映画「機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ」を観た
丸の内ピカデリー(ドルビーシネマ)にて。
ネタバレ注意
この記事には以下のネタバレが含まれます。
ネタバレ防止の雑談
前々から観ようと思っていた劇場版『閃光のハサウェイ』を観た。
どうせなら松竹の旗艦劇場で観ようと思い、少々高かったが丸の内ピカデリーのドルビーシネマで観てきた。
本編が始まる前に『ドルビーシネマ』の解説というか宣伝のような物が流れるのだが、確かに映像の精彩さは抜きん出ていて没入感があると思った。
音は以前からある『ドルビーアトモス』と同じらしいが、これも臨場感に一役買っていると思う。
ただ、今回の『閃光のハサウェイ』がその画質性能を使い切れていたかどうかは、分からない。
有楽町マリオンにある松竹系チェーン・マスター劇場というから、てっきり座席数800人のドデカい劇場の方だと思っていたら、別館の方の小ぢんまりした劇場だった。
昔は、このマリオン別館の劇場は単館上映の文芸系映画を興行していたように記憶しているが……それが最新の上映システムに刷新されたのか。
日本には二種類のオジサンが生息している。
ガンダムオジサンと怪獣オジサンだ。
私は、そこまでのガンダマーではないのだが、シリーズ最新の劇場映画となれば、やはり敬意を表して正装で行かねばなるまい。
チェック柄のシャツにジーンズに紙袋という正統派オタク・フォーマルに身を包み、微かな期待と不安を胸に抱いて家を出た。
電車に乗り、有楽町で下車し、ひとまずマリオン別館に行って、確かにガンダム上映中であると確認し、次回上映までの時間をつぶすため、周囲を散策する。
久しぶりの有楽町界隈だ。
上映十五分前、そろそろ頃合いだろうと再びマリオン別館に行きエレベータに乗る。
エレベータから劇場ロビーに降り立つ。
薄暗い間接照明の中、私と同じオタ・ファッションの紳士たちが静かに時を待っていた。
そのうちの何人かと偶然に視線を合わせるが、お互い、一瞬で視線を外す。
場に漂う、奇妙な、そして、どこか懐かしい緊張感。
パンフやグッズを買う者、ポップコーンを注文する者、ベンチに座り静かに瞑想する者……
同じ匂いの一匹狼たちが、互いに話すでもなく、一定距離の間合いを保ち、薄暗いロビーで上映開始時刻を待つ。
そして映画が終わった後は、そそくさと劇場をあとにして、散り散りに去っていく。
いったん劇場を出れば、もう奴らとは二度と会うこともないだろう。
ここは凄腕のガンダマーだけが集う、現代の傭兵酒場。
いよいよ上映時刻が近づいてきた。
劇場に入り、予約した席につく。
わずかにスクリーンを見上げる位置だった。
上級の映画マニアほど後ろの席を好むという話もあるが、私は中央やや前寄りの席が好みだ。
やや前寄りの席に座って、自分の視界すべてをスクリーンで埋め尽くしたい。
しかし今回は、少し前すぎたようだ。
もし再びこの劇場で映画を観る機会があったなら、その時は、今回よりも1列か2列うしろの席を予約しよう。
以上、ネタバレ防止の余談でした。
以下、ネタバレ。
良かった点、悪かった点。
ガンダムの映画である以上、その最大の見せ場はモビルスーツ同士の戦闘だ。
この映画には、その見せ場が2回ある。
1番目のダバオ市街戦は素晴らしかった。
2番目のガンダム同士の海上決戦は残念だった。
良かった点
1番目のダバオでの市街戦は素晴らしかった。
町を破壊しながら戦う連邦軍と反政府組織マフティのモビルスーツ。
その足もとで逃げまどう人々。
飛び散る火花、燃え盛る炎、落下する瓦礫。
生身の人間と、全高20メートルの巨人型兵器との対比。
華麗なモビルスーツ同士の空中戦も、地上の人々の視点から見上げれば『空襲』以外の何物でもない。
その恐怖が、非常に良く表現されていた。
それは、モビルスーツを怪獣に見立てた『怪獣パニック・シーン』のようにも見えるが、生身の人間と『巨大な破壊者』の対比をここまで鮮やかに見せつけた映画は(怪獣映画を含め)未だかつて無かったと思う。
それくらい素晴らしかった。
例えば、逃げ惑う主人公たちの奥で、撃たれたモビルスーツが足の裏を見せて倒れるシーンがある。
その『足の裏を見せて倒れる』という描写によって、モビルスーツの巨大さと、『あんなものの下敷きになったら無事では済まない』という恐ろしさが良く表現されていると思った。
悪かった点
物語の中ほどにあるダバオ市街戦の素晴らしさに比べると、クライマックスのガンダム同士の海上戦は、ちょっと頂けなかった。
主人公ハサウェイが乗る〈クスィ・ガンダム〉とライバル役の連邦軍機〈ペーネロペー〉は兄弟機で、名前が何であれ、実質的には〈ペーネロペー〉も『ガンダム』だ。
二機の外観は非常に良く似ている。
舞台は夜の洋上。
前述のダバオのように街の明かりやモビルスーツを照らす炎がある訳でもない。
暗い中で、ほとんど同じ形のガンダム同士が戦っているから、どっちがどっちだが良くわからない。
しかも、どちらも真っ白な『ガンダム色』だ。
せめて敵役の〈ペーネロペー〉の機体色を別の色に出来なかったのだろうか?
人間ドラマ
全3部作の第1部という事もあって、今回、人間側のドラマは各キャラクターの立場・性格の紹介に終始したように思う。
その中でも、やはりギギ・アンダルシアの性格づけと、それを演じた上田麗奈の演技には惹きつけられた。
鋭い直感力(おそらくニュータイプだろう)を持ちながら、彼女は、その能力を『面白い』か『つまらない』かの判断に使うことしか知らない。
見た目の美しさも含め素晴らしい才能に恵まれながら、性格はどこまでも幼稚。
別に知能が劣っている訳ではない。
ただただ、感情の表れ方が幼稚(あるいは幼児的)なのだ。
その幼児性が男たちを惹きつけ、連邦軍ケネス・スレッグ大佐をして『彼女は勝利の女神だ』と言わしめる。
前章で述べた『ダバオ市街戦』のシーンで、ハサウェイは、計画していた仲間との段取りを無視し、燃え盛る空襲の街をギギと逃げる。
反政府組織の首領として、ありえない行動だ。
ハサウェイをそんな異常行動に走らせるためには、ギギの側にも相応の『異常性』が必要だ。
そのギギの異常性が、上手く表現されていると思った。
異常なまでに幼稚で、それでいて直感力に優れ、美しく、それゆえに男たちを惹きつけるギギ。
その幼稚さ、突飛さに、作為があってはいけない。
いかにも『男どもを引っ掛けてやろう』という計算が見え透いてはいけない。
あくまで『天然』でなければ『魔性』とは言えない。
その全く作為的ではない天然の魔性が、よく表現されていた。
アムロ
大気圏の境界近くで、ハサウェイはガンダムに乗り込む。
その時、ふとアムロの声が聞こえる。
それはハサウェイの幻聴だったのかも知れない。
一方で、前作『逆襲のシャア』で身を挺して隕石衝突を回避させたアムロは、その後、ある種の精霊のようなものになって地球を守っているという解釈が提示された。
背景と小道具
背景は美しく、小道具は緻密だ。
我々が生きている現代と地続きの『宇宙世紀』がよく表現されていると思った。
ただ、宇宙世紀時代のフィリピンに、未だ『貧しく猥雑でありながらも素朴で活気のある人々の営み』が残っているかどうかは、意見が分かれるところだろう。
まとめ
単体の映画として観た場合、ドラマの進展が少ないように感じられた。
やはり本作は、あくまで3部作の第1部であり、人物紹介が目的のプロローグだと思った。
クライマックスのガンダム同士の戦いが、もう少し盛り上がっていたら印象は違っていたかも知れない。
第2部、第3部では『主役機とライバル機の違いが分かりにくい』という欠点が修正される事を望み、今後に期待したい。
追記(2021.6.15)
ふと思い出したから追記する。
その1:ペーネロペーの飛行音が、キングギドラっぽい。
「ピロロロ」って感じだ。
ミノフスキーフライトの浮遊感を、重力怪獣に当てはめているのかも知れない。
その2:本当の女たらしは、ハサウェイ。
表面上、ケネス・スレッグ大佐の方が女遊びに慣れていて、ハサウェイは初心(うぶ)な好青年を演じているように見えるが、明らかにハサウェイの方が女たらし。それも天性の女たらし。
スペース・シャトルの客室乗務員や、ホテルのロビーのウェイトレスにジュースを注文するとき、さりげなくフェロモン・ビームを放っている。
ケネスの場合、『しょせん女遊びはゲーム』と割り切っているぶん、女にとっては安全。
どっちかって言うと、ハサウェイみたいな奴の方が、女の敵。
ちなみに原作小説では、マフティの女闘士たちの多くがリーダーのハサウェイと肉体関係を持っていたように仄めかされている。まあ、これは反政府組織がセックスに開けっ広げな原始ユートピア的な組織であることを表しているのかも知れないが。