに比べて迫力が弱い。
 恐らく、作者のブライアン・ラムレイは「優等人種であるアメリカ白人の遺伝子が、劣等人種どもによって汚されていく」というインスマウスのテーマを本気で信じていないのではないだろうか。
 それは当然の事だ。1937年生まれのラムレイは、当然、公民権運動を経験しているだろうし、ラブクラフトが本気で信じて怖がっていたであろう上記のテーマも現実には古臭く感じているはずだ。
 それは、現代に生きる人間として間違いなく「正しい」
 しかし、ラブクラフトが本気で怖がっていたであろう「間違っているテーマ」をラムレイは本気で信じられくなっている分だけ、その筆運びは、どこかクールでドライで一歩引いた感じがあって、読者の胸に迫って来ない。
 そのかわり現代の作家らしく「邪神教団」「秘密結社」「悪の科学者」という、日本の変身ヒーロー物やアメリカン・コミックに出て来そうなポップなガジェットが強調されていて、現代的といえば現代的にアップデートされている。
 また、読者が「インスマウス」をすでに読んでいることを前提としているため、怪物の遺伝子が発現して水棲生物に変化していく様子を描写しても「ああ、インスマウスの、あれね」と思うだけだ。
 本家「インスマウス」は、何度読んでも、異様な顔をした怪物と人間の混血の住人ばかりの町インスマウスを主人公が彷徨さまよう時の息苦しさ、「何なんだ、こいつらは」「何なんだ、この町は」という感覚を濃厚に味わえる。そして最後の、自分もインスマウスの末裔すなわち怪物の血を受け継ぐものだったと分かった時のショックも鮮やかだ。
 結局、このラムレイの小説のキモは、主人公で傍観者だと思っていた医師が、実はインスマウスの住人で、彼自身が怪物の血を引いていて、しかも邪神の教団のメンバーだったというオチだけだ。
 1990年代後半から2000年代にハリウッドのホラー映画やサスペンス映画ででしばしば使われた「信用できない語り手」の一種で、それが明かされた時には少しだけ驚くが、まあ、それだけだ。
 ラブクラフトや戦前の日本の怪奇小説作家たちの魅力の一つである迫力のある「おどろおどろしさ」がない。

昔、「マイナス札を集めてプラスに転じる」と言った作家がいたらしい

 なるほど、芸術にはそういう一面もあるように思う。
 もう細かいルールは忘れてしまったが、トランプの「大貧民」だか「大富豪」にはマイナス札というものがあって、それをゲーム終了まで持っていると不利になる。
 多くのプレイヤーは、そのマイナス札を無くそう無くそうと努力するのだが、実はマイナス札は一定数以上集めるとプラス札に変換され、一気に逆転が狙えるという機能があって、それに賭けるという手もある……そんなゲームだったように記憶している。
 芸術にもそういう一面があって、一般社会では決してほめられたことではない「差別意識」とか「自分の顔や血統に対するコンプレックス」とかいう負の感情も、徹底的に煮詰めていけば、ある種の「異様さ」や「凄み」になって、芸術的価値を生んでしまう。
 それが、芸術の面白い所でもあり、厄介な所でもある。

ラブクラフトは、確かに時代の変わり目に立っていてた存在だと思う

 ラブクラフトという作家は、文章が上手いと評価されたことは無いし、ある時期までは(一部の熱狂的なファン以外にとっては)煽情的な表紙のパルプ雑誌に安い原稿料で書き続けた三文小説家という評価だったのだと思う。
 しかし、ラブクラフトを知ってしまうと、それより一世代前の、十九世紀イギリスの(主に幽霊を扱った)怪奇小説が、どうにも古臭く見えてしまうのも事実だ。
 十九世紀が終わり、二十世紀が始まって、西欧社会の主役がイギリスから「新興国」アメリカに移り、そのアメリカで、現代まで連綿と続く大衆消費社会が花開いて行く、その切り替わりの時期に、当時の新メディアであった「パルプ・マガジン」(現代日本で言えばライトノベルのような物か)を舞台に活躍したカルト作家、それがラブクラフトという事だろう。

私(青葉台旭)にとってのラブクラフト

 やはり、古典的な幽霊話よりも、ラブクラフト的な「世界にはもう一つの顔、怪物たちの棲む『裏の世界』があって、何かの拍子に我々の住む『表の世界』が怪物たちの住む『裏の世界』に浸食されていく」展開に惹かれてしまう。
 しかし、だからと言って「クトゥルー神話」それ自体に手を出そうとは思わない。
 さすがに、2016年に「クトゥルー」だの「ダゴン」だの「ナイアーラトテップ」と言っても、すでに手垢が付きすぎていてパロディの対象にしかならないだろう。
 実は、私は、ラブクラフト怪奇小説そのものよりも、ラブクラフトから影響を受けていると思われる諸星大二郎の怪奇漫画に惹かれる。
 諸星大二郎の漫画には「この世界のどこかに、進化の過程で枝分かれし、人類とは別の道筋をたどった『もう一種類の人類(別の進化を遂げた、別の人類)』が住んでいる」というモチーフがしばしば出現する。
 この「別の進化を遂げた、別の人類」というモチーフは、「その『もう一方の人類』と我々を分けたのは、進化の過程で起きた少しの違いに過ぎない。場合によっては我々が別の進化をたどっていた可能性もある」という魅力的なイメージを喚起させてくれる。
 ラブクラフトが書いた「邪神(怪物)は宇宙からやってきた」というイメージは、パルプ・マガジン全盛期には良かったのかもしれないが、現代でそれを書くには、ちょっと中途半端にSF的であり、同時に怪奇性も中途半端になっているように思う。
 いずれにしろ「どこにでもありそうな日本の田舎町に迷い込んだ主人公が、ささいなっかけから隠された世界の裏側を覗いてしまう」という話をどうしても書きたいと思う。

ネタバレ! 2014年アメリカ版「ゴジラ」の感想。

google play にて再視聴。

GODZILLA ゴジラ[2014] Blu-ray2枚組

GODZILLA ゴジラ[2014] Blu-ray2枚組

*ネタバレ。

あらためて、2014年版アメリカ製ゴジラを再視聴した。いわゆる「ギャレ・ゴジ」という奴だ。

あらすじ。

1999年。フィリピンの鉱山で、放射能を帯びた謎の巨大生物の骨が見つかった。

鉱山の地下空間を調査した芹沢博士は、そこで巨大生物の卵を見つける。卵は二つあり、そのうちの一つは既に孵化した後で、卵から生まれた生物が穴を掘って地上へ出て、海へ逃げた痕跡が見つかった。

それから数日後、日本の富士山の麓にある町ジャンジラの原子力発電所では、周期的に発する謎の微振動が記録されていた。

発電所に勤務するアメリカ人のジョーは、同じく発電所に勤務する妻に、原子炉の様子を見て来るように頼む。

ジョーの妻が原子炉の点検をしている最中、突然、謎の地震が発電所を襲い、そのショックで原子炉が暴走してしまう。

本題に入る前に。

映画の中で、ジョーが原子炉の隔壁を閉めないで奥さんを待っている時、指令室からインターホンで「早く閉鎖しないと町が危険だ」という指示がある。(日本語字幕では、こう表示される)

わたしの耳には「close the door, うんたらかんたら or whole the city is exposed」と聞こえた。これは「ドアを閉めろ、街中が被ばくするぞ」だろう。

ハリウッドのアクション映画を観ていて時々思うのは、核とか放射能に対する無神経さ、である。

われわれ日本人からすると「それは無いだろう」という描写をアチラの人たちは平気でする事がある。

しかし、だからと言って、そういう外国映画における無神経な原子力描写をわざわざ字幕で隠すのは、いかがなものか。

外国人は、われわれ日本人ほどには「核」「放射能」と言うものに対して神経質では無い、という現実もふくめて、正直に字幕にするべきではないだろうか。

字幕をマイルドな表現に変えることで、そういう現実から目をそらさせるというのは、いかがなものか。

話がそれた。

このアメリカ版ゴジラは、映画として面白かっただろうか?

まずは一言。面白かった。

第一に、単純に、アメリカ製のアクション大作として面白かった。

次から次へとアクションシーンが続き、最後まで飽きずに観ることが出来た。

第二に、ゴジラおよび敵怪獣ムートーが、ちゃんと「怪獣」していた。

生物としてこうあるべき、という科学的な考証よりも、キャラクターとして「立っている」ことを優先させていた。

生物学的な正しさよりも、フィクションとしての面白さ、「怪獣」としてカッコ良い動き、カッコ良い登場シーンなどを優先させていた。

ただし、この「ちゃんと怪獣らしさがあった」という言葉の前には、どうしても「ハリウッド製にしては」「ハリウッド製のわりには」という言葉を付けざるを得ないが。

ハリウッド製アクション映画としては十分楽しめたが、怪獣映画としては物足りなさも感じた。

「怪獣」というよりは「巨大生物」然としていた1998年のハリウッド製ゴジラよりは、怪獣としてのキャラが立っていた今回の映画ではあるが、それでも日本人のコアな怪獣ファンからすると、まだまだ物足りなかった。

とくに平成ガメラシリーズを観てしまった後だと、怪獣の「魅せ方」へのこだわりが、まだまだのように思う。

不遜な言い方になってしまうが、「ハリウッド製の怪獣映画としては良く頑張った方だとは思うけど、日本の怪獣ファンとしては、あと少し足りなかった」といった所か。

例えばハワイで初めてゴジラが出現するシーンで、この映画は最大限ケレン味を効かせたつもりなのだとは思うが、正直「惜しい! 90点」と思ってしまった。

この「ゴジラがハワイに上陸するシーン」に製作者側が最大限の神経を使って「ケレン味たっぷりに見せてやるぞ」と意気込んでいる感じはひしひしと伝わったのだが、何かもうひと味たりない感じが残った。

ゴジラの上陸シーンでは、明らかに津波を思わせる描写がある。

もちろん製作者の頭の中にはスマトラ島沖地震での津波や、東日本大震災での、あの津波の映像があったはずだ。

つまり、怪獣映画における「自然災害の象徴」としての「怪獣」という面を製作者側は充分に理解しているという事だ。

「怪獣バーサスもの」の最大の見せ場である「対決シーン」をチョットしか見せない。

せっかく2匹の怪獣が出会った所を映しておきながら「さあ闘うぞ」という手前で「ハワイ編」が終了して、さらっとサンフランシスコにシーンが変わってしまったのは、一体、どういう事か。

しかも、せっかくの見せ場であるはずの「第1ラウンド:ハワイ空港編」を、主人公の奥さんが見ているテレビの中で、ちょこちょこ、と見せてハイッ、おしまい。……とは。

本来なら「ムートーとゴジラ、2大怪獣のバーサスもの」として最大の見せ場であるべき怪獣どうしの対決シーンを思わせぶりな「チラ見せ」で終わらせるというこの映画の手法は、何だ?

このモヤモヤ感は、最終決戦の場所サンフランシスコに上陸した後も続く。

サンフランシスコ近くの海底から浮上して、ゴールデンゲートブリッジ付近での再登場シーンは、スクールバスとの対比などを使い、結構手数を掛けているにも関わらず、上陸した後の肝心のムートーとの戦闘シーンは、思わせぶりな「チラ見せ」が続く。

唯一、まともに戦っている所が映ったのは、サンフランシスコの中華街で数分だけ2対1の格闘戦を見せた時くらいか。それも僅か数分。

そのサンフランシスコで、オスのムートーにとどめを刺すやり方が「飛んできた敵に尻尾をぶつけてビルの壁に叩きつけたら、打ち所が悪くて敵がグッタリした」というのは、いかがなものか。

尻尾を振る時のカット割りやカメラアングルに趣向を凝らしている訳でも無く、地味な絵面のワンカットで「ブンッ、ボンッ、おしまい」じゃあ、せっかくの「怪獣が怪獣に、とどめを刺す」という一大イベントが、あまりに呆気無い。

メスのムートーとの戦いも、ラストの「敵の口の中に放射能火焔を流し込む」というケリの付け方は、まあ良いとして、それまでに戦闘シーンがほとんど無いのは、一体どうしたんだ。

この映画におけるゴジラの描写。

あらためて整理しよう。

この映画における怪獣描写とは。

  1. 前回の1998年(巨大生物というリアリズムにこだわり過ぎていた)ハリウッド版ゴジラに比べれば、今回はちゃんとキャラクター性のある「怪獣」になっていた。
  2. しかし、その「怪獣としての魅力的なキャラ立ち描写」は、もっぱら「登場シーン」に重点的に割かれていた。ハワイ上陸シーン、およびサンフランシスコ上陸シーンは時間的な尺もカットの手数も多く、製作者側が神経を使ったなという事が分かった。
  3. 登場した後の、肝心の怪獣対怪獣のバトルシーンは「チラ見せ」に終始し、残りの時間のほとんどを人間のドラマに使っていた。

ゴジラのスタイルについて。

今回のゴジラに関して、一部のファンの間で「太り過ぎ」という声がささやかれていた。

しかし、私は、その意見には賛成できない。

実際映像で見ると、太っているというよりは「筋肉質である」というほうが相応しい。

ただし、その筋肉の付き方はヘビー級ボクサー風だ。

つまり、ライト級格闘家の引き締まったスマートさというよりは、ぶ厚い筋肉で全身を覆い、首の筋肉も鍛えて極太になっている、というスタイルだ。

そして、両腕が人間に近い形をしている。

肩から先のデザインは、今までのゴジラの中で一番「人間くさい」形をしているのではないだろうか。

つまり全体のフォルムが人間、それも重量級の格闘家のような体形にデザインされている。

これは、例えばエメリッヒ・ゴジラがティラノザウルスの発展形としてデザインされていた事や、あるいは日本の着ぐるみが、中に人間が入っているからこそ、その人間のフォルムを隠そう隠そうとしたのとは正反対のアプローチだ。

動きも、今までのゴジラの中では一番人間臭い。

人間のような形体のゴジラ、あるいはヘビー級格闘家のようなゴジラ……それは一体何を意味するのだろうか。

私の考えは、こうだ。

今回のゴジラは人間のような格闘アクションをする前提でデザインされている

実際、ゴジラ対ムートーの数少ない対決シーンと言えるサンフランシスコでの戦い(それさえも数分だが)では、ゴジラが、まるで往年のブルース・ウィリスのように敵の肩をつかんで押し倒すというアクションが見られる。

ゴジラが地上に現れた意図は、何だ?

なぜ、ゴジラはムートーを追いかけて地上に現れたのか?

これが、イマイチはっきりしない。

一応、芹沢博士のセリフとして「自然界は常にバランスを取ろうとする。ムートーに対するバランスとしてゴジラが居る」という解釈が提示される。

ふつう「自然界のバランス」という言葉から連想されるのは「肉食獣が草食獣を食べる事によって、数のバランスが保たれる」という食物連鎖のピラミッドだろう。

しかし、ゴジラはムートーを追いかけ、彼らに戦いを挑みこそすれ、勝ったからと言ってムートーを食べる訳ではない。

では、ゴジラがムートーを追いかけて殺した動機は何だ?

手掛りは「劇中に2カ所だけ挿入される、ゴジラが人間と意志を通わせたかのように見えるシーン」だ。

夜のサンフランシスコで、パラシュートで降下した主人公とゴジラが、一瞬、目を合わせるシーンがある。

「しまった、怪獣に見つかった、食われる!」と思いきや、ゴジラは主人公と一瞬目を合わせただけで去って行く。

2つ目のシーンは、ラスト・シーンだ。

ムートーを倒し、疲れて仮眠を取っていたゴジラが起き上がって海へ帰って行く、その直前、芹沢博士と目を合わせる。

以上、2つのシーンによって「ゴジラは、ひょっとしたら人類の味方かも知れない」という事がほのめかされる。

だとすると、先の芹沢博士の「ムートーが現れた時、自然界はそれに対してバランスを取ろうとする。それがゴジラだ」という言葉の意味は、いわゆる「食物連鎖による数の調整」の事では無く、地球(あるいは人類)の平和をおびやかすような存在が現れたとき、人知を超えた『大いなる意志』によって地球と人類を守るために出現する存在こそがゴジラ という可能性がある。

人類の、あるいは地球自然環境の守護者としてのゴジラを作るつもり?

時々、日本のファンの間で言われるのは、今回のゴジラと平成ガメラの類似点だ。

私は、全体のストーリーラインが、それほどガメラと似ているとは思えない。とくに人間側のドラマは全く違う。

むしろ私が平成ガメラと今回のゴジラが似ているな、と思ったのは、劇中でほのめかされている「地球環境を脅かす存在(敵怪獣)が現れたとき、それに対抗すべく大自然の『大いなる意志』によって使わされた地球の守護者」というゴジラの役どころだ。

ただし、この一作だけでは、上の仮説は「ほのめかされている」程度であり、製作者側の本当の意図は、この「ギャレ・ゴジ」がシリーズ化されて、ゴジラという存在のシリーズ全体を通しての役どころが見えてこないと確定できない。

ハリウッドは、この「ギャレ・ゴジ」をシリーズ化する気ありあり?

ヒットした大作がシリーズ化するのは良くある話だが、ひょっとしたら今回の「ギャレ・ゴジ」は、最初からシリーズ前提で企画が進んでいるのではないか。

そして、シリーズ化によって、ゆくゆくはゴジラを「巨大なアメコミ・ヒーロー」にするつもりではないだろうか。

そう考えると、今回ゴジラに与えられた「ヘビー級ボクサーのような体形」や「巨大なアクション・スターのような格闘シーン」も納得がいく。

誤解を恐れずに言えば「超巨大な超人ハルク」的なデザインとアクションという事だ。

現に、今回のゴジラでは、放射能火焔を吐く前に、まるでポパイのように胸を大きく膨らませるという、ギャグすれすれのカートゥーンチックな描写がある。

そして、ゴジラをして「正義のアメコミ・ヒーロー」たらしめるための設定として、平成ガメラなどを参考にして、「地球を脅かす敵怪獣が現れた時、大自然の大いなる意志によって使わされる地球の(あるいは人類の)守護者」という設定、そして「目配せなどを通して、かすかに人類と意志を通わせ合う事ができる」という設定が、今回ほのめかされたのではないだろうか。

確かに怪獣にはある種のキャラクター化が必要だとは思う。しかし……

ゴジラに対する「過度の擬人化」そしてその果ての「巨大なアメコミ・ヒーローとしてのゴジラ」は、果たして正しいのだろうか。

シリーズもののアメコミ・ヒーロー全盛の今のハリウッドを見ると、特に経済効率から言えば、それは一つの方法論だとは思う。

しかし、ゴジラと名の付く怪獣にそれを求めるかと言えば、私は「否」と言わざるを得ない。

ゴジラという存在には、人知を超えた孤高の存在であってほしいと、私個人は願うからだ。

正直、放射能火焔を吐くたびにポパイみたいに胸を「プゥー」と膨らませるゴジラは、ちょっと困る。

ひょっとしたら、怪獣どうしの格闘シーンがほとんど無かった理由は……

このゴジラを観ると、監督のギャレス・エドワーズは、怪獣の何たるかを分かっているな、という気がする。

怪獣というのは、歌舞伎役者のようにケレン味たっぷりに舞台に登場し、舞台の上で「カッ」と大見栄を切って見せるべき存在なのだと、良く分かっている。

では何故、ハワイ登場シーンとサンフランシスコ登場シーンには、あれほどの手数をかけたにも関わらず、肝心の怪獣どうしの戦闘を、まるで「見せたくない」とでも言うように思わせぶりな「チラ見せ」に終始させたのだろうか。

ゴジラの体形を、極太の首周りの「ヘビー級ボクサー」体形にしたという事は、今回の怪獣アクションを「巨大なアーノルド・シュワルツェネッガー」あるいは「巨大な超人ハルク」として演出するというプランは早い段階で決まっていたはずだ。

それにも関わらず、なぜ、怪獣どうしの戦いをほとんど映さない?

ここからは、私の、うがった予想というか、ほとんど陰謀論的な妄想になってしまうが、ひょっとしたらギャレス・エドワーズは、怪獣の何たるかを知っているだけに、ハリウッド上層部で決定された「ゴジラ・アメコミ・ヒーロー・シリーズ化」には反対だったのではないだろうか。その決定に対するささやかな反抗として、アクション・ヒーローまがいの怪獣戦闘シーンを極小に抑えたのではないだろうか。

ストーリーは、どうか。

いままで、全体を通してのストーリー、とりわけ人間側のストーリーを書かずに来たが、結論から言うと、ストーリー的には全く見るべきものが無い。

行き当たりばったりの展開、とくに後半の核弾頭を巡るドタバタ劇は酷すぎて見ていられない。

怪獣たちの行動と、地上でのドタバタ劇が、全く有機的に繋がっていない。

文句をあげつらえばきりが無いが「展開が行き当たりばったり過ぎる」この一言に尽きる。

  • 主人公が父親を引き取りに日本へ行った翌日、たまたまソナーに反応が出る。
  • 主人公と父親が危険区域内に侵入して逮捕された時だけ、たまたま、秘密結社の本部へ連れていかれる。それ以前は、逮捕されても東京の拘置所に入れられていたのに。
  • 主人公たちが秘密結社の施設と化した原子力発電所に連れていかれたら、たまたま、ムートーが覚醒して秘密結社の施設が破壊され、怪獣が逃げ出す。
  • 主人公が空母を降りて、民間機で故郷に帰ろうとハワイに行ったら、たまたま、怪獣たちもハワイを目指す。最初から怪獣がハワイを目指すと分かっていたのなら、主人公を上陸させなかったはずだから、主人公がハワイに行ったタイミングで同じ場所に怪獣が向かったのは「偶然」だ。
  • 怪獣の出現によってハワイで足止めを食らった主人公は、たまたま通りがかった軍のトラックに乗って、そのままサンフランシスコへ連れて行ってもらう。
  • 怪獣たちの最後の決戦の場所は、たまたま、主人公の家族が住んでいるサンフランシスコだ。別にロサンゼルスでも良いのに。
  • 芹沢博士が「そうか、核廃棄物保管施設の卵が危ない!」と叫んで、兵士たちがそこに向かうと、たまたま、直前にムートーは逃げ出した後だった。処理施設にあんなでっかい穴を開けられたら、普通はもっと早くに気づくだろう。それとも、あんな大穴を開けられても気づかないほどアメリカの核廃棄物の管理は杜撰なのか。
  • 核弾頭を田舎の貨物列車で運ぶ。しかもミサイルの形丸見えの、むき出しの状態で。そんなん、怪獣の前にテロリストが喜ぶわ。
  • 脱線して川に落っこちた核弾頭を、ヘリコプターでサンフランシスコまで運ぶ。だったら最初からヘリで運べ。

後半サンフランシスコに上陸してからは、「緊急指令! 核タイマーを解除せよ!」とでも名付けたくなるようなB級とすら呼べない行き当たりばったりの、しかも使い古された爆弾解除タイム・サスペンスを延々と見せられて、怪獣映画観てんだか出来の悪いアクション映画観てんだか分からなくなった。

それにしても、核の扱いが杜撰すぎる。

核の申し子としての怪獣、という思想上の切実さが全くなく、単に怪獣と人間の動機付けに使われているだけだった。

ようするに、核というものが単なる「マクガフィン」に成り下がっていた。別に怪獣が狙うのが巨大なダイヤの原石でも良いし、米軍が大事そうに運ぶのもダイヤの原石で何ら構わない。「とりあえず、みんなでそれを追っかけられればいい」程度の扱いだった。

逆に言えば、日本人以外の世界中の人間にとって、「核」というのは「ダイヤの指輪」ていどの意味しか無いという事か。

怪獣は、出現前にミステリアスなムードを盛り上げなくては駄目だ。

この映画では、ゴジラにしても、ムートーにしても、あっけらかんと、いきなり画面に登場する。

それでは駄目だ。

……いや、確かに、ハワイでのゴジラの上陸シーンはなかなか手間がかかっていて見ごたえがあるのだが、私が言っているのは、その「ハワイ上陸」に至るまでの過程だ。

その「ハワイ上陸シーン」の何日も前から、「ミステリアスな生物ゴジラ」の周囲に、ミステリアスで不穏な空気を醸成して置かなくては駄目だ。

最初は少しずつ、徐々にクレッシェンドをかけて、ミステリアスに「不吉な予感」を盛り上げていき、その予感が最高潮に達した瞬間、「どどーん」と出現しないと駄目だ。

空母が最初にゴジラを感知する前に「なんだ? この異常なデータは? 何かの予兆か?」みたいに人間側が困惑しつつも、それを追跡して行き、徐々に「怪獣」の全貌が現れる、という感じにしないと駄目だ。

何だかんだ言って、最後までダレずに面白く見られたのも事実。

これだけ行き当たりばったりのストーリーで、それでも最後までダレずに観られたのは、やはり最近のハリウッド大作らしくアクションに次ぐアクションで畳みかけるようにして、ご都合主義のストーリーでも力技で観客を引っ張ったからだろう。

そして、やっぱり「怪獣」というものには人々を引き付ける魅力があるという事か。

さいごに。

つくづく、怪獣というのは映画の題材として特別な物なんだなぁ、と感じた。

日本人にとってはもちろん、海外の人々にとっても。ものすごく魅力的な存在であることは間違いない。

しかし、それだけに扱いの難しい存在でもあるのだろう。

「怪獣とは何ぞ」という問いかけに始まり、再び「怪獣とは何ぞ」という問いかけに戻る。百人いれば百人の怪獣感がある。

その怪獣の中でも「ゴジラ」という名前は、さらに特別な響きを持つ。

まさに「キング・オブ・怪獣」といった所か。

1998年の初のアメリカ製ゴジラから15年かけて、ハリウッドはようやく「単なる巨大生物ではなく、何らかの文化的キャラクター性を付加された存在として怪獣を創造する」という地点にたどりついた。

おそらく、これからアメリカ版ゴジラがシリーズ化される事になれば、アメリカ文化の特性を背負った「ゴジラ」になって行くはずだ。

一つの可能性は「アメコミ・ヒーローとしてのゴジラ」だろう。

ハリウッドは今回の「ギャレ・ゴジ」で、日本が持っているもう一つの怪獣ブランド「ガメラ」を参考にしつつ、既に「アメコミ・ヒーロー・ゴジラ」の可能性を探っているように見えてならない。

ハリウッド・ゴジラがこれからも作られ続けたと仮定して、何年か後に振り返って見たとき、このギャレ・ゴジは、ハリウッド・ゴジラが「単なる巨大生物」から脱して「アメコミ・ヒーロー」としての地位を確立する、その過渡期の作品として評価されるのではないだろうか。

私個人は、そういうチャンピオンまつり的なゴジラを一概に否定したくないと思いつつも、やはり、ゴジラと名前が付いている以上は、人間の価値感の外側に立ち、人間に何かを突きつけてくる存在であってほしいと思う。