ネタバレ! 小説と映画の感想‐青葉台旭

小説と映画のネタバレ感想が書いてあります。メインのブログはこちら http://aobadai-akira.hatenablog.com/

「DUNE/デューン 砂の惑星」を観た

「DUNE/デューン 砂の惑星」を観た

グランドシネマサンシャイン池袋にて。

公式ページ

脚本 エリック・ロス、ジョン・スペイツ、ドゥニ・ヴィルヌーヴ
監督 ドゥニ・ヴィルヌーヴ
出演 ティモシー・シャラメ 他

ネタバレ注意

この記事にはネタバレが含まれます。

雑談

歳を取るほどに、出不精になってしまった。
映画でも観ようかな……と、ふと思った時は、パソコンを立ち上げNetflixなりU-NEXTで映画を物色してしまう。

以前は、映画.com で『現在上映中の映画』ページを開いて「さて、どんな映画が掛かっているかな?」と物色したものだが。

追い討ちをかけるように、いわゆるコロナ禍の世になった。
出不精がますます加速した。

自身のブログを調べてみると、7月の「ライトハウス」以降、劇場に足を運んでいなかった。

ある日、ふと『デューン』を観ようと思い立った。

久しぶりの劇場映画鑑賞だ。

せっかくの壮大なスペース・オペラ、せっかくの宇宙物語絵巻だ。
どうせなら可能な限り機材の良い劇場で観ようと思った。
調べてみると、数あるアイマックス・シアターの中でも、最高水準の仕様である「アイマックス・GT」とか言うやつが池袋にあるらしい。
で、池袋に行ってみた。

記憶が正しければ、池袋の地に降り立つのは約20年ぶり、か。

姉がサンシャイン60の真下にある女子高に通っていたり、兄が護国寺にある高校に通っていたり、私自身も一時期、千石に住んでいたりしたので、そこそこ池袋には行っていたと思うけれど、あまり記憶に残っていない。

若い頃は本の虫だったから、(電車代をケチって)白山通りを延々歩いて神保町まで行った思い出なら、幾らでもあるのだが……

20年ぶりに降り立った池袋は、記憶の中の池袋と同じだったとも言えるし、変わっているようでもあった。

交差する道の角度や位置関係は、もちろん記憶どおりだ。
駅直通の西武デパートやサンシャイン60などのランドマークも相変わらず。
ビルのテナントに入っている商店や飲食店は、随分と入れ替わった印象がある。
その一方で、20年前と変わらない姿のまま残っている店舗もある。

「あ、ここは、こんな店に変わっちゃったんだ……」とか、
「あ、この喫茶店、20年前と同じだ」とか思いながら、足早に通りを歩いた。

何十年も前の記憶に残る街、久しぶりに訪れた土地。
何だか不思議だ。

ホームタウンのようにウンザリするほど見慣れた町でもない。
初めて訪れる観光地のような全く知らない土地、という訳でもない。

例えるなら、20年ぶりに会った旧友か。

街は、ちょっとずつ、ちょっとずつ変化する。
古いテナントが立ち退いて、新しい店がテナントに入り、古いビルが取り壊され、新しいビルが建つ。
大きな変化は滅多に起きないとも言えるし、毎日・毎月・毎年どこかしら確実に変わって行くとも言える。

Google Map を頼りに、目指す「グランドシネマサンシャイン池袋」に辿(たど)りついた。

ふえー、ずいぶんと立派な建物やな。
立派すぎて劇場への入り口が分からない。

俺は焦(あせ)った。

劇場に行くときはいつも、少なくとも開演30分前には到着するよう計算して家を出る。
あいにくその日は出かける間際に便意をもよおし、iPad を持ってトイレに駆け込んだのだが、脱糞しながら観たYOUTUBE動画が予想外に面白く、気がついたら便所の中で30分以上が経過していて、急いでパンツをずり上げて家を出た。

結果、開演数分前に到着してしまった。

どうにか映画館ロビーに辿り着き、予約しておいたチケットを発行しようと券売機に並んだら、なかなか前の客が終わらない。

それも何とかクリアして、券を発行し、さあ映画を観るぞと思ったら、今度はアイマックス・シアターへの行き方がわからない。
ロビーと同じフロアにあるのか、それともエスカレータに乗るべきなのか、それとも直通エレベータでもあるのか?

それも何とかクリアして、やっと最上階シアターに着いた。
ジャスト開演時刻。
しかし、ここで焦ってはいけない。
まずは、おしっこをしてからだ。
映画上映中のトイレ離席は、男の恥。

本編上映中に劇場に入るのはマナー違反だが、まだ予告編が流れているだけだろう。
私自身、予告編上映中に劇場内をウロウロされるのさえも嫌なタイプだが、今日ばかりは許してほしい。

トイレで用を済ませ、あらためて劇場に入る。

すでに予告編が上映されている薄暗い劇場内を歩き、二人の女性の間にポツンと一席だけ空いていた自分の予約席に座った。
ウェブ予約の時には気づかなかったが、ひとマス置きに席を埋めるコロナ対策は、どうやら解除されているようだ。
見たところ満員御礼に近い。
本作「DUNE」は各国で好調な興行成績を記録している一方、日本だけは成績が振るわないという噂も聞く。
しかし、私の観た回から推測するに我が国でもなかなかの人気のように思えるのだが、どうだろうか?

そんなこんなで、無事〈砂の惑星アラキス〉行き宇宙船に乗り、太陽系第三惑星地球の池袋を旅立った。

アイマックス初体験。
まずスクリーンの高さに驚いた。
横だけでなく縦方向へ異様なほど長い。
後で調べたら、このグランドサンシャイン池袋のアイマックス・GTは、高さ18.9メートルもある。
なんとガンダムより高いじゃねぇか。
このスクリーンを使えば、等身大のガンダムから等身大のアムロが出てくる所を映せるって訳か。
なんか夢が膨らむなぁ……
親父が熱中するわけだ。

以上、ネタバレ防止の雑談でした。

以下、ネタバレ。

結論

まずは結論。

良い映画かどうかは、さて置いて……
『映画体験』としては、とても満足の行くものだった。

例えて言えば、高級レストランのフルコースをたっぷりと堪能したような気分になった。

こってりと濃厚。
絢爛豪華。
壮大で重厚。
そんな世界観にドップリと浸(ひた)れた。
上映後は、充分な満足感を持って劇場を後にした。

この作品を見た客の感想には、賛否両論があると聞く。
個人的には、濃厚な『映画体験』に大満足だった。
その一方で、『否』へ投票した観客の気持ちも良く分かった。

正直、ストーリーを追っちゃうと大した事ないんだよな。

良く言えば王道の英雄譚、悪く言えば余りにも有りがちなストーリー。
単独の物語、単体の映画として見ると酷く中途半端。消化不良。未完成、未完結。

「長大な原作を一本の映画に収めるなんて、どだい無理な話です。あくまで本作は序章です」
と言い訳してみたところで、

「そんなの製作者側の勝手な都合だろ、こちとら1900円+アイマックス追加料金払ってんだ、一本の映画として完成された物を提供しろよ」
という観客は一定数いると思う。

そして、そんな彼らの言い分にも確かに一理ある。

スペクタクル大作映画

ここで一句。
「金ならある。
 セットの屋根を、
 もっと高く」

スペクタクル大作映画は、何よりもまず『スペクタクル大作』である事に、その存在意義がある。
絢爛豪華な歴史絵巻の存在意義は、何よりもまず『絢爛豪華な歴史絵巻』である事だ。
壮大なSF宇宙叙事詩の存在意義は、何よりもまず『壮大なSF宇宙叙事詩』である事だ。

飛び抜けて巨大で、広大で、壮大で、
主人公は超絶美青年で、
大勢のエキストラが居て、
緻密で、絢爛豪華で、異様で、グロテスクで、美しい。
セット・コスチューム・家具調度品……大道具小道具の圧倒的な大きさと物量と緻密さと美しさで観客を酔いしれさせれば、それで良い。

ストーリー自体に斬新さや感動があるに越した事はない。
しかし、たとえストーリーが凡庸でも、観客を没入させるための単なる触媒・導入剤でしかなかったとしても、特に問題は無い。
絢爛豪華な異世界に没入させてくれれば、それ以上は望まない。

……と、思えるかどうかが、本作品を楽しめるか楽しめないかの分かれ道だろう。

ストーリー

もちろん、
「いやいや、まずは何よりストーリーが大事でしょう。観客は良く出来たストーリーを味わいに映画館に来るんだから。どんなに金をかけた映画でも、肝心のストーリーが駄目なら意味ないよ」という考えがあっても良い。
それは至極まっとうな事だと思う。

また、
「映画を観るのに予備知識が必要って、どういう事よ? 架空の世界の物語なんだから、それに必要な知識は、ちゃんと初見でも分かるように映画の中で噛み砕いて説明してよ」
という意見も、確かにその通りだと思う。

私自身は、すでにデヴィッド・リンチ版の『デューン砂の惑星』を観ていたし、ハヤカワ文庫の新訳版も第1巻だけ読んでいた。
だから、『既に知っている物語が、今作ではどんな風に料理され映像化されるのか?』という興味に集中できた。

言ってみれば、忠臣蔵みたいなものだ。
既に映像化実績のある既知の物語だからこそ、「さてさて今年の大石内蔵助は誰が演じて、どんな演技をするのかな? 今年の『松の廊下』は、どんな豪華なセットかしら? 吉良邸のセットは? 討ち入りのコスチュームは?」という興味に集中できた。
そして今回は、松の廊下も、吉良邸のセットも豪華絢爛で、討ち入りのコスチュームも素晴らしかった。大石内蔵助も超絶美青年だった。

映画を観るとき、多くの人はネタバレを嫌う。
しかし今回の映画は、逆だ。
せめてリンチ版の映画は観ておいた方が良い。
あえて自らネタバレ状態になって、あえて自らストーリーへの興味を失って、遥か未来の世界観を堪能することに集中した方が楽しめる。

以下、細々(こまごま)とした話

以下に、私の気づいた細々(こまごま)とした事を順不同につらつら書き連ねていく。

オーニソプター

羽ばたき感が良い。
ヘリコプターっぽい感じも良い。
内燃機関のような描写も良い。

巨大感が良い

建物と宇宙船の巨大感が良い。

砂漠の広大さも良い。

砂虫の巨大さは、そうでもない。あんまり伝わって来ない。

バリヤーの描写

「速度の速い攻撃はレーザーであれ弾丸であれ防御するが、速度の遅い攻撃は通過させてしまう。ナイフの突きも、素早くやるほど防御され、ゆっくり切りつけるほどにダメージを与えられる。だから、ゆっくりと攻撃する特殊な格闘術が発達した」という個人装備のバリヤーの描写は、分かりづらかった。

このSF小道具を映像で表現するのは無理なのかもしれない。

個人的には、リンチ版のアナログ表現は味わいがあって好きだ。

大事な物は画面左上から来る

映画の途中で気が付いたのだが、砂虫をはじめ多くの被写体が、画面に向かって左上からフレーム・インして来る事に気づいた。

事あるごとに、観客の視点を画面左上に誘導したがっているように思われた。

左から右、あるいは左上から右下への移動が多い。

その一方で、画面右上の部分が妙にスカスカで寂しい場面が多かった。

これには何か意図があるのか? それとも単に監督の趣味か? あるいは縦長のアイマックス撮影にカメラマンが慣れていないのか?

顔が真ん中にあるバスト・ショット

顔を画面のド真ん中に置いたバスト・ショットが多すぎて、単調になっていると思うのだが、どうだろうか?

ネットを検索すると「後半、飽きた」という意見が散見されるが、この単調な『顔、真ん中、バスト・ショット』の連続に原因があるのではないだろうか?

総じて、風景の絵画的美しさ、人物の肖像画的美しさに対する気配りは感じたが、動き(アクション)に対しては淡白な描写だと感じた。
投げやりとか雑だとか言うのとも違うが、なんとなく「アクションに対しては興味の無い監督なのかな?」と感じてしまった。

リンチ版

私は、長大な原作の文庫版第1巻だけ読んで挫折してしまった軟弱者だが、原作を読むのと前後して鑑賞したリンチ版の「デューン砂の惑星」は結構好きな映画だ。
ゲテモノ食いだと思われたくないから大きな声では言えないが、正直、最初のスターウォーズ(エピソード4)よりも好きなくらいだ。
リンチ版は、ストーリー的には原作のダイジェスト版に過ぎないのだが、なんだか不思議な味わいがあって、いつまでも心に残っている。

今このブログ記事を書きながら、ヴィルヌーヴデューンに関して気づいた事がある。
映画館を出た直後は、異星の風景を描写する力量に圧倒され『久しぶりにドッシリとした豪華な大作映画を観た、満腹、満足』という気持ちになったのだが、このブログを書いている今現在、もう既に、心から印象が消えようとしている。
いっときの満足感はあるが、印象が薄れていくのが案外早いタイプの映画かもしれない。

新たなスペース・オペラ需要の拡大につながるか

日本では思ったほどには売れていないという話も聞く本作品だが、本国アメリカでは順調に数字を伸ばしているらしい。

スターウォーズのメイン・シリーズが一段落して映画制作が休眠期にある現在、同じ『宇宙を舞台にした中世騎士物語』ジャンルであるヴィルヌーブ版デューンが、スペース・オペラに飢えていた観客の受け皿になったのだろうか?

私は以前、『世界の人々は、実はスペース・オペラをそれほど好きではない』という仮説を立てた。
スペース・オペラ発祥の地アメリカでさえ、スターウォーズスタートレックの2大巨頭を除けば、あとはポツリポツリと単発的に作られるだけで、スペース・オペラ映画は驚くほど少ない。
同じSF映画でも、ここ十数年で言えば、アメコミ・スーパーヒーロー映画の方が遥かに多く作られているだろう。

だから、私は以前のブログ記事に、こう書いた。
『世界の人々は、実はスペース・オペラをそれほど好きではない』と。

しかし、もし順調にヴィルヌーヴデューンが人気を得て長期シリーズ化された暁には、私も考えを改めねばいけないだろう。
『世界の人々は、実は、宇宙を舞台にした中世騎士物語を待ち望んでいる、その需要は存在する』と。

スターウォーズで更新された惑星描写が、本作でまた更新された

1977年にスターウォーズ第1作(エピソード4)が公開された時、その斬新な描写に世界中の人々が度肝を抜かれ、多くのクリエーターが影響を受けた。
遙か未来(スターウォーズ風に言えば遥か過去)、遥か遠くの惑星を描写する時の基準を、スターウォーズは一夜にして更新した。

2作目(エピソード5)3作目(エピソード6)と続き、さまざまな環境の惑星が描写された。
砂漠の星、ジャングルの星、氷と雪の星、巨木の星。

……しかし……

そこからが問題だった。
ある時期以降、スターウォーズ・シリーズは新たな異世界観の創出をやめてしまったように思う。

「エピソード1〜9とその間に挟まる『ローグ・ワン』と『ハン・ソロ』は、一つの大きなサーガの一部であり、世界観を大きく変える訳にはいかない」と言われれば、そうかもね、と答えるしかない。

それにしても、だ。
世界観そのものをいじる訳にはいかないとしても、そろそろ見せ方に新しさが欲しいんだけどな……と、新たな映画が公開される度に思っていた。とくに直近の三部作に関して強く思った。
ライトセーバーをダブルにしてみたり、十文字にしてみたり、ちょっと毛色の変わったロボットやクリーチャーを追加してみたりっていう小さな変更以上の新味がそろそろ欲しいと思っていた。
(注:私はディズニーの配信サービスに入会していないので、近年評判の高いマンダロリアンは観ていない)

そこへ本作『DUNE』が現れた。

原作が古いこともあり、砂漠の民にせよ、サンドワームにせよ、砂漠を移動する巨大なキャタピラー付き工場にせよ、オーニソプターにせよ、一つ一つを見れば、今となっては手垢の付いてしまった大道具・小道具ばかりだ。
にも関わらず、それらによって立ち現れた世界観には、確かに、今までにない新しさがある。

どこがどうとは言えないが、確かに、更新された次世代の新しさを感じる。

徹底的にコントロールされたディテールが、そう感じさせるのだろうか?
それとも、カメラ・アングルの斬新さだろうか?
絵画的なワンショット・ワンショットの積み重ねだろうか?

今はまだ、よく分からない。
ただ一つ言えるのは、
1977年のスターウォーズが『遠い未来の遠い惑星』描写を更新したように、
2021年のデューンは『遠い未来の遠い惑星』描写を再度、更新した、
という事だ。

遠くの惑星に、現実世界をどこまで持ち込むべきか

異世界の政治文化風俗をデザインするときに、現実世界の特定の時代・地域・民族をモチーフにするのはよくある話で、そのこと自体に問題は無い。

しかし、何事にも塩梅、バランスがあろう。

ちょうど良い匙加減で止めるのも、料理長たる映画監督の腕前だ。

本作品では、砂漠の民と支配者たる貴族たちの関係が、誰が観ても、現実世界の中東の民とアメリカ軍を連想するように描かれていた。

私個人のセンスで言うと、これはいささか、やり過ぎのように感じた。
現実の中東を連想させ過ぎだと思った。

近未来の地球が舞台の物語ならいざ知らず、デューンは1万年以上の遠い未来、何万光年も離れた遠い惑星の話だ。

あまりにも明からさまに現実世界からのモチーフを感じてしまうと、観ている方は冷める。

たとえ原作小説が「アラビアのロレンス」の影響を受けているとしても、だ。

そういうのは隠し味程度、軽く匂わす位がちょうど良い。

昨日は、本当に世界が美しかった

昨日(10月18日)は、本当に世界が美しかった。

晴れて、気温が下がり、空気が澄んで、世界のあらゆるものに光が浸透し反射していた。

待ち遠しかった本格的な秋が、来た。

今年ほど、秋の到来を心待ちにした事は無かった。

こんな気候が、来年以降も続くのだろうか?

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森の小道

「GのレコンギスタII ベルリ 撃進」を観た

「GのレコンギスタII ベルリ 撃進」を観た

U-NEXT にて。

Amazonのページ

脚本 富野由悠季
監督 富野由悠季
出演 石井マーク 他

ネタバレ注意

この記事には、以下のネタバレが含まれます。

言うまでもなく、元になったテレビ版「Gのレコンギスタ」のネタバレも含みます。

ネタバレ防止の雑談

最初期のガンプラ・ブームが日本中を席巻したのは、たしか私が小学校高学年の時だったと記憶している。
世代的に、私はガンダム・ファン第一世代の一番下の方に位置していると思う。

私自身は、筋金入りのガンダム・ファンという訳でもなかったが、富野由悠季という監督は気になる存在だったから、彼の業績は「付かず、離れず」といったスタンスで追いかけて来た。
とは言っても、彼の膨大な作品群すべてを網羅して観ている訳ではない。
とくに近年の作品にはなかなか食指が伸びなかった、というのが正直な所だ。

本作品「Gのレコンギスタ」のテレビ版が放映された時も、リアルタイムでは一度も観なかった。

その私が、なぜ今さら「Gレコ」を観ようと思ったかというと、数ヶ月前、ユーチューブのレコメンド画面に、富野監督自身による劇場版第3部のプロモーション動画が表示されたからだ。

ユーチューブのガンダム公式チャンネル

じいちゃん、ウキウキだな。
なんか、すげぇ楽しそうだ。
こんなに楽しそうな富野由悠季の映像を見るのは、初めてじゃないだろうか。
富野監督というと、常に何かに対して怒っていて、ピリピリしている印象があったんだが……八十を前にして、とうとう何らかの境地に到達したのか……

ここ半年くらい、この元気じいさんの印象が、どこか私の心に引っ掛かり続けていた。

それで、本作を観ようと思った。

……まったくの余談だが、1ヶ月ほど前、ユーチューブのレコメンド機能が、今度は宮崎駿の動画をおすすめに表示してきた。

ユーチューブの東宝MOVIE公式チャンネル

同い年のアニメ業界大御所ふたりが、2021年、同じように映画の宣伝動画に出るという偶然が面白い。

なんだか、ビデオ通話で田舎のお爺ちゃんの安否確認をしている気分だ。

絵のジブリ

まずは試しにテレビ版の第1話だけを観て、それから劇場版パートI を観て、劇場版パートIIを観た。

テレビ版第1話を観た瞬間に思った。

絵のジブリ感が、すげぇ。

ウィキペディアによれば、キャラクター・デザインと総作画監督をしている吉田健一は、まさにスタジオジブリでキャリアをスタートさせたアニメーターという事だ。
耳をすませば』『おもいでぽろぽろ』『紅の豚』『もののけ姫』に参加し、その後フリーになったとある。

フリー後は、同じく富野監督の「OVERMANキングゲイナー」や、京田知己監督の「交響詩篇エウレカセブン」などでキャラクター・デザインと作画監督をやっている。

ここで注意すべきは「ジブリ出身なんだから、絵がジブリに似ていて当然でしょ」といった単純な話ではない事だ。

キングゲイナー」や「エウレカセブン」と比べても、時系列的には後に製作されているはずの本作「Gのレコンギスタ」の方が、キャラのデザインがジブリっぽい。

主人公は、中立的というか、できるだけ固有性を排除した無色透明なデザインだし、少女たちにはジブリ・キャラには無い『萌え』感もキッチリ盛り込まれている。

それでいながら、全体を俯瞰して見たときの『ジブリ感』が、すごい。

とくに中年の男らのデザインだ。

やや釣り目ぎみの、卵形をした目のデザイン。
目とくっつけて描かれる眉毛。
横に張ったエラ。
下から見上げた時に、割としっかり描かれる鼻の穴。
先端に斜線の入った、太いもみあげ。
コスチュームにあしらわれた、ミステリー・サークルみたいな文様。

その後、劇場版を観たら、おかっぱ頭の美少年で白い狩衣のようなコスチュームという、もう、どう見てもジブリ・キャラって感じのクリム・ニックという天才パイロットまで登場した。

基本となる静的なデザインだけでなく、動的なアニメーションもジブリ的だ。

言うまでもない事だが、アニメは単なる現実のトレースではない。
そこには必ず、アニメならではの誇張や省略がある。
……と、いうことは、その動きには必ずアニメーター特有の(あるいはスタジオ特有の)個性が刻まれる。

何気なく振り向いたり見上げたりする首の動きひとつとっても、安彦良和には安彦良和の、湖川友謙には湖川友謙の個性が出る。

「Gのレコンギスタ」テレビ版第1話のキャラクターたちの所作振る舞いは、かなり意図的に『ジブリ風』に寄せているように思われた。

例えば、少年たちがジャンプして着地する瞬間、シコを踏む相撲取りのようにガニ股になる所とか、口を大きく開けた時の形とか、体のひねり具合とか。

描く線のちょっとした揺らぎさえ、ジブリ風を目指しているように思えた。

前述した通り、これらジブリに寄せた表現は、単にキャラクターデザインと総作画監督吉田健一ジブリ出身であるというだけでは説明がつかない。そんな単純な話ではない。

明らかに意図されたものだ。

それが総監督・富野由悠季の指示によるものなのか、アニメーター自身のチャレンジだったのかは分からない。

ひとつ言えるのは「ジブリ風のキャラクターたちによって演じられるガンダム物語」「ジブリ風のキャラが発する富野ゼリフ」が、古株のアニメ・ファンの脳内に刻まれた先入観を揺さぶって来たことだ。
ジブリジブリガンダムガンダム。絵柄も含めて、両者は相容れないもの」と言う先入観だ。
脳内で自動的・無意識的に切り替えていた「ジブリ鑑賞モード」と「ガンダム鑑賞モード」の切り替えスイッチが、意図的に混乱させられてしまった。

ガンダムのコックピットでヒロインが涙を流し、玉になって漂う涙を彼女が手で払ったとき、ガンダムが描いて来たもの、描かなかったもの……ジブリが描いて来たもの、描かなかったものに気づいた。

ガンダムは、ずっと「無重力と真空」を描いて来た。

ジブリは、ずっと「風」を描いて来た。

モビルスーツは、無重力の宇宙空間では素晴らしい演技をする。
あるいは大気圏に突入し、成層圏を自由落下している間は素晴らしい演技をする。
しかし、空気密度の濃い下層の対流圏に入った途端(とたん)に、鈍重になる。

ジブリはその反対だ。彼らの描くレシプロ・プロペラ機が、空気の薄い成層圏より上へ行く事は無い。

そういえば「ジブリ」は、イタリア製高級車の名前にもなった「南風」を表す「ギブリ」から来ているのだったか。

(注)
以上の感想は、テレビ版第1話および、それを再編集した映画版パートI の冒頭部分に対するものである。
予算的・時間的な制約から、長いテレビ・シリーズの中でエピソード毎の絵の質が安定しないというのは残念ながら良くある話だ。
本作「レコンギスタ」も例に漏れず、テレビ版を再編集した劇場版のシークエンス毎の絵の質にバラつきがある。これは元になったテレビ版のエピソード毎のバラつきに起因するものだろう。

分かりにくい物語の背景と、主人公の行動

いつも通り、映画を観終わった後、ウェブで本作の感想記事を検索してみた。 どうやらテレビ版オンエア当時の評判は、必ずしも芳しいものばかりではなかったようだ。
批判は、大きく分けて二つに集約されるような気がする。

  1. 分かりにくい物語背景
  2. 分かりにくい主人公の行動(その動機・行動原理)

物語の分かりにくさに関しては、劇場版を作るにあたって、多少わかりやすく編集し直されたらしい。

私は第1話以外のテレビ・エピソードは見ずに劇場版を見た。
(完全ではないにせよ)話の流れは理解できたが、説明不足でどんどん話が進んでいくなぁ、とは思った。

また、主人公の行動が分かりにくいという皆んなの意見も、その通りだと思った。

しかし、劇場版パートI、パートIIと進めていくうちに「なるほど」と私なりに納得した。

この物語を理解するためのキーワードは、再三、富野監督が言っている「これは子供向けのアニメです」というセリフだ。

これは、ガンダムの世界観を借りた「不思議の国のアリス」だ

ガンダムの世界観を借りて「不思議の国のアリス」をやる。

それが富野由悠季の目論見だ。

小学校低学年くらいに向けて、ファンタジー童話のようなガンダムを作る。

ガンダム・ワールドという異世界を旅して回る物語だ。

行った先々で、とにかく次から次へと不思議な出来事や、華やかな世界観や、胸おどるアクションを矢継ぎ早やに見せる。

アクションや、軌道エレベーターのような未来の建造物のビジュアルを次々に見せて子供を飽きさせない。それを優先事項として作られている。
「なぜ、そうなのか?」の説明は最小限に抑える。あるいは後まわしにする。

対象年齢が小学校低学年なら、権力闘争をする大人たちの複雑な人間関係も、軌道エレベーターの科学的考証も社会的意義も、国家間の複雑な駆け引きも、そもそも説明する必要も無いし、どだい理解できるとも思えない。

もちろん、過去のガンダムがそうであったように、物語の背景は、富野監督の頭の中には存在するのだろう。
しかし、以前の富野なら丹念に描いたであろうそれらを、今回は(大人にとって不親切なまでに)極端に省略した。あるいは説明を後まわしにした。

ガンダムは「子供は子供なりに面白く、大人は大人なりに楽しめる」ことを目指してきたアニメだ。

とはいえ、かつてのガンダムは軸足を大人(思春期より上)に置いていた。
子供が置いてきぼりになっても、それはそれで仕方がないと切り捨てている部分が少なからずあった。

今回の「レコンギスタ」は逆だ。
軸足は、あくまで子供。
大人が置いてきぼりになっても、それはそれで仕方がない。

とにかく(不思議の国のアリスのように)チェシャ猫を追いかけて、異世界めぐりをするのが最優先だ。
チェシャ猫がどんな人生を歩んできて、どんな欲望と葛藤を内に秘めていて、何故そういう行動を取ったかなんて説明は、後まわしで良い。最悪、描かれなくたって良い。

考えてみれば、キャラクターに「過去」や「葛藤」や「欲望」や「コンプレックス」を……つまり「内面」を過剰に求めるのは、エゴを持つ大人の不純さかも知れない。

幼稚園児や小学校低学年の子供には内面が無い。エゴ(自我)が無い。あるのかも知れないが未熟で未発達だ。
彼らにあるのは、本能だ。
眠い、お腹すいた、うんちしたい、キレイなお姉さんのおっぱい触りたい。
ただ、それだけ。
それだけで良い。

主人公に対し「なぜ、そんな突飛な行動を取ったのか」を大人の目線であれこれ考えても仕方がない。
おそらく彼には(少なくとも劇場版I、II の段階では)自我が無い。
見た目は10代後半の少年だが、彼は、視聴者として想定された年齢層、すなわち小学校低学年と本質的に変わらない。
言ってみれば、彼はチェシャ猫を追いかけて不思議の国めぐりをするアリスちゃんだ。自我なんて無くて当然だし、大人の目から見て行動が突飛で当然だ。

主人公の外見(キャラクター・デザイン)も、それを表しているのだろう。
良く言えば、クリーンでニュートラルな見た目。
悪く言えば、特徴が無い。中身が無い。
だが、それで良い。

大人の観客にとっての本作品

この「Gのレコンギスタ」が、ガンダム・ワールドを使った『不思議の国のアリス』である事は分かった。

では、我々のようなエゴにまみれた大人たちが観ても楽しめるのだろうか?

これが案外、楽しめる。

私は、本作品の本質が「アリス・イン・ワンダーランド」ならぬ「アリス・イン・ガンダム・ランド」だと気づいた段階で、ストーリーを……すなわち登場人物たちの内面・行動・葛藤を追うのをやめた。
ストーリーを追うことを完全に放棄した訳ではなかったが、新しい展開や固有名詞が現れても、心の中でメモを取って、すぐに棚上げにした。

すると、ストーリーに変わって立ち上がって来たのは、軌道エレベーターを始めとするユニークな世界観だ。
次から次へと現れるそれらを見ているだけでも楽しい。

いざ戦闘が始まってからの、色々な場所で色々な出来事が同時進行で起きている様子を見せる、富野演出の手際の良さも気持ち良い。

子供にとって一番の大敵は『飽き』だ。
富野監督は、そのサービス精神を最大限発揮して、目の前に美味しそうなケーキを次から次へと出して見せ、子供を飽きさせないようにしている。
大人である我々にとっても、それが案外、心地いい。

ストーリーは棚上げにして、子供と一緒になってポカーンと観るのが、お勧めだ。

リアル・ロボットもの

これは「不思議の国のアリス」のような、小学校低学年向けのファンタジー・アニメだ。
それは分かった。

しかし一方で、相変わらず、これはガンダム・シリーズの最新作であり、相変わらず(ガンダムが先鞭をつけた)リアル・ロボットものであり、要するに『戦争もの』アニメだ。

全体としてはポップで楽しい雰囲気のアニメなのだが、人が死ぬときは死ぬ。

人の死を目の前にして、主要登場人物はショックを受けたり泣いたりする。
ところが次の瞬間には、あっけらかんと明るいムードに戻っている。

さすがに、この変わり身の早さに付いて行けず困惑する場面も少なくなかった。

今日は、だいぶ気温が下がった

今日は、だいぶ気温が下がった

朝から雨。

だいぶ気温が下がり、一瞬、少しだけ肌寒く感じた。

どんよりと曇った空を見上げて「ようやく秋が来たか」と思った。

本格的な秋の到来、秋の深まりを感じた瞬間、寂しさよりも待ち遠しい思いが先に立った。自分でも意外だった。