ネタバレ! 小説と映画の感想‐青葉台旭

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ネタバレ! 映画「モンスターズ/地球外生命体」感想

dtv で映画「モンスターズ/地球外生命体」を見た。

モンスターズ / 地球外生命体 [Blu-ray]

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*ネタバレ

2014年のハリウッド版「ゴジラ」を監督したギャレス・エドワーズの長編劇映画初監督作品であり、この映画で認められて、ゴジラの監督に大抜擢された。

「モンスターズ」そのものは、正統派の怪獣映画というより、「怪獣映画的な要素を持ったロードムービー」であり、「ひょんな事から若い男女が出会い、成り行きで一緒に故郷を目指して旅をする」という王道ロードムービーがメインの 低予算インディーズ系映画である。

あらすじ

地球外生命体のサンプルを採取したNASAの惑星探査機が故障してメキシコに落下し、その結果、アメリカと国境を接するメキシコ北部で地球外生命体が繁殖してしまい、メキシコ国土の北半分は「汚染地帯」として外界から隔離されてしまう。

アメリカは汚染されたメキシコとの国境に巨大な「壁」を築き自国を地球外生命体から守る一方、メキシコの国民たちは地球外生命体と、それを殲滅しようとするアメリカ軍との戦いに巻き込まれ不安な日々を送っていた。

(ちなみに、日本語字幕では「危険地帯」と書いてあったが、元の英文は「quarantined as an infected zone」である。単なる「危険地帯」ではなく「伝染病に汚された地帯」という意味である)

メキシコで取材をしていた新聞社のカメラマン、コールダーは、新聞社の社長から「メキシコで地球外生命体と米軍との戦いに巻き込まれた娘を無事アメリカまで送り届けろ」という命令を受ける。

本当はメキシコで取材を続けたかったコールダーだったが、社長の命令には逆らえず、しぶしぶ社長令嬢のサマンサと一緒にアメリカに帰国するための旅に出るのだった。

ロードムービーと怪獣映画の融合は可能か?

結論から言えば、可能だった。

この映画で、それが証明された。

メインのプロットは、あくまで

  • 我がままでナイーブで世間知らずのくせに何不自由ないアメリカでの生活に嫌気が差してわざわざ発展途上国で暮らすお金持ちのお嬢さま
  • 自己実現を求め、スクープをものにしようと紛争地帯に来たのに、新聞社社長の命令には逆らえず、わがまま社長令嬢を送り届けるため嫌々アメリカに帰国するカメラマン

この男女二人の道中ものだ。

地球外生命体の描写は、その珍道中の背景として描かれているだけだ。

だから、メインディッシュとしての「怪獣」を求めてこの映画を観ると、肩透かしを食らう。

しかしメイン・ストーリーである「男女2人の道中もの」に、サラリと軽く「怪獣映画」要素をからませてしまうあたりに、むしろ、監督ギャレス・エドワーズが「怪獣」というものを自家薬籠中の物にしているなぁと感じてギャレス・エドワーズは分かっているなぁ、と思ってしまった。

この低予算インディーズ映画を観て、ギャレス・エドワーズを大作「ゴジラ」に抜擢したあたり、ハリウッド・ゴジラのプロデューサーも見る目があると思ってしまった。

まず、ロードムービーとして良く出来ている。

「我がままで世間知らずのくせに、お金持ちの暮らしに飽きてわざわざ発展途上国で暮らすモラトリアムお嬢さま」と 「本当は自己実現したいのに、生活のため上司の命令には逆らえないカメラマン」の二人の珍道中という、まあ、有りがちと言えば有りがちなストーリーなのだが、その有りがちなストーリーを丹念に良く描いていて、気持ちが良い。

例えばメキシコを旅する道中で、怪獣によって破壊された風景を次々と写真に収めるカメラマンに、新聞社の社長令嬢が「他人の不幸で金を稼いでいる」と言い、カメラマンは「そんなこと言ったら、医者だって同じだろ」と言い返す。

自分が親の金でのうのうとモラトリアムを続けていられるのは、親の会社で働く記者やカメラマンたちのお陰だとか、カメラマンにだって自分の生活があるんだという事に思慮が及ばず、無神経に正論だけを吐くところにお嬢さまの世間知らずっぷりが良く出ている。

彼女は、メキシコで不幸な人々と共に暮らしているつもりになっているが、その左手薬指には大粒のダイヤモンドが輝いている。

つまり彼女には大金持ちの婚約者が居て、きれい事を並べてみたところで、しょせんメキシコでの暮らしは金持ちのお遊びでしかなく、時期が来ればアメリカに帰って上流階級の男との結婚が約束されている、その事を他でもない彼女自身が実は一番良く分かっている。

一方、カメラマンのほうも、他人の不幸を飯のタネにしていることに、実は後ろめたさを感じている。

「紛争地帯の悲惨な人々を撮った写真は高値で売れるが、笑顔の写真を撮っても何の価値も無い」と言うとき、暗に(俺だって、それが正しいとは思っていないが、食うためには仕方がない)という感じをにじませている。

こういう描写が声高に主張されるでもなく、控えめに演出されていて「端正な映画だなぁ」という心地よさがあった。

また、その有りがちなストーリーに「地球外生命体」というファンタジー要素を絡ませるという発想が斬新で、何とも言えない不思議な雰囲気を醸し出していた。

非対称戦争の象徴としての怪獣

(戦闘機対戦闘機の戦いとか、戦艦対戦艦の戦いとか、国家と国家が持てる力を正面からぶつけ合う戦争を総力戦と言い、それに対し、貧しい武装集団が、最先端の強力な兵器を持つ大国に対しゲリラ戦を挑むことを非対称戦争という)

怪獣映画における怪獣は、その時代時代で色々なものの象徴としての役割を担ってきた。

たとえば「ゴジラ対ヘドラ」においては、ヘドラは自然環境破壊の象徴だし、ゴジラは環境破壊に対する大自然の怒りを象徴している。

言うまでもなく、1954年の初代ゴジラは戦争の象徴であり、核兵器の象徴である。

もちろん、巨大な自然災害の象徴としての役割もあるだろう。

では、この「モンスターズ」における怪獣は何を象徴しているかというと、非対称戦、つまり紛争地帯におけるゲリラ戦、あるいは突発的なテロを象徴している。

これは、今までの怪獣映画には無かった新しい切り口だ。

つまり監督のギャレス・エドワーズは、怪獣映画における「怪獣」が単なる「モンスター」ではなく、実は戦争の象徴であるという事をじゅうぶんに分かった上で、さらにそれを自分なりに咀嚼して「ゲリラ戦における局地的・突発的な暴力」の象徴という解釈を持ち込んだ。

これは、多くの怪獣映画を作って来た「本家」日本映画にも未だ無かった切り口ではないだろうか。

今までの(日本の)怪獣映画において「怪獣と軍隊との戦い」が描かれるとき、多くの場合それは「国家総力戦」だった。

怪獣による国土侵攻というのは常に国を挙げて対処すべき「国難」だった。

ところが「モンスターズ」における「怪獣の出現」は「いつ、どこで発生するか分からない」それでいて「現地の人々にとっては日常化してしまった」暴力として描かれている。

メキシコに駐留するアメリカ軍は、最新鋭の戦闘機による空爆や地上部隊によるパトロールで怪獣に対応しようとするが、現れた怪獣一匹だけを退治することは出来ても、局面全体を打開する事が全くできない。もぐら叩きのように「突然怪獣が現れる→犠牲を払ってその一匹だけを叩く」「別の場所に突然怪獣が現れる→また犠牲を払ってその一匹だけを叩く」ことを繰り返すばかりである。

その「怪獣対アメリカ軍」の局地戦にメキシコの市民たちは巻き込まれ、犠牲になって行く。そして「アメリカ軍こそが怪獣だ」「アメリカ軍は出て行け」というスローガンが掲げられる。

その一方で、日常化してしまった暴力の中でメキシコ人たちは半ば諦めムードで日々暮らしていく。

この映画において、アメリカ軍の最新鋭戦闘機の編隊が上空を通過するという描写が「不穏の予感」の象徴になっている。

一般的な怪獣映画において「戦闘機が怪獣を迎撃する」というシーンは、(結果として通常兵器は役に立たず、戦闘機が怪獣によって撃ち落されるとしても)脅威に対する国家の、あるいは人類の反撃の象徴として描かれる。多くの場合、高揚感を感じられるように描写される。

しかし「モンスターズ」において戦闘機が出撃するという事、爆音を響かせて自分たちの上空を通り過ぎるという事は、第一に「どこかにまた怪獣(ゲリラ、あるいはテロリストの象徴)が現れた」という予感であり、第二に「アメリカ軍がその怪獣の上に爆弾を落とす」予感であり、第三に「関係の無い市民がそれに巻き込まれて死ぬ」という予感である。

また、怪獣が圧倒的な自然災害の象徴であるという事も、ギャレス・エドワーズは理解している。

ハリウッド版「ゴジラ」で、ゴジラの最初の上陸シーンを観たとき「ああ、これは『自然災害としての怪獣』を描こうとしているな」と思った。

この「モンスターズ」にも「巨大な自然災害としての怪獣」という描写がある。

主人公がボートに乗って川を下る途中で、怪獣によって陸に打ち上げられた大きな船が出てくる。

その船は単に陸にあるというだけでなく、通常では考えられないような高い場所に放置され、朽ち果てている。

圧倒的な自然の力によって「ありえない高さの場所に引っかかってしまった船」の映像を、われわれ日本人は何度も目にした。

われわれ日本人が見た映像は、当時、YOUTUBE などを通じて全世界の人が目にしたはずだ。

壁のこちらがわには紛争地帯。向こう側は先進国。

映画の最後近く、主人公たちはジャングルに眠るマヤ文明のピラミッドに登る。

その頂上からは、メキシコとアメリカの国境に作られた巨大な壁が延々と続いている様が見えた。

主人公たちは言う。

「あの壁の向こうでは、平和で平凡な日々が僕らを待っている」

「同じ祖国も、壁のこちら側とあちら側ではと全く別のものに見える」

壁まで歩いて行くと国境の検問所は無人で、地球外生物は既に国境を超えてアメリカ側に侵入し、人々は避難した後だった。

ちょっと失礼な(傲慢な)言い方だが、最近、「外国人も『怪獣映画の何たるか』を理解し初めている」という感覚がある。

日本人の私は、かつて「いくらハリウッドが大金を使って怪獣映画を作ったとしても、しょせん、それは『アメリカナイズされたモンスター・ムービー』で『怪獣映画』ではないよ」と思っていた。

しょせん、アメリカ人には怪獣映画の何たるかは理解できないよ、と。

「カリフォルニア・ロール」を寿司って言われても、ねぇ、という。

しかし、この「モンスターズ」を監督し、直後にアメリカ版の「ゴジラ」を監督したギャレス・エドワーズといい、「パシフィック・リム」を監督したギレルモ・デル・トロといい、「クローバーフィールド」のマット・リーヴスといい、ハリウッドにも怪獣映画の何たるかを「分かっている」映画人が出現し始めているな、という感覚がある。

どうせお前らカリフォルニア巻きが好きなんだろ、と思っていたら、気がついたらアメリカ人の中にも正統派すし職人が現れていた、といった感じか。

まあ、ギャレス・エドワーズはイギリス人で、ギレルモ・デル・トロはメキシコ人だが。

逆に「発展途上国の紛争地帯における突発的なゲリラ攻撃やテロリズムとしての怪獣」という解釈は、日本人には無かった発想だなと感心した。

最後にもう一度書くが、これは「怪獣映画」ではなく、「怪獣映画的要素を取り入れたロードムービー」である。

メインのストーリーは、あくまで若い男女二人の道中ものである。

良い映画だが、怪獣映画を期待して観ると肩透かしを食らう。あくまで良く出来たロードムービーが観たくなった時に観てほしい。