「変身ヒーローもの」と「旅もの」は相性が悪い。
私は、小説投稿サイト「小説家になろう」と「カクヨム」に自作の小説を投稿している。
年末から年明けにかけてnetflixでアメリカのドラマ「ゴッサム」を観てしまった影響で変身ヒーローものを書きたくなってしまった。
それで、変身ヒーローものに関して勉強していたのだが、ふと魔が差してバンダイ・チャンネルで「銀河漂流バイファム」を観始めてしまい、さらに児童書の「ニルスの不思議な旅」を読み始めてしまった。
それで急に「旅もの」の小説を書きたくなって、旅ものについての勉強を始めてしまった。
最初、私は「変身ヒーローが旅をする」話を書けば一石二鳥だろ、と安易に考えて、その線で物語を考えていたのだが、これがどうにも上手くいかない。
「あれ……おかしいな……何でかな……」と思っていたのだが、現時点で出した答えは、こうだ。
「変身ヒーロー」ものと「旅もの」は相性が悪い。
「旅テンプレ」の定義
「テンプレ」というのは、テンプレート(雛形)の略だが、ここでは「物語の類型」くらいに思って頂きたい。
旅をする物語の類型も1つではなく色々あるのだろうが、この記事では以下のように定義しておく。
「田舎の村で生まれ育った少年が、旅に出て、仲間と出会い、成長し、魔法の武器を手に入れ、最後に悪い魔法使いを倒して、王さま(あるいは長者さま)になる」
さらに簡略化すると「少年が旅に出て、成長して、立派な大人になる」という話だ。
アメリカのエンターテイメント業界には、何でもかんでも「旅テンプレ」に還元しようとする悪癖がある。
アメリカ人は、この世界のあらゆる物事を一言で説明できるような「唯一にして全能なる原理」を求め過ぎる。
彼らは、なぜ「世界は多様である」という世界観に耐えられないのか?
これは、ひょっとしたら、
「世界は唯一神によって創造された。ゆえに、世界の全てを説明する『神の御言葉』としての『原理原則』が、きっとどこかに存在するはずだ」
という、一神教的世界観から来ているのかもしれない。
そして、現在のアメリカのエンターテイメント業界は、その「神の御言葉」を「旅テンプレ」の中に見い出したかのごとく、ありとあらゆるジャンルの物語を「旅テンプレ」に還元しようとする。
物語に類型があることは否定しないが、それが「旅テンプレ=少年の冒険と成長の物語」ひとつだけという説に、私は首を傾げてしまう。
何でもかんでも「旅テンプレ」にコジつけるのは、いかがなものか。
これは私の勘だが、「変身ヒーローもの」を無理やり「旅テンプレ」あるいは「少年の成長物語」として描いてしまうと、いずれそこに無理が生じると思う。
「変身する」という行為は「成長」ではなくむしろ「成長の完了」あるいは「成長の終了」を意味する。
成長が「子供→大人」という不可逆な一方通行であるのに対し、ヒーローの変身は「人間←→ヒーロー」の間をいつでも自由に行ったり来たりできる。
子供が成長して大人になるとは、「大人の世界」という子供にとって未踏未知の場所、かつ、一度その世界に足を踏み入れたら二度と戻って来られない場所に向かって、命がけで橋を渡るという行為であるのに対し……
変身、すなわち「人間←→ヒーロー」の間を自由に行ったり来たりするということは、変身前の自分と変身後の自分、その両方と折り合いをつけて上手く付き合って行くということだ。
変身能力は、成長する能力ではない。
大人になった証として付与された力だ。
あるいは「嫌でも今すぐ大人になれ」と、誰かから強制的に付与された能力だ。
例外的に、シリーズの「第1話」「パート1」だけは「少年の成長物語」にする事が可能だ。
ヒーローもの第1話は、必然的に「ヒーロー誕生秘話」の物語にならざるを得ない。
そこでは、「初めての変身」が描かれる。
まさに、平凡な少年がヒーローになる成長物語だ。
ただし、その「成長物語」は、第1話で主人公が変身に成功した時点で完了だ。
第2話以降では、別の物語が始まるべきだ。
変身ヒーローの物語が「少年の旅=成長」の物語でないのなら、では、一体何なのか。
「旅テンプレ」が「少年が旅をしながら成長し、最後に王になる物語」ならば……
では「変身ヒーロー・テンプレ」とは、いかなるものか?
私の出した結論は、こうだ……
「変身ヒーローもの」とは、(物語の早い段階で)すでに王になっている主人公が、自分の王国を保守し続ける物語だ。
変身ヒーローは、望むと望まざるとに関わらず、最初からすでに王(あるいは『闇の王』)としての力と資格と責任を持つ。
変身とは、すなわち王冠をかぶるという行為だ。
彼が物語の始まりから既に王であるなら……怪人や秘密結社、あるいは悪の科学者などの敵と戦い、自分の王国を守り、国民の期待に答えるのは「義務」であり「責任」だ。
さらに卑近な言葉を使えば、日々繰り返される「王としての日常業務」だ。
それは「旅テンプレ」とは別の何かだ。
少年が見知らぬ土地を訪ね、人と出会い、知識を得て、精神的にも肉体的にも成長するという「旅テンプレ」のワクワク感とは無縁の、別の、物語だ。
例えば、水戸黄門。彼は一種の変身ヒーローだ。
普段は、商家のご隠居さまとして全国を行脚し、いざ悪い奴らを見つけると「先の副将軍、水戸光圀公」に、華麗に「変身して」悪を懲らしめる。
これは正(まさ)しく「変身ヒーロー」テンプレだ。
なるほど確かに、黄門さまも全国を旅して回る。
では「水戸黄門」は「旅テンプレ」だろうか?
少年が旅をして、仲間と出会い、魔法の武器を手に入れて魔王を倒し、王さまになる話?
……いや、違う。
水戸黄門こそは「変身ヒーロー」(=物語の最初から既に王である男)が、自分の王国を保守(メンテナンス)して回る話だ。
- 彼は少年ではなく老人だ。賢者だ。いまさら成長の余地は無い。
- そして最初から、助さん、角さん、風車の弥七、うっかり八兵衛、かげろうお銀という、強力で愉快で色っぽい旅の仲間がいる。
- そして最初から「葵の御紋の印籠」という、見た者すべてをひれ伏させる強力な魔法のアイテムを持っている。
- 何より、黄門さまは最初から「先の副将軍」という高い地位と絶大な権力をもっている。
つまり、旅テンプレが「王さまになるまでの話」だとすると、変身ヒーロー・テンプレは「王さまになってからの話」というわけだ。
もし、どうしても水戸光圀公というキャラクターを使って「少年が旅を通じて成長し、仲間を集め、最後に魔王を倒して自らが王になる」という物語を描きたいのであれば、それは「ヤング黄門さま」とでも言うべきプリークエル(前日譚)の形を取らざるを得ないだろう。
それでは、もはや水戸黄門とは呼べないだろうが……
秘密基地……少年の成長物語と変身ヒーローを両立させる方法。
「秘密基地=少年時代の特権としての変身能力」という形でなら、成長物語と変身ヒーロー物語は両立可能かもしれない。
変身ヒーローに秘密基地は付き物だが、大人社会に隠れて何かをするという意味では、変身ヒーローそれ自体が「秘密基地」だ、とも言える。
秘密基地は、子供から大人になる過程で一時的に入ることを許された場所であり、大人社会に隠れて「何かをする」場所だ。
それは、成長期の少年だけに許された特権だ。
一時的な仮の宿として、一時避難所として「変身ヒーロー」というものを設定し、変身ヒーローという隠れ蓑を通じて徐々に少年から大人になる準備を進めて行く……というドラマ展開なら、変身ヒーローものと少年の成長譚の融合は可能かもしれない。
だとすると、少年主人公にとって変身ヒーローの能力とは「立派な大人になった暁(あかつき)には、捨てるべき何か」という事になる。
それは「変身ヒーローの物語が、いつかは必ず終わる」という事だ。
成長する物語はいつか終わる。永遠に続けたいのなら成長を拒否するしかない。
「こちら亀有公園前派出所」
「ドラえもん」
「サザエさん」
「名探偵コナン」
これら長寿漫画に共通するのは、第一に「一話完結型」のお話である事、第二に「主人公はじめ主要キャラ全員が成長しない事」だ。
考えて見れば当然だ。
物語を永遠に続けたければ時間を止めるしかない。
- 一話完結型である事。
- 時間が進まない世界=キャラは永遠に成長しない。したがって老いる事も無い。
これが、長寿漫画に求められる要素であり、おそらくこれは海の向こうのアメリカン・コミックでも同じだ。
以下は、アメリカのヒーローたちのデビューした年だ。
スーパーマン 1938年
バットマン 1939年
スパイダーマン 1962年
「成長の物語」ではこんなに長くは続けられない。
成長するということは、時間が進むという事であり、いずれ老いて死ぬ……終わりがある、ということだ。
なぜスパイダーマンは何度もリブートさせられるのか?
ハリウッドの製作者たちが作るスパイダーマンの物語が、本質的に「短命」だからだ。
だから、何度も何度も一から作り直すしかない。
おそらく、ハリウッドの制作者たちは、スパイダーマンという物語を「少年の成長物語」としてしか見ていない。
本来なら、少年の成長物語はある程度で区切りをつけて、それ以降は「王としての責務をまっとうするスーパーヒーロー」の物語に移行しなければいけないはずだ。
そうでなければ、長くは続かない。
「こち亀」の両津勘吉やサザエさんのように、「成長しないキャラ=永遠の高校生ピーター・パーカー」として描き続ける方法もあるにはあるが、これは漫画やアニメでのみ可能な手法であり、生身の役者には不可能だろう。
現在のハリウッドは、何でもかんでも、ありとあらゆる物語を「旅テンプレ=少年の冒険と成長の物語」にしなければいけないという強迫観念に取り憑かれているように思えてならない。
成長する少年の物語を長く引き延ばす方法
スポ根ものや、番長もの、格闘バトルものの漫画にしばしば見られる「トーナメントと敵のインフレ」を前提としたドラマ作り……いわゆる「少年ジャンプ方式」なら、ある程度は少年の成長物語を長く続けられる。
- パート1……転校してきた主人公が、その学校の番長とタイマンを張って勝ち、自らが番長になる。
- パート2……隣の学校の番長とタイマン張って勝ち、町の番長になる。
- パート3……県で一番ガラの悪い学校の番長とタイマン張って勝ち、その県の番長になる。
- パート4……全国番長会議で一番強い番長とタイマン張って勝ち、日本一の番長になる。
- パート5……世界番長会議で一番強い番長とタイマン張って勝ち、地球一の番長になる。
- パート6……太陽系で一番強いの番長とタイマンを張る。
- パート7……銀河系で一番強いの番長とタイマンを張る。
- パート8……宇宙で一番強いの番長とタイマンを張る。
- 完結編……神とタイマンを張って勝ち、自ら神になる。
まあ、これでもいつかは終わりが来るわけだが。
チーム変身ヒーローものなら擬似的に「成長」と「永遠の若さ」の両立が可能だ。
仮に、チームのあるメンバーの成長物語を描き、その当然の結果としてそのキャラの「老い」が始まったとしても、残りのメンバーの若々しさが保たれていれば、チーム全体の「成長の余地」は担保される。
頃合いを見計らって、その老いたスーパーヒーローには花道を作って退場して頂いて、新たに新人のスーパーヒーローをスカウトして来て、次のシーズンは、そのルーキー・ヒーローの成長物語を描けば良い。
こうしてメンバーひとりずつ順ぐりに、
「新人としてチームに参加→成長→老成→引退」
というパターンを繰り返せばいい。
これなら、チームそのものは常に新陳代謝して若々しさを保つことができ、かつ成長物語を延々と繰り返し描くことができる。
ハリウッドお得意の「少年の成長物語」と、「変身ヒーローもの」を両立できる。
王は基本的には旅に出ない。
変身ヒーローものが「望むと望まざるとに関わらず王になってしまった男の物語」なら、彼は旅人ではない。
彼には「自国の領土に留まって、自国民を守る」という職務があり、彼だけの王宮=秘密基地があり、そこに定住し、そこから出撃する。領土の外に出ることは滅多にない。
多くの場合、彼の領土はせいぜい大都市ひとつだ。
全国を行脚して回る水戸黄門は、例外の部類だ。
彼の守るべき「領地」は、江戸幕府とその支配下にあった藩全部だ。
広い領土をメンテナンスして回る必要があったから、彼は「旅するヒーロー」だったのだ。
これから水戸黄門タイプの「旅する変身ヒーロー」の物語が増えるかもしれない。
近年、映画館に足を運ぶ観客が「変身ヒーローもの映画」に要求するスペクタクルの規模が大きくなってきている。
原因は、CG技術の発達とハリウッドにおける映画制作費の高騰だろう。
「密造酒を作っていたイタリアン・マフィアの大ボスを取っ捕まえました」程度の活躍でも、かつては変身ヒーローとして充分に褒(ほ)めてもらえた。
しかし21世紀のこのご時世、そんな程度の仕事っぷりじゃ、今時の観客は認めてくれない。
地球滅亡の危機を救うくらいのスペクタクルが無きゃ、変身ヒーローとして物足りない。
となれば、ヒーローたちも、最新鋭の軍艦や戦闘機に乗って世界中を飛び回らざるを得ない。
ヒーローたちが「ニューヨークこそ僕のふるさと」とか「俺が守るべきはゴッサム・シティ」とか言いたくても、もはや映画館でチケットを買う観客が、それでは許してくれない。
たかがビルひとつをテロリストから守った程度では、もう観客は満足しない。
先日、実写版のガッチャマンを観た。
配給会社のシンボルマークを観て驚いた。
「え? ガッチャマンの配給って東宝なの? 東映じゃなかったんだ……」
私の勝手な先入観だが、どこかで、「等身大の変身ヒーローは東映」「大スペクタクルなら東宝」と思い込んでいた。
ガッチャマンは等身大の変身ヒーローなので、当然、東映配給だろうな、と思っていた。
しかし、蓋を開けてみたら東宝配給……
内容も「人類の存亡をかけた戦い」風の話で、大スペクタクル物語にしたかったんだろうな、という印象を受けた。
(実際には、人類存亡そっちのけで、大学サークル内での三角関係だの、俺サークル辞める辞めないみたいな小っちゃい話に終始してしまっていたが……)
ともあれ、伝統的に変身ヒーローより大スペクタクル映画を得意として来た東宝が「ガッチャマン」の配給を買って出たということは、変身ヒーローものの主戦場が、
「人知れず悪と戦う孤独な王の物語」から
「地球存亡の危機に立ち向かう大スペクタクル」へと移りつつある証拠ではないだろうか。
まとめ。
その1。旅テンプレと変身ヒーロー・テンプレは基本的には同一の話に収まらない。
旅テンプレとは「少年が旅の中で成長していき、最後に王になるまでの話」である。
変身ヒーロー・テンプレは「望むと望まざるとに関わらず王になってしまった男が、王としての職務を遂行する話」である。
前者は少年の成長物語であり、後者は既に成長した大人が日々自分の責任を全うする話である。この二つは別の物語であり、基本的には相容れない。
また、変身ヒーローは基本的には、旅に出ない。
変身ヒーローの属性は「王」あるいは「闇の王」であり、彼の業務は、自分の王国(メトロポリス、ゴッサム・シティ、大江戸八百八町……)を健全な状態に保つことであり、その町に住んでいる「王国の国民」を守り、彼らに信頼されることである。
水戸黄門は例外的に「旅する変身ヒーロー」である。
それは、彼が保守すべき王国の領土が広いからである。
これからの変身ヒーロー映画の傾向として、ヒーローが守るべき王国の領土は「ひとつの都市」から「地球全土」にまで広がり、その広大な領土を旅する「水戸黄門型ヒーロー」が増えるかも知れない。
なぜならCG技術を駆使した壮大なスペクタクルに慣らされてしまった観客たちは、変身ヒーローものにも地球規模の壮大な戦いを求めるからである。
その2。例外的に「少年の成長テンプレ」と「変身ヒーロー」を融合させる方法が3つある。
(1)平凡な少年がヒーローになるまでを描く「ヒーロー誕生秘話」型の物語。
もちろん、これは一度きりの物語であり、シリーズの第1話でしか使えない。
このスタイルにこだわりすぎると、「ヒーロー誕生秘話→リブート→ヒーロー誕生秘話→リブート→ヒーロー誕生秘話→リブート」を延々と繰り返すハメになる。
(2)大人社会からの隠れ蓑としての変身ヒーロー。
変身ヒーローというものを、成長過程の少年が大人社会から一次的に隠れるための「隠れ蓑=秘密基地」として描く。まだ大人社会への適応力が充分に備わっていない成長過程の少年が、ヒーローという隠れ蓑を使って大人社会で生きていく術(すべ)を徐々に学んでいくという物語である。
従って、物語の目的は「少年がヒーローという名の隠れ蓑なしでも立派に生きていけること」である。
「ヒーローのコスチュームを脱ぎ捨てること」が最終目標である。
(3)チームものとして、複数のヒーローの群像劇として描く。
群像劇の中で、個々のメンバーの「新加入→成長→卒業」を繰り返し描き続ければ、チーム全体としての若々しさを保ちつつ「成長の物語」を延々と続けられる。
締めの言葉。
さて……あとは小説を書くだけだな! 俺!
ハリウッド映画のコンピュータが発する「チュピ、チュピピピ……」という音が嫌いだ。
以前、
「ハリウッド映画の『にちゃにちゃ、くちゃくちゃ』と言う効果音が嫌いだ。」
という記事を書いた。
その第2弾。
ありがちな効果音それ自体よりも、考えもなしにそれを使ってしまう感性が困る。
未来SF物なんかで、コンピュータを操作するときに、いちいち「チュピ、チュピピピ……」という効果音を入れるのは、21世紀が幕を開けて早や20年が過ぎようという現在、もはや時代遅れじゃないだろうか?
宙に浮かんだタッチパネルみたいなものを触る度に「チュピピ……」
ウィンドウを開いて「チュピピ……」
画像を拡大して「チュピピ……」
おまけに近未来感を出したいのか何なのか知らないが、昔の8ビット・パソコンみたいなフォントでテロップを1文字ずつ「ピピピピピ」って出す演出。
これが20世紀の演出なら仕方無いよ。
しかし、幼稚園児でさえタブレット画面上で指をスワイプさせるこの21世紀に、いまだ「チュピピピピピ」は無いでしょう。
わざとレトロ感を狙った演出意図があるっていうならまだしも、そうでないのなら良い加減やめて欲しい。
これがB級映画なら、予算や時間の制約があって仕方なく出来合いの効果音を使ったという「大人の事情」もあるだろうが、莫大な予算を投じて作られたはずのハリウッド娯楽大作SF映画でさえ、いまだに「チュピピピ」演出がしばしば観られる。
そこに、ある種の「驕(おご)り」というか、「近未来のコンビュータ? チュピピって音させときゃ良いよ」という雑な感性を感じてしまう。
地面の上をズザザザザー……ピタッ!
愚痴ついでに、昨今のハリウッド演出についてもう一つ。
「敵に吹っ飛ばされた主人公が、立ったままの姿勢で地面の上をズザザザザーッ、と滑って行って、ピタッ、と止まる」
このような表現を、最近のハリウッドSF娯楽大作が好んで繰り返し使っている事に気づいた人も多いと思う。
おそらく、これは日本のアニメからの借用だ。
日本の「アクションSF娯楽大作」映画に散見される「ハリウッドっぽいべ? カッコ良いべ? だべ?」という演出も最悪にカッコ悪いが、昨今のハリウッドに散見される「アニメっぽいべ? ジャパニメーションっぽいべ? クール・ジャパンだべ?」という演出も、ちょっと鼻につく。
先人の成果に学ぶのは良いことだが、これ見よがしの「○○っぽくてカッコ良い」演出は、逆に観ている方が冷めるので止めて欲しい。
「旅もの」の勉強をしている。
私は「小説家になろう」と「カクヨム」というウェブ小説投稿サイトに、自作の小説を投稿している。
ちょっと前まで「変身ヒーローもの」を書こうと思って勉強していたのだが、急に「旅もの」を書きたくなって、ついうっかり、そっちの勉強を始めてしまった。
どうして急に「旅もの」を書きたくなったかというと、うっかりバンダイ・チャンネルで「銀河漂流バイファム」を観てしまったからだ。
さらに、何を思ったか、うっかり児童文学「ニルスの不思議な旅」を読み始めてしまった。
うぉぉー旅してぇぇぇ!
宇宙船に乗ってラップランド目指してぇぇぇ!
……というわけで、取りあえず「変身ヒーローもの」はお預けにして「旅もの」を書きます。
この時代のサインライズ・アニメには「十五少年漂流記」ベースの話が多い。
とりあえず、バイファムを視聴しつつウィキペディアで調べると、本作が実は「機動戦士ガンダム」用に作られた企画書を流用した物語であると記されている。
そして、それがジュール・ベルヌの「二年の休暇」(いわゆる十五少年漂流記)からの着想であることもウィキペディアに書かれていた。
……なるほど……少年達が宇宙船に乗って漂流するストーリーは、確かに十五少年漂流記っぽい。
さらにウィキペディアからの引用になるが、後年のサンライズ・アニメ「蒼き流星SPTレイズナー」や「無限のリヴァイアス」なども、この「十五少年漂流記」ベースのプロットが用いられているようだ。
そういえば「伝説巨人イデオン」なども物語の始まりは同じだな。
つまり、物語の導入部が
- 宇宙開拓時代、人類は、宇宙空間あるいは他の惑星に植民地(=コロニー)を建設し、移住している。
- そこへ突然、敵が襲来する。
- 少年達は、敵の攻撃から逃れるため、宇宙船に乗って母なる地球を目指す。
という形だ。
もう、これ「サンライズ・ロボット・アニメ型プロット」と名付けても良いくらいだ。
そこで、久しぶりにテレビ版「機動戦士ガンダム」の第1話を改めて観た。
……いや、凄かった。
もの凄い緊張感だった。
バイファムのファンには申し訳ないが、バイファム第1話を観た後だっただけに、そして、前述した通り、バイファムもガンダムも第1話のプロットは「サンライズ・テンプレ」であり、話の展開は全く同じと言っても良いくらい似ているだけに、両者の演出力の「格の違い」を見せつけられてしまった。
ガンダム第1話の息が詰まるような緊張感に比べると、バイファムの第1話は、ちょっと「ゆるい」
もう少し「旅もの」ジャンルに関して勉強してみます。
観たり読んだりしたものに影響され過ぎだと、我ながら反省しつつ。
ホテルのテレビのリモコンが電池切れだった時あるある。
思わずチャンネルのボタンを強く押してしまう。
指が白くなるまで押してしまう。
それでも駄目なので親指の爪を立てて奥まで押し込む。
それでも駄目なのでリモコンをテレビの方へ突き出しながら「ふんっ! ふんっ!」と気合を入れて押してみる。
でもやっぱり駄目なので諦めてホテルのWIFIでメールチェックを始める。
変身ヒーローものの勉強をしている。
私は「小説家になろう」と「カクヨム」というウェブ小説投稿サイトに、自作の小説を投稿している。
年が明けたら急に、いわゆる「等身大の変身ヒーロー物」を書きたくなってしまった。
それで今、変身ヒーローものについて勉強しようとnetflix、dtv、itunesなど各ネット配信サービスを 物色しているところだ。
変身ヒーローと私
私の子供時代には子供向けの特撮とアニメが本放送・再放送あわせ大量にテレビで放映されていた。
テレビっ子だった私は、幼稚園から小学校低学年までの間、それら無数の子供向け番組を浴びるように観て
育った。
今はもう殆(ほとん)どの番組の内容を忘れてしまったが、薄れかけた記憶を掘り起こしてみると、 当時の男の子向けSF・ファンタジー番組は、大きく分けて以下の三つのジャンルが主流だったように思う。
- ウルトラマン・シリーズとそのフォロワーたち。「巨大ヒーロー・怪獣もの」
- マジンガーZシリーズとそのフォロワーたち。いわゆる「巨大ロボット・アニメ」
- 仮面ライダー・シリーズとそのフォロワーたち。「等身大変身ヒーローもの」
子供時代、私は3ジャンルとも大好きだった。どの番組も食い入るように観ていた。
しかし思春期を経て大人になる過程で、それぞれのジャンルに対する距離は次第に変化していった。
1.「巨大ヒーロー・怪獣もの」と私
今はもう、テレビのウルトラマンそれ自体には、それほど深い思い入れは無い。
しかし劇場で公開される「怪獣映画」は、今でも一番好きな「大スペクタクル映画」ジャンルだ。
2.「巨大ロボット・アニメ」と私
「巨大ロボット・アニメ」に関しては、現在の日本アニメ界では製作本数が減っていることもあり、
最近は観ることもほとんど無くなってしまった。
最近とんと御無沙汰の巨大ロボット・アニメだが、私の心の奥深くに運命的に刻み込まれているのは、
実は「巨大ロボット」ジャンルではないだろうか……と、最近、強く思うようになった。
その理由については、いずれ書く機会もあるだろうから、今は本題である「変身ヒーロー」に関して書く。
3.「等身大変身ヒーローもの」と私
正直に言うと、小学校高学年になって一番最初に「卒業」してしまったのが、このジャンルだったように思う。
小学校も高学年になれば「大人向け」の洋画や邦画にも興味が出るし、さらに成長して中学校に入学したころ から小説を読み始め、だんだんテレビ・ドラマ自体を見なくなっていった。
当時、変身しない生身の主人公たちが超能力で戦う「超能力バトルもの」や「伝奇バイオレンス」
が書店に並び始めていて、私の興味はそちらに移って行った。
例えば「童夢」「アキラ」など大友克洋の超能力SF漫画、菊地秀行、夢枕獏らが書いていた小説群だ。
10代の私には、わざわざ「変身!」と叫んでから闘い始めるヒーローより、念じただけで物を吹き飛ばしたり、
特殊な訓練によって奇想天外な技を繰り出す主人公の方がカッコ良く映ったのだろう。
同じ頃、横山光輝の「バビル2世」を読んだが、これも大好きな漫画になった。
10代の私が例外的に好きだった「変身ヒーロー」漫画は、「強殖装甲ガイバー」「バオー来訪者」くらい
だろうか。同じ荒木飛呂彦の「ジョジョ」第3部も好きだが、そこに出てくる「スタンド」なんかは、
ある意味「変身ヒーロー」のバリエーションかもしれない。
とにかく、思春期に入って以降、「戦隊ヒーローもの」からも「仮面ライダー・シリーズ」からも遠ざかっていたのだが、 2018年の正月に突然「変身ヒーロー」を描きたくなった。
年末年始にかけてテレビシリーズ「ゴッサム」を観た。
netflixで観た。
たぶん、それがヒーローものを描きたくなった原因だ。
全22話のうち14話まで観たところでちょっと飽きちゃって視聴が止まっているが、最初に観た時は 「なるほど、こういう切り口もあるのか」と思って引き込まれた。
それで「よし、俺も一丁、変身ヒーローものを書くか!」と、思ってしまったんだと思う。
現時点で視聴した変身ヒーローもの。
とりあえず、各ネット配信サービスを利用して以下の映画を観た。
「スキャナーズ」は変身しないので、厳密には「超能力バトルもの」ジャンルだが、 なんとなく久しぶりに観たくなったので再視聴した。
次に、現在の日本映画界における「変身ヒーローもの」の到達点を確認しておこうと思って「ガッチャマン」 を観ることにした。
ガッチャマンを観たあと、「マン・オブ・スティール」「スーパーマン対バットマン」を観た。
変身ヒーローものの原型であるスーパーマンの映画を観る事で「変身ヒーローとは何ぞ」
という事を改めて原点に戻って確認しておこうと思った。
また、現在のハリウッド映画界における「変身ヒーローもの」の到達点の確認にもなるだろうとも思った。
次回の記事以降、それぞれの映画で一つ一つ勉強できた事を書いて行きたいと思う。