ネタバレ! 小説と映画の感想‐青葉台旭

小説と映画のネタバレ感想が書いてあります。メインのブログはこちら http://aobadai-akira.hatenablog.com/

映画「マネー・ショート」google play で観た。

*ネタバレです。

いわゆる「痛快逆転劇エンターテイメント」ではない。

はじめに注意していただきたいのは、この映画は「固定観念にとらわれて真実が見えていない多くの常識人に対し、はぐれ者たちが逆転の発想で一泡ふかせる」といった痛快逆転劇ではないという事だ。

そういうエンターテイメントをこの映画は指向していない。

じゃあ、いわゆる芸術映画なのかというと、それも違う。

芸術映画を好んでみるような「知識人」「ハイブロウ」のみを対象にはしていない。むしろ、サブプライムの対象であり、この問題の一番の被害者である(と、おそらく製作者側が思っている)低学歴低所得の人々に見てもらいたい、かれらを啓蒙したい、という意図が所どころにある。

しかし「金融問題」という難しいテーマと「低学歴低所得の人々を啓蒙したい」という意図が、必ずしもうまくパッケージされていないと思った。

これは「空売り」ではなく、保険金を使った儲け話ではないだろうか。

原作本の邦題は「世紀の空売り」だ。

原作は読んでいないが、映画を観る限り、これは厳密な意味での「空売り」ではないのでは、という感想を持った。

原作の原題も、映画の原題も「The Big Short: Inside the Doomsday Machine」で、short には「空売り」という意味があるらしいから、間違ってはいないのだろうが、日本語の意味としての空売りは「いまは手元に無い商品を『今は現物を渡せないけど、必ず後で渡すから』と言って売る」という信用取引の事だろう。その「後で渡す」という、現金の取引と商品の受け渡しの間の時間差を利用して利益を稼ぐという事のはずだ。

ところが、主人公たちが金儲けに使った商品は「Credit Default Swap」という一種の保険だ。映画の中のセリフを私なりに変えて言えば「将来、火事が起こると予想した家に、家の持ち主でもない赤の他人が保険を掛ける」という手法だ。その家が本当に火事になれば保険金で大儲けできるが、火事にならない限り掛け金を払い続けなければいけない、というのがこの映画のメインのサスペンスという事だ。

ストーリーを理解するうえで最低限、感覚をつかんで置くべき4つの専門用語。

金融業界の専門的な用語が出てくるのでネットで調べた。

その結果、ストーリー上、ある程度感覚をつかんでおかなくてはいけない用語は4つあると思った。

以下に、その4つのキーワードを私が素人なりにつかんだ感覚を書く。

間違っている可能性もあるので、映画を観る前に、この4つの言葉を調べて置くことをお勧めする。

MBS
「Mortgage Backed Securities」日本語訳は不動産担保証券。mortgage=担保。backed=裏付けされた。securities=有価証券。つまり、不動産ローンの担保を証券にして、他人に売るということ。
CDS
「Credit Default Swap」credit=信用。default=不履行。swap=交換。私なりに訳せば「元本割れ補てん」という事か。誰かの持っている金融商品が元本割れしたとき、その元本と時価との差額を現金で補てんする一種の保険。対象の金融商品が実際に元本割れするまでは、毎月保険料を払い続けなければいけない。一般的な保険と違い、自分の持っていない金融商品に対するCDSを買うことが出来る。例えて言えば「赤の他人の家に火災保険を掛けられる」。映画の主人公たちは、これに賭けた。
CDO
「Collateralized Debt Obligation」日本語訳は債務担保証券。collateralized=担保された。debt=債務。obligation=債券。自分の持っている債権を裏付けにして発行する債券。つまり他人に貸した金を返してもらう権利を証券にして、他人に売るということ。
サブプライム・ローン
「Subprime Lending」subprime=優良客の下の層。lending=融資。prime=優良に接頭語のsubが付いて「優良の下」すなわち「優良では無い」「低所得者層」となり、返済能力の低い(貸し倒れの可能性が高い)低所得者たちを対象に組まれたローン。

投資会社が別の投資会社のCDOを買う→その投資会社のCDOをさらに別の投資会社が買う、の連鎖

  1. ローン会社Aは、回収の確率の高い優良客のローンと、回収の確率が低い低所得者へのローンをごちゃまぜにパッケージして、MBSを作り、投資会社Bに売る。

  2. 投資会社Bは、ローン会社Aの作った怪しげなMBSも含めて、自分の持っている多数の債権をごちゃまぜにしてCDOを作り、それをさらに別の投資会社Cに売る。

  3. 投資会社Cは、投資会社のCDOも含めて、自分の持っている多数の債券をごちゃまぜにして、投資会社Dに売る。

  4. 以下、繰り返し。

この結果、リスクの低い債券とリスクの高い債券の混ぜ合わせが無限に繰り返され、もはや誰がどの程度のリスクを負っているのかが見えにくくなる(客を煙に巻くために、わざとごちゃまぜにして見えにくくする)

話は、メタ構造になっていた。「第四の壁」を超えて、登場人物が観客に話しかけてくる。

これは、金融に対する専門知識が無い人にストーリーを分かってもらうための苦肉の策のように思えた。

メイン・ストーリーとは関係の無い解説シーンが3回ある。

アメリカでは良く知られているらしい有名人に、メインストーリーとは関係なく金融用語の解説を差せているシーンが3回ある。

マーゴット・ロビー
セクシー女優っぽい女性が、泡風呂で「サブプライム・ローン」の解説をしている。このマーゴット・ロビーという人は「ウルフ・オブ・ウォールストリート」にも出演しているらしい。この辺も、メタ的なジョークになっているのだろう。
アンソニー・ボーディン
高級レストランのシェフがCDOを「質の悪い売れ残りの魚をこっそり混ぜ込んで新たに煮込んだシチュー」に例える。アンソニー・ボーディンは料理人兼作家兼テレビ番組の司会者らしい。
リチャード・セイラーとセレーナ・ゴメス
「合成CDO」を「『カジノでどちらのプレイヤーが勝つか』を取り巻き客同士が賭け、その取り巻き客のどちらが勝つかを別の取り巻き客同士が賭け……という連鎖」で例える。リチャード・セイラーは行動経済学者、セレーナ・ゴメスは可愛い系アイドル女優。

これらの解説シーンが唐突に始まる。これも、難しい金融問題を何とかして観客に分かってもらうために苦肉の策だろう。セクシー女優やアイドル女優を起用する所には、おそらく「サブプライム問題の真の被害者」という風に製作者側が感じている「アメリカの低所得階級」に対する啓蒙という意図がある気がする。

どんな権利でも、証券化すれば売り買いできる。売り買いできれば、資本家に売れる。

この映画の一番のキモである「CDS」と言うのは、要するに保険である。

「保険は自分の所有物に掛けるもので、他人の所有物には掛けられない」というのが一般的な感覚だと思う。

しかし、CDSは『金融商品』なので、売り買いできなければいけない。売り買いするためには、所有者の変更が出来なければいけない。つまり「火災保険」そのものを売り買いするために「火災保険の受取人と、保険の対象となる家の所有者」が別々であっても良い事にしなければいけない。

結果、「家の所有者でもない赤の他人が勝手に火災保険をかけられる」という事になる。

証券というのは、要するに「売り買いできる証明書」の事だろう。

普通、誰かから金を借りる時には「私は○○さんから100円を借りました。一年後に○○さんに返します」という証明書を書く。

しかし、「一年後に○○さんに返します」のところを「一年後に、この証明書を持っている人に返します」という風にすれば「証明書の所有者=金を返してもらう権利のある人」という事になって、○○さんは、その証明書を売り買いできる。

大量の金を使って、それらを売り買いして利益を稼ぐ仕事が金融であり資本家という事か。

ブラッド・ピットの「モサいオッサン」演技が良い。

ブラッド・ピットと言えば当代一流のスターな訳だが、それが、本当にモサッとした不愛想な変人に見える。白髪まじりのボーボーの顎鬚も汚らしくてグッドだ。

クリスチャン・ベールの変人投資家演技も良い。

片目が義眼で、どもり癖があり、オシャレなオフィスにTシャツと短パンで出勤してハード・ロックをガンガンにかける「天才だけど変人」投資家の感じが良く出ている。あごの周りの肉が垂れている感じもダサダサで良い感じだ。

冒頭から、いきなり顔が気持ち悪い。バットマンなのに、ヒーローなのに、顔が気持ち悪い。相手の話を全然聞かないで我が道を行く変人っぷりが良く出ている。新入社員の採用面接で足の裏を搔く所とか。

結局、土地バブル崩壊の映画だった。

バブル時代を微かに知っている世代にとっては、日本では三十年近くも色んな所で語られ続けてきた土地バブルの話で、正直、新鮮味が無かった。

ちなみに、映画の中で「転売目的で土地を五つも六つも買ったストリッパー」が出てくるが、ああいう話は、私もバルブ全盛時代の日本で何度か耳にした。

「土地やマンションは永遠に値上がりする。地価が下がることは絶対にない」とか何とか、誰かに吹き込まれてマンションを買い、マンションが値上がりしたら売って、それを資金にさらに高いマンションを買う、なんてことを投資家でも金融関係者でも何でもない一般のサラリーマンが繰り返していた。

要するに、素人がバブルに踊らされていた。

ウォール街のエリートから、地方の不動産やまで、とにかく金融関係者は徹底的に「不誠実で薄っぺらい俗物ども」として描かれてた。

そういう不誠実な俗物どもが一番悪いのは事実だが、では「住みもしない家を五つも六つも買ったストリッパー」のリテラシーというか、「悪党どもの餌食にならないための防衛能力」は、どうやって向上させればいいのか。

残念ながら、世の中から不誠実が無くなることも、薄っぺらい俗物が居なくなることもないだろう。再び状況が巡って来れば、奴らは必ず再び動き出す。

その時に備えて、再び騙されないようにストリッパーは何をすれば良いのか? 「全てのストリッパーは悪徳業者に騙されないように、大学の経済学の社会人講座で単位を取得する事」という法律でも作るか?

「全ての人が高い知性を持つ社会、全ての人がそうなるべく努力する社会」が良い社会なのか。

「全ての人が知性が低くても楽に生きられる社会」が良い社会なのか。

エンターテイメントとしての造りの良さよりも、悪をあばくという社会正義を優先させた映画。

制作会社の「プランB」というのは、ブラッド・ピット自身がオーナーの映画会社で、ちょっと変わった映画を連発している。

今回は、エンターテイメントとしての体裁をある程度犠牲にしてでも、金融世界の巨悪を許さないという姿勢が目立つ映画だった。それだけ、思いが強かったのだろうか。

製作者は、素人でも分かりやすく物語の前提となる設定を説明しようと、手を変え品を変え、大変に苦労したと思う。

しかし、残念ながら、それが完全に成功しているとは言えなかった。

映画こそ、資本主義の権化とも言うべき生産物ではないか。

ハリウッド映画では、時々「アメリカ資本主義批判」映画が作られる。

しかし、私は思う。「何百億円もかけて制作し、当たれば大儲け、外せば大損のハリウッド大作映画」こそが、この世で一番資本主義的なプロダクトではないか、と。

私は、世界で最も映画製作の盛んな国が、同時に世界で最も資本主義的な国=アメリカであるのは偶然ではないとおもう。

資本主義批判な映画が作られる度に「でも監督さん、その映画を作るために莫大な金を資本家に出してもらったんでしょ?」と、ちょっと意地悪な気持ちになることがある。

まあ「悪の力で、正義を成す」的な、ダークヒーローな正義の存在は否定しきれないし、「『資本主義の全否定』ではなくて、『行き過ぎた』資本主義を修正してバランスを取り戻しましょう」という事なのかも知れないが。

「悪の力と正義の心」の葛藤と言えば、「『バブルがはじける=低学歴低所得者層も含めて、多くの人が不幸になる』ことを利用して主人公たちが大儲けする」というこの物語自身が、終わってみればそういう話だった。

字幕の外国語映画で、BGMに母国語の歌が流れると、脳の言語機能が混乱する。

最後に、映画の本筋とは関係ないが、BGMについて気になったことがある。

私はこの映画を字幕版で観た。

映画のワンシーンで、主人公たちが日本料理屋で会話をするところがある。もちろん彼らは英語を話し、視聴者である私はそれを字幕で追っていた。

そこで、いきなりBGMに日本の歌が流れ出した。設定としては、アメリカの日本料理屋で日本のポップスが流れるという事で、それ自体は、何の不自然さも無いのだが。

私の脳の言語能力が、混乱してしまった。

  • アメリカ人の俳優がしゃべる英語の声
  • それを翻訳した字幕
  • BGMとして流れる日本語の歌の歌詞

この三つを私は無意識に同時処理しようとして、相当の負荷を脳の言語中枢にかけてしまった。

日本のアニメでも、時々、日本語のセリフにかぶるようにして英語や他の外国語(例えばドイツ語)が流れることがある。

日本人の視聴者なら、それで良い。外国語の歌は言語的な意味の無い「音」として処理されるから。

しかし、そのアニメを字幕で見ているアメリカ人やドイツ人は、どうだろうか?

きっと混乱してアニメに集中できないに違いない。

日本の少子高齢化が進む中、ほかの多くの内需産業と同様に、アニメ業界も海外に活路を見出さざるを得ない、そうしなければ、業界に居る人の経済的基盤を支えられなくなる日がいずれ来ると思う。

その時に備えて、BGMに英語をつかうのは控えた方が良いと思う。

映画「ホーンズ 容疑者と告白の角」を観た。

  

ホーンズ 容疑者と告白の角(字幕)

ホーンズ 容疑者と告白の角(字幕)

 

 *以下、ネタバレ注意!

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性器を隠すためと思われる「ぼかし」が数か所ある。それからインターネットの情報によると日本版で削除された部分があるらしい。

まあ、配給会社にも大人の事情というものがあるのだろうが、特に親父の頭を吹き飛ばすシーンを削除するのは、いかがなものか。

正直言って最初観た時、そのシーンが「あまりにアッサリしている」事に違和感を覚えた。

あとになって、残酷描写が削除されていると分かって「そうだったのか」と思った。

映画としての完成度を考えた場合、その描写はあったほうが良かったと思う。

まあ、大人の事情があったというのも分かるが。

最後のシーンは切なかった。

最後の対決の直前、主人公は恋人の父親に会いに行く。

死んだ恋人が残した十字架の首飾りを、彼女の父親に返すために。

父親は「君が持っていなさい」という。

主人公が十字架を自分の首に付けると、悪魔になりかけていた彼の姿が、人間だった頃の姿に戻る。

「つの」も消える。

そして恋人が何故、自分に対して「別れよう」と言ったのか、その真相も明らかになる。

実は恋人は不治の病に冒されていて、いずれ死ぬ運命にあったのだ。

そして主人公に迷惑をかけないために、自ら別れを告げたのだった。

物語の始めに「信仰心の厚かった彼女が、なぜ殺されなければいけないのだ」みたいなセリフがある。

つまり「復讐の鬼」と化した主人公に「人間の心」を取り戻させたのは、厚い信仰心と純粋な心を持った恋人の形見だったという表現だ。

主人公は最後に真犯人と対決するのだが、その時、恋人の形見の十字架を自ら外すことで、封印されていた「悪魔の力」を開放する。

首飾りを外すとき、主人公は天国にいる恋人に対して「ごめん」と呟く。

つまり、いっとき「人間の心」を取り戻した主人公が、再び自ら「悪魔の力」に手を出してしまう瞬間なのだ。

その「きっかけ」が、日本での公開で削除された「恋人の父親の頭を、犯人が銃で吹き飛ばす」シーンだ

「やむにやまれず悪魔の力に再び手を出す」という主人公の切実さを表現するためには、このシーンは、あった方が良かったと思う。

とにかく、主人公は「最終形態」へとパワーアップする。

すると、まず最初に背中から「天使の翼」が現れ、空中に浮かび上がるのだが、すぐに地獄の炎で翼は焼け落ちてしまう。

物語の最初のほうの「悪魔だって元々は天使だったんだ」というセリフと呼応している。

つまり、アメコミのダークヒーローや、日本で言えば「デビルマン」などのような「悪の力と正義の心」の象徴である。

見ていた私は、てっきり「ラストで『変身!』したな。こりゃあシリーズ物のヒーローが誕生したかな」などと邪推していたが、あっさり主人公は死んでしまった。

最後に「復讐は終わった、君(死んでしまった恋人)のもとへ行くよ」と言い残して。

ラストはオープニングシーンと同じ「主人公と恋人が、うららかな春の日差しの中で、じゃれあっている」シーンで終わる。

つまり、恋人は殺され、主人公は復讐を果たして力尽きて死んだが、二人は天国で永遠に幸せになった……という切ない終わり方だった。

*以下、宣伝。

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青葉台旭・作
ハーレム禁止の最強剣士!

自作の小説です。よかったら読んでみてください。

映画「第三の男」の感想

   

 

  *以下、ネタバレ注意! 

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感想

「第三の男」は、一応「サスペンス映画」の古典とされている。
しかし、本当に「第三の男」はサスペンス映画だったのだろうか?
サスペンス映画だとすると、現代の感覚からすると、ちょっと展開がカッタルイ。
盛り上がるシーンになると必ず挿入される「陽気ではあるけれど気の抜けた」チターの音色は、かえって興ざめではないだろうか。

そもそも、この映画がタイトルにもある「第三の男」の謎をめぐる物語だとすると、現代のミステリーを読み慣れ人々にとって、これが「身代わり殺人」であることは、かなり早い段階で気づく程度のやさしいトリックだし、そもそも、そのトリックは、全体の三分の二ほど話が進んだ段階で早々と「第三の男は、実は、死んだと思われていたハリー自身でした。殺されたのは本当は、軍看護師のジョセフ・ルービンでした」と明かされてしまう。

そして、その時点から、映画は「第三の男とは誰なのか」という謎解きのストーリーから、ハリーという人物に対し、周囲の人々がどういう態度をとるかという物語に変化する。

私個人の感想としては前半部の、第三の男とは誰なのかというミステリーの物語部分より、第三の男の正体がハリーだったと明かされた後の後半部分の方が物語としての緊張感は上だと思う。

映画の中で、ハリーは、中学生で既にトランプのイカサマをやっていたような早熟なイタズラっ子として説明される。そして現在、闇取引や殺人にかかわり、偽装殺人を企てて恋人のアンナを捨てたと分かった後でも、アンナは、イタズラっ子がそのまま大人になったようなハリーの事を、憎むことが出来ない。

それは、主人公のホリーも同じだ。自分自身の安全のために、身代わりとして他人を殺し行方をくらましたハリーを、道徳的な意味でホリーは許すことが出来ない。しかし、一方で親友であるハリーを裏切って警察に協力することもできない。その間でホリーの決意は二転三転する。

ここで物語の核となるのは、ハリー自身のキャラクター設定だ。
ハリーはこの映画において「英雄的な人物」として描かれている。「神話的な人物」といっても良い。
ここで言う「英雄的な人物」というのは、人類の進歩に大きな業績を残した人とか、そういう、良い意味だけでなく、良い意味でも悪い意味でも平凡な人間の領域外にいる人物という意味だ。
多くの人間は良かれ悪しかれ、ある「枠組み」の中で生きている。
しかし、その「枠組み」の外で生きる事を運命づけられた人間も少数だが存在する。

日本人になじみの深い歴史上の人物に例えると「織田信長」とか、そういう人物の事だ。

ある時は、多くの人間がとらわれていた既成概念を打ち破った素晴らしい人物。
ある時は、自分の利益のために他人の権利を侵害して、何とも思わない人物。
それでいて、周囲の人間を魅了してやまない天性の魅力あふれる人物。
こういう多様な要素を全て内包した、良かれ悪しかれ平均的な人間とは著しくかけ離れた存在。

ハリーという、もの凄い悪人であり、同時に、人間的魅力に溢れる人物に出会ったとき、平々凡々な周囲の人間は、一体どう行動すれば良いのか。
彼を愛せばいいのか憎めばいいのか?

ハリーという「もの凄い悪人でありながら、同時に、もの凄く魅力的な人物」に出会ってしまった人間たちの迷いと決意こそが、この物語の真のサスペンスなんだと思う。

ハリーが最初に画面に現れた時の、あのニヤリッという笑み。人間一人を殺しておきながら、まるで、先生に見つけられたイタズラっ子のような魅力的な笑みを浮かべるというのは、彼のキャラクターを見事に表した、この映画のハイライトだったと思う。

あれほど魅力的な「悪人の微笑み」を見事に演じたオーソン・ウェルズ恐るべし。

ネタバレ専用ブログを別に持つという実験

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この記事はネタバレしています。

ネタバレ無しの記事はこちらをどうぞ。

はてなブログは、ひとつのIDで複数のブログを持つことが出来る。

それを利用して、本や映画の感想を書くときに、メインのブログでは、ネタバレをしないように書いて、それとは別にネタバレ専用のブログを立ち上げ、対応する記事へのリンクを貼って置けば、良いのではないかと考えた。
例えば、こんな感じだ。

*** 以下、ネタバレ注意! ***

例えば、「『ハーレム禁止の最強剣士!』を読んだ」という記事がメインのブログに、あったとしよう。
この記事と全く同じタイトルの記事をネタバレ専用ブログに書く。
そして、まず先に、ネタバレ専用ブログに感想をネタバレ全開で書く
次に、ネタバレをしていない上半分の文章だけを、メインのブログに書く。
そして、メインの記事の最後に、ネタバレ専用のブログ記事へのリンクを貼っておく。
さて、どうだろう。うまく行くだろうか。