ネタバレ! 小説と映画の感想‐青葉台旭

小説と映画のネタバレ感想が書いてあります。メインのブログはこちら http://aobadai-akira.hatenablog.com/

「ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2」を読んだ

著 東浩紀

ひとこと感想

大筋としては、『大きな物語』が終わったポストモダンの時代(2000年代)に何を描くべきか? という問いかけがあって、その答えを『ライトノベル』『美少女ゲーム』『新本格派(メフィスト系)ミステリー』に求める、という内容。

2020年代が始まった現在の状況は、本書に描かれている時代から次のステージに移った、という感覚を私は持っている。

時代は、前の時代の上に積み重なる。
その大前提のもとに敢えて言うが、本書に描かれている時代感は、2020年代から見ると既に過ぎた話という感じがする。
じゃあ2020年代とはどういう時代なんだと聞かれると、今の私には答えられない。

もう少し『2020年代の時代感』を探って行きたい。

映画「JUNK HEAD」を観た

TOHOシネマズ六本木ヒルズにて。

配給会社サイト
製作者サイト

原案 堀貴秀
監督 堀貴秀
出演 堀貴秀 他

ネタバレ注意

この記事には、映画「JUNK HEAD」のネタバレがあります。

ネタバレ防止の余談

ふと気づいたのだが、いわゆる新型コロナ『COVID-19』が流行して以降、私が初めて劇場で観た映画がこの「JUNK HEAD」だった。

本編上映前に流れる『au割引』のリスとウサギの脱力漫才みたいなアニメや、『NO MORE 映画泥棒』など、かつては少々ウンザリしていた顔ぶれを、何だか懐かしく思っている自分に驚いた。
『NO NOISE!』『NO KICKING!』『NO CELL PHONE!』っていう唇だけのCGキャラとかも懐かしい。
マスクをしたドラえもんのび太くんは、新顔か。

久しぶりに行った六本木ヒルズは、コロナ前に比べると明らかに人通りが減って静かになっていた。

観光客が減ったからなのか、それともリモート・ワークの普及で、都心に通う知的労働者階級の人々が減ったからなのか。

コロナの流行によって、人々は、「高速インターネットを活用すれば、もはや知的労働は土地に縛られない」と気づかされた(気づいてしまった)
毎日片道1時間・往復2時間も満員電車に揺られて過ごすという人生の無駄から人々を解放したという意味で、これは怪我の功名だったなぁと思う。

実は数年前から、『東京は、徐々に静かになっている』という肌感覚を、私は持っていた。
その『東京における静けさの浸透』が、今回のコロナ禍で一気に加速した感じだ。

それは東京という街が、バブル絶頂期のような『浮かれ騒ぎ』をしなくなった、それだけ大人の街になったという事だろう。

ただ、若干の寂寥感を覚えたのも事実だ。
少し前まで『ヒルズ族』などと謳(うた)われ、富と繁栄と最先端の象徴として賑わっていた東京の中心『六本木ヒルズ』でさえ、静けさが漂っているのか、と。

以上、ネタバレ防止の雑談でした。

以下、ネタバレ。

漫画『BLAME!』を思い出した

この世の有りとあらゆる創作物は、先人の成果の上に成り立っているものだ。

本作品も、古今東西の映像作品や漫画からの影響が見て取れる。
監督自身は、影響を受けた作品として『不思議惑星キン・ザ・ザ』を挙げているらしい。

キン・ザ・ザかぁ……二十歳前後の頃に観たなぁ。
途中で寝てしまった、という記憶しかない。
それと、変な、釣り鐘みたいな宇宙船。
当時の私は、映画リテラシーの全く無い映画ド素人だったから、ハリウッド・エンターテイメントの畳みかけるようなリズム以外は受け付けなかったんだよな。

その後、たまたま入った映画館でカウリスマキ監督の「ラヴィ・ド・ボエーム」を観て、今で言うところの『ジワる』、つまり『後から、じわじわ来る』系のギャグに目覚めたのでした。

キン・ザ・ザ、もう一度観てみようかな。
アマゾン・プライムあたりに来ると良いのだが。今のところはディスクを買うしかないのか……

さて、話を元に戻して、本作品だ。

私は、本作品に影響を与えたであろう作品として、弐瓶勉の漫画『BLAME!』を取り上げたい。

遠い未来の、階層化し荒廃した世界が舞台。
その階層化世界を、『人類を滅亡から救う遺伝子』を求めて流離(さすら)う一人の男。

「人類を救うためのアイテムを探す」という話の縦糸は有れど、シッカリと起承転結を組んだ物語というよりは、訪れた先々での出会い・交流・別れの描写に主眼が置かれている点でも、本作と『BLAME!』は似ている。

そういう意味では、NETFLIXで配信されているアニメ映画の『BLAME!』以上に、本作品は『BLAME!』らしいとさえ言える。

アニメ映画版の『BLAME!』は、主人公が当てもなく流離(さすら)うだけ話(=原作)を、西部劇や黒澤映画のような『村に不思議な男がやって来た』話として読み換えた作品だった。
起承転結を与えて劇映画としての体裁を整えるため、『村人からの視点』が導入されていた。

NETFLIXアニメ版の『BLAME!』も良い映画だと思うし、私自身、わりと好きな映画だが、本質的にどちらが漫画版『BLAME!』に近いかと言えば、『JUNK HEAD』の方が近いと思う。

漫画『BLAME!』最大の魅力として良く言われるのは『寂寥感』だ。

荒廃した未来の階層世界が物語の舞台といっても、例えばブレードランナーで表現されたような『人がゴミゴミと密集した猥雑なスラム街』ではない。
逆に、人口密度は極端に少ない。
人々は広大な階層世界の中で、少人数の村社会・部族社会を作って肩を寄せ合うようにして生きている。そういう村が、互いに交流もなくポツリポツリと存在している。
主人公は、その小さな村から村へと旅をする。
その出会いと別れが、何とも言えない寂寥感を読む者に(観る者に)感じさせる。
こんな所も、本作品と『BLAME!』は似ている。

マット画

本作品の本質が『荒涼とした世界を旅する一人の男』の物語であるとすれば、その魅力は『旅先の風景』だろう。

観客は主人公と一緒に旅をして、旅先の風景に感動し、現地の人々との交流に感動する。
その『一緒に旅をしている感じ』こそが本作品最大の魅力だ。

かつて、映画には『擬似的な観光旅行』という役割があった。
ローマの休日』のテーマは『身分違いの恋』だが、実はこの映画には『ローマ観光案内』という裏テーマがある。
007、男はつらいよ釣りバカ日誌……これらは皆な『バーチャル観光』を裏テーマとして制作されている。

映画の裏テーマが『観光』だとすれば、行った先の観光地、その風景や現地の人々の風俗習慣がどれだけ魅力であるか、それが問われる。

再び漫画『BLAME!』の話になるが、『BLAME!』の風景が魅力的なのは、世界が閉ざされた階層構造であるにも関わらず、非常に広大で開けた感じを読者に与えるからだ。
その『広大で開けている感じ』が、旅する主人公(と読者)の寂寥感を増大させる。

本作『JUNK HEAD』も、閉ざされた地下世界の物語であるにも関わらず、非常に広大で開けた世界のような感じを覚える。

この『広大な世界にポツンと立っている』感じを強調しているのがマット画だ。
例えば、遠近法の消失点まで延々と続く、だだっ広い廊下。

昔のSF映画やファンタジー映画では、マット合成された手書きの背景で世界観が表現されていた。
昨今の精密な3DGCには無い、なんとも言えない味わいがあった。
本作品にも、それと同じ味わいがある。

コマ撮りアニメの魅力

いわゆるセル画アニメでもない、CGアニメでもない、もちろん生身の役者でもない、コマ撮りアニメの魅力が存分に味わえる作品だった。

三部作

まずは、次回作が楽しみだ。

それはそれとして、劇場長編映画を単独では完結させず、最初から連続ものとして製作するという昨今の映画業界のトレンドに関しては、少し考えさせられる部分がある。
DVDやブルーレイ、あるいはネットの動画配信サービスで過去作品をいつでも『予習・復習』できる現代においては、これが主流になって行くのだろうか。
壮大な物語を紡ぐには良い方法であると思う反面、『いま劇場に掛かっている映画をフラリと観る』気安さは無くなるよな。

アマプラで予習してから出直して来い、みたいな。

セカイ系について

最近、ライトノベルとは何か? という事について時々考える。

その流れで、セカイ系について考える。

セカイ系の定義

どういう物語を指してセカイ系と呼ぶのか、その定義についてはやや曖昧な所もあるようだが、おおむね、以下のようなものだと言って差し支えないだろう。

  1. 自意識過剰気味な思春期の少年が主人公である。
  2. 同世代の少年少女との友情や恋愛、両親に対する反抗・葛藤など、主人公の身の回りで起きる私的な〈小さな物語〉と、人類滅亡の危機という〈大きな物語〉が直結している。
    例えば、クラスメイトに対する恋愛感情が人類の存亡に直接影響を及ぼしたり、親への反抗が人類の存亡に直接影響を及ぼす。
  3. 1995年に放映されたテレビアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」から大きな影響を受けたアニメ・ゲーム・ライトノベルなどの事である。

セカイ系の流行は終わったのか?

前島賢セカイ系とは何か」によると、セカイ系の全盛期は「エヴァンゲリオン」放送直後から2000年代(ゼロ年代)半ばくらいまでの約10年間であり、それ以降は沈静化したらしい。

だとすると、セカイ系ブーム終了から既に15年が経過している事になる。

再びブームは来るのだろうか?

2021年現在、私(青葉台旭)の個人的な肌感覚は以下のようなものだ。
「将来セカイ系の再興する日が来るかどうかは分からない。しかし2021年現在においては、時代感覚に合っていない」

将来、社会と思春期の少年少女たちとの関係が変化して、再びセカイ系が脚光を浴びる日が来るかもしれない。しかし、現在の日本の空気感はセカイ系にそぐわない気がする。

もちろん個別に見れば、新海誠のように大ヒットを飛ばし続ける『セカイ系作家』は、これからもポツリポツリと単発的に出てくるだろう。

ただ、新海誠がどれだけ大ヒットを飛ばそうとも、彼に感化されたフォロワーが次から次へと現れてセカイ系作品を次から次へと発表する、なんて事にはならないと思う。

何故そう思うのか? 私自身、うまく筋道立てて説明できない。
ただ、なんとなく、そう感じるだけだ。

実は、セカイ系はロマンチック系?

たった今ふと思ったのだが、セカイ系の基本コンセプト……

『彼女の手を握ったり体を抱きしめたりキスをする事によって、地球が滅亡したり、逆に、滅亡の危機から救われたりする』

……って、何だか、とても素敵にロマンチックだなぁ。

このセカイ系の『ライトサイド』部分だけを取り出して物語を作り続ければ、ジャンルとして確立されるかも知れない。

一方、セカイ系の『ダークサイド』である『思春期のウジウジ感』も、これはこれで昔から文学青少年の一大テーマであり、既に確立されたジャンルだ。

結局のところ、この両者を……つまり、
「彼女との恋の行方が地球の存亡と直結している」という御伽(おとぎ)話と、
「思春期のドロドロした自意識」
を混ぜ合わせて偶然に出来上がってしまったカクテルの名、それが『セカイ系』だったのかも知れない。

ただ、一般的には、『御伽話』は『御伽話』として味わった方が安全安心だし、
『思春期ドロドロ自意識』にしても、たまに見せつけられて身もだえする程度なら、まあ悪くないけれど、四六時中それと向き合うのは疲れるし気が滅入る、
というのが本音だろう。

自意識過剰でウジウジしてる暇(ひま)なんて無い

今ふと思ったのだが、現代(2021年)の少年少女たちには、自意識過剰でウジウジしている暇なんて無いのかも知れない。

2000年前後の日本には、まだ、『こうすれば、そこそこ幸せに人生を全うできる』という、社会の決めてくれたレールがあった。

リアルに自分の人生と向き合わなくても、何となく社会が進路を決めてくれた。

2000年ごろの親たちにも、まだ金銭的余裕があった。

しかし、現代の少年たちは、一刻も早く自己を確立し、どういう人生を過ごしたいかというビジョンを明確にし、それに向かって一日も早く歩み始める必要があるだろう。

十四歳で棋士として天才・羽生善治に勝負を挑み、十八歳でスペインのサッカー・リーグに行き、二十歳でF1ドライバーになる。

一方で、大人たちが築き上げてきた旧来の組織、会社や地方自治体や国は、もはや全く頼りにならない。
大人たちに頼って安心できる事なんて一つも無い。

そんな現代の少年少女からすれば、2000年前後にセカイ系に熱狂した少年たちは、少々ゆとりが有りすぎるように見えてしまうのかも知れない。

巨大ロボを前にして自意識過剰に悩むセカイ系の主人公たちを見て、彼らはこう言うだろう。

「センパイ、なに余裕ブッこいてンすか? さっさとロボに乗って戦って下さいよ。それが嫌なら、どいて下さいよ。僕が代わりに戦いますよ。その代わり、センパイが欲しかったものは全部、僕が貰(もら)いますよ」

余談

今ふと思ったのだが『ファイトクラブ』って、セカイ系そのものではないにせよ、それに近い感じの話だったな。

ダジャレめいた話だが、セカイ系って、2000年前後には世界的な志向だったのか。

参考文献

前島賢セカイ系とは何か」
Amazonのページ

小説「宇宙船TBX-1の漂流」第6部分を投稿しました。

小説「宇宙船TBX-1の漂流」第6部分を投稿しました。

カクヨム
https://kakuyomu.jp/users/aobadai_akira/works

小説家になろう
https://mypage.syosetu.com/610765/

スペースオペラ×ゾンビ物です。

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