ネタバレ! 小説と映画の感想‐青葉台旭

小説と映画のネタバレ感想が書いてあります。メインのブログはこちら http://aobadai-akira.hatenablog.com/

ブライアン・ラムレイ作「けがれ」を読んだ

*ネタバレ有り。

 アンソロジー「古きものたちの墓 クトゥルフ神話への招待」に収録されている、ブライアン・ラムレイ作「けがれ」を読んだ。 

  ほとんど満足できたが、若干、不満がない訳でも無かった。

ラブクラフトの小説には、人種差別的表現がある

 ラブクラフトの小説を読むと、現代の価値観に照らし合わせて、人種差別的と思われても仕方が無いような表現がある。
 ……と、いうのは控えめな言い方で、あからさまに言うと、
「この世界には、野蛮な信仰と文化を持ち、太古の怪物の血を受け継いだ異人種どもが居て、やつらとアメリカの白人がセックスする事で、優等人種であるはずの白人の遺伝子が徐々に汚されつつある」
 これが、ラブクラフトが書くホラー小説のメイン・テーマの一つだ。
 人種差別だけでなく、たとえば「野蛮な顔つきの奴らは、精神的にも劣っている」みたいな外見から来る差別とか、いろいろと現代の視点から見て「穏当でない」描写がある。
 もうすぐ死後八十年になろうという人物の性格を現代の価値観で分析をするのも何だが、ラブクラフトが、そういう「優等人種である白人の血統が、化け物の子孫である異人種の遺伝子で汚されていく」という恐怖を小説を書く上での重要なテーマにした理由を私なりに考えてみたい。
 一つには彼自身が、ちょっとフランケンシュタインっぽいゴツイ骨格の顔をしてた事があるのではないだろうか。つまり「劣等な顔つきの奴らは、精神的にも劣等だ」という表現は、ラブクラフト自身がそういう顔つきに生まれてしまったという彼自身の恐怖感の表れなのかもしれない。
 また「金持ちの家に生まれながら父親が神経症を患い、名家であった母親の実家で育てられたが、大学受験に失敗したあと田舎に引きこもって安い原稿料で怪奇小説を書いて貧乏になり、結婚にも失敗した」という彼の歩んだ人生も、彼が人種差別的なテーマを好んだ理由の一つかもしれない。
 いつの時代、どの国でもそうだが、「没落していく人々」「社会に認められず悶々としている人々」というのは、自分とは違った人種・自分とは違った文化を持つ人々に対して不寛容なものだ。
 また、「二十世紀初めという時代を考えれば、アメリカ白人男性であるラブクラフトが人種差別的な価値観を持っていても仕方が無かったんだ」という擁護も一応は成り立つだろう。
 当時のアメリカ白人にとっては、恐らく「差別の対象」だったであろう我々日本人だって、同じ時代にいろいろと差別をしていた訳だし、時代を考えればどの国だって似たような物だったはずだ。
 ラブクラフトと同時代……戦前の日本で活躍した怪奇・探偵小説家、例えば江戸川乱歩夢野久作なんかを読んでも差別上等な表現バリバリで、かならず本の最後に「本書には、現代の価値観に照らし合わせて穏当でない表現が含まれますが、書かれた時代を考慮し、また、すでに評価の定まった小説であることから、そのまま掲載しました」などと書かれている。

「倫理的にマズイ描写がある」のに「芸術作品として素晴らしい」作品に出会った時、われわれは困惑する

「正しくない」のに「感動する、させられてしまう」事を、どう捉えたら良いのか。
 一番シンプルで、社会や人々を安心させやすい対応は、「正しくないものは、正しくない。駄目なものは、駄目」といって、あくまで現実社会の倫理でバッサリその作品を切り捨ててしまう事だろう。
 いつの時代、どの国でも、「物語は現実の『正しさ』に奉仕すべきだ」と、「正しさ」を押し付けてくる人々は居る。
 封建時代の日本では、封建的な価値観以外の物語は「御法度」だったであろうし、中世ヨーロッパではキリスト教の価値観に合わない物語は「異端」だったであろう。
 いわゆる「勧善懲悪」というやつだ。
 現代でも、物語に対し過剰に「正しさ」を求める人々の声は大きい。正しさの基準が封建制度キリスト教から現代的な倫理観に代わっただけだ。

あらかじめ書いておくが、私は差別主義者ではない

 そもそも差別というのは「みっともない」
 例えば、現代日本において日本人以外を差別するという事は、差別している者は、それで相手をおとしめたよう思っているかも知れないが、実は、誰を一番恥ずかしめているかといえば、差別をしている当の本人であるし、日本人全体にも泥を塗っている。
 国益に対し重大な責任を負っている職業、つまり公務員・政治家・軍需産業関係者などの職種の採用に関しては、日本国籍に限定するべきだと思うし、選挙権・被選挙権は日本国籍に限定すべきだとも思うが、それ以外の事柄で、その人自身以外の要素……生まれた場所や、両親が誰か、などで人を評価するのは不当という物だ。
……などという話は、さておき。

ここまでが前置き。やっと、ブライアン・ラムレイの「けがれ」の話

 物語は、イギリスの田舎町の医師ジェームズ・ジェイミソンの視点で語られていく。
 ジェイミソンにはジリー・ホワイトという女性の患者が居て、ジリーにはアンという娘が居る。
 ジリ―の夫ジョージ・ホワイトは、インスマウスというアメリカの田舎町の出身で、一年前に自殺している。
 娘のアンは、頭は悪くないが学校での集団生活に問題があって、いつも一人でいるようだ。
 町にはジェフという少年がいて、彼は魚か両生類のような異様な顔をしていて、海に潜って魚を獲るのが上手くその特技で育ての親であるトム・フォスターの家計を助けている。

名作、インスマウスを覆う影を下敷きにした作品だが……

 インスマウスの、一番の恐怖……
 上にも挙げた、
「優等人種である白人の遺伝子の中に、知らぬ間に劣等人種の血、さらには奴らが崇めている邪教の神(怪物)の遺伝子が混じり込んでしまっている。ひょっとしたら、自分の体の中にも怪物の穢れた血が混じっているのではないか」
 というテーマに沿っているように見えるのだが、どうにも本家ラブクラフトに比べて迫力が弱い。
 恐らく、作者のブライアン・ラムレイは「優等人種であるアメリカ白人の遺伝子が、劣等人種どもによって汚されていく」というインスマウスのテーマを本気で信じていないのではないだろうか。
 それは当然の事だ。1937年生まれのラムレイは、当然、公民権運動を経験しているだろうし、ラブクラフトが本気で信じて怖がっていたであろう上記のテーマも現実には古臭く感じているはずだ。
 それは、現代に生きる人間として間違いなく「正しい」
 しかし、ラブクラフトが本気で怖がっていたであろう「間違っているテーマ」をラムレイは本気で信じられくなっている分だけ、その筆運びは、どこかクールでドライで一歩引いた感じがあって、読者の胸に迫って来ない。
 そのかわり現代の作家らしく「邪神教団」「秘密結社」「悪の科学者」という、日本の変身ヒーロー物やアメリカン・コミックに出て来そうなポップなガジェットが強調されていて、現代的といえば現代的にアップデートされている。
 また、読者が「インスマウス」をすでに読んでいることを前提としているため、怪物の遺伝子が発現して水棲生物に変化していく様子を描写しても「ああ、インスマウスの、あれね」と思うだけだ。
 本家「インスマウス」は、何度読んでも、異様な顔をした怪物と人間の混血の住人ばかりの町インスマウスを主人公が彷徨さまよう時の息苦しさ、「何なんだ、こいつらは」「何なんだ、この町は」という感覚を濃厚に味わえる。そして最後の、自分もインスマウスの末裔すなわち怪物の血を受け継ぐものだったと分かった時のショックも鮮やかだ。
 結局、このラムレイの小説のキモは、主人公で傍観者だと思っていた医師が、実はインスマウスの住人で、彼自身が怪物の血を引いていて、しかも邪神の教団のメンバーだったというオチだけだ。
 1990年代後半から2000年代にハリウッドのホラー映画やサスペンス映画ででしばしば使われた「信用できない語り手」の一種で、それが明かされた時には少しだけ驚くが、まあ、それだけだ。
 ラブクラフトや戦前の日本の怪奇小説作家たちの魅力の一つである迫力のある「おどろおどろしさ」がない。

昔、「マイナス札を集めてプラスに転じる」と言った作家がいたらしい

 なるほど、芸術にはそういう一面もあるように思う。
 もう細かいルールは忘れてしまったが、トランプの「大貧民」だか「大富豪」にはマイナス札というものがあって、それをゲーム終了まで持っていると不利になる。
 多くのプレイヤーは、そのマイナス札を無くそう無くそうと努力するのだが、実はマイナス札は一定数以上集めるとプラス札に変換され、一気に逆転が狙えるという機能があって、それに賭けるという手もある……そんなゲームだったように記憶している。
 芸術にもそういう一面があって、一般社会では決してほめられたことではない「差別意識」とか「自分の顔や血統に対するコンプレックス」とかいう負の感情も、徹底的に煮詰めていけば、ある種の「異様さ」や「凄み」になって、芸術的価値を生んでしまう。
 それが、芸術の面白い所でもあり、厄介な所でもある。

ラブクラフトは、確かに時代の変わり目に立っていてた存在だと思う

 ラブクラフトという作家は、文章が上手いと評価されたことは無いし、ある時期までは(一部の熱狂的なファン以外にとっては)煽情的な表紙のパルプ雑誌に安い原稿料で書き続けた三文小説家という評価だったのだと思う。
 しかし、ラブクラフトを知ってしまうと、それより一世代前の、十九世紀イギリスの(主に幽霊を扱った)怪奇小説が、どうにも古臭く見えてしまうのも事実だ。
 十九世紀が終わり、二十世紀が始まって、西欧社会の主役がイギリスから「新興国」アメリカに移り、そのアメリカで、現代まで連綿と続く大衆消費社会が花開いて行く、その切り替わりの時期に、当時の新メディアであった「パルプ・マガジン」(現代日本で言えばライトノベルのような物か)を舞台に活躍したカルト作家、それがラブクラフトという事だろう。

私(青葉台旭)にとってのラブクラフト

 やはり、古典的な幽霊話よりも、ラブクラフト的な「世界にはもう一つの顔、怪物たちの棲む『裏の世界』があって、何かの拍子に我々の住む『表の世界』が怪物たちの住む『裏の世界』に浸食されていく」展開に惹かれてしまう。
 しかし、だからと言って「クトゥルー神話」それ自体に手を出そうとは思わない。
 さすがに、2016年に「クトゥルー」だの「ダゴン」だの「ナイアーラトテップ」と言っても、すでに手垢が付きすぎていてパロディの対象にしかならないだろう。
 実は、私は、ラブクラフト怪奇小説そのものよりも、ラブクラフトから影響を受けていると思われる諸星大二郎の怪奇漫画に惹かれる。
 諸星大二郎の漫画には「この世界のどこかに、進化の過程で枝分かれし、人類とは別の道筋をたどった『もう一種類の人類(別の進化を遂げた、別の人類)』が住んでいる」というモチーフがしばしば出現する。
 この「別の進化を遂げた、別の人類」というモチーフは、「その『もう一方の人類』と我々を分けたのは、進化の過程で起きた少しの違いに過ぎない。場合によっては我々が別の進化をたどっていた可能性もある」という魅力的なイメージを喚起させてくれる。
 ラブクラフトが書いた「邪神(怪物)は宇宙からやってきた」というイメージは、パルプ・マガジン全盛期には良かったのかもしれないが、現代でそれを書くには、ちょっと中途半端にSF的であり、同時に怪奇性も中途半端になっているように思う。
 いずれにしろ「どこにでもありそうな日本の田舎町に迷い込んだ主人公が、ささいなっかけから隠された世界の裏側を覗いてしまう」という話をどうしても書きたいと思う。

ネタバレ! 2014年アメリカ版「ゴジラ」の感想。

google play にて再視聴。

GODZILLA ゴジラ[2014] Blu-ray2枚組

GODZILLA ゴジラ[2014] Blu-ray2枚組

*ネタバレ。

あらためて、2014年版アメリカ製ゴジラを再視聴した。いわゆる「ギャレ・ゴジ」という奴だ。

あらすじ。

1999年。フィリピンの鉱山で、放射能を帯びた謎の巨大生物の骨が見つかった。

鉱山の地下空間を調査した芹沢博士は、そこで巨大生物の卵を見つける。卵は二つあり、そのうちの一つは既に孵化した後で、卵から生まれた生物が穴を掘って地上へ出て、海へ逃げた痕跡が見つかった。

それから数日後、日本の富士山の麓にある町ジャンジラの原子力発電所では、周期的に発する謎の微振動が記録されていた。

発電所に勤務するアメリカ人のジョーは、同じく発電所に勤務する妻に、原子炉の様子を見て来るように頼む。

ジョーの妻が原子炉の点検をしている最中、突然、謎の地震が発電所を襲い、そのショックで原子炉が暴走してしまう。

本題に入る前に。

映画の中で、ジョーが原子炉の隔壁を閉めないで奥さんを待っている時、指令室からインターホンで「早く閉鎖しないと町が危険だ」という指示がある。(日本語字幕では、こう表示される)

わたしの耳には「close the door, うんたらかんたら or whole the city is exposed」と聞こえた。これは「ドアを閉めろ、街中が被ばくするぞ」だろう。

ハリウッドのアクション映画を観ていて時々思うのは、核とか放射能に対する無神経さ、である。

われわれ日本人からすると「それは無いだろう」という描写をアチラの人たちは平気でする事がある。

しかし、だからと言って、そういう外国映画における無神経な原子力描写をわざわざ字幕で隠すのは、いかがなものか。

外国人は、われわれ日本人ほどには「核」「放射能」と言うものに対して神経質では無い、という現実もふくめて、正直に字幕にするべきではないだろうか。

字幕をマイルドな表現に変えることで、そういう現実から目をそらさせるというのは、いかがなものか。

話がそれた。

このアメリカ版ゴジラは、映画として面白かっただろうか?

まずは一言。面白かった。

第一に、単純に、アメリカ製のアクション大作として面白かった。

次から次へとアクションシーンが続き、最後まで飽きずに観ることが出来た。

第二に、ゴジラおよび敵怪獣ムートーが、ちゃんと「怪獣」していた。

生物としてこうあるべき、という科学的な考証よりも、キャラクターとして「立っている」ことを優先させていた。

生物学的な正しさよりも、フィクションとしての面白さ、「怪獣」としてカッコ良い動き、カッコ良い登場シーンなどを優先させていた。

ただし、この「ちゃんと怪獣らしさがあった」という言葉の前には、どうしても「ハリウッド製にしては」「ハリウッド製のわりには」という言葉を付けざるを得ないが。

ハリウッド製アクション映画としては十分楽しめたが、怪獣映画としては物足りなさも感じた。

「怪獣」というよりは「巨大生物」然としていた1998年のハリウッド製ゴジラよりは、怪獣としてのキャラが立っていた今回の映画ではあるが、それでも日本人のコアな怪獣ファンからすると、まだまだ物足りなかった。

とくに平成ガメラシリーズを観てしまった後だと、怪獣の「魅せ方」へのこだわりが、まだまだのように思う。

不遜な言い方になってしまうが、「ハリウッド製の怪獣映画としては良く頑張った方だとは思うけど、日本の怪獣ファンとしては、あと少し足りなかった」といった所か。

例えばハワイで初めてゴジラが出現するシーンで、この映画は最大限ケレン味を効かせたつもりなのだとは思うが、正直「惜しい! 90点」と思ってしまった。

この「ゴジラがハワイに上陸するシーン」に製作者側が最大限の神経を使って「ケレン味たっぷりに見せてやるぞ」と意気込んでいる感じはひしひしと伝わったのだが、何かもうひと味たりない感じが残った。

ゴジラの上陸シーンでは、明らかに津波を思わせる描写がある。

もちろん製作者の頭の中にはスマトラ島沖地震での津波や、東日本大震災での、あの津波の映像があったはずだ。

つまり、怪獣映画における「自然災害の象徴」としての「怪獣」という面を製作者側は充分に理解しているという事だ。

「怪獣バーサスもの」の最大の見せ場である「対決シーン」をチョットしか見せない。

せっかく2匹の怪獣が出会った所を映しておきながら「さあ闘うぞ」という手前で「ハワイ編」が終了して、さらっとサンフランシスコにシーンが変わってしまったのは、一体、どういう事か。

しかも、せっかくの見せ場であるはずの「第1ラウンド:ハワイ空港編」を、主人公の奥さんが見ているテレビの中で、ちょこちょこ、と見せてハイッ、おしまい。……とは。

本来なら「ムートーとゴジラ、2大怪獣のバーサスもの」として最大の見せ場であるべき怪獣どうしの対決シーンを思わせぶりな「チラ見せ」で終わらせるというこの映画の手法は、何だ?

このモヤモヤ感は、最終決戦の場所サンフランシスコに上陸した後も続く。

サンフランシスコ近くの海底から浮上して、ゴールデンゲートブリッジ付近での再登場シーンは、スクールバスとの対比などを使い、結構手数を掛けているにも関わらず、上陸した後の肝心のムートーとの戦闘シーンは、思わせぶりな「チラ見せ」が続く。

唯一、まともに戦っている所が映ったのは、サンフランシスコの中華街で数分だけ2対1の格闘戦を見せた時くらいか。それも僅か数分。

そのサンフランシスコで、オスのムートーにとどめを刺すやり方が「飛んできた敵に尻尾をぶつけてビルの壁に叩きつけたら、打ち所が悪くて敵がグッタリした」というのは、いかがなものか。

尻尾を振る時のカット割りやカメラアングルに趣向を凝らしている訳でも無く、地味な絵面のワンカットで「ブンッ、ボンッ、おしまい」じゃあ、せっかくの「怪獣が怪獣に、とどめを刺す」という一大イベントが、あまりに呆気無い。

メスのムートーとの戦いも、ラストの「敵の口の中に放射能火焔を流し込む」というケリの付け方は、まあ良いとして、それまでに戦闘シーンがほとんど無いのは、一体どうしたんだ。

この映画におけるゴジラの描写。

あらためて整理しよう。

この映画における怪獣描写とは。

  1. 前回の1998年(巨大生物というリアリズムにこだわり過ぎていた)ハリウッド版ゴジラに比べれば、今回はちゃんとキャラクター性のある「怪獣」になっていた。
  2. しかし、その「怪獣としての魅力的なキャラ立ち描写」は、もっぱら「登場シーン」に重点的に割かれていた。ハワイ上陸シーン、およびサンフランシスコ上陸シーンは時間的な尺もカットの手数も多く、製作者側が神経を使ったなという事が分かった。
  3. 登場した後の、肝心の怪獣対怪獣のバトルシーンは「チラ見せ」に終始し、残りの時間のほとんどを人間のドラマに使っていた。

ゴジラのスタイルについて。

今回のゴジラに関して、一部のファンの間で「太り過ぎ」という声がささやかれていた。

しかし、私は、その意見には賛成できない。

実際映像で見ると、太っているというよりは「筋肉質である」というほうが相応しい。

ただし、その筋肉の付き方はヘビー級ボクサー風だ。

つまり、ライト級格闘家の引き締まったスマートさというよりは、ぶ厚い筋肉で全身を覆い、首の筋肉も鍛えて極太になっている、というスタイルだ。

そして、両腕が人間に近い形をしている。

肩から先のデザインは、今までのゴジラの中で一番「人間くさい」形をしているのではないだろうか。

つまり全体のフォルムが人間、それも重量級の格闘家のような体形にデザインされている。

これは、例えばエメリッヒ・ゴジラがティラノザウルスの発展形としてデザインされていた事や、あるいは日本の着ぐるみが、中に人間が入っているからこそ、その人間のフォルムを隠そう隠そうとしたのとは正反対のアプローチだ。

動きも、今までのゴジラの中では一番人間臭い。

人間のような形体のゴジラ、あるいはヘビー級格闘家のようなゴジラ……それは一体何を意味するのだろうか。

私の考えは、こうだ。

今回のゴジラは人間のような格闘アクションをする前提でデザインされている

実際、ゴジラ対ムートーの数少ない対決シーンと言えるサンフランシスコでの戦い(それさえも数分だが)では、ゴジラが、まるで往年のブルース・ウィリスのように敵の肩をつかんで押し倒すというアクションが見られる。

ゴジラが地上に現れた意図は、何だ?

なぜ、ゴジラはムートーを追いかけて地上に現れたのか?

これが、イマイチはっきりしない。

一応、芹沢博士のセリフとして「自然界は常にバランスを取ろうとする。ムートーに対するバランスとしてゴジラが居る」という解釈が提示される。

ふつう「自然界のバランス」という言葉から連想されるのは「肉食獣が草食獣を食べる事によって、数のバランスが保たれる」という食物連鎖のピラミッドだろう。

しかし、ゴジラはムートーを追いかけ、彼らに戦いを挑みこそすれ、勝ったからと言ってムートーを食べる訳ではない。

では、ゴジラがムートーを追いかけて殺した動機は何だ?

手掛りは「劇中に2カ所だけ挿入される、ゴジラが人間と意志を通わせたかのように見えるシーン」だ。

夜のサンフランシスコで、パラシュートで降下した主人公とゴジラが、一瞬、目を合わせるシーンがある。

「しまった、怪獣に見つかった、食われる!」と思いきや、ゴジラは主人公と一瞬目を合わせただけで去って行く。

2つ目のシーンは、ラスト・シーンだ。

ムートーを倒し、疲れて仮眠を取っていたゴジラが起き上がって海へ帰って行く、その直前、芹沢博士と目を合わせる。

以上、2つのシーンによって「ゴジラは、ひょっとしたら人類の味方かも知れない」という事がほのめかされる。

だとすると、先の芹沢博士の「ムートーが現れた時、自然界はそれに対してバランスを取ろうとする。それがゴジラだ」という言葉の意味は、いわゆる「食物連鎖による数の調整」の事では無く、地球(あるいは人類)の平和をおびやかすような存在が現れたとき、人知を超えた『大いなる意志』によって地球と人類を守るために出現する存在こそがゴジラ という可能性がある。

人類の、あるいは地球自然環境の守護者としてのゴジラを作るつもり?

時々、日本のファンの間で言われるのは、今回のゴジラと平成ガメラの類似点だ。

私は、全体のストーリーラインが、それほどガメラと似ているとは思えない。とくに人間側のドラマは全く違う。

むしろ私が平成ガメラと今回のゴジラが似ているな、と思ったのは、劇中でほのめかされている「地球環境を脅かす存在(敵怪獣)が現れたとき、それに対抗すべく大自然の『大いなる意志』によって使わされた地球の守護者」というゴジラの役どころだ。

ただし、この一作だけでは、上の仮説は「ほのめかされている」程度であり、製作者側の本当の意図は、この「ギャレ・ゴジ」がシリーズ化されて、ゴジラという存在のシリーズ全体を通しての役どころが見えてこないと確定できない。

ハリウッドは、この「ギャレ・ゴジ」をシリーズ化する気ありあり?

ヒットした大作がシリーズ化するのは良くある話だが、ひょっとしたら今回の「ギャレ・ゴジ」は、最初からシリーズ前提で企画が進んでいるのではないか。

そして、シリーズ化によって、ゆくゆくはゴジラを「巨大なアメコミ・ヒーロー」にするつもりではないだろうか。

そう考えると、今回ゴジラに与えられた「ヘビー級ボクサーのような体形」や「巨大なアクション・スターのような格闘シーン」も納得がいく。

誤解を恐れずに言えば「超巨大な超人ハルク」的なデザインとアクションという事だ。

現に、今回のゴジラでは、放射能火焔を吐く前に、まるでポパイのように胸を大きく膨らませるという、ギャグすれすれのカートゥーンチックな描写がある。

そして、ゴジラをして「正義のアメコミ・ヒーロー」たらしめるための設定として、平成ガメラなどを参考にして、「地球を脅かす敵怪獣が現れた時、大自然の大いなる意志によって使わされる地球の(あるいは人類の)守護者」という設定、そして「目配せなどを通して、かすかに人類と意志を通わせ合う事ができる」という設定が、今回ほのめかされたのではないだろうか。

確かに怪獣にはある種のキャラクター化が必要だとは思う。しかし……

ゴジラに対する「過度の擬人化」そしてその果ての「巨大なアメコミ・ヒーローとしてのゴジラ」は、果たして正しいのだろうか。

シリーズもののアメコミ・ヒーロー全盛の今のハリウッドを見ると、特に経済効率から言えば、それは一つの方法論だとは思う。

しかし、ゴジラと名の付く怪獣にそれを求めるかと言えば、私は「否」と言わざるを得ない。

ゴジラという存在には、人知を超えた孤高の存在であってほしいと、私個人は願うからだ。

正直、放射能火焔を吐くたびにポパイみたいに胸を「プゥー」と膨らませるゴジラは、ちょっと困る。

ひょっとしたら、怪獣どうしの格闘シーンがほとんど無かった理由は……

このゴジラを観ると、監督のギャレス・エドワーズは、怪獣の何たるかを分かっているな、という気がする。

怪獣というのは、歌舞伎役者のようにケレン味たっぷりに舞台に登場し、舞台の上で「カッ」と大見栄を切って見せるべき存在なのだと、良く分かっている。

では何故、ハワイ登場シーンとサンフランシスコ登場シーンには、あれほどの手数をかけたにも関わらず、肝心の怪獣どうしの戦闘を、まるで「見せたくない」とでも言うように思わせぶりな「チラ見せ」に終始させたのだろうか。

ゴジラの体形を、極太の首周りの「ヘビー級ボクサー」体形にしたという事は、今回の怪獣アクションを「巨大なアーノルド・シュワルツェネッガー」あるいは「巨大な超人ハルク」として演出するというプランは早い段階で決まっていたはずだ。

それにも関わらず、なぜ、怪獣どうしの戦いをほとんど映さない?

ここからは、私の、うがった予想というか、ほとんど陰謀論的な妄想になってしまうが、ひょっとしたらギャレス・エドワーズは、怪獣の何たるかを知っているだけに、ハリウッド上層部で決定された「ゴジラ・アメコミ・ヒーロー・シリーズ化」には反対だったのではないだろうか。その決定に対するささやかな反抗として、アクション・ヒーローまがいの怪獣戦闘シーンを極小に抑えたのではないだろうか。

ストーリーは、どうか。

いままで、全体を通してのストーリー、とりわけ人間側のストーリーを書かずに来たが、結論から言うと、ストーリー的には全く見るべきものが無い。

行き当たりばったりの展開、とくに後半の核弾頭を巡るドタバタ劇は酷すぎて見ていられない。

怪獣たちの行動と、地上でのドタバタ劇が、全く有機的に繋がっていない。

文句をあげつらえばきりが無いが「展開が行き当たりばったり過ぎる」この一言に尽きる。

  • 主人公が父親を引き取りに日本へ行った翌日、たまたまソナーに反応が出る。
  • 主人公と父親が危険区域内に侵入して逮捕された時だけ、たまたま、秘密結社の本部へ連れていかれる。それ以前は、逮捕されても東京の拘置所に入れられていたのに。
  • 主人公たちが秘密結社の施設と化した原子力発電所に連れていかれたら、たまたま、ムートーが覚醒して秘密結社の施設が破壊され、怪獣が逃げ出す。
  • 主人公が空母を降りて、民間機で故郷に帰ろうとハワイに行ったら、たまたま、怪獣たちもハワイを目指す。最初から怪獣がハワイを目指すと分かっていたのなら、主人公を上陸させなかったはずだから、主人公がハワイに行ったタイミングで同じ場所に怪獣が向かったのは「偶然」だ。
  • 怪獣の出現によってハワイで足止めを食らった主人公は、たまたま通りがかった軍のトラックに乗って、そのままサンフランシスコへ連れて行ってもらう。
  • 怪獣たちの最後の決戦の場所は、たまたま、主人公の家族が住んでいるサンフランシスコだ。別にロサンゼルスでも良いのに。
  • 芹沢博士が「そうか、核廃棄物保管施設の卵が危ない!」と叫んで、兵士たちがそこに向かうと、たまたま、直前にムートーは逃げ出した後だった。処理施設にあんなでっかい穴を開けられたら、普通はもっと早くに気づくだろう。それとも、あんな大穴を開けられても気づかないほどアメリカの核廃棄物の管理は杜撰なのか。
  • 核弾頭を田舎の貨物列車で運ぶ。しかもミサイルの形丸見えの、むき出しの状態で。そんなん、怪獣の前にテロリストが喜ぶわ。
  • 脱線して川に落っこちた核弾頭を、ヘリコプターでサンフランシスコまで運ぶ。だったら最初からヘリで運べ。

後半サンフランシスコに上陸してからは、「緊急指令! 核タイマーを解除せよ!」とでも名付けたくなるようなB級とすら呼べない行き当たりばったりの、しかも使い古された爆弾解除タイム・サスペンスを延々と見せられて、怪獣映画観てんだか出来の悪いアクション映画観てんだか分からなくなった。

それにしても、核の扱いが杜撰すぎる。

核の申し子としての怪獣、という思想上の切実さが全くなく、単に怪獣と人間の動機付けに使われているだけだった。

ようするに、核というものが単なる「マクガフィン」に成り下がっていた。別に怪獣が狙うのが巨大なダイヤの原石でも良いし、米軍が大事そうに運ぶのもダイヤの原石で何ら構わない。「とりあえず、みんなでそれを追っかけられればいい」程度の扱いだった。

逆に言えば、日本人以外の世界中の人間にとって、「核」というのは「ダイヤの指輪」ていどの意味しか無いという事か。

怪獣は、出現前にミステリアスなムードを盛り上げなくては駄目だ。

この映画では、ゴジラにしても、ムートーにしても、あっけらかんと、いきなり画面に登場する。

それでは駄目だ。

……いや、確かに、ハワイでのゴジラの上陸シーンはなかなか手間がかかっていて見ごたえがあるのだが、私が言っているのは、その「ハワイ上陸」に至るまでの過程だ。

その「ハワイ上陸シーン」の何日も前から、「ミステリアスな生物ゴジラ」の周囲に、ミステリアスで不穏な空気を醸成して置かなくては駄目だ。

最初は少しずつ、徐々にクレッシェンドをかけて、ミステリアスに「不吉な予感」を盛り上げていき、その予感が最高潮に達した瞬間、「どどーん」と出現しないと駄目だ。

空母が最初にゴジラを感知する前に「なんだ? この異常なデータは? 何かの予兆か?」みたいに人間側が困惑しつつも、それを追跡して行き、徐々に「怪獣」の全貌が現れる、という感じにしないと駄目だ。

何だかんだ言って、最後までダレずに面白く見られたのも事実。

これだけ行き当たりばったりのストーリーで、それでも最後までダレずに観られたのは、やはり最近のハリウッド大作らしくアクションに次ぐアクションで畳みかけるようにして、ご都合主義のストーリーでも力技で観客を引っ張ったからだろう。

そして、やっぱり「怪獣」というものには人々を引き付ける魅力があるという事か。

さいごに。

つくづく、怪獣というのは映画の題材として特別な物なんだなぁ、と感じた。

日本人にとってはもちろん、海外の人々にとっても。ものすごく魅力的な存在であることは間違いない。

しかし、それだけに扱いの難しい存在でもあるのだろう。

「怪獣とは何ぞ」という問いかけに始まり、再び「怪獣とは何ぞ」という問いかけに戻る。百人いれば百人の怪獣感がある。

その怪獣の中でも「ゴジラ」という名前は、さらに特別な響きを持つ。

まさに「キング・オブ・怪獣」といった所か。

1998年の初のアメリカ製ゴジラから15年かけて、ハリウッドはようやく「単なる巨大生物ではなく、何らかの文化的キャラクター性を付加された存在として怪獣を創造する」という地点にたどりついた。

おそらく、これからアメリカ版ゴジラがシリーズ化される事になれば、アメリカ文化の特性を背負った「ゴジラ」になって行くはずだ。

一つの可能性は「アメコミ・ヒーローとしてのゴジラ」だろう。

ハリウッドは今回の「ギャレ・ゴジ」で、日本が持っているもう一つの怪獣ブランド「ガメラ」を参考にしつつ、既に「アメコミ・ヒーロー・ゴジラ」の可能性を探っているように見えてならない。

ハリウッド・ゴジラがこれからも作られ続けたと仮定して、何年か後に振り返って見たとき、このギャレ・ゴジは、ハリウッド・ゴジラが「単なる巨大生物」から脱して「アメコミ・ヒーロー」としての地位を確立する、その過渡期の作品として評価されるのではないだろうか。

私個人は、そういうチャンピオンまつり的なゴジラを一概に否定したくないと思いつつも、やはり、ゴジラと名前が付いている以上は、人間の価値感の外側に立ち、人間に何かを突きつけてくる存在であってほしいと思う。

ネタバレ! 「怪獣王ゴジラ」の感想。

アマゾン・ビデオ配信にて視聴。

怪獣王ゴジラ(字幕版)

怪獣王ゴジラ(字幕版)

*ネタバレ!

*日本の初代「ゴジラ」に関するネタバレもあります。

1954年の初代ゴジラを編集して、アメリカで独自に撮影したシーンを付け足してアメリカで公開された「アメリカ版ゴジラ」

ハリウッドは、未だに白人(アメリカ人)が主人公ではない映画をアメリカでメジャー公開しない。

日本が舞台の話でも、何が何でも、主人公だけは白人男性じゃないと駄目っていうのは、何とかならんのか。

で、この「アメリカ版初代ゴジラ」こと「怪獣王ゴジラ」である。

日本の初代ゴジラの出来の良さに目を付けたアメリカの配給会社が、そのフィルムを切り刻み、アメリカで撮影したシーンを付け加えて、アメリカで公開したバージョンである。

なぜ、わざわざそんな事をしたのか。そんなに日本の初代ゴジラが良かったのなら、なぜ、それを直接アメリカのスクリーンで上映しなかったのか?

答えは簡単である。

主人公が白人男性じゃないからである。

それは今でも変わっていない。

なぜ、ハリウッドは世界中の優れた映画を自国の配給網に直接乗せずに、わざわざリメイク(作り直)して配給するのか。

主人公が白人男性じゃないからである。

まあ、それはともかく、この「アメリカ人によるアメリカ人のための再編集版初代ゴジラ」とは、いかなるものか。

あらすじ

アメリカの新聞記者スティーブ・マーティンは、エジプトのカイロに飛行機で向かう途中、大学時代の友人である芹沢博士に会うため、日本に立ち寄る。 空港で突然、警察によって身柄を拘束されたマーティン記者は、海上保安庁に連れていかれ、そこで「東京湾で突然船が沈没した」という謎の事件を知らされる。

以後マーティン記者は、ゴジラの出現と消滅までの一部始終を、アメリカの新聞社に報告することになる。

予想していたよりは、大まかなアウトラインに関してはオリジナルのストーリーに近かった。

メインのストーリーはオリジナルに近く、山根博士、娘の恵美子、恵美子の恋人の尾形、芹沢博士などの設定は変わらず、大まかな流れもオリジナルに準じた形で進む。もちろん、あくまで「大雑把な流れは変わらない」というだけの話で、細かく見ると相当改変されている。

アメリカ人が主人公と言っても、新聞記者として事件の顛末を傍観し、新聞社に報告するだけの役目である。ストーリーに積極的に関わって行くのはオリジナル同様、山根博士を始めとする日本人たちである。

主人公がアメリカの新聞社に送った記事という体裁で、所どころに主人公の説明ナレーションが入る。

予想していたよりは、オリジナルの絵が持つ「力」が残っていた。

改変によってオリジナルの画面が持つ凄みのようなものの大半が失われているのではないかと心配したが、特撮部分には充分に「凄い」と言える力が残っていた。

しかし、やっぱり編集し直されたことによるダメージは大きい。

当りまえだが、オリジナルのフィルムを切り刻んで、アメリカで勝手に撮影したシーンを無理やり貼り付けた事により、ストーリーのアウトラインは同じでも、オリジナルの持つ魅力の相当部分が失われている。

とくに私が重要だと思ったのは(つまり罪が重いと思ったのは)以下の2点である。

  1. 「核の象徴としてのゴジラ」という要素が抜け落ちている。
  2. 一番最後の山根博士の「これが最後のゴジラとは思えない、人類が核実験を続ける限り再びゴジラが現れるだろう」という有名なセリフが「脅威は去った。偉大な男と共に。世界は救われた」になっている。

核の象徴としてのゴジラという大事な要素がスッポリと抜け落ちている。

ストーリーのアウトラインそのままに、見事にゴジラのテーマ性が骨抜きにされている。

一説によると「核の申し子としてのゴジラ」というテーマ性がすっぽり抜け落ちてしまったのは、偶然そうなった訳では無く、アメリカ側の意図的な判断でそうなったらしい。

言われてみれば確かに、オリジナルのプロットの変更を最小限に留めながら「核」というテーマ性だけを抜くというのは、意図せずにそうなったというよりは、むしろ用心深くその部分だけを故意に無力化したと考える方が自然かもしれない。確信犯という事か。

なぜ、そうなったかと言えば、1950年代のアメリカはソ連との熾烈な軍拡競争に邁進していて「反核」というテーマは映画においてタブーだったから、という説がある。

オリジナルには「被災者の少女に医者がガイガーカウンターを突きつける」という大事な描写がある。

ゴジラが東京を破壊した翌日、避難所に逃げて来た被災者の少女に医者がガイガーカウンターを突きつけると、ガイガーカウンターの針が反応し、それを見た医者と助手をしていたヒロインの恵美子が顔を見合わせて「駄目だ……」みたいに沈鬱な顔になる、というシーンがある。

つまり、その被災した少女はゴジラによって放射能を浴びせられ、パッと見ると健康そのものだが、その体は既に放射能に冒されている、という痛ましい描写だ。

アメリカ版では、このシーンを冒頭に持ってきて、しかも主人公の新聞記者のナレーションをそれに重ねている。

ゴジラが放射能をまき散らしているという説明も何もない冒頭の段階で、しかも主人公の「けが人は病院に運び込まれた」という ナレーションが被さって、結果として、「少女にガイガーカウンターを突きつける」という象徴的なシーンが、単に「少女が医者から治療を受けている」というシーンにしか見えなくなってしまっている。

一番最後の山根博士のセリフが、アメリカ人記者の楽観的なナレーションに置き換わっている。

一番最後の山根博士の「これが最後のゴジラとは思えない、人類が核実験を続ける限り再びゴジラが現れるだろう」という有名なセリフが「脅威は去った。偉大な男と共に。世界は救われた」になっている。

最後の最後のセリフで、物語そのものの意味が180度変わってしまっている。

これでは、この物語の思想的な中心となる部分が完全に殺されてしまっている。

このゴジラという物語のキモは「核実験によって生み出されたゴジラという怪物を倒すには、核兵器以上に強力な武器を使うしかない、しかし一度でもその兵器を使ったら最期、それは軍拡競争に利用され、さらなる悲劇を生んでしまう」という事のはずだ。

つまり「目の前の悲劇を食い止めることそれ自体が、さらなる悲劇を生んでしまう。しかし、未来の悲劇を食い止めるために秘密を守れば、今、目の前で苦しんでいる人々を救う事は出来ない」という苦悩こそが、この物語のまさに「核」のはずだ。

だからこそ秘密を知っている恵美子は苦悩し、オキシジェン・デストロイヤーの開発者である芹沢博士は設計図を燃やし、ゴジラを倒すために一度だけ新兵器を使い、その新兵器によって自分自身の命を絶ったのだ。

そして最後に山根博士が「これが最後の一匹とは思えない。人類が実験を続ける限り、再びゴジラは現れるだろう」という言葉が、観る者に重くのしかかって来るのだ。

「もうオキシジェン・デストロイヤーは無い。芹沢博士も居ない。さあ、お前ら、2匹目のゴジラが現れたらどうする? 今すぐ核実験を止められるか?」と、突き付けてくるのだ。

ところがアメリカ版「怪獣王ゴジラ」の最後のセリフ「脅威は去った。偉大な男と共に。世界は救われた」では、物語の意味が完全に反対になってしまう。

「やっぱ、超兵器って素晴らしいよね。強力な敵が現れたら、その敵を倒すためにもっと強力な武器を作れば良いのさ。オキシジェン・デストロイヤー最高! 芹沢さん、あんたの勇敢な自己犠牲で世界は救われたよ! カミカゼ最高!」

みたいな話になってしまっている。

結論。

意外にも、大まかなプロットはオリジナルとそれほど変わっていなかった。

正直、観る前は「ハリウッドの事だから、白人の主人公が日本人のヒロインと恋人同士になって最後にキスをする、ってくらいのデッチアゲをしてるのかな?」といった疑心暗鬼があった。

しかし、おおまかな話の流れはオリジナル通りに進み、白人の主人公はあくまで傍観者に徹するという作りだった。

そして、大まかな話の流れが変わっていないにも関わらず、ゴジラという物語の一番大事な「魂」の部分は完全に殺されていた。

ネタバレ! 初代「ゴジラ」を再視聴して。

数か月前、1954年の初代ゴジラを再視聴した。

*ネタバレ。

最初に初代ゴジラを観たのは1990年代前半、もう二十年以上前の事だったと記憶している。

いわゆる平成ガメラ第1作「ガメラ 大怪獣空中決戦」より前だったのは憶えている。

私が当時の特撮映画の状況をどう思っていたかというと、海の向こうのハリウッドが1977年のスターウォーズ以降、80年代を通して日進月歩を続けていたのに対して、どうしてもオールド・スクール然と見える日本の怪獣映画に歯がゆい思いを感じていたように記憶している。

90年代に入り、ハリウッドの特撮は急速にコンピューター・グラフィックスにシフトし出していて、日本の特撮はますます水をあけられる一方に感じて、日本の特撮映画界、ひいては日本映画界はこれからどうなっちゃうんだろうと、私は、いち映画ファンとして外野席から心配していたように思う。

その後、平成ガメラ第1作を観て、ミニチュアと着ぐるみを使った伝統的な日本の特撮技術でも、カメラの角度やタイミングの取り方次第で、こんなにもわくわくできるのかと思い、また、回転ジェットや火焔などに部分的に使われたCGを観て「ひょっとしたら、コンピューターの発達は、むしろ日本の映画界にとっては福音になるかもしれない」と思った。

それは、それとして、初代ゴジラの話だ。

とにかく、当時(80年代~90年代前半)の日本の特撮が、同時代のハリウッドSF映画に対して水をあけられる一方の状況にもやもやしていた時、初代ゴジラをビデオにて視聴した。

凄い映画だと思った。

フィルム全体にみなぎる緊張感。暗いトーン。シリアスなストーリー。

確かに地上を走る自動車などはミニチュア然としてたが、それ以外の部分では、ゴジラの放射能火焔を浴びて燃えさかる東京の町や暗闇の中をゆっくりと歩くゴジラの姿に、着ぐるみであることやミニチュア特撮であることを忘れさせて観る者をぐいぐい引き込んでいく凄みがあり、また、ストーリー的にも、オキシジェン・デストロイヤーと芹沢博士、そしてヒロイン山根恵美子を巡るストーリーに心を奪われた。

私が初代ゴジラを観たのは1990年代前半だ。CGで自由自在に動くターミネーター T-1000 が既にスクリーンで暴れ回っていた時代だ。CGのターミネーターから見れば、昭和29年の特撮技術はオールド・スクールも良い所だ。それなのに、この凄みは何だ?

映画の質は、かならずしも技術の進歩だけで決まるものではないな、と、そのとき初めて思い知らされた。

その数年後、有楽町マリオンで再上映された「七人の侍」を観て、「最新こそが最良である」という、どこかのスポーツカーのキャッチフレーズは、映画に関しては当てはまらないな、と確信した。

ちなみに、ゴジラと七人の侍は同じ昭和29年、東京物語と雨月物語は昭和28年公開だ。

初代ゴジラの凄みの理由は、何だ?

良く言われるのは、初代ゴジラが封切られた昭和29年は、終戦からまだ9年、広島と長崎に原爆が投下されてまだ9年しか経過してなくて、作り手にも観客にも戦争の生々しい記憶が残っている時代に、戦争の象徴、核兵器の象徴たるゴジラが日本を襲うという話が、リアルで切実な記憶を日本人の中に蘇らせたという説だ。

当時、この解釈に対して、私は「たぶん、その解釈は正しいのだろうな」と思っていた。

理性的な理解として。

当然だ。私にとって第二次世界大戦とは、歴史の教科書で習う知識でしかない。

そして、最近、20年ぶりに初代ゴジラを観た。

ゴジラの有名な1シーンに、ゴジラが東京を破壊した翌日、避難所で医者が被災した少女(小学校低学年くらい)にガイガーカウンターを突きつけるという場面がある。

ガイガーカウンターの針が反応し、医者とヒロインの恵美子が顔を見合わせて「駄目だ……」みたいな表情を浮かべる。

つまり、この少女は、見た目は健康そのものだが既にゴジラによって放射能を浴びせられ、今は健康に見えても将来は絶望的だ、という描写だ。

20年前、初めて見た時にも、その意味は良く分かった。また、このシーンが原爆投下からまだ9年しか経っていない時代においては日本人の心には深く刺さる描写だったろうな、というのも予想できた。

理性的な理解として。

そして先日20年ぶりに初代ゴジラを再視聴してこのシーンを観たとき、こんなにも自分の胸に刺さるとは思っていなかった。

つまり20年前の私と、2016年の私では、ゴジラに対する切実さが変わってしまったということだ。

終戦後まだ9年しか経っていなかった昭和29年の日本人と同じように、現代の2016年に生きる私にとっても、日本人が同じ日本人の少女にガイガーカウンターを突き付けるというシーンが、深く心に刺さるものになってしまった。

ネタバレ! 映画「モンスターズ/地球外生命体」感想

dtv で映画「モンスターズ/地球外生命体」を見た。

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*ネタバレ

2014年のハリウッド版「ゴジラ」を監督したギャレス・エドワーズの長編劇映画初監督作品であり、この映画で認められて、ゴジラの監督に大抜擢された。

「モンスターズ」そのものは、正統派の怪獣映画というより、「怪獣映画的な要素を持ったロードムービー」であり、「ひょんな事から若い男女が出会い、成り行きで一緒に故郷を目指して旅をする」という王道ロードムービーがメインの 低予算インディーズ系映画である。

あらすじ

地球外生命体のサンプルを採取したNASAの惑星探査機が故障してメキシコに落下し、その結果、アメリカと国境を接するメキシコ北部で地球外生命体が繁殖してしまい、メキシコ国土の北半分は「汚染地帯」として外界から隔離されてしまう。

アメリカは汚染されたメキシコとの国境に巨大な「壁」を築き自国を地球外生命体から守る一方、メキシコの国民たちは地球外生命体と、それを殲滅しようとするアメリカ軍との戦いに巻き込まれ不安な日々を送っていた。

(ちなみに、日本語字幕では「危険地帯」と書いてあったが、元の英文は「quarantined as an infected zone」である。単なる「危険地帯」ではなく「伝染病に汚された地帯」という意味である)

メキシコで取材をしていた新聞社のカメラマン、コールダーは、新聞社の社長から「メキシコで地球外生命体と米軍との戦いに巻き込まれた娘を無事アメリカまで送り届けろ」という命令を受ける。

本当はメキシコで取材を続けたかったコールダーだったが、社長の命令には逆らえず、しぶしぶ社長令嬢のサマンサと一緒にアメリカに帰国するための旅に出るのだった。

ロードムービーと怪獣映画の融合は可能か?

結論から言えば、可能だった。

この映画で、それが証明された。

メインのプロットは、あくまで

  • 我がままでナイーブで世間知らずのくせに何不自由ないアメリカでの生活に嫌気が差してわざわざ発展途上国で暮らすお金持ちのお嬢さま
  • 自己実現を求め、スクープをものにしようと紛争地帯に来たのに、新聞社社長の命令には逆らえず、わがまま社長令嬢を送り届けるため嫌々アメリカに帰国するカメラマン

この男女二人の道中ものだ。

地球外生命体の描写は、その珍道中の背景として描かれているだけだ。

だから、メインディッシュとしての「怪獣」を求めてこの映画を観ると、肩透かしを食らう。

しかしメイン・ストーリーである「男女2人の道中もの」に、サラリと軽く「怪獣映画」要素をからませてしまうあたりに、むしろ、監督ギャレス・エドワーズが「怪獣」というものを自家薬籠中の物にしているなぁと感じてギャレス・エドワーズは分かっているなぁ、と思ってしまった。

この低予算インディーズ映画を観て、ギャレス・エドワーズを大作「ゴジラ」に抜擢したあたり、ハリウッド・ゴジラのプロデューサーも見る目があると思ってしまった。

まず、ロードムービーとして良く出来ている。

「我がままで世間知らずのくせに、お金持ちの暮らしに飽きてわざわざ発展途上国で暮らすモラトリアムお嬢さま」と 「本当は自己実現したいのに、生活のため上司の命令には逆らえないカメラマン」の二人の珍道中という、まあ、有りがちと言えば有りがちなストーリーなのだが、その有りがちなストーリーを丹念に良く描いていて、気持ちが良い。

例えばメキシコを旅する道中で、怪獣によって破壊された風景を次々と写真に収めるカメラマンに、新聞社の社長令嬢が「他人の不幸で金を稼いでいる」と言い、カメラマンは「そんなこと言ったら、医者だって同じだろ」と言い返す。

自分が親の金でのうのうとモラトリアムを続けていられるのは、親の会社で働く記者やカメラマンたちのお陰だとか、カメラマンにだって自分の生活があるんだという事に思慮が及ばず、無神経に正論だけを吐くところにお嬢さまの世間知らずっぷりが良く出ている。

彼女は、メキシコで不幸な人々と共に暮らしているつもりになっているが、その左手薬指には大粒のダイヤモンドが輝いている。

つまり彼女には大金持ちの婚約者が居て、きれい事を並べてみたところで、しょせんメキシコでの暮らしは金持ちのお遊びでしかなく、時期が来ればアメリカに帰って上流階級の男との結婚が約束されている、その事を他でもない彼女自身が実は一番良く分かっている。

一方、カメラマンのほうも、他人の不幸を飯のタネにしていることに、実は後ろめたさを感じている。

「紛争地帯の悲惨な人々を撮った写真は高値で売れるが、笑顔の写真を撮っても何の価値も無い」と言うとき、暗に(俺だって、それが正しいとは思っていないが、食うためには仕方がない)という感じをにじませている。

こういう描写が声高に主張されるでもなく、控えめに演出されていて「端正な映画だなぁ」という心地よさがあった。

また、その有りがちなストーリーに「地球外生命体」というファンタジー要素を絡ませるという発想が斬新で、何とも言えない不思議な雰囲気を醸し出していた。

非対称戦争の象徴としての怪獣

(戦闘機対戦闘機の戦いとか、戦艦対戦艦の戦いとか、国家と国家が持てる力を正面からぶつけ合う戦争を総力戦と言い、それに対し、貧しい武装集団が、最先端の強力な兵器を持つ大国に対しゲリラ戦を挑むことを非対称戦争という)

怪獣映画における怪獣は、その時代時代で色々なものの象徴としての役割を担ってきた。

たとえば「ゴジラ対ヘドラ」においては、ヘドラは自然環境破壊の象徴だし、ゴジラは環境破壊に対する大自然の怒りを象徴している。

言うまでもなく、1954年の初代ゴジラは戦争の象徴であり、核兵器の象徴である。

もちろん、巨大な自然災害の象徴としての役割もあるだろう。

では、この「モンスターズ」における怪獣は何を象徴しているかというと、非対称戦、つまり紛争地帯におけるゲリラ戦、あるいは突発的なテロを象徴している。

これは、今までの怪獣映画には無かった新しい切り口だ。

つまり監督のギャレス・エドワーズは、怪獣映画における「怪獣」が単なる「モンスター」ではなく、実は戦争の象徴であるという事をじゅうぶんに分かった上で、さらにそれを自分なりに咀嚼して「ゲリラ戦における局地的・突発的な暴力」の象徴という解釈を持ち込んだ。

これは、多くの怪獣映画を作って来た「本家」日本映画にも未だ無かった切り口ではないだろうか。

今までの(日本の)怪獣映画において「怪獣と軍隊との戦い」が描かれるとき、多くの場合それは「国家総力戦」だった。

怪獣による国土侵攻というのは常に国を挙げて対処すべき「国難」だった。

ところが「モンスターズ」における「怪獣の出現」は「いつ、どこで発生するか分からない」それでいて「現地の人々にとっては日常化してしまった」暴力として描かれている。

メキシコに駐留するアメリカ軍は、最新鋭の戦闘機による空爆や地上部隊によるパトロールで怪獣に対応しようとするが、現れた怪獣一匹だけを退治することは出来ても、局面全体を打開する事が全くできない。もぐら叩きのように「突然怪獣が現れる→犠牲を払ってその一匹だけを叩く」「別の場所に突然怪獣が現れる→また犠牲を払ってその一匹だけを叩く」ことを繰り返すばかりである。

その「怪獣対アメリカ軍」の局地戦にメキシコの市民たちは巻き込まれ、犠牲になって行く。そして「アメリカ軍こそが怪獣だ」「アメリカ軍は出て行け」というスローガンが掲げられる。

その一方で、日常化してしまった暴力の中でメキシコ人たちは半ば諦めムードで日々暮らしていく。

この映画において、アメリカ軍の最新鋭戦闘機の編隊が上空を通過するという描写が「不穏の予感」の象徴になっている。

一般的な怪獣映画において「戦闘機が怪獣を迎撃する」というシーンは、(結果として通常兵器は役に立たず、戦闘機が怪獣によって撃ち落されるとしても)脅威に対する国家の、あるいは人類の反撃の象徴として描かれる。多くの場合、高揚感を感じられるように描写される。

しかし「モンスターズ」において戦闘機が出撃するという事、爆音を響かせて自分たちの上空を通り過ぎるという事は、第一に「どこかにまた怪獣(ゲリラ、あるいはテロリストの象徴)が現れた」という予感であり、第二に「アメリカ軍がその怪獣の上に爆弾を落とす」予感であり、第三に「関係の無い市民がそれに巻き込まれて死ぬ」という予感である。

また、怪獣が圧倒的な自然災害の象徴であるという事も、ギャレス・エドワーズは理解している。

ハリウッド版「ゴジラ」で、ゴジラの最初の上陸シーンを観たとき「ああ、これは『自然災害としての怪獣』を描こうとしているな」と思った。

この「モンスターズ」にも「巨大な自然災害としての怪獣」という描写がある。

主人公がボートに乗って川を下る途中で、怪獣によって陸に打ち上げられた大きな船が出てくる。

その船は単に陸にあるというだけでなく、通常では考えられないような高い場所に放置され、朽ち果てている。

圧倒的な自然の力によって「ありえない高さの場所に引っかかってしまった船」の映像を、われわれ日本人は何度も目にした。

われわれ日本人が見た映像は、当時、YOUTUBE などを通じて全世界の人が目にしたはずだ。

壁のこちらがわには紛争地帯。向こう側は先進国。

映画の最後近く、主人公たちはジャングルに眠るマヤ文明のピラミッドに登る。

その頂上からは、メキシコとアメリカの国境に作られた巨大な壁が延々と続いている様が見えた。

主人公たちは言う。

「あの壁の向こうでは、平和で平凡な日々が僕らを待っている」

「同じ祖国も、壁のこちら側とあちら側ではと全く別のものに見える」

壁まで歩いて行くと国境の検問所は無人で、地球外生物は既に国境を超えてアメリカ側に侵入し、人々は避難した後だった。

ちょっと失礼な(傲慢な)言い方だが、最近、「外国人も『怪獣映画の何たるか』を理解し初めている」という感覚がある。

日本人の私は、かつて「いくらハリウッドが大金を使って怪獣映画を作ったとしても、しょせん、それは『アメリカナイズされたモンスター・ムービー』で『怪獣映画』ではないよ」と思っていた。

しょせん、アメリカ人には怪獣映画の何たるかは理解できないよ、と。

「カリフォルニア・ロール」を寿司って言われても、ねぇ、という。

しかし、この「モンスターズ」を監督し、直後にアメリカ版の「ゴジラ」を監督したギャレス・エドワーズといい、「パシフィック・リム」を監督したギレルモ・デル・トロといい、「クローバーフィールド」のマット・リーヴスといい、ハリウッドにも怪獣映画の何たるかを「分かっている」映画人が出現し始めているな、という感覚がある。

どうせお前らカリフォルニア巻きが好きなんだろ、と思っていたら、気がついたらアメリカ人の中にも正統派すし職人が現れていた、といった感じか。

まあ、ギャレス・エドワーズはイギリス人で、ギレルモ・デル・トロはメキシコ人だが。

逆に「発展途上国の紛争地帯における突発的なゲリラ攻撃やテロリズムとしての怪獣」という解釈は、日本人には無かった発想だなと感心した。

最後にもう一度書くが、これは「怪獣映画」ではなく、「怪獣映画的要素を取り入れたロードムービー」である。

メインのストーリーは、あくまで若い男女二人の道中ものである。

良い映画だが、怪獣映画を期待して観ると肩透かしを食らう。あくまで良く出来たロードムービーが観たくなった時に観てほしい。